2.その人の名は
デメトラは貴婦人ならではの鋭い眼差しだ。
コリンは期待に満ちた表情で彼女を見つめている。ジャスティンにとって特別な女性を見分けて貰えれば、アシュラン王国は安泰だ。
(コリン兄様、肩に力が入っているなあ。マーカス兄様がソフィーという愛する女性を見つけたから、なおさら焦っているのね)
「どうでしょうか、ロスリー辺境伯夫人。見込みのありそうなご令嬢は見つかりましたか?」
「静かになさい。オーラを見るには、集中力が必要なのです」
コリンが口に手を当てた。デメトラの静かな声は、大声で叱責されるよりずっと恐ろしい。
「……心が強く、へこたれない娘。しっかりした経歴、優れた頭脳。容姿はたまらなく魅力的。上に立つ者の義務をしっかりと理解している。いえ、まさか。彼女が属国の人間を受け入れて、愛する気になるはずが……」
大広間にいる誰かが、デメトラの心を揺さぶったらしい。小さな呟きから激しい動揺が伝わってくる。
とびきりの自信家で怖いもの知らずのデメトラの顔に恐怖の色が浮かんだのを見て、ミネルバたちは顔を見合わせた。
「あの、ロスリー辺境伯夫人……?」
コリンがおずおずと声をかけた。デメトラが扇を開いて顔を隠してしまったので、どうすればいいのかさっぱりわからないのだろう。
「夫人にいま必要なのは、静かな場所と飲み物だな」
ルーファスが気を利かせてデメトラをエスコートし、大広間の最奥にある椅子に座らせる。
ミネルバは給仕係のトレイからシャンパンのグラスを取り、デメトラの手に握らせた。そして口を開く。誰にとっても聞きにくいことを尋ねるために。
「デメトラ様。長兄にふさわしい女性の身分が、比べ物にならないほど高いのでしょうか? 兄はアシュランの王太子とはいえ、傍系継承ですし」
「私自身ですら、王太子の地位にあるのが信じられないほどだ。属国かつ小国の公爵令息なんかとは結婚しないと言われても、驚きはしません」
ミネルバの言葉を受けて、ジャスティンが苦笑する。
「ちょっと待ってちょうだい。頭の中がひどく混乱しているの」
デメトラはそう言って、グラスに口をつけた。どうにか思考をコントロールしようとしているらしい。
ミネルバたちが椅子の前に立っているし、護衛たちもガードしてくれているので、貴族たちに彼女の声は聞こえないはずだ。
「たしかに、ジャスティン様にふさわしいお嬢さんの身分は、この大舞踏会に来ている女性の中で最も高いわ。皇族方を除けば、ということだけれど」
デメトラが胸を張る。どうやら動揺を振り払ったようだ。
「でもね、オーラの相性は本当に素晴らしいの。あらゆる点で完璧。結びつくべくして結びつく相手のはずなのよ」
そう言い切るデメトラは、実に堂々として見えた。彼女は「ただね」と言葉を続ける。
「そのお嬢さんは、この国で最も歴史のある公爵家の娘だから、気位が高すぎるの。グレイリングの皇族より地位の低い男性に嫁ぐとは思えないのよね」
「そ、それはつまり……」
コリンが勢いよく前に出た。二の句が継げずに口をぱくぱくさせているが、彼が何を言いたいのかは理解できた。
ミネルバ自身も必死で動揺を抑えて、デメトラに問いかける。
「カサンドラ・メイザー公爵令嬢ですね?」
口にしたのは、この世で一番ミネルバを嫌っているだろう女性の名前だ。血液がとてつもない速さで流れるのを感じる。
嫌悪の唸り声を上げたのはマーカスだった。彼の横にいるソフィーも、困惑の表情で目を瞬いている。
デメトラが「そうよ」とうなずいた瞬間、ジャスティンの目が驚きで見開かれた。デメトラ以外の全員が、複雑な感情に一気に呑み込まれたのがわかる。
メイザー公爵家は建国にも携わった名家で、現公爵はカサンドラを皇弟妃にしたがっていた。
カサンドラがミネルバを陥れるため、女官のソフィーを激しく責め立てたのは、忘れようとしても忘れられない出来事だ。
ミネルバはちらりとルーファスを見た。眉間にしわを寄せている。
「カサンドラさんのオーラは、ミネルバ様のそれとは波形が違うけれど、色合いが似ているのよね。全く異なる環境で育っているのに、不思議なこともあるものだわ」
「ありえない!」
叫んだのはマーカスだった。彼は昔から血の気が多い。
「あら。カサンドラさんのオーラがとてつもなく美しいのは本当よ」
デメトラがつんと顎を上げた。
「傷だらけではあるけれど。きっと社交界で、メイザー公爵とディアラム侯爵家のロバートとの関係が取りざたされているせいね。まったくアンガスときたら、娘が皇弟妃にならなくても、十分に権力者だったのに」
アンガスというのは、メイザー公爵の名前だ。デメトラもかつては公爵家の令嬢だったわけで、若い時分に身近に接したことがあるのだろう。
「ほら、ルーファス殿下が陣頭指揮をとって、ロバートを何から何まで調べたでしょう。彼が他国の諜報員と繋がっていたことも驚きだけれど。ディアラム侯爵領の温泉地の顧客から集めた情報を、アンガスに売っていたと言うことの方が、社交界では大問題なのよ。この舞踏会でも、貴族たちは彼らの恥ずべき行為について、侮蔑の念を伝えあっているわ」
デメトラの言葉を聞いて、ソフィーが身を縮めた。
「ロバートは逮捕されましたけれど、メイザー公爵についてはまだ調査中ですものね。ロバートから噂話を買っていただけなら、罪を犯したわけではありませんが……」
「罪に問われないなら問われないで、貴族たちの不快感を煽るだろう。メイザー公爵は今後一生、恥知らずと囁かれることになるはずだ。カサンドラ嬢のことだって、誰も特別扱いなどしなくなるんじゃないか?」
マーカスが口元を歪める。
ディアラム侯爵家のロバートは、ソフィーの元婚約者だ。彼の裏の顔を見抜いたのはミネルバで、他国の諜報員との結びつきを明らかにするために、ルーファスと特殊能力を混ぜ合わせるという偉業を成し遂げた。
「ロバートはギルガレン辺境伯家の地下通路の情報を、ガイアル帝国陣営のクレンツ王国に売る算段をつけていた。それについても、メイザー公爵の指示だったと主張している。公爵自身は否定しているが、徹底的に調べている最中だ」
ルーファスが指先で眉間を揉む。
メイザー公爵とクレンツ王国との繋がりが判明すれば、深刻で許しがたい罪とみなされることは間違いない。ミネルバは溜め息をついた。
「社交界の人たちはすでに、メイザー公爵こそが首謀者だと囁いているものね。この舞踏会はカサンドラにとって、お世辞にもいい環境とは言えないわ」
ミネルバは離れた場所に立っているカサンドラを見た。
かつては大勢のごますりとおべっか使いに囲まれていた公爵令嬢は、とてつもなく孤独に見えた。近寄る者はひとりもおらず、ただ侮蔑の視線が一身に注がれている。
しかしカサンドラは、背筋をぴんと伸ばしていた。父親が拘留中で、社交界追放の瀬戸際に立たされている娘には見えない。
太陽のように輝く赤毛、一部の隙もない身なり、本心を心の奥に隠したような冷静な表情。彼女が優秀な女性で、強い心と威厳と気高さを兼ね備えていることは間違いなかった。