北に生まれし者
実体験に基づく創作です。
朝もやの中に北の都札幌の街がかすんで見える。田村柾年は毎日の生活の中で気分を改めたい時にはこの旭山公園に上ってくる。それ程高くはないが、ここから眺める札幌の街並みの眺めは素晴らしかった。晴れた日には札幌の街が開けている広大な石狩平野の向こうには、遥か大雪山系の山並みも眺められる。
柾年はこの札幌で生まれ育った。 北には北に生まれたものにしか解らない思いがある。子供の頃には、家族や親戚達の会話の端々から、決して埋める事ができない本州との距離感や、目に見えない負い目のようなものも感じた。更には、長い間雪と氷に閉ざされるとともに、薄暗い曇り空の日が続く事によって感じる、何かに取り残されていくような意味のない焦燥感のようなものを、子供心にも敏感に感じ取っていた。
大人達は「内地」という言葉をどこか懐かしそうな響きを持って盛んに使っていた。その言葉の響きを柾年は、そこには何か素敵な新天地があるかのように感じながら聞いていたものだった。仮に北海道と本州が陸続きであったなら、柾年の感じ方もまた別のものであったかもしれない。だがそこには、そんな思いを断ち切るかのように青黒い津軽海峡が横たわっていた。ここを境に生物の生態系をも変えてしまう速い潮の流れは、北海道に住む者達に、ある種の諦めにも似たような感情を抱かせ続けてきたのではないかと柾年は時々思っていた。見方を変えれば、そんな独特の風土が、歴史のしがらみにとらわれない北海道特有の文化や気質を育んできたとも言えるのだが。
交通機関や技術の進歩によって、そんな北海道に住む者が長い間感じ続けてきた距離感は著しく解消されつつあったが、柾年の心に横たわる「津軽海峡」は長い間消える事は無かった。
高校生の頃には度々此所へ上ってきては地平線の彼方を見つめながら、
「いつか海峡を越えてやるぞ」
と思い続けていたものだった。そして氾濫する沢山の情報はそんな柾年の憧れにも似た思いを増長させた。温暖な気候と華やかな街、そこで出会う未知の人々。まだ若かった柾年には、人間の悲しみや醜さや汚さは、たとへどんな場所へ行ったとしても消えることなく付きまとうものだという事には、まだ気付いてはいなかった。高校を卒業して予備校へ通うようになってからも柾年の心の中の火種は燻り続けていた。
そしてその時はやって来た。予備校帰りの柾年が好天に誘われて大通公園のベンチで物思いに耽っていると旅行者らしい若い男に道を聞かれた。男の行き先が近かった事もあって、柾年は同行する事にした。その男はアルバイトをしながら気の向くままに旅をしていると言う。いかにも清々しそうなその男の表情を見ていると、自分の心のままに生きている事が柾年には羨ましく感じられた。ほんの短い間だったが男の話は火種の有った柾年の心に刺激となって火をつけた。
僅か三日後にはアルバイトで貯めた貯金をおろすと、短い置き手紙を家族に残して柾年は札幌を離れた。新しい人生を始めるんだという気負いと、当分故郷には帰れないかもしれないという妙な感傷を抱きながら札幌駅のホームを出発し、青函連絡船のデッキから次第に離れて行く函館の街を眺めた。自分の心の中で人生に於ける大きな高い壁のような象徴的な存在として思い続けてきた津軽海峡を、今現実の形として越えようとしているという感慨と未知の世界へ向かう不安から両手のひらには力が入っていた。何とかなるさと何度も自分に言い聞かせながら、青い海峡に残る白い航跡と次第に離れて行く北海道の大地を感慨深く眺めたものであった。
しかし東京の現実は想像以上に厳しいものだった。大都会での一人暮らしはひどく侘びしいものだったし、憧れだけではっきりとした目的のないままの流れ者のような状態では、まともな就職など見つかる訳もなかった。そして当然の事ながら、大都会というものが様々な情報によって華やかに彩られた部分の裏側に、人間の欲望や憎しみ、悲しみなどが渦巻く暗い部分を合わせ持っているのだという事を思い知らされた。心の中の憧れや淡い夢など瞬く間に消え去り、目標の無い惰性のような生活が五年ほど続いたところで、柾年は自分の甘さを改心し、再び北の街札幌に戻って来たのだった。
それから十年が過ぎて、今は札幌で全国規模の企業に就職ができていた。現在の仕事には満足はしていたし、それなりのやり甲斐はあったが、時として何かしら理由の解らない空虚感を感じることがあった。同じように繰り返される毎日が当たり前と理性では思っていても、感情の部分では納得していない部分があるように自分でも感じられていた。心の奥深いところでは未だに消えない火種のようにくすぶる思いがあった。時折一人になった時には、心の底から声にならない声が静かに湧きあがってくるようになっていた。勿論一度は挫折して地元へ戻って来た訳であり、年齢を重ねてきた事もあって、さすがに以前のような、夢見るような憧れは無くなっていたが、未知の文化や風土に触れてみたいという思いは、やはり消すことができないような気がしていた。それは多くの人が持つ旅への憧れの感情に過ぎないのかとも思う反面、自分自身の生き方そのものとも関わってくる問題のようにも柾年には感じられていた。
平凡と言われる安定した生活の中で、家族に囲まれながら平穏な毎日を願うことは、あるいは人として当然のことであろうとも勿論思うのだが、時として、風に吹き上げられながらどこまでも飛んでいく植物の種のように、気ままに生きたいという思いも起きてくるのであった。そんな時に決まって心に浮かんでくるのは、人生を旅に例えながら日常的に旅の中にその身を置き、漂白の思いを追い続け、旅の途中にその生を終えることさえ良しとした、西行や芭蕉のような過去の多くの文化人達の事だった。
「このままでいいのかな」
他人からの評価ではなく、自分の生き方に対する自分自身の評価として、そんな事を思うことも日常の中で多くなっていた。時々こうして高台から遠くの山系を眺めていると、もう一度心のままに生きてみたいという思いが心をかすめていくのであった。
旭山公園から眺める百九十万都市札幌の街は、この数十年の間に大きくその姿を変えていた。次々と高層の建物が建ち、それらを取り巻く住宅地は周辺の広大な石狩平野に延々と広がりつつあり、いつしか日本でも第五位の人口を有する大都会に姿を変えていた。そんな大きな変化の中にあっても、この土地に人々が住み始める以前から続く自然の姿や、柾年の子供の頃の思い出の中に残っている昔ながらの街角は、札幌市内の至るところでまだ見かけることができた。
移り行く時の流れの中にあっても、いつまでも変わらないものがあるように、柾年の心の中にもやはり十数年前と変わらない思いがあるのであった。
マンションの自分の部屋に戻ると、札幌で旅行社に勤めている小学校時代からの親友でもある亀村から、
「話があるから一度会えないか」
という留守電が入っていた。用件は柾年自身が頼んでいたことに対する返事であろうことは予想がついたが、柾年が思っていたよりは早く結論が出たことは嬉しかった。
そしてもう一つの留守電は、
「今度いつ会えるか」
という由紀江からのものだった。由紀江と知り合ったのは、柾年が東京から札幌に戻ってから参加し始めた同人雑誌の集会でのことであった。何度か話しているうちに次第にお互いに気持ちが通じるようになり、自然に付き合うようになっていた。
由紀江はごく普通の不自由のない家庭環境に育っている為か、どこかおっとりして世間知らずな一面もあったが、柾年はそれもまた由紀江の長所であると認めていた。そして由紀江自身は、そんな自分が育った何事も起きないような一般的な幸福と言われるような家庭生活に憧れているようなところがあって、その点が柾年とは少し考えを異にしているようだった。そんな訳で、柾年としても、最近自分の心の中で起きては消えていく様々な思いの全てを、由紀江には明かしてはいなかった。と言うよりは話せないという方が正しいのかもしれない。もし柾年が今の自分の気持ちをそのまま話してしまったなら、由紀江との間に大きな心の溝ができてしまいそうな気がするのだ。
「由紀江さんをいつまでも放っておいたら、ほかの男に取られるぞ」
というのが最近の亀村の口癖のようになっていた。それは柾年自身も痛い程に感じているのではあるが、これから自分が望んでいる生き方を考える時、由紀江に対してはっきりした結婚の約束を口に出すことはできないような気がしていた。
このところは、お互いに時間の折り合いがつかずに会えないことが多かった。付き合い始めてそろそろ二年が経とうとしていて、会話にも以前のような新鮮さもなくなりつつあった。そんな風に多少の行き違いはありながらも、二人の関係が今まで続いてきたのは、由紀江の穏やかな性格のおかげかもしれないと最近は柾年も思うのであった。
いつもの二人の待ち合わせの場所は、決まって円山公園の近くのカフェだった。そこは由紀江のお気に入りの店であった。明るくて近未来的な斬新な店の雰囲気を特徴とする飲食店も多くなってきている昨今にあっても、古い生活用品などを装飾用に置いている落ち着いた店内の雰囲気は、そこにいるだけで心が和んでくるようで柾年も結構気に入っていた。
柾年は誰との約束であっても必ず約束に時間より早めに着いて、遅刻するなどということはまず無かったが、由紀江はいつもそれよりも早く来て待っていた。
「急に呼び出してご免なさいね。最近なかなか会えなかったから」
由紀江はそんな言葉を投げかけながら、柾年の表情の変化を読み取ろうとしているようだった。
「いいんだよ、今日は別に予定は無かったから」
そうは言いながらも柾年の心の中には、なかなか由紀江に対しては話せないような複雑な思いがあったから、こうして改めて向き合う時には、少し息苦しいような気持がしないでもなかった。
「それなら良かったわ。少し私の仕事の話をしてもいいかしら」
由紀江は少し気遣いを見せながら話題を変えた。柾年としてもそれによって由紀江の目先が変わって、最近の柾年自身のことに話題が至らない方が都合が良いように思えた。
「全く構わないよ」
柾年の答えに安心したのか由紀江は嬉しそうに職場での出来事を話し始めた。
「最近ね、子供達の様子が少し変わってきていて戸惑うことがあるのよ」
「どんな風にだい」
結婚もしていない柾年にとっては、幼い子供の気持ちなどは、実は殆ど理解できてはいないのだが、それで由紀江の気持ちが晴れるならと思って、由紀江が自分の働いている幼稚園の子供の事を話題にする時には、極力付き合うように努力をしていた。柾年が話を聞くような姿勢を見せたので由紀江は話しを続けた。
