はじまりの夜会
「永遠を過ごそうとは思わないか?」
男から差し出された杯には、芳醇な香りを放つ液体が揺れていた。
飲めば、より美しくなれるかもしれない。新たな力を得られることもあるだろう。
しかし……アイラは伸ばしかけた手を握りしめた。
舞踏会でアイラは独り、壁際に立っていた。揺れるドレスにさざめく薫り。紳士淑女の舞う姿は風に揺れる花々にも似ていて、顔は仮面に隠されていてわからないが、皆艶やかだ。
アイラが身につけているのは母の遺した、伝統的なといえば聞こえは良いが、重々しいドレスだ。
姉たちに勧められたものにすれば良かったかもしれない。
アイラは、ガラスの靴に目を落としてそう思った。
「アイレイ、アイレイ」
かつてそう呼んでくれたひとはもういない。屋敷のあちこちは取り壊され、新しい家具が入り込んでいる。
父親は普段から屋敷にいない。もう声も思い出せない。姿が大きく見えたことだけは覚えている。
母は素朴なひとだったらしい。窓に映った自分の顔を見るとわかる。決して美人とは言えなかっただろう。新しく入ってきた母親たちとは大違いらしい。洗練された仕草に、手入れの行き届いた髪や指先。人々を惹きつけてやまない瀟洒な話題。
母の記憶はない。懐かしい、甘い薫りが目の前をふと横切る気がすることがあるけれど、気のせいだろう。その度にネズミに驚くことになるから。ネズミはいろいろなところに入り込み思い出を食い荒らすのだ。毛の色から泥炭と名づけたネコが追い払ってはくれるけれど、どうしても屋敷の古い一角から完全に追い出すことができなかった。
「舞踏会? お城の?」
案内状を手にアイラは掃除の手を止めた。
「招待されているのよ。貴女も行かなきゃ」
新しい母親も姉たちも、ことさら自分に酷く当たるわけではない。
「この組み合わせだと、ふつうなのよね」
「でも、こっちだとお互いに張りあってうるさくなるわ」
むしろ、よく見てくれる方だと思う。今もさまざまなドレスや宝飾品を見繕おうとしてくれている。
近づけないのは、アイラの方だ。
「倉庫も見てみる? 閉め切ってはいないから、ネズミが入り込んでしまったかもしれないけれど」
微笑もうと口角を上げたアイラを見て、母親が言った。
古い服飾品の倉庫は、屋敷の陽当たりの悪いところにあった。太陽の光が布地を傷めることもあるからだ。
「埃は溜まっているけれど、ドレスは無事ね」
そこは長く閉め切られていたが、ネズミの痕跡はなかった。
「手入れなんて充分にできなかったのに、当時の面影をここまで残しているなんて。まるで魔法がかけられていたようだわ」
母親の言葉に、泥炭が得意げに鳴いた。




