宴のおわり
長く袖をとおされていなかったドレスは重かった。
「あれ、この匂い……」
「香水かしら」
「どこか不思議な薫りもするのね」
姉の一人が息を吸った。埃っぽくないとはいえないが、裾が揺れると懐かしい匂いが漂う。
……水の匂い?
陽の光を浴びて揺れる麦の穂、荒野に咲く花を動かす風の囁き。遠く流れる水の音。
ドレスの色合いは暗く全体の印象としては重々しいが、アイラによく映えた。
「目立ちすぎない方が、お互いを引き立てるかもしれないわ」
仕舞われていた琥珀の首飾りを探し出して、母親がそっとアイラにあてる。幾重にも踊る宝石のしずくが入り込んだ陽光を受けて胸元で揺らめいた。
「何色の紅が合うのかしらね」
唇にあてられた母親の指先は整えられていたが、荒れていた。
……何を見たつもりになっていたのだろう。
唇を噛み締めようとしたアイラに気づいたのだろう。「母」は視線をやわらげ人差し指を立てて唇に当てた。
そしてアイラは舞踏会にいる。
煌めく灯の下、笑いさざめく男女。揺れるドレスの裾に、漂う香水の薫り。
たとえ重いドレスを身に纏おうとも、揺蕩うことはできる。終わりのある魔法だが、ここではアイラも泳げるのだ。
同じような色合い、同じような薫り、同じような話題を纏いながら、人はさざめく。「重く」見える男もいれば、華やかではあるが「軽い」、つまり頼りなさげな若者らしき人物もいる。お互いに行き交うだけ、仮面越しに視線が合えば会釈をするだけでそれ以上のことはなかったけれど、何もかもがおもしろかった。
あとどのくらい舞台にいることができるのだろうか。姉には先程すれ違ったときに、確か長い針と短い針が重なるまでだと言われた。
足を止め、何か飲むものを求めようとしたアイラに男が声をかけた。
「永遠を過ごそうとは思わないか?」
それほど華やかな装いではない。だが、重厚でありながら滑らかな光沢を放つ布地は美しかった。
男は杯を差し出した。杯には芳醇な香りを放つ液体が揺れていた。
「そうすれば、名を残すことができる」
……誰もが羨む力を手に入れられるということ?
漂う薫りは華やかで、揺れる度に表情を変える。甘く、それでいて濃厚な味わい。
思わず伸ばしかけた手の動きに合わせて、胸元の琥珀が揺れた。蜂蜜の香り……アイラは手を止めた。
男の持つ杯の表面に、仮面を付けたアイラの顔が映っていた。
地味だ。誰に言われたわけでもないが、アイラは知っている。
でも、瞳の奥に花が咲いているよ。
そう言ってくれたのは誰だったのだろう。その花の名は……。荒野に咲き、大地を彩り、潤す花の名は……。
アイラは顔を上げた。今はまだ、借り物の衣装だ。自分でもわかる。でも、倉庫の片隅でも色褪せなかったように、新たな輝きを纏ったように、きっとできる。ただ護るだけじゃなく、自分で創りたいのだ。
「エリカっ」
立ち去ろうとしたアイラを止めようとして、男が袖を掴む。振り払おうとした手が、男の顔に当たり、仮面が床に落ちた。
「……お父様?」
こんなにも父親は普通だっただろうか。高く広く見えた背中も、甘く厳しく感じた声も。
仮面が落ちあらわになった男の顔に、周りの視線が一瞬だが集まった。父親は顔を隠し、焦ったように言葉を続けた。
「飲むんだっ、そうすれば『永遠』がわかるからっ」
視界の片隅に人をかき分けてこちらへ来ようとする母たちの姿が映った。
「それで?」
アイラはことばを繋ぐ。
「稀少な花は護らねばならない」
こんなにも父親は普通だっただろうか。まっすぐに前だけを向いていたはずの視線も。
アイラはことばを紡いだ。
「花を育てるのは水。活かすのは風。咲かせるのは大地。できあがった物だけなら私はいらない」
「……エリカ?」
「それは亡き母の名です、お父様」
父親は手を下ろしてアイラを見た。
「貴方」
母がアイラの前に体を滑り込ませた。
「すまない、屋敷を任せ切りにさせてしまって」
「いいえ、お忙しかったのでしょう?」
……知っていた。入れ替えられる家具など品はあっても新品ではない。母たちの身につけるものだって似合ってはいるが、高価ではない。
「……それは」
母は微笑んだ。姉たちも側に来てくれた。
「永遠を……変わらぬことを望むなら、自ら変わらなければ」
たとえ屋敷がなくなろうと、私を型作った魂は私のなかに息づいている。その想いを繋げられるなら、決して終わりではない。
母のことばに「父」は微笑んだ。
「そうか、変わったのだな」
それから父には会っていない。贈り物を見ればわかる。父の役割が。忘れられていた技術の再現と記録と。「永遠」にはさまざまな形があるのだ。
いつかまみえるときが来れば、今度は杯を交わせるかもしれない。合いそうだからと、やたらと高価な物ばかり贈るのはやめてほしいが。
……だから、そのときは。
アイラは微笑んで、襁褓を縫っていた手を止めた。
ーー完ーー
※襁褓=おむつ