「何て言うのかな、最近の子供達って気持ちが冷たいっていうのかしら、自己主張がとっても強いのよね。そして自分の主張によって他人にも何らかの影響があるのだということまでは、なかなか考えが及ばないのかしらね」
「つまりは他人に対する思いやりが足りないということかな」
「そうとも言えるのかもしれないし、または自分のことで精一杯で、周りに気を遣う余裕がないということなのかもしれないわ」
「まさに大人の世界を映したようなものだな」
「そうなのよ、きっと大人達にも責任があるのだと思うわ」
「丁度僕達の世代なのかもしれないな、親達は」
「そうね、何も不自由なく大切に育てられて子供時代を過ごして、そのまま親になっていった世代よね。私達にとっては他人事ではないのよね」
子供達と日々直に接する由紀江にとっては、柾年よりも切実な問題として受け止められているようだった。柾年は自分子供時代の事を思い返してみた。札幌の人口は今ほど多くもなく、市街地の範囲もずっと狭くて、車の通行も未だ少なかった記憶があった。路面電車がゆっくりと往き来するどこかのどかな風景が当たり前のように街の日常の風景に溶け込んでいた。公園でも勿論遊んだが、車の殆ど通らない中通りや、街のあちこちに残っていた空き地もまた立派な遊び場所であった。近郊に沢山残っていた雑草の生い茂った草原は、格好の虫捕りの場所でもあった。自転車で走り回る時には、邪魔に思うくらい沢山のトンボが頭の上を飛び交っているという出来事や、紋白蝶が飛びかう様子などは日常の風景だったが、最近では札幌市内では殆どその姿をみかけなくなっていた。
「ねえ、なに考えているの」
黙ってしまった柾年の様子をいぶかしそうに見ながら由紀江が言った。
「え、ああちょっと昔のことをね。子供の頃のことをね」
「私達の時代とは随分と変わったわよね」
「君もそう思うのかい」
「ええ、私だってもういい歳だもの」
三十を過ぎた由紀江の言葉は柾年の心に重く響いた。知り合った頃はまだ二十代の頃だったのだが、ふと気が付けばお互いにそれなりの年月を過ごしてきたのだ。
「これからどう生きていけばいいのかな」
柾年は自然と心に思い浮かんだ疑問を独り言のようにつぶやいていた。
「何を急に言い出すのかと思えば……」
由紀江は柾年の心の中を探るかのような表情になった。
「何か迷うことでもあるのかしら」
改めて由紀江にそう問いかけられても、それに対して適切に答える言葉が今の柾年の心の中には見つからなかった。
「そうだな」
柾年のあいまいな返事に対して、由紀江は何も言わずに両手で包み込んだコーヒーカップに視線を落とした。黙り込んだ二人の耳には、周囲の客達の話し声が急にざわめきとなって入って来だした。
長い沈黙に先にしびれをきらしたのは由紀江の方であった。
「今何を考えているの?」
いつもは温厚な由紀江にしては珍しく、少し強い口調に、柾年も思わず顔を上げて由紀江の方を見た。その表情に怒りは無かったが、柾年の心を問い詰めようとするかのような強い意志が感じられた。この場はあいまいな言葉で終らせようと思っていた柾年も、その由紀江の思い詰めたような表情を見ているうちに、自分の本心を語らなければならないような気持になった。
「また旅に出たいなと思ってね」
「旅ならいつも行っているじゃないの、今更改まって言う程のことでもないじゃないの」
由紀江の指摘した通り、柾年は数ヵ月に一度は休日と有給を利用して、二、三日の一人旅をよくしていた。誰かと一緒の旅よりは、気を遣わずに自分の気ままに行ける一人旅の方が自分の性には合っていると思っていたから。一人旅が寂しいなどと思ったことは一度も無かった。かえって誰一人として自分のことを知る人のいない、一度も訪れたことのない土地の空気に身をさらすことによって、ほんの一時だけでも今迄の生活とは全く違う新しい生活を体験できるような、そんな一人旅の感覚が気に入っていた。ただ最近感じている想いには、もう少し複雑なものを含んでいるのであった。そしてそんな最近自分の心の中に起こりつつある旅への憧れの感情は、単なる旅行とは違う、もっと長い時間をかけて自分の心に変化をもたらしてくれるような出来事を望んでいるのではないかということに、柾年自身では気付き始めてきていた。
それはまだ十代だった頃に高台や自宅の屋根に登って、北海道から本州を見詰める方向に当たる南西の方角を眺めながら、そのはるか視線の先に存在している「内地」と親戚達が言っていた、柾年自身にとっては未知の土地を憧れを持って想像していた頃の感情と繋がるものがあった。ただし、自分自身の気持ちの整理がついていない状態では、由紀江に自分の心の内を上手く説明することは難しかったし、上手く伝わらない場合には誤解を招きかねないという危惧もあった。
「そうそうこの間ね、お姉さんと会ったわよ」
何かはっきりしない様子の柾年の心境を敏感に察した由紀江は、二人の間の空気が気まずくならないようにするつもりで話題を変えた。
「姉さん何か言っていたかい?」
柾年も二人の間でどんな会話がなされたのかは気になった。
「お姉さんたらね、由紀江さんもたまには他の男とデートしてみたらいいんじゃないと言って下さったわよ。そうすれば柾年も少しは慌てて、将来のことを真剣に考えるようになるんじゃないかですって」
五歳年上の姉の佐和子は公務員として役所務めをしていたが、結婚してもなお働き続けていた。今では仕事にそれなりのやり甲斐を感じているように柾年には見えた。どちらかといえば、型にはまった生き方を好む手の掛からない良い子供として育っていた佐和子と、それとは反対に、人と同じにすることが嫌いで、将来も個性的な生き方を望み続けてきたばかりに多くの挫折をも経験してきた柾年とは、何かにつけ周囲からも比較されることが多かったが、殆どの場合が佐和子の方が親戚などの受けも良かった。それも仕方のないこととは思いながらも、やはり沢山の親戚や友人達と顔を合わせなければならない正月や盆の時期は、柾年はあまり好きではなかった。友人や同じ年齢の従兄弟達は、社会の中でそれなりの地位を得ていたし、結婚して幸せそうな家庭を築いたりと、それなりに人生のコースを着実に歩いている様子であった。
これまでにも自分の気持ちに素直であろうという気持ちから何度かの転職を経験している柾年は、年齢に伴った収入を得ているとも言えず、なかなか由紀江との結婚に踏み切れない理由もその辺りにもあるのであった。
「またそんなことを言っていたのかい」
弟の生活についても時々意見をしてくる佐和子の顔が浮かんだが、同じ女として、由紀江のことが気に掛かる姉の気持ちが解らないでもなかった。実際最近は、柾年自身でも、もしも由紀江が自分と出会っていなかったならば、他の男性と出会って、今頃は幸せな結婚生活を送っていたのではないかと思うこともあり、由紀江に対しては、少し申し訳ないような気持ちも起き始めていることも事実であった。
「まあ、そんなことを話すために会っていた訳ではないんだけどね。おいしいケーキのお店があるからって言って誘って下さったのよ。またご馳走になっちゃった」
いつも二人の会話は気にはなるのだが、こうして由紀江と姉が仲良くしてくれていることは、とりあえずありがたいことではあった。
「それから」
また少し真顔になった由紀江が、柾年の顔を覗き込むようにしながら言葉を切った。柾年が怪訝そうな表情を見せたのを見ながら由紀江は続けた。
「新しいアルバイトの感じはいかがなものなの?」
「新しいアルバイト?」
「ええ、亀村さんから聞いているのよ。ライターのアルバイトを始めたって」
「そうか、知っていたのか。そのうち話そうと思っていたのだけれど亀村から聞いていたのか」
言葉通り柾年には隠すつもりは無かったのだが、由紀江に話すのはある程度軌道に乗ってからでいいと思っていた。
亀村からは、自社で発刊している旅行雑誌の地方版の、記事執筆のアルバイトが得られるかもしれないということを言われてはいたのだ。
「まさか今の仕事を辞めて、フリーのライターになったりするつもりじゃないんでしょう」
型にはまった生き方を望んではいない柾年の性格をよく理解している由紀江が、そう考えるのも無理は無かった。
「そんなことは無いよ」
柾年はそう言って否定したが、自分の心の中を由紀江にはいつも見透かされているようで苦笑した。
「それならいいんだけれど、これからは何か考えていることがあるなら私にも話して頂戴ね。私にも色々と心の準備があるのだから」
由紀江は柾年が何も話さなかったことについて不機嫌な訳ではなかった。
「解ったよ」
柾年は肯いて見せた。
「男の人っていつまでも好きなことが考えられていいわね。女なんて次第に年齢に縛られていくようでつまらないわ」
由紀江の重い言葉であったが、柾年は聞こえない振りをしてコ-ヒーカップを手に取った。
その亀村から再び連絡があったのはそれから数日後であった。
「同人誌に載っていた君の短編集を見せたら、部長が一度会ってみたいと言っていたよ」
「そうか有難う」
「部長は結構乗り気だったから、後は週末の編集会議で許可が出れば、正式に君に仕事の依頼が出来るようになる」
亀村から正式に執筆の依頼があったのは、それからさらに一週間ほど経ってからだった。
「行き先が小樽で決まったよ」
「そうか小樽か」
札幌市内の観光スポットになるのだろうと思っていた柾年にとっては意外な回答であったが、すぐ隣り街でありながらあまり訪れる機会の無かった小樽の取材は、柾年にとっても楽しみな気がした。
久し振りで訪れた小樽の街は、柾年の想像以上の大勢の観光客の姿があった。みやげ物店の大きな駐車場には何台もの観光バスが並び、ガイドブックでも紹介されているメルヘン交差点に向かって歩く観光客の長い列が続いていた。少し歩いて運河沿いに出たが、ここの散策路もまた多くの観光客の姿で溢れていた。柾年が小学生の頃に訪れた思い出の中の小樽の街の印象は、美しい海岸線と大きな水族館がある海辺の地方都市という印象が強く、これ程多くの本州からの観光客を迎え入れる観光都市ではなかったような気がするのであった。
街並みを綺麗に整備し、沢山のイベントをも企画することによって、全国から観光客を呼ぶまでになるまでには地元の人達の努力があったであろうことが伺えた。観光客に見せる為に作られた観光施設ばかりを巡る観光ツアーでは小樽の本当の姿を見たことにはならないだろうと少し覚めた思いで、観光客の流れに乗って柾年自身も一般的な観光ルートを歩いてみた。とは言え自分が本州の始めての観光都市を訪れた時には、やはり観光地図を手にしながら、決まったコースを時間を気にしながら歩いて来た事を思い出しては、そんな事も致し方のない事なのだろうとも思った。
