5.新たな希望
「ミネルバ……まさか、千里眼を使おうと思っているんじゃないだろうな?」
ルーファスが声に不安を滲ませて言った。こちらの心を見通すように、真っ直ぐに目を見つめてくる。
「ルーファス……その言い方だと、反対だと思っているのよね?」
「当たり前だ。君の千里眼が優れていることは間違いないが、その宿帳一冊にどれだけの名前が書かれていると思う?」
ルーファスの眉間にしわが寄った。
ミネルバが千里眼を発動するためには、相手の持ち物に触れる必要がある。宿帳に書かれた『直筆のサイン』からも、何かを感じとることができるかもしれない。
優秀な諜報員であるジミーは、いずれロバートと繋がっている『誰か』の居場所を突きとめるだろう。しかし、大がかりな追跡調査が必要になることは間違いない。ミネルバの千里眼から得られる情報が、きっと役に立つはずだ。
しかしルーファスの表情は険しかった。
「少なく見積もっても百人以上はあるだろう。駄目だ、危険すぎる。二週間の旅のあと、婚約式の準備で昼夜を問わず働いた。おまけに一度倒れて……どう考えても、君の体は疲れているはずだ。ここは辛抱強く、ジミーの調査結果を待つ方が望ましい」
「疲れていることは認めるわ。でも、もどかしさが募るの。怪しい人物の身体的特徴は、どんな危険を冒してでも欲しい情報でしょう?」
ミネルバは食い下がった。昔から、こうと決めたら自分の意思を貫くタイプだった。いまこそ千里眼を利用すべきだと思う。それによって得られた情報は多くの人の助けとなる。
しかしルーファスは首を横に振った。
「よく聞いてくれ。調査すべき人数が多いから、という理由だけで反対しているわけじゃないんだ」
トパーズの指輪を嵌めた左手に、ルーファスの力強い手が重ねられる。
「もし相手が、どこかの国の……ガイアル帝国の秘密組織に属している人間なら、そいつは特殊な能力を持っている可能性が高い。ロアンのように、人並外れて強い力の持ち主かもしれない」
視界の片隅で、ロアンが小さくうなずくのが見えた。彼が片手を上げると、沈黙を保っていたトリスタンが「発言を許す」と威厳のある声で応じた。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてから、ロアンは一歩前に踏み出した。
「ミネルバ様。特殊能力を駆使して調査に協力したいというお気持ちは、よくわかります。僕の本心を言えば、やっちゃってくださいとお願いしたいです。でもガイアル側にも、僕みたいに通常の五感とは違う感覚の持ち主がいるんですよね。中には、邪悪としか呼びようのない力のある奴もいる」
ロアンはそこで大きく息を吸って「そもそも」と言葉を続けた。
「特殊能力の持ち主は異世界人だけではないですからね。この世界にだって昔から、魔女や魔法使い、妖術使いや霊媒師といった呼び名で、恐るべき力の持ち主は存在した。いまだって普通にいます。僕や殿下、ミネルバ様のように」
十五歳の天才児が、ぐるりと室内を見回す。
「僕たちほど強くない力の持ち主は、自分の能力を当たり前のものとして受け入れて過ごしている。さっきのジミーさんは鍵開けの天才だし、彼の仲間はどんな小さな手掛かりも見逃さない。極限まで影を薄くできる人もいる。そこにいるエヴァンさんは匂いを嗅いだだけで薬物の種類を当てられるし、緑の手を持つソフィーさんだってそうです」
名指しされたソフィーが「私!?」と自分で自分の顔を指さした。それからマーカスと顔を見合わせて首をひねる。ギルガレン辺境伯は流石の落ち着きで、じっと話を聞いていた。
「ミネルバ様だって昔は、自分のことを単に勘が鋭いだけだって思ってたでしょう? そういった能力が異常なほど強くなって初めて『特殊』だって話になるわけですが」
ロアンが肩をすくめた
「何らかの神の加護を持ってる異世界人と違って、僕らが特殊能力を使うには多大なエネルギーを消耗します。場合によっては命まで削るわけです。それじゃ困るから、水晶玉とか代々伝わる聖なる剣とか魔除けのハーブとか、とにかく神聖なものを『触媒』として利用する」
ミネルバは自分の左手を見おろした。トパーズの指輪は、ルーファスの手に包まれているから見えない。しかし指輪の重みは感じられた。トパーズはいつだって、ミネルバに勇気を与えてくれる。
「ミネルバ様の千里眼は、残念ながら防御力に欠けています。あまりにも無防備なんです。周囲にいる人間と勝手に共鳴して、映像を見せて声を聴かせてしまう。ソフィーさんとは心の繋がりまで持てた。ルーファス殿下が恐れているのは、邪悪な力を持つ人間にそれを悪用されること……ガイアルってのは、そういった心配をしなきゃいけない国なんです」
ロアンの言葉を聞いて、ミネルバは己の能力が逆手に取られた場合の事を考えた。こちらが『見て』『聞いて』いることを悟られたら? 強制的に心の繋がりを作られたら? 瞬時におぞましい光景が目に浮かぶ。
マーカスやソフィー、ルーファス、そしてグレイリングのためになるなら何でもしたいが──衝動的に行動するのはやめるべきだと、心の中で結論を下す。
「邪悪な力を防ぐ、お守りでもあればいいんですけどねえ」
いたずらっ子めいた輝きを持つロアンのオッドアイに、知性が煌めいている。彼はあらゆる可能性を考えているような顔つきで、ミネルバとルーファスを交互に見た。
「ルーファス殿下の結界と、ミネルバ様の千里眼……この二人がぴったりの相棒であることは、誰もが認めるところだし……混ぜ合わせる? そんなことが可能だとして、そのための触媒は……」
ロアンの頭の中にある、パズルのピースのように小さな情報のかけらが、猛烈な勢いで組み合わされているのがわかる。
「あるじゃないか……ありますよルーファス殿下、ミネルバ様! とても神聖で、正式で、多くの人の祝福を受けたものが。あれなら触媒になるかもしれないっ!」
満面の笑みを浮かべて、ロアンがその場で大きく飛び跳ねる。彼の言わんとすることがわかって、ミネルバは頬が熱くなるのを感じた。
「そうか、砂合わせの儀式か」
ルーファスが小さくつぶやく。ミネルバは身を乗り出して、至近距離からルーファスの顔を見た。
「私たちが婚約することを、神と祖先に報告した砂。多くの人に、二人の繋がりが完成したことを知らしめた砂。神官長様に『聖砂』も入れて頂いたわ。ルーファス、やってみる価値はあるかもしれない!」
ミネルバを守るために、ルーファスが用心深くならざるを得ないことは分かっている。
でも、普通の触媒では不可能と思われることができるとしたら? ルーファスの結界に守られながら千里眼を使えるとしたら? もちろん、挑戦せずにはいられないに決まっている。
「私たち、願いは同じはずでしょう? グレイリングの安全を脅かす人間に、大手を振って歩いてほしくない。そして、大事な人たちを守りたいと思っている」
ミネルバは必死の思いで言った。ルーファスの眉間に寄っているしわが消えたのは、それからしばらく経ってからだった。




