4.さらけ出せる相手
ソフィーが移動の時間がきたことを告げ、ミネルバとルーファスはいったん家族たちと別れることになった。
二人は石敷きの長い回廊を歩いて、重厚な両開きの扉の前までやってきた。合図があるまで、ここでしばらく待機するのだ。
周囲の壁は、色鮮やかな小石や色ガラス、タイルや宝石が埋め込まれた美しいモザイク画になっている。ミネルバはそれらを眺めながら、押し寄せてくる緊張感が和らぐことを願って深呼吸をした。
(この扉の向こうでは……グレイリングの貴族たちが会衆席を埋め尽くしている……)
大勢の目が自分の一挙手一投足に注がれるのだと思うと、やはり神経が限界まで張り詰めてくる。
もう一度空気を深々と吸い込んだとき、すかさずルーファスの手が伸びてきた。そして、ミネルバを安心させるかのように手を握ってくれた。
「ミネルバ……緊張のあまり、全身がぴりぴりするんだ。心臓が早鐘のように打っていて……手がぶるぶる震えるなんて、生まれて初めてだ」
頭上からミネルバの予想外の言葉が降ってきた。
ルーファスを見上げると、盛大に戸惑ったような顔をしている。漆黒にきらめく瞳がわずかに潤んでいた。彼がすがるような目を向けてくるなんて、二人が出会ってから初めてのことだ。
「これは恐怖のせいだろうか? それとも武者震いだろうか? 私は恐れ知らずだと皆が言うし、自分でもそう思っていたのだが……」
ルーファスはかすれた声で言った。確かに彼の体は緊張で張り詰め、ミネルバと繋がっている指先は小刻みに震えている。
ミネルバは静かにたたずんでいる護衛たち、そして自らの付添人であるソフィーとテイラー夫人に目を向けた。
ときどき彼らの存在を忘れてしまうほど、常に側にいることに慣れてしまったが──さすがにルーファスのこの状態には驚いているかもしれない。
しかし彼らは礼儀正しくあさっての方向を見たり、あるいはモザイク画を眺めたりして、完璧に主人たちを無視してくれている。
(うん、まあロアンだけは好奇心を隠そうとしても、隠しきれていないけれど……)
婚約式のためにと、最高級の生地で仕立てられた新しい制服に包まれたロアンの体が、小刻みに揺れている。こっちを見たくてウズウズしているのだろう。
「情けないな、震えひとつもコントロールできないなんて。自分の体が自分のものではないみたいだ」
ミネルバはもう片方の手を伸ばして、ルーファスの頬に触れた。ロアンが背中を向けてくれているうちに、ルーファスを力づけなければ。
「私も震えているわ。心臓も痛いくらいに高鳴っているの。夢が実現する前には、誰だってそうなるんだと思う」
両手でルーファスの手を掴み、自らの心臓のある場所へと導く。
「ほら。私の心臓も、ルーファスと同じくらい激しく打っているのがわかるでしょう? でもこれは恐怖じゃなくて、喜びのせいなの。あなたのような素晴らしい男性が、私を愛してくれたから……」
ミネルバは口元に優しい笑みを浮かべた。
「いまでも鮮明に思い出せるわ。漠然とした幻想にすぎなかった理想の男性が、突然目の前に現れた日のことを。誠実で寛大で、優しくて、正義を重んじていて。いつも真っ直ぐで、献身的で、私にはとびきり甘くて。見た目は少し怖いけれど、純情で可愛らしい一面があって……そんなルーファスの、すべてが愛おしい」
溢れんばかりの愛を、ミネルバは言葉で告げようとした。ルーファスが顔を真っ赤に染めてうめき声を漏らす。
「やだ、ミネルバ様カッコよすぎ……」
そう呟いたのはロアンで、直ちに「馬鹿」「黙れ」といくつもの厳しい声がしたから、先輩護衛たちから怒られたのだろう。
「ありがとうミネルバ。とても……安心できた」
ルーファスが笑った。なんだか少年みたいな笑顔だ。体から力みが消え、震えもすっかり止まったようだ。触れ合ったままの手からは、ぬくもりだけが伝わってくる。
「君に対してなら、私は情けない自分をさらけ出せる。いまもそうだし、これからも……君にだけは、情けないところを見せるだろう。私は、世間で言われているほど完璧な男ではないけれど、一生をかけて幸せにする」
優しく温かい声に、ミネルバは胸がいっぱいになった。
ルーファスは欠点や駄目なところが少ない。ほとんどないと言ってもいい。そういう人が、自分に対してだけ情けないところを見せてくれるのだから、嬉しくないわけがないのだ。
ルーファスが反対側の手を持ち上げる。彼の誕生石であり、触媒でもある翡翠が、窓からの光を受けてきらめいた。いつも腰につけている小さな鞄はもちろん外しているので、ローブのポケットに忍ばせていたのだろう。
「形式的なことだが、婚約式は私たちの新しい人生の始まりだ。私ひとりきりの人生と、君ひとりきりの人生が終わる。そして、私たち二人の人生が始まるんだ」
「ええ、楽しみね。婚約式が終われば、色んなことが本当に始まるのよ」
ルーファスの晴れ晴れとした声に、ミネルバはうなずいた。彼は翡翠を持った手をさらに高く上げ、空中で印を描くようにその手を振った。
翡翠から現出した白い霧が形を成す。波打ち、広がって、二つの小さな輪が浮かび上がった。
小さな輪のひとつが、ミネルバの胸の中にすうっと吸い込まれるように消えていった。そしてもうひとつの輪は、ルーファスの胸の中に。
「婚約式の最中に眠くなるわけにはいかないから、ごく小さな──お守りにもならない程度の小さな結界だけど、ありったけの愛を込めたから」
ルーファスが照れくさそうに言う。
「ありがとう……心の中が、すごく温かい」
彼の心遣いが嬉しいのと、体内に消えた結界の相乗効果で、安堵と喜びが一気に全身に広がっていく。
扉の向こうから聖歌隊の、神とグレイリング帝国の栄光をたたえる歌が聞こえてきた。入場の合図だ。
ミネルバは頭を高く上げ、背筋をぴんと伸ばした。ルーファスも極めて堂々たる態度で前を向く。
両開きの扉が大きく開かれる。ミネルバとルーファスは笑みを交わし、同時に一歩前へと踏み出した。