伝統のガラス工芸やメルヘンチックな小さなオルゴールの数々は、異国情緒の残る小樽の街に合っているようで、観光客ではない柾年が見ていてもなかなか楽しかった。
まもなく人込みの運河沿いを離れると、柾年もまた観光案内所で貰った観光地図を片手に駅の横を通り抜けて、有名な船見坂へ向かったが、その辺りまで来ると次第に辺りを眺めながらゆったり歩く観光客の姿も少なくなり、気が付くと、目的意識を持って足早に行き交う地元の住人らしい人の姿が目に付く、普段着の小樽の日常の中に自分が居ることに柾年は気が付いた。観光用の写真で見る時には、何かとてもロマンチックな坂に思えていた船見坂も、実際歩いてみると意外に急で狭い坂道であり、道の両側まで家々が迫り、地元の人にとっては少し窮屈な通りなのだろうと思われたが、振り返って港が見える風景はやはり風情があった。
そのまま坂を上りきったところからは人だけが通れる細い道になり、それもいつしか山道となり、暫く登り詰めた所に旭展望台があった。
初めて港町小樽の様子を上から眺めた柾年の心には、かつては商都として栄えながら、一時は衰退期をも経験し、現在も大都市札幌へ向けての通勤や通学で、多くの人が市の外へと流れて行く宿命のようなものを背負った小樽の街が持つ哀愁のようなものが見え隠れしているようで、ただ綺麗だというような感情にはなれなかった。
そして暫くそこにたたずんでいるうちに、柾年は以前にも似たような感覚を感じたことがあったことを思い出した。昔の記憶をたどっていくと、これも子供の頃に訪れた、思い出の中の記憶の函館山からの眺めと重なった。
柾年の心の中の函館の街もまた、小樽と同じように異国情緒を漂わせた独特の雰囲気の佇まいを残しているように感じていた。そして由紀江の故郷であり北海道最果てでもある函館の街も、この小樽と同じように、どこか哀愁を感じさせる空気が漂っていた事を想い起こさせた。
あるいはあの十代の頃の自分は、そんな函館や小樽に漂う空気に代弁されるかのような、東京という中央から忘れられていくかのような悲哀が漂うような北海道という土地から脱出したくて、もがいていたのかもしれなかったと、今にしては冷静に振り返ることが出来るような気もするのであった。
そんな思いを持って柾年は、一人で更に小樽の街を歩いてみた。観光客の姿が溢れていて一見賑やかに見えている街の様子であったが、例えば季節的な理由で、そんな観光客が少なくなった時の、本来の小樽の街の様子を想像する時には、何かしらもの寂しさを感じる柾年であった。
札幌に戻ると柾年は図書館で、小樽にまつわる現代の作者が書いたエッセイ、童話などを見つけては開いてみたりもした。そうすることによって地元の人の目から見た小樽の姿に触れることもできそうな気がしたからであった。
そんな中で札幌在住のある女性童話作家の作品が特に印象的であった。小樽を舞台にした物語で、子供の視線から眺めた昔の小樽の街並みの記述が柾年の心を惹いた。哀愁の漂う小樽の風景の中に、子供の頃の淡い初恋の思い出を展開してゆく物語は、誰の心にも残っていることであろう子供の頃の思い出と後悔の入り混じったような、少し物悲しいような感情を柾年の心にも改めて想い起こさせて、何だか懐かしくも哀しいような気持になった。
仕事が休みの次の土曜日に再び小樽を訪れた時には、今度は由紀江を誘ってみた。突然のことに少し驚いたような由紀江であったが、結局は同行することになった。
国道五号線から時々見える日本海は、晴天の青空とあいまって輝くようなブルーを見せていた。冬場の吹雪の時の波しぶきを立てて荒れていた時の暗い灰色の海と同じ海とはとても思えなかった。
車の中でも由紀江は上機嫌で、職場の幼稚園での子供達に関する小さな事件などを陽気に話したり、綺麗な日本海の眺めに何度も感嘆の言葉を言ったりして楽しそうであった。そんな由紀江の今の心境が、外見どうりに穏やかなのか、それともそんな素振りをしているだけなのかは柾年にも良く解らなかったが、太陽にきらきら輝く青い海と白い波しぶきが綺麗なことだけは、由紀江の感想の通りであった。
レストランから眺める明るい日差しに照らされた小樽の街は、それが最近観光用にあえて作り出された眺めであったとしても、そこにも風情はあった。
「昔はこんな様子じゃなかったのに随分と華やかになったなあ」
「そうね、街は次々と変化しながら新しく生まれ変わっていくみたいね。でも古き良きものは残していかなければならない、そんな矛盾を抱えながらも姿を変えていくのね」
「人間もそうなのかな」
「そうかもしれない。成長しながらも、子供の頃の昔の記憶はいつまでも心のどこかに残っているから」
何気ない由紀江の言葉であったが、柾年にとっては、未だにいつまでも十代の頃の気持ちを持ち続けている自分の心の内を見透かして、自分に対して少しの皮肉を込めて言われているような気がしないでもなかったが、由紀江がそのような陰湿な性格ではないことは柾年自身が良く解っていることであった。
柾年の勤める会社の入った高層ビルからは、札幌の街越しに、幼い頃から見慣れた藻岩山のなだらかな優しい稜線と緑が見えた。柾年が子供の頃には、かなり遠くからでもその姿が眺められていたものであったが、最近は中心部以外の場所にでも、至る所に高層のマンションが立ち並んでしまった為、札幌の街の中を歩いていても、以前のようにどこからでも藻岩山の原生林の姿を容易には見ることが出来なくなっていた。子供の頃には、藻岩山に白い靄がかかると札幌には雨が降るという、生活に密着した天気予報の情報源でもあったのだ。
そして柾年自身も故郷を離れた東京で、何度も藻岩山の優しい姿と心和む原生林の天然の緑の鮮やかさを思い出したものであった。そして柾年が生まれる百年も前の時代に、開拓の為に北海道に移住してきた先人達もまた、想像を絶する厳しい北の暮らしの中で、時折この山を見上げては心の安らぎを得ていたのかもしれないと思うのであった。
いつもの昼休みは、休憩室で同僚達と過ごす柾年であったが、この日はそんな気分にもなれず、一人で窓際に立って、札幌の街を眺めながら由紀江のことを思っていた。最近は二人の間には微妙な行き違いが生じつつあることを柾年も認めざるを得ないと感じていた。
そんな物思いにふけっていた柾年は、携帯の呼び出し音で我に返った。連絡は期待した由紀江からではなく亀村からであった。柾年の期待はずれの声を亀村は敏感に感じ取ったらしかった。
「何か元気が無いぞ」
「そんなことはないさ、今頃どうしたんだ」
亀村が仕事中に電話をしてくることはめったになかったから、何か特別な用があるらしかった。
「今日ちょっと会えないか」
「解った、六時にいつもの店に行くよ」
柾年がいつも亀村と会う店は、由紀江と会う時のそれとは違っていて、お互いの会社からそんなに遠くない、ビジネス街の中の広いカフェレストランであった。
亀村は由紀江のように早くから来て待っているということはなかったが、かといって絶対と言ってもいいほど時間に遅れてくることもなかった。いつも計ったかのように時間ぴったりに現れるのが常だった。これも仕事柄人と会うことが多いせいなのかと思いながらも、感心せずにはいられなかった。この日も例外ではなかった。
「この間の小樽の記事の評判は上々だよ。多分、次の話が来ると思うからそのつもりでいてくれ」
本来なら喜ぶべき話なのだが、柾年の心の中には、亀村に協力してもらいながら最近始めつつあることに、あまり賛成しているようには思えなかった由紀江の様子が引っ掛っていた。
「由紀江さんのことが気になっているのか」
長年の親友らしく柾年の表情を敏感に読み取っての亀村の言葉だった。
「君には悪いけどな、最近になって自分がやろうとしていることに少し迷いがあるんだ。このまま前へ進んで行って、本当にそれでいいのだろうかってね」
「何だ君らしくないな。君は小学校の頃から、他の者よりもずっと行動力があったじゃないか。一人で東京へ出て行った時も、いつも何か夢を追っているみたいで、俺は羨ましく思ったものだ。由紀江さんとのことが気になっているのだろうが、今はこの事とは別に考えた方がいいんじゃないか。色々考えたところで、所詮君がこのまま大人しくしていくとは思えないからな。余り考えすぎずに、まずは自分のやりたいようにやってみればいいじゃないのか。由紀江さんも元が素直な人だからきっと理解してくれるさ」
「だといいんだがな」
「最近うまくいっていないのか由紀江さんと」
「まあまあだ」
「ならいいんだが、君の為だと思って進めているこの話が、結果的に二人の仲を裂くようなことになったら何にもならないからな」
柾年は何かと心を遣ってくれる亀村の態度が有難かったし、そんな様子は昔と変わっていないなとも思った。
「君は中学生の頃には、よく自分の家の屋根に上って遠くの方を見ていたな。いつも夢を見ているようなところがあって、心ここに在らずというような表情も時々していたよな。今も変わっていないんだろう、そういうところは。俺はどこか一箇所に腰を落ち着けていないと不安だから、なかなか冒険は出来ないよ。時々君みたいな生き方が羨ましく思える時があるよ」
亀村はそこまで一気に言うと小さくため息をついたが、羨ましいという言葉は自分には当てはまらないと柾年は思った。何故なら今は未だ、自分自身が決して幸せな気分で日々を送っているわけではないというのが本当のところなのだから。
「俺は他人から羨ましがられるような生き方はしてきていないよ。いつも心の闇を感じてきたさ。考えていることだって十代の頃とは随分変わってきているよ。まあ傍から見れば同じようなことを考えているように見えるかもしれないがな」
亀村はそれには答えず、自分で何かに納得するかのように小さく肯いた。
「ところで君は何で結婚しないんだ?」
柾年の唐突な問いに亀村は苦笑いしながら
「何だ、いい見合いの話でもあるのか」
と笑って言った。お互いに三十代の半ばになっていたが二人とも未だ未婚のままだった。
「そういう訳じゃないが、人のことばかり心配していないで少しは自分のことも考えろよ」
「そうだな、俺は未だ由紀江さんのような素敵な女性に巡り合えないからな」
「由紀江はそんなにいいのかな?」
柾年は気心知れた亀村だからこそ尋ねられる事を尋ねてみた。
「ああ、女性らしい優しさと奥床しさを兼ね備えた、現代には珍しい人だと思うね」
気の置けない仲の亀村の言うことだけに真実味があった。同じように佐和子にも気に入られている由紀江の良さに一番気付いていないのが、自分なのかもしれないと柾年は改めて感じた。
