6.思い上がり
それからの時間は駆け足で過ぎた。 テイラー夫人の指導は、厳格などという形容では生ぬるいほど厳しかった。
ミネルバとソフィー、そしてマーカスがテイラー夫人と夕食を共にした。ルーファスは仕事が溜まっているため不参加だった。
テイラー夫人が終了を告げて自室に引き上げたあと、全員でミネルバの執務室に向かう。
「あの老婦人と一緒にいるより、拷問を受ける方がまだましだ……」
部屋に入るなり床にくずおれたマーカスが、うつろな目をしてつぶやいた。
「これから毎日お小言を聞くなんて、考えただけで耐えられない……」
ソフィーまでもが顔を青くして、体を震わせている。
護衛として晩餐に立ち会っていたロアンが、屍のようになっているマーカスの肩に手を置いた。
「めちゃくちゃ形式にこだわるお婆さんでしたね。細かいダメ出しがすごい。僕から見たら、マーカスさんでさえ難癖のつけようがなかったけどなあ」
「でさえってなんだよ、俺はこう見えて次期バートネット公爵だぞ! 七歳から王太子の側近やってたんだし、マナーは完璧に習得してるっつうの」
「でもあのお婆さん、マーカスさんのマナーを好ましく思ってなかったですよ。えーっとなんですっけ『身振りは何百、何千もの言葉に相当します。あなたは優雅さを学ぶ必要がありますね』でしたっけ」
「ロアンお前、意外と声真似が上手いな……」
マーカスとロアンのやり取りを見ながら、ソフィーが微笑んだ。
「私は『おどおどしすぎ』と言われたわ。そんなつもりはまったくなかったんだけど。『女官として主人に恥をかかせる原因となりますよ』ですって」
「いやいや、ソフィーさんは淑女としても女官としてもピシっと決まってましたよ。あの婆さん、ちらっと一瞥しただけで何個も文句を並べてきやがる。なんつーか、厄介な人だよな」
マーカスの口の片端が歪む。ソフィーが難しい顔つきになった。
「事実、その通りですわ。テイラー夫人はたしかに、有名な淑女教育の専門家ですけれど。彼女の教育法は古風すぎて現状にそぐわないと、人気がないんです」
「厳しすぎるということかしら。生徒を褒めて伸ばすなんて、絶対にしそうにない方だし」
ミネルバは親友をじっと見つめた。ソフィーがため息をつく。
「ええ。グレイリングの若い淑女は、テイラー夫人の教育にほとんど、あるいはまったく魅力を感じていないわ。考え方が古い、厳格すぎるって、悪評の方が知れ渡っている。それでも祖父母世代には圧倒的な人気があるんだけど……」
「たしかに蝶よ花よと育てられた、甘やかされ放題のお嬢さんじゃ、あの婆さんの視線は耐えられないだろうなあ。俺も耐えられなかったけど」
マーカスが力のない笑みを浮かべた。
「ミネルバは立派だったよ。テイラー夫人が言葉に出した批判にも、無言の圧力にも、見事に対処したもんな」
「ううん、そうは思えない。テイラー夫人は、私にまったく満足していなかったわ」
ミネルバは首を横に振った。
「きっぱり言われたじゃない? 『アシュランでの努力の成果は出ています。しかしながら、ルーファス殿下の花嫁にふさわしい威厳と自信が足りません』って」
ミネルバはテーブルの隅に置かれた教本を見やった。テイラー夫人から渡されたもので、百科事典並みに分厚い。
「おいおいミネルバ、なんで笑ってるんだよ。あんだけ叱られたあとなのに、生き生きとしているように見えるぞ」
「うん、何ていうか……明日はどんなお小言を言われるのか、楽しみになってきて」
ミネルバは屈託なく笑った。
「たしかに私、十年も王太子妃になるための教育を受けて、準備を重ねてきたわ。いきなりグレイリングの上流社会に放り込まれても、やっていけると思ってた。でもそれって、思い上がりだったのかもしれない」
「何を言ってんだよ、お前は決して負けてはいない。属国出身という点を気にしてるなら──」
「マーカス兄様、やっぱり壁はあるのよ。オリヴィア王妃に、必要なことはすべて教えてもらったつもりでいたけれど。私、与えられた機会を存分に利用すべきだと思う。テイラー夫人から合格点を貰えれば、壁を打ち破れるに違いないわ」
これから公爵家の令嬢たちを相手に戦うのだ。自然に振る舞うだけでは、きっと勝利は勝ち取れない。
グレイリングのしきたり、伝統文化を教育することにかけては、テイラー夫人の右に出る者はいないだろう。オリヴィア王妃の教育が、優しいものに思えるほど厳しいに違いないが。
「お前、困難なときほどやる気になるもんな。我が妹ながら恐れ入る……」
マーカスが目を大きく見開いた。
「ミネルバの前向きさには、たまに面食らってしまうわ……。でも、いいかもしれない。カサンドラなんかは、自分の進歩的な考えを社交界で示すことに夢中だけど。古風なテイラー夫人相手にやり遂げたら、グレイリングの伝統を完璧に理解していることを示すことができるわ」
ソフィーの顔に笑みが浮かんだ。
「結婚式までに、世界に五つある大聖堂で祝福を受けなければいけないわ。皇族はそうしないと、正式な結婚許可が出ないの。大主教様たちは皆さん高齢だし、古風であることは正しいと思っているもの」
「俺としては酷い仕打ちに思えてならないが、あのクソ厳しい教育にもメリットはあるということか」
マーカスが唸った次の瞬間、ノックの音がした。アシュランから連れてきた侍女が扉を開けに行く。翡翠殿の副執事のダンカンが、手紙の載った銀の盆を手に入ってきた。
「ミネルバ様とソフィー様宛に届いた、招待状やお手紙でございます」
「ありがとう。そちらの机の上に置いてください」
ソフィーが女官らしくきびきびとした声で答えた。
盆の上には、色とりどりの封筒が競い合うように積み重なっている。目立つように金や銀の縁取りが入っているもの、繊細なレースペーパー、特殊な薄紙などに、差出人を表す封蠟が押されている。
「初日だというのに、たくさん来たな」
「ミネルバがお披露目される、今年の社交シーズンは特別なんですわ。婚約式までは予定が目白押しですから、お断りの返事を書かないと。それ以降の招待なら、効率的にスケジュールを組まないといけませんね。すべてお受けすることはできませんから」
マーカスと会話をしながら、ソフィーは手紙の山に手をやった。その指先に、微かな震えが走る。
「お父様からの手紙……」
ギルガレン辺境伯家の封蠟が押された薄青色の封筒を見て、ソフィーの瞳に怯えたような色が浮かぶ。
手紙にはデュアラム侯爵家のロバートの、親族会議の結果について記されているに違いなかった。