亀村と別れた柾年はネオンの輝き始めた夕刻のススキノの繁華街を中島公園の方へ向かって歩いた。昼間は閑散としているこの辺りも、人の顔が見えにくくなるこの時間には俄かに活気を帯びだしている。そんな様子を見ていると人間にとっての幸せとは何なのだろうという思いが柾年の心に起こってきていた。ある人は恋人や家族と一緒にいる時と答えるかもしれないし、ある人はお金を儲けて贅沢な暮らしをすることだと答えるかもしれない、夢が叶った時だと答える人もいるに違いないとも思う。もちろんそれぞれの価値観によって返ってくる答えも異なっていることは容易に想像が出来るのだが、最近の柾年はそれぞれに与えられていることであろう人生の時間の長さをも含めて、そういったことを考えてみることが時々あった。子供の頃にはとてつもなく長い時間だと思っていたはずの人生の時であったが、いつしか自分がその半ば近くを既に過ごしてしまっているという確実な現実を、最近は意識するようになってきていた。まして日々伝えられる事件や事故のニュースを見聞きするにつけ、または病気の不安などを考えると、あの十代の頃に心の中で叫び続けていた
「悔いのない生き方がしたい」
という思いが再び自分の心の中に浮かび上がってきていることを、柾年は強く意識するようになっていた。それを具体的なイメージとして頭の中に思い浮かべてみるとなると、おそらくそのイメージは、日常生活と一線を画した精神的な部分を根源とする極めて抽象的な概念であるため、日常生活に於ける具体的な形として言葉で表すことは難しいためなのだろうと思った。あえて言葉にするならば、歴史上の先人達が成した
「この世の目に見えるものにとらわれず、心の向くままに旅に生き旅に死す」
というような生き方なのかもしれないと思うのであった。現実世界に身を置いて日々を慌ただしく送っている自分と、そこから離れてふと一人になった時に、心に浮かぶ日常生活に囚われない生き方を望む気持の狭間で柾年の心は揺らぎ始めていた。それは自分が望むような生き方が現実には出来ていないことによって生ずる苦悩であろうことは感じられた。
そして由紀江が望んでいるのは、このままの日常生活を無難に生きて行く自分の姿であって、最近心に浮かぶようになった精神的なものをより尊重する結果としての、非日常的な生き方ではないのだということや、そんな風に微妙に揺れ動いている自分の心を、由紀江が敏感に感じ取って不安に思い出しているらしいことは柾年にも解ってはいた。
正直なところ最近は柾年にとっては、結婚とか家庭とかいうものが、悔いのない生き方を妨げる重荷のように思えてくることが無い訳ではなかった。自分自身のそんな気持に気付く時には、同時に由紀江と付き合っていることの意味をも改めて考えざるを得ないような気がした。
だからといって由紀江のことを煩わしい存在だとは全く思わなかった。それどころか日々沢山の他人の子供達にまで愛情を注ぎながら生きている由紀江の人間性は、柾年にとっても心地良い安らぎを与えてくれるものであった。それだけに最近の由紀江とのどこかぎこちない関係が柾年には辛かった。お互いもうやり直しのきかない年齢でもあればこそ、それぞれ確立した考えがあって当然であり、そこのところで上手く折り合っていくことができないのならば、いつしかお互いに離れていくことも、自然の成り行きとして仕方のないことなのかもしれないという、諦めにも似た思いが柾年の心をよぎる事もあった。反面自分の勝手な考えだと思いながらも、由紀江が自分のやろうとしていることを理解してくれて協力してくれるならば、どんなにいいことだろうという甘い考えを捨て切れたわけでもなかった。
いつしかネオン街を抜け中島公園が近づいてくるにつれて、辺りの雰囲気の華やかさはなくなり、帰宅の地下鉄へ向かう足早な通勤帰りの人の姿が多くなって来た。
柾年は、所属している同人誌の仲間が溜まり場にしているカフェへと向かっていた。もっとも最近は殆ど参加していなかったから、会員である事を自動的に除名されても仕方がないくらいの気持ちでいたのだ。仕事が忙しい事を自分の気持ちの中では理由にしていたが、矛盾の多い社会生活に埋没している毎日の中に身を置いているうちに、以前ほど熱心に詩や文章の創作をしたいという意欲が湧いてこなくなったことが本当の理由であった。それでも相変わらず例会に出席するようにとの誘いの葉書が届けられていた。由紀江と知り合ったのもこの同人誌の集まりの中であったから、いつまでも仲間と認めてくれて葉書を送ってくれていることには感謝したい気持ちであった。
柾年は詩が好きでよく書いていたし、由紀江は絵が得意でいつもイラストを担当して描いていた。由紀江は天使のように愛らしい表情をした子供の絵が上手く、読者の評判も良かった。皆に褒められると
「毎日子供の顔を見ているからすぐに思い浮かぶだけよ」
と言って照れていたが、そこには由紀江の子供のように純真な心が表れているのだろうと柾年は感じていて、そんな由紀江の様子に心惹かれたものであった。
古い木の入り口の扉を押すと、扉の上の方に取り付けられた、客が来た事を店の奥に知らせる為の古風な小さな鐘の高い音が響いた。薄暗い店の奥の方からは賑やかな話し声が聞こえてきていて、同人誌の仲間達が何人も集まっていることはすぐに解った。
「よう、暫くだな」
奥へ入っていった柾年の姿を見て、驚いたように大きな声を上げたのは編集長の木村であった。
「どこにでも座れよ、ここはお前の家みたいなものじゃないか」
木村の言うように、ここに集まる仲間達とは家族同然の親密な付き合いをしてきたのだった。年齢も仕事もそれぞれ違っていたが、そのことがかえっていい刺激になり創作する意欲も湧いて来たし、それはそれで楽しかったものであった。
その場には木村と、どちらかと言えば男性的な性格で勤務先でも営業に飛び回っていると言う美奈子と、そんな美奈子とは全く性格の違う普段から大人しい志津の姿があり、マスターとアルバイトのウエィトレスの女の子の他には客の姿は無いようであった。志津はデザイン事務所に勤めていると聞いていた。
「最近すっかりご無沙汰になったのは由紀江さんとのデートが忙しいからなんでしょう。あーあ、私も素敵な彼氏がいたらこんな所で木村さんの相手なんかしていないのに」
遠慮なしに思ったことをそのまま口に出す、そんな以前と全く変わらない美奈子の様子に苦笑しながら、柾年は自然の木目を利用した、素朴だけれど落ち着ける気持ちになるカウンターに腰掛けた。店自体がかなり古いせいもあったが、木の壁やテーブルはかなりの年季が入っていたし、所々に置かれている調度品も古い木製のものばかりで、それに合わせたわけでもないのだろうが照明器具もアンティークな物が使われている為、店内は少し薄暗いくらいであった。次々と幾何学的で無機質的な近代的な建物が多くなりつつある札幌の街であったから、この店に入ってくると、どこか別の地方都市に来たかのような懐かしいような錯覚さえ感じさせてくれた。
「そういえば田村さんて、最近旅行雑誌に記事を書いているんですって」
どこから聞いたのか美奈子はもうその事を知っていた。もっとも柾年にとっても別に隠すつもりは無いのだから何ともないのだが、まだ正式のものではなかったから、情報だけが先走ってしまって、あまり大袈裟に言われるのは遠慮したかった。
「旅行社にいる友達にちょっとしたアルバイトをさせて貰っているだけで、そうたいした仕事じゃないよ。それに今は試用期間だよ」
「なかなかやるじゃないか、同人誌はもう卒業していよいよプロになるというわけだな」
今度は木村がひやかすように言った。
「そういう訳でもないよ。同人誌なら何でも心に思いついた事をそのまま書けたけれど、仕事となるといろんな制約があって結構大変なんだよ。時には心ならずも書かなければならないような事もあったりしてさ」
「まあそうだろうな、時には面白くない事を書かなければならない事もあるのだろう」
黙って聞いていたマスターが柾年の言ったことに同調してくれた。
「田村さん、以前のようにまだ詩を書いたりはしているんですか」
皆の会話が一度途切れたところで志津が物静かな口調で言った。普段無口な志津が言ったということと、皆が気にしている話題に至ったので皆の注目が柾年の答えに集まった。
「会社勤めに馴染んできてしまったせいなのか、最近何か詩を書く気持ちにはあまりなれないんだ。現実にばかり目が向いてしまっている為なのかもしれないけれど、以前のように心の中から書きたいとい強い思いが湧いて来ないっていう感じかな」
「すっかり冷めちゃったのね。でも旅行記なら熱い気持ちで書けるの?」
美奈子は柾年の表情を覗き込みながら尋ねた。
「今やっているのは旅行記というよりは雑誌に載せるための記事のようなものかな。そして勿論仕事としてやっているのだから、それ自体が自己実現の方法とも思っていないから特別熱い気持でやっているわけではないんだよ。それにそんなにたいしたことをしているとも思ってはいないよ」
「結構冷めてきているみたいね。以前はもっと熱い人だったのにね。やっぱり年齢のせいもあるのかしら」
美奈子は幾分拍子抜けしたようであった。これが今の自分の正直な気持ちだと柾年は改めてそう感じたが、そんな美奈子の言葉は柾年の心に重く響いた。
確かに以前は詩を書く時には、自分の心の声に耳を澄ませてそれをそのまま言葉に表してきたものであった。以前の柾年にとって詩を書くということが、自分自身の心の内を表現するための手段だったとするならば、美奈子の言うように、若かった頃のたぎるような思いが次第に薄れていきつつあるのかもしれないこれからは、高揚した気分の時ではなく、凪の海のように穏やかな心境の時にこそ、冷静に言葉を見つけながらの創作が出来そうな気がし始めているのも事実であった。まだ若くて気性の強い美奈子には、今の心境を話しても理解してはもらえそうもないような気がした柾年は、そんな自分の心境を心に留めて、薄緑色で表面が少しでこぼこした味わいのある手作りの焼き物のコーヒーカップを手に取って黙って眺めた。
「男性も年齢と共に段々と夢を諦めて現実的になってくるものなのかしらね、志津ちゃん」
「それは年齢に限らず、人それぞれに違うんじゃないのかしら」
いつものように小さな声ではあったが、志津ははっきりした言葉でそう言った。
「なんか志津ちゃんが言うと妙に説得力があるのよね」
美奈子は苦笑した。
「由紀江さんも取材とかには協力してくれるんでしょう」
美奈子はまだこの問題に係わりたい様子であった。
「そうだな、時には一緒に取材に歩く事もあるけれど、実際はあまり良くは思ってはいないようなんだ」
「それは意外ね、由紀江さんなら喜んでいるかと思っていたのに。自分でも同人に参加していたのだから、創作者の気持ちは十分わかっている筈なのにね」
「結構自分を持っていて、主張を曲げないところもあるよ」
「今は女性も主張する時代なんだから、それは当然よ」
美奈子の語気にも次第に力が入ってきた。
「由紀江ならきっと理解してくれると思っていたんだけどな、もしもあまり良く思っていないとするならば、理由が僕にも解らないんだよ」
「女心は微妙で複雑なんだから、男性には簡単には解らないわよ、ね、志津ちゃん」
同意を求められた志津は少し困ったような表情を見せたが、柾年と木村の顔を交互に見ながら少し間を置いて言った。
「私は由紀江さんという方には直接お会いしたことがないからはっきりしたことは言えないけれど、思慮深い人のようだから、何か考えている事があるのかもしれないわ」
「やはり志津ちゃんは冷静で慎重派だな」
黙って会話の成り行きを聞いていたマスターが口を挟んだ。
「田村さんはもっと由紀江さんの言葉を真剣に受け止めたほうがいいのかもしれないわね。そうでないと気が付いたらお互いに心が離れていたなんていうことにもなりかねないわよ」
この美奈子の言葉は柾年にも素直に納得ができそうな気がした。
「現実的な人間が多くなって夢のないこの時代に、せっかく田村君が夢を持って生きようとしているのに、どうして由紀江ちゃんは良く思わないのかな、俺なら嬉しいけどな」
やはり長い間同人活動を続けてきている木村には、柾年のやろうとしている事は理解してもらえるらしかった。美奈子も志津も何か考えている様子でそれには答えず、一時会話が途切れた。ふと辺りが静かになると、店内に流れている静かなクラッシク音楽が柾年には心に沁みて聞こえてきたし、冷めかけたコーヒーの味はより苦く感じられた。皆の時間が止まったかのような沈黙の中で、マスターだけは、新しく入ってきた客のためのコーヒーを手際よく落としている。
昔の仲間達との会話によって、自分の気持ちがなんだか妙に落ち着いてしまうと、こんな穏やかな心境がずっと続いてほしいものだという気持ちが柾年の心には浮かんできた。この店は、会社帰りの通勤客が向かう地下鉄中島公園駅にも、そしてこれから夜に向けて賑わいだすススキノの繁華街にも近かったから、夕方になっても尚、お客の出入りは結構あった。
「さてそろそろ二次会に行くか」
マスターに気を遣ってか、木村がそう言いだした。
「そうね」
美奈子も同意し、店を出た四人はススキノの一画にあたる近くの居酒屋に向かった。
「最近同人誌の方はどんな様子なの?」
自分が抜けたからといってたいした影響はない事は解っていたが、暫くの間係わりがあった同人誌のことは柾年も気にはかかっていた。
「メンバーも少しずつ入れ替わりながら、何とかやっているよ。だからと言って、君や由紀江ちゃんが戻る場所はちゃんとあるからいつでも二人で戻って来いよ」
木村は明るい調子でそう答えた。
「そうよ、私も由紀江さんの可愛らしい絵がまた見たいわ」
木村や美奈子からこう言って貰える事は柾年にとっても嬉しかったが、やはり以前のように時間を割いて熱心に参加するというような強い動機は、すぐには湧いては来ないような気がした。それは美奈子の言うように、自分の気持ちが冷めたためでもあるかもしれないとも思うし、または同人誌という限られた枠から外れて自分を試してみたいというような、十代の頃にいつも感じていたどこか満たされない気持と似たような感情が未だ自分の心の中に残っている為なのかもしれないとも思えた。
「その様子ではすぐに戻って来そうにはなさそうね」
美奈子が諦めたように、少しため息混じりに柾年に向かって言った言葉を受けて、木村も志津も黙って柾年の方を注視した。そんな視線を感じた柾年であったが、自分の気持ちをはっきりとは言葉に表さないまま、二人の方へ順に笑顔を向けた。自分に向けられた二人の視線の優しさを感じると、それに応えようとしていない自分が何だか申し訳ないような気持ちもしてきた。
「で、これからの見通しはどうなんだい?」
そんな柾年の心境を察した木村が話題の向きを変えた。
「自分では出来るだけのことをしているから、あとは先方がどう評価してくれるかということになるけれど、今はその先のことは解らないんだ。友人は協力的だし、今のところは話は順調に進んでいるよ。でも最近は僕自身がこれでいいのだろうかって迷いだしているという感じかな、夢と現実の折り合いをどこでつけようかというところでね。久し振りで皆の顔を見に来たのも、何か良い解決の糸口が見つからないかと思ったからなんだよ」
これが今の柾年の率直な気持ちであった。
「私達も少しは頼りにされているという訳なのね」
美奈子も柾年の言葉が嬉しかったのか笑顔を見せ始めた。
「田村さんには是非頑張って貰って、有名になって欲しいわ。そうしたら私達の同人誌も有名になるかもしれないもの」
言葉ではそう言いながらも、志津の表情には世間の何の欲得も感じさせない純粋さが表れていて、そんな志津の様子は、自分達の思いを沢山の人に伝えたいという同人誌本来の目的を柾年にも改めて思い起こさせた。
「それで何か良い答えは見つかったの?」
「いやまだだね」
「まだ飲み方が足りないんじゃないの」
美奈子はまだ残っている柾年のグラスに、なみなみとビールを注いだ。
「まあ、女性の立場から言わせて貰えば、好きな男性にはいつも側にいて貰いたいものよ。ふらふら旅なんかしないでね。でないといつも心配していないといけないでしょう。私も一応は女性なんだから、やっぱり由紀江さんの今の心境は理解できるような気がするし、由紀江さんに同情したいわね」
「なんだ美奈ちゃんて、見かけによらず意外と古風なところがあるんだな」
木村のひやかすような言葉に美奈子は勢いづいた様子であった。
「でもそうは言っても、平凡なばかりで夢のない男性っていうのも何か魅力がないのよね。女性だって現実的なばかりではなくって、時には夢と現実の狭間を漂いたいことだってあるのよ」
そう言うと美奈子は自分のグラスを一気に空けた。
少しの沈黙の後柾年が口を開いた
「日常で係わり合う沢山の人達の意向を無視したような形で、自分の生き方だけ追求していってそれで本当にいいのだろうかって最近思う事があるんだよ。僕も歳をとったのかな」
「大人になったという事だろう。若い頃の情熱が少し冷めたともいえるかもしれないがな」
木村の言葉は年齢を重ねてきた重みを感じさせた。
「そんな言い方しないで頂戴、私も自分の歳が気になるじゃない」
美奈子は年齢の話題には敏感に反応した。
「あのう」
それまであまり喋らなかった志津が遠慮がちにそう言ったので、三人が一斉に志津の方を見て次の言葉を待つ様子を見せた。志津はその雰囲気に一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに思い切ったように喋りだした。
「私がこんな事を言うのは失礼かもしれませんが、自分の心の中にずっと思い続けられる夢があるっていうことは、とっても素敵な事だと思います。人間が生きて行く上では現実とは離れられないとは思うんですけれど、現実と向き合いながらも心の中ではずっと夢を追い続けている人って、女性から見ても魅力的だと私は思います。私はお会いしたことは無いけれど、きっと由紀江さんという方も不安や寂しさは感じながらも、心のどこかでは田村さんのような生き方に何かの魅力を感じているのではないかと思うんです。お話を聞いていると、その由紀江さんっていう方はとっても良い人みたいだから、きっと心の中では田村さんの気持ちを理解しているんだと思いますよ。ただ、まだ気持ちの整理がつかないのかもしれませんよね。私は、田村さんは自分の夢に向かって進んでいったとしても、いずれはきっと由紀江さんと解りあえるようになると思いますよ」
志津がそう言い終えると、黙って聞いていた美奈子が周りの客に気を遣いながら小さく拍手をした。
「私達としては同じ女性として、由紀江さんの気持ちは痛いほど良くわかるし、かといって田村さんのようにいつまでも夢を無くさない生き方も大切だと思うわ」
「美奈子ちゃんもいいこと言うじゃないか。あとは当事者同士が良く話し合って理解し合う事が解決の道かな」
木村のこの言葉に皆が頷いたところでこの話題は自然にまとまった。
柾年は皆と別れて自分の部屋に戻って一息つくと、さっきの志津の言葉が思い出された。思いつきで軽々しい事を言うようには思えなかった志津の言葉だけに、ある意味では女性としての本心であろうと思われたが、由紀江もまた志津や美奈子と同じような考えをするとは限らないのだ。この二年間で由紀江のことを理解し、また由紀江にも自分の事を理解してもらっているとばかり思い込んでいた柾年であったが、ここへ来て、実はお互いに解りあってはいなかった、それぞれの心の世界があることを思い知るような気がした。
小樽の記事の原稿ができた後、亀村からの連絡は暫く無かった。自分が書いた記事の評判は気にはなったが、もう提出してしまった以上は返事が来るのをじっと待つしかなかった。亀村からの返事と次の正式の依頼が無いということは、その間は柾年としても由紀江に対して余計な気遣いをする必要が無かったし、二人の間に余計な波風が立つことも無い訳であるから、それはそれで良いような気もした。
最近は由紀江と会うのは、土曜日か日曜日というのがお互いの暗黙の了解のようになっていた。もちろん仕事の行き違いなどによっては必ず毎週会うということでもなかったが。 いつもは柾年の方から連絡する事が多かったが、昨夜は由紀江と会うことが何とはなしに気乗りがしないので、連絡をしないままでいたところ、由紀江のほうから誘いのメールがあった。
土曜日の藻岩山山頂は観光バスやマイカーが集まっていて賑やかだった。青空は美しく札幌の街越しの石狩平野の眺めは視界が開けていた。由紀江の機嫌もまた悪くはなさそうであった。それが最近亀村から取材の依頼が来ていない事を知っている為であったとしても、柾年にはそれでも良かった。
「いい眺めね、視野が広がるっていうのはこういう事を言うのね。目先の小さい事にとらわれて生きていては駄目だって事なのね」
由紀江のその言葉は柾年に向けられたというよりも、むしろ由紀江が自分自身に言い聞かせているかのような、どこか内にこもったような響きがあった。小声での由紀江の言葉になんと反応していいものか思いつかない柾年は、聞こえなかった風で、遥かに見えている大雪の山並みの方へ視線を向けたまま黙っていたが、心の中では由紀江の言った言葉がこだまのように繰り返されていた。
十代の頃には高台に上って、こうして遠くの景色を眺めるのが好きだったことを思い出していた。柾年がよく訪れた札幌市内を見渡せる高台は、この藻岩山にしても、円山にしてもまた旭山公園にしても市の南西から市内を見下ろす位置関係にあったから、札幌市内の頭越しに遥かに見える広大な景色はいつも北向きの眺めであり、大雪連邦や天塩山地のその先にあるのは今は異国となっているサハリンであり、北極海へと続くオホーツクの北の海の方角だった。
今目の前に見えている同じ風景を眺めていながらも、十代の頃の柾年の心に熱い憧れを抱かせていたのは、実際には正反対の南西方向に位置する本州に対する想いであったのだが、北海道を離れて大きな海を越えたいという気持ちを持ち続けるのには、見えている方角はどちらでも良かったのかもしれなかった。そんな昔の心情を思い返してみる時には、すぐ横に居る由紀江の存在さえも一瞬意識の中から消えたような感覚にも陥った。近くで楽しそうに笑顔で話すカップル達の姿を見ていると、こうして一緒に居る間でさえ、お互いの気持ちを推し量ろうとし合うようになっている今の自分達の姿が一層不自然なものに思えた。それでも他人から見たら仲の良いカップルに見えるのかもしれないと思うと、お互いに少しのわだかまりはあっても、あえて二人の仲に波風を立てずにいられるならば、それはそれでもいいような気が柾年にはしてきた。
「ねえ、やっぱり札幌の街は大きいわね。この眺めに比べたら函館山からの眺めは庭みたいなものね」
率直な感想の表現のように明るい由紀江のもの言いは、高校生のそれのように柾年には聞こえた。
由紀江の出身は函館であり、高校卒業までを函館で過ごしていた。
「札幌も大きくなったよな。僕が小学校の頃なんかもっと小さい街だったのに、オリンピックなんかを経ながら大都会へと姿を変えて来たんだろうな」
「私は札幌オリンピックの記憶ってあまり無いのよ」
「そうだろう、まだ生まれたばかりだったろうから、一九七二年だからな」
「札幌に住んでいた人達は喜んだのでしょうね」
「そうだな。札幌に世界中の人達が集まって来て、子供心にも夢を見ているような気分だったよ、いい時代だったのかな。」
柾年にとっても、自分が住んでいる札幌の街以外の様々な文化に触れて、心の目を大きく開かれたのは、札幌のオリンピックとその二年前の大阪の万博のおかげであったような気がするのであった。
「私も札幌の街を見て大きいなって思っているんだから、きっとまだまだ視野が狭いのね。井の中の蛙なのよね」
思いもよらない由紀江の言葉を聞いて柾年は由紀江の方改めて見たが、涼しげな横顔からは、由紀江がその言葉に何かの意図を含ませているようには見えなかった。
「どうしたんだい急に」
「少し広い視野で見ていかないといけないかなって思っただけよ」
「そう」
軽く相槌を打ちながらも、やはり柾年には由紀江の真意は測りかねていた。
数日後、待っていた亀村からの連絡がやっと有った。
「前回の小樽の特集はなかなか評判が良かったぞ」
「そうか、それは良かった」
正直なところでは、最近の由紀江とのぎこちない関係を解消するためにも、自分の書いた記事の評判があまり良くなくて、今回で打ち切るというような通告があることを少しは期待しているようなところも無いわけではなかったが、評判が良いと言われるとやはり素直に嬉しかった。
「それで次なんだが、君はどこへ行きたい、もちろん今のところは道内限定だが」
気のせいか亀村の様子も心なしか嬉しそうであった。
「俺が決めてもいいのか?」
「ああ、自分で決めたほうがやり甲斐もあるだろう」
「そりゃそうだ。そうだな、どこでもいいなら次の希望地は函館だな」
子供の頃に訪れたことはあったが、その後は旅行といえば本州を目的地とすることが多くなり、結果として函館の街は、柾年にとっては連絡船に乗るために通過するだけの街のようになった時期があり、その後東京から札幌に戻ってきてからも未だ一度も訪れてはいなかった。そんな理由からも、観光都市として新たな発展を目指している最近の函館の街には興味を持っていたし、由紀江の育った街をゆっくり見てみたいという思いも常々あったから丁度良い機会でもあった。
「函館か、最近は本州からの観光客にも人気が有るから面白いな。よし、会議の時に話して見るよ」
どうやら亀村も賛成らしく、話はすぐにまとまった。
程なく亀村から正式に返事が来ると、柾年は目前に迫っていた九月の連休をその日に当てた。出発まではそんなに間は無かったが、夏の観光シーズンとは違ってホテルの空室も結構有った。由紀江には隠し事はしたくはなかったので函館へ行く事だけは告げた。予想通り由紀江の反応はあまり良いものではなかったが、柾年としても今更やめるつもりも無かった。結局その後は出発までの間、お互いに会うことの無いままであった。
出発直前までは由紀江の心中を考えると何か重苦しい感じがあったが、函館へ向かう特急電車が動き出し、札幌駅のホームを離れると共に柾年の気持ちも仕事の為だと割り切れた。
同じ女性同士として、自分よりもずっと由紀江の気持ちが解るであろう美奈子や志津達が言っていた言葉を思い出す時、自分の心の声に素直になって生きていたとしても、いつかは由紀江にも理解してもらえる時が来るようなそんな前向きな気持ちにもなれそうであった。
大沼公園を通過して函館の街が近づくにつれて、柾年は昔の友人と久し振りに再会する時のような、期待と緊張感の入り混じった感覚を覚え始めていた。同じ北海道内でありながら、柾年がこうして函館を訪れるのは実に久し振りであり、過去の函館の思い出といえば、やはり青函連絡船の旅と関係するどこか郷愁を感じるような思い出が殆どであったから尚更であった。
午前十時過ぎに、高速で快適になった特急スーパー北斗が静かに函館駅のホームに停車した。昔の記憶に残る、潮の香りのしていた歴史のある函館の駅舎はもう無く、すっかり現代風に姿を変えた「ニュー函館駅」とでも言うような新しい建物がそこにはあった。以前のような連絡船の街から観光の街へと姿を変えつつある函館の姿を柾年は感じた。
駅を出た柾年は、迷うことなくメモリアルシップとして保存されている「摩周丸」の方へと向かった。今回の旅の中での柾年が個人的に一番尋ねたかった場所は実はここであった。昔のような駅のホームから桟橋まで直接続く長い渡り廊下は姿を消していたが、久し振りで見上げる連絡船の姿は感慨深いものがあった。内部は観光用に改装されているとは言え、デッキの辺りの雰囲気は昔のままであった。
子供の頃の柾年の目には堂々とした青函連絡船の姿は記憶に残る勇姿として映っていたものであったが、おそらくは近代的な大型の長距離フェリーを見慣れた現代の若者の目線で眺める時には、だだの時代遅れの老朽化した船としか映らないのだろうと思う時、時代が移り変わっていくと言う事はこういうことなのだなという実感が柾年の心を占めた。人の姿の無いデッキに一人で佇んでいると、連絡船にまつわる沢山の思い出が心に浮かんでは次々と消えていった。中学の頃の友人との東北の旅や、青森のねぶた祭りを見てそのまま真夜中の連絡船でトンボ帰りしたことや、高校の修学旅行など、柾年の青少年時代には旅と言えばこの青函連絡船がいつも身近にあったものであった。
そして最も鮮明に記憶に残っているのは、心に感じる感情を抑えられずに衝動的に東京へと向かった十九歳の時の事と、数年後に挫折感をかみ締めながら今度は青森から函館へ向かう連絡船に乗った時の事であった。今でこそ冷めた思いで振り返られるが、十代のあの頃には、札幌以外のどこか他の場所には自分の夢を実現できる素敵な場所があるに違いないというあさはかな思いが、いつも心を離れなかったものであった。そんな時には青函連絡船は、自力では決して越えることの出来ない津軽海峡を、夢へと向けて渡らせてくれる素敵な乗り物として柾年の目には映っていたものであった。
どこかに素敵な場所があると信じていたあの頃と、諦めも含めて現実を受け入れる年齢になった今と、どちらが幸せなのかという、きっと多くの人が考えるのかもしれない問いを、連絡船のデッキから桟橋を見下ろしながら柾年も考えた。出港を告げる哀愁を帯びた独特のドラの響きや、手に手に色とりどりの紙テープを持ちながらいつまでも手を振っていた、桟橋にいた沢山の人の思い出の中の姿が柾年の心に浮かんできたが、今は使われなくなった桟橋には一人の姿も無かった。この青函連絡船そのものが時代の流れの中で静かに忘れ去られようとしているようで少し寂しい思いもした。
その日は函館のホテルを予約していたのだが、柾年にはこの旅の目的地として訪ねたい場所がもう一つあった。今回柾年が函館を行き先に選んだ理由もそこにもあったのだ。あちこち動くには電車だけでは不便なところもあるので駅前でレンタカーを借りると松前国道と呼ばれている国道へ向かった。その道は津軽海峡に接した海岸線に沿って続いていた。江戸時代から港町として開かれていた函館と更に古い歴史のある松前とを結ぶ道は、昔から多くの人達が往き来していたと思う時、感慨深いものがあった。木古内町の少し手前の国道からすぐのところに柾年が是非訪ねたいと思っていた寺はあった。
辺りの地形はなだらかな山が海近くまで迫っていて海と山の間の細長い土地を鉄道と国道が通り、それに沿うようにして家々が並んでいた。その住宅地の中央付近にかなり広い敷地を占めて寺は建てられていた。おそらくは江戸時代の終わり頃に最初に寺が建てられ、その後に集落が出来たものか、先に集落が形作られ、後から必要に応じて寺が建てられたものかは知る由もなかった。そこにある寺の本堂は建て替えられたらしく、さほど古いものには見えなかった。あらかじめ訪ねる事は連絡してあったので話は早かった。迎えてくれた住職はかなりの高齢のように見えた。
柾年がこの古寺を訪ねた理由は、自分自身のルーツ探しのためであった。除籍謄本から江戸時代の終わり頃から何代かに渡って自分の先祖達がこの場所で生活をし、葬祭などの時にはこの寺で世話になっていた事は分っていたのだが、更に詳しいことを知りたいと思って訪ねて来たのであった。それはもちろん最近のルーツ探しのブームの影響もあったのだが、柾年自身も三十の半ばを迎える年齢になってみると先祖から続いてきた田村の家の名前を誰が受け継いで行くのかということについても、自然と気に掛りだしたのであった。柾年の兄弟は姉の佐和子一人であったし、知り得る限りの親戚の中では、同じ田村の姓を名乗っている者は一人もいなかった。祖父が札幌に建てたという墓についても、毎年の盆の時期になっても、普段は見かけない親戚が参ってくるという様子もまだ一度も見たことが無かったから、遠い親戚がある様子でもないようであった。
時折そんな事も考えるようになってから気が付いたのは、姉の佐和子も既に嫁に行って名前が変わっている以上、現在ある田村の墓を見守って行くのは自分しかいないのではないのかという事であった。もしそうだとするなら、自分もまた結婚をして、自分の後の田村の墓を引き継いで見守っていく子孫をこの世に残してゆかなければならないのではないのかということにもなりそうな気がするのであった。もちろんこれも他に同じ姓を名乗る親戚がいないことが前提となるわけではあるのだが。
札幌にある墓が昭和の三十年代に建てられたものであることは刻まれた墓誌から分っていたが、だとすれば除籍謄本に記載された、明治の初期の頃から昭和の初めにかけての時期に存在していたはずの田村の家系の墓が、この木古内に存在していることが考えられた。柾年の気持ちの中では、田村の姓を名乗り続けて家や墓を代々継いでいる本家のような親戚がこの土地にいるのならば探したいという思いが次第に強くなって来ていた。結婚が縁結びだとするなら、あるいは自分には今後も縁がないということだって考えられるのだ。たとえ縁があったとしても、これもまた自分の意思ではどうにもならない授かりものである跡継ぎの子供が出来るかどうかということも確証は持てなかった。仮にそういった親戚がいてくれたなら、たとえ自分が縁が無くてこの先ずっと一人でいたとしても、先祖達を悲しませる結果にならずに済むだろうという思いもあって、是非確かめてみたい事であったのだ。
人の良さそうな随分と高齢な住職は奥の部屋から明治の初めの年号の入った古い帳面を何冊も持ってきて、ずっとページをめくっては柾年の探している先祖達の名前を一人一人見つけ出してくれた。
「田村さんと言う名前はたくさんあるのだが、その子孫が現在この辺りに住んでいるという話は聞かないな」
住職が言うように確かに過去帳の中には先祖達の名前はあるのに、この辺りに子孫がいないというのは意外ではあった。
「ではその頃の墓は今はどうなっているのですかね」
柾年は特別信心深い訳ではなかったのだが、昔からの田村の名の付いた墓が存在していながら、今では見守る人が無くなり、無縁墓となっているのだとしたらさすがにいい気持ちはしなかった。
「ここでははっきりしたことは解らないから実際に行ってみたらいい」
「じゃあ、私が案内するわ」
側で話を聞いていた中年の女性が立ち上がった。
昔からのその土地の共有の墓地は車で十分ほどの山の麓にあった。都会ではもう見ることの無くなった卒塔婆が倒れかかっていたり、三十基程の苔むした墓石が並ぶ様子はまるで映画の一シーンのようにも見えた。数十年に渡って変わらないかのようにしっとりと重苦しく感じられたその場所の空気も、さほどの違和感を感じなかったし、むしろ寺で見た過去帳の中に名を連ねていた曽祖父や、更に繋がる何人もの自分自身の身近な先祖達にようやく巡り会えたような不思議なあたたかささえも感じた。
「ここが昔からの墓地よ、昔からの墓があるとしたらここね」
女性の言葉に促されるようにして柾年は墓地の中に入って行った。行儀良く四列に並んだ墓石の間を縫うようにしながら柾年と女性は、過去帳から見つけ出した先祖達の名前と刻まれた墓誌名とを照らし合わせながら、一つ一つの墓を丁寧に見て回った。中には新しい墓石もいくつかあったが、その多くは長い間風雨にさらされてきた事を物語るかのように黒ずんでいた。磨り減って消えかけた文字で「嘉永」と刻まれたものもあり、この場所に激動の江戸時代の末期から確かに人の営みがあり、田村の先祖達もその中の一員であった事を強く感じさせた。柾年と女性は一つ一つの墓誌名を丹念に見て回ったが、やはり過去帳と一致する名前は見つからなかった。
「やっぱりここには無いみたいね。土地の人も、あなたのお爺さんが、ここに有った田村さんの墓をきちんとした手続きを踏んだ上で札幌に移転したはずだと言っていたからおそらく間違いは無いと思うわ」
「そうですか、それならそれでいいのですが。私としては昔からの田村の墓が今は守る人がいなくなって荒れていることが心配だったので、そうでないという事が解ればそれでいいのです」
自分の先祖が葬られた墓が、きちんとした仏法の手続きを踏んで札幌へ移転している事が分って、柾年は肩の荷が降りたようで安心できた。と同時に他に田村の名前を受け継いで、現在札幌にある墓に折々に参って来ている親戚の存在についても聞いた事が無かったので、この場所に親戚筋が残っていないとするならば、今後田村の名前とあの墓を見守って行くのは、もう自分しかいないのだという現実を知ったという事でもあった。
案内してくれた女性に丁寧に礼を述べると柾年は再びホテルを予約してある函館へ向かった。夜になってから様子の解らない函館の街を出歩くつもりは無かったので、日暮れと共に駅前のビジネスホテルにチェクインした。早朝からの疲れが一度に出てきたかのような疲労感を感じていたが、心は不思議と満たされたような感覚を覚えていた。それは木古内町で山麓の墓地を訪ねた時からずっと続いていたような気もした。長い間待っていた出会いをようやく果たせたような感慨深さが改めて感じられた。その理由を頭の中ではなく感覚的に思う時、多くの田村の先祖達が、今日の自分の来訪をずっと心待ちにしていたかのような思いも強く感じた。
柾年がゆったりとした気分で、三階の窓から見えている薄暮の函館の空をぼんやり眺めながら、日常を離れて全く異質の空間の中に身を置いている心境に浸っていると、思いがけず携帯の呼び出し音が鳴った。日常を思い起こさせる電子音は、軽い緊張感と共に柾年の意識を昨日までの日常に引き戻した。
何か急用があったとしてもすぐには札幌には戻れないという軽い危機感を感じながら、柾年はテーブルの上に置かれた携帯を手にした。表示された着信は由紀江からであった。
「柾年さん私よ。今、函館なんでしょ。どこに泊まっているの?」
連絡が由紀江からと分って少し安心した柾年は、問われるままに自分が泊まっているホテルの名前を告げた。
「ああ、駅前ね。で函館の様子はいかが?」
出発前には少し気まずくなっていたはずなのに、電話の向こうの由紀江は何故か機嫌が良さそうであった。
「天気も良いし久し振りの函館は楽しいよ」
「明日はどうするの?」
「少し街の中を見て夕方には帰るつもりだよ」
「そう、じゃあまたね」
わざわざ予定を尋ねておいた割には素っ気無い由紀江の態度であったから、やはりまだ函館に来ている事にこだわりを持っているように柾年は感じた。
翌朝は夜が明ける前に目が覚めた。普段でも休日には早く目が覚めるのであったが、この日も例外ではなかった。自販機でコーヒーを買って静かなホテルのロビーで寛いでいると、少しづつ空は白み始めていた。旅先の宿で早起きして、静かな時間の中で旅情を感じる時間が柾年は好きだった。人通リの少ない早朝の街は観光用の顔ではなく、化粧をする前の女性のような素顔を垣間見せてくれる事も多く、朝の街を歩いてみる事も旅の楽しみであった。
借りたままのレンタカーに乗ると地図で確認しながら、津軽海峡に突き出した立待岬へと向かった。岬を示す標識に従って進むうち次第に道は狭くなり、いつしかまだ薄暗い墓地の中の細道を通過していた。道を間違えたのではないかと思うような異空間の先に、津軽海峡に突き出た立待岬はあった。岬から見る朝日は少し高くなりつつあったが、オレンジ色の輝きをきらきらと海面に反射して美しかった。自然の断崖絶壁の景観を眺めているとここが函館の市街地からすぐ間近であることを忘れそうであったし、途中に墓地の地域を挟んでいるということで、ここが市街地とはかけ離れた異空間であるかのような錯覚を感じさせた。海の見える場所に墓地が存在しているという点は、函館という街の個性と歴史の古さを如実に現しているように柾年には感じられた。
それぞれの土地の風土によって海にも違いがあることであろうが、若い頃の柾年にとって目の前に広がる津軽海峡の海は、その先にある、何かしらの魅惑を感じる未知の土地に対する強い憧れの前に立ちはだかる激流のようにも思えていたものであったが、さまざまな挫折や苦しみをも経てきた今では、そんな津軽海峡に対しても穏やかな親近感を感じることもできた。それは同時に、自分自身の心の中から以前のような何かがむしゃらに目標に向かっていこうとするエネルギーが失われつつある事を知るという、残念な事でもあった。
車に戻って、元来た道を帰ろうと思っていると携帯が鳴った。早朝からの連絡は由紀江か亀村だろうだろうと想像できたが、やはり由紀江からだった。
「お早う、今どこにいるの?」
昨夜と同じで何故か機嫌の良さそうな由紀江の様子を柾年は少しいぶかしく思った。
「ここは立待岬だよ。朝日が綺麗だよ」
「そう、立待岬なの。これからどこへ行くの?」
「そうだな、元町の方を歩いてきるつもりだけど」
「丁度良かった、私が案内してあげるから函館山のロープウェイの駅まで迎えに来てくれないかしら」
「ロープウェイだって」
柾年は驚いて思わず大きな声になった。
「今札幌にいるんじゃあないのかい」
「私は今函館にいるのよ」
「なんでこんな所にいるんだい」
「私の故郷だもの、たまには帰ってくる事だってあるわよ」
そう言われれば確かにそうであった。
朝の元町の辺りは柾年が予想していたよりも人の姿は少なく、心地良い静けさがあった。時折ツアーの団体旅行のグループと行き違ったが、静けさと地元の人の清掃の行き届いた気持ち良い街の景観をゆっくりと楽しんでいるように見えた。
「なかなか雰囲気のいい町並みだね。さすがは観光地になるだけのことはあるな」
「そうね、私にとってはこの街は日常生活の場所だったのだけれど、いつの間にかすっかり観光地になってしまったわ」
「不満なのかい」
「そうじゃないけど、あんまり観光地向きに姿を変えると生活の匂いがしなくなって、住み難くなっていくような気がする」
柾年にも由紀江の気持ちは解るような気がした。外から観光客が沢山訪れてくれることによって街は活性化し続けるかもしれないが、反面で、自分が子供時代を過ごした生活の匂いの漂う温かさが、知らず知らずのうちに失われていくのではないかという不安を感じる時があるのだろうと思う。北海道の中では古い歴史を持ち、独特の雰囲気を醸し出しているこの函館の街が故郷である由紀江にとっては、そんな思いもより強いのかもしれないと思った。
日中の函館山の山頂は、観光客の姿もまばらで静かに心ゆくまで函館の街を眺める事ができた。少しかすみがかったような天候であったが、それはそれで風情があるようにも思えた。最近では美しく撮影された輝く夜景の写真を見慣れたせいか、ごく自然な昼間の眺めもかえって飾り気のない新鮮さを感じさせてくれているようであった。
「ほら、あそこに摩周丸が見えているわ」
「あそこから連絡船が海峡へ向かったということだな」
「もう昔の話になっちゃったわね」
「そうだな、あの頃は大きくて堂々として見えていた連絡船だったけれど、今はその二倍の大きさのフェリーが当たり前になってしまったからな、世の中変わったよな」
柾年の心の中では、かつて自分の夢を乗せて津軽海峡を渡らせてくれる夢の架け橋のようにも感じていた青函連絡船が、時の流れの中で姿を変えていったように、いつか自分の心の中にあった熱かった想いも年齢と共に次第に失われつつあるかのような諦めにも似た冷めた気持ちを、ふとした時に感じるようになった自分のことを少し寂しく思う想いが湧いてきた。
確かに今の柾年の心の中では以前のように本州に対する強い憧れは薄れていた。それは年齢を重ねた事と、また高度な情報社会のおかげで、瞬時にして自分が知りたい土地の情報を知ることができるようになったために、未知の土地に対する憧れが薄くなったためである事は容易に想像がついた。
「外人墓地って行って見たいな」
以前からその名前だけは聞いていたその場所は、記事を書くためにもやはり行って見たかった。
「行くのはいいけれど、何にも無いわよ。ただの小さな墓地があるだけ」
いかにも興味のなさそうな由紀江の言い方を聞くと、限られた時間の中で足を伸ばす事が少しためらわれたが、その「外人墓地」という改まった言い方に柾年は何か心惹かれるものを感じていた。
由紀江に案内されて訪れたその場所は、車同士が対向するのが難しい道幅の狭い路地の途中にあった。周りの墓地の中に溶け込んでいて、良く見ないと通り過ぎてしまいそうなたたずまいであり、確かに由紀江の言っていたように十字架の墓標の他には何もなかった。ガイドブックには観光地らしく記述がされていたが、やはりその特殊さからか訪れている人の姿は誰もいなかった。白いフェンスに囲まれて海に向かって建てられた墓標群は、故国を思い続けたのであろう墓の主の深い思いを無言のうちに物語っているようで、なんだか柾年も物悲しい気分になってきた。由紀江も同じような思いらしく、柾年の視線に気付いて向き直った無言の表情は、はやはり物悲しさを感じているように柾年には思えた。
「何か哀愁を感じるね」
柾年は率直な感想を言った。
「そうね。私達も高校生の頃には、異国で死ぬ気持ちってどんなだろうって友達と話したことがあったわ」
洋風の白いフェンスの外にはいつ頃誰が建てたものか分らなかったが、比較的新しそうなピンク色の前掛けをかけた数体の日本風のお地蔵さんが、異国人の墓地を守るかのように並んでいた。そこには国籍にこだわらずに死者を悼む人間らしい本質を見たようで、柾年はなんだか安堵感を感じた。足早ではあったが柾年達は次には湯の川の奥にあるトラピスチヌ修道院に向かった。
柾年はまだ小学生だった頃に一度ここを訪ねた事があったが、三十年経った今再び訪れてみてどんな感想を持つのかという事には自分の事ながら関心があった。門を入ると殆ど一目で、一般人が立ち入れる範囲は見渡すことが出来た。子供の時にはかなり広い敷地のように思えたものであったが、今となってはさほどでもないように思えた。観光用に刈り整えられた植え込みと、綺麗ではあるが生活感の漂わない、見るからに質素な風情の石段が目に付いた。生命ある植え込みの木を使いながらも、意図的に無機質にみせているような様子は、ここを訪れた人達との間に確実に一線を画そうという修道女達の無言の強い意志の現れのように柾年には感じられた。その風情は昔の禅寺の枯山水の庭造りの心にも通じるものがあるようにも思えた。
「とっても綺麗なたたずまいだけど、厳しさのようなものを感じるな」
「そうかしら、私には心が洗われるような爽快な気持ちがするけれど」
由紀江の感じ方は柾年のそれとは少し違うようであった。
「ここで暮らしている人達は幸せなのだろうか」
「さあ、どうなんでしょうね。でもきっと幸せだと思えるから続けられているんでしょう」
もっともな由紀江の答えだった。
「私も俗世間を離れた清らかな暮らしに憧れたこともあったわ、もうずっと昔の事だけどもね、今ではすっかり俗世間に浸ってしまって二度とこのような隔絶された生活は出来ないけれどもね」
「そうだな、普通の人とは全く次元の違う生き方なのだろう。信仰を心の中心としていたら価値観も全く違ってくるだろうからな」
「そうね、生き方も様々でもいいということね」
殆ど飾り気のない質素なレンガ造りの建物を見上げながら、由紀江はしみじみとそう言った。由紀江と中で生活している修道女達の間には、同じ女同士にしか解らない感性の働きがあるのかと柾年は想像した。その日の曇り空のせいか、訪れている人のまばらなせいなのかもしれなかったが、修道院全体の空気は人の気配さえ感じないくらいに静かなものに柾年には感じられた。そんな中でも唯一人の賑わいがあったのは敷地内に建てられた売店の辺りであった。カードに書かれた一枚一枚異なった短い聖書の一節のような言葉は心に染み入るようで、柾年の目に留まった。由紀江も何かを感じているらしく無言で見入っているようであった。
久し振りで訪れた函館の街は柾年の心に期待以上に訴えかけるものがあった。それは歴史の重さであり、街のいたる所に漂う、江戸の昔から時間が止まったかのような異国情緒であり、古いものを守りながら観光都市へと姿を変ようとする変革のエネルギーであるのかもしれなかった。
レンタカーを返却して、札幌へ帰る電車へ乗るために二人は駅前へ戻ったが発車時刻までには少し時間があった。すると何かを思いついたらしい由紀江は柾年を促して駅舎の外へ出た。
「時間までにちょっと見せたい場所があるのよ、いいでしょ」
思いがけず真剣そうな由紀江の表情を見ると、柾年もさして理由も尋ねることもなく頷いていた。由紀江に連れて行かれたのは駅前から少し歩いた中小路に面した一画で、再開発の為にか新しいビルの建設が始まっている場所であった。そこで立ち止まった由紀江はいつになく真顔で言った。
「この辺りはこの建設が始まる以前には、私のお爺さんお婆さんが旅館をやっていたの。もう十年位前にすっかり廃業してしまったけどね」
「そうだったのか」
柾年は初めて聞く話に驚きながら、由紀江が何を言いたいのかを見極めようとして由紀江の顔をまじまじと見つめた。柾年が少なからず話しに関心を示したにもかかわらず、由紀江はビルの工事現場を見つめたままそれ以上は何も言おうとしなかった。
札幌へ向かう電車が函館の街を離れようとする時には、かつて連絡船から乗り継いだ頃の感傷的な思いさえも蘇ってくるような気がして懐かしい気持ちになった。
「いい街だったな、函館は」
「いいでしょう」
柾年の言葉に由紀江は嬉しそうに答えた。
「以前は連絡船が着く港の町という印象が強かったけれど、すっかり観光都市に姿を変えたね。変革のエネルギーが街に満ちているような気がしたよ、さすがにいち早く外国に開かれた街だね」
「そうね、結構革新的な考えの人も多いわ。でもそんな中にいても私は保守的な人間になっちゃたけども」
由紀江は苦笑して見せた。
「君も自分では気が付いていないだけで、きっと革新的な資質を持っているのだろう」
「そうかしら、函館山が函館の街と北海道を守るように本州に背を向けているように、私も内向きに生きているのかもしれないわ」
その事については柾年もある意味では同感であったが、さすがに言葉にはできず、由紀江に微笑を向けた後は離れてゆく車窓の函館の街並みに視線を向けた。
「函館には昨日来たんでしょ、昨日はどこへ行っていたの?」
「昨日は木古内の方に行っていたんだ」
昨日の事もいつか由紀江に話そうとは思っていたのだが、こんなに早くに話す機会が、それも由紀江の方から話題にするとは思ってもいなかった。かえってよいきっかけができたと思った。
「函館にいたんじゃなかったの」
由紀江は少し驚いたような表情を見せた。
「僕のお爺さんやそれ以前の先祖が、長い間木古内の近くに住んでいたんだ。それで昔の墓がどうなっているのか確認しに行ってきたんだよ。もしも無縁墓になっていたらご先祖様に申し訳ないだろう」
「そうね、柾年さんって信心深い人だったものね」
感心したように由紀江はそう言った。
「信心深いというよりは、先祖達がどこからこの北海道に渡ってきたのかということを知りたかったからさ」
「それでわかったの?」
「残念ながらそこまでは分らなかったけれど、昔からの共同墓地にはわが家の墓はなかったから、墓は正規の手続きを踏んで札幌に移転されているらしい事が分ったから安心はしたよ」
「北海道の人達って開拓の為に入植してきた人達を先祖に持つんですものね」
「そうだ、江戸か明治の初めに津軽海峡を渡って北海道に来た訳だ。その時はどんな思いだったのかは解らないけれどもね。
昨日見てきた先祖達がずっと住みついていた場所と、晩年にお爺さんが住んだ太平洋岸の白老あたりの地形とが良く似ていたんだ。すぐ後ろになだらかな山が迫っていてそこを鉄道と道路が走っていて、反対側にはすぐ目の前に海が迫っているんだ。山と海に挟まれた狭い土地であり、それぞれ津軽海峡と太平洋を挟んでどちらも本州の方を向いているんだよ。そう思うとなんだかあの白老の海岸を終の棲家に選んだお爺さんの気持ちが少し解るような気がしたんだ。もともと先祖達は維新の動乱の為か何かの事情で本州に居られなくなって蝦夷地へ渡って来たのだろうから、もしかしたら無念な思いをもっていたかもしれない。お爺さんも曾お爺さんからそんな先祖の話を聞いていて、もう一度本州へ戻るという夢を持ち続けていたのかもしれないと思ったりもするよ。だから最後も海の見える場所に住みたかったのかなってね」
黙って聞いていた由紀江は、自分にもその気持ちは解ると言いたげな少し悲しそうな顔で頷いて見せた。
「柾年さんのお爺さんはきっともう一度本州へ行きたかったのかもしれないわね」
「ああ、その昔に北海道へ移住してきた先代達の気持ちを感じていたのかもしれない。もしくは自分が夢破れて引き揚げてきた満州の方を見つめていたのかもしれない」
「そうだったの、満州にいたのお爺さんは」
「戦争の頃には移住して、あちらで何か事業をしていたらしいよ」
由紀江は、目の前にいる柾年の中には、そういった先人達の現状に満足しない開拓の想いが受け継がれているのであろう事を改めて感じていたが、それを言葉に出す事は、自分でもその事実を受け入れてしまうという意思表示をしてしまうかのように思えてためらわれた。だがその強い思いは別の言葉になって思わず口に出てしまった。
「北海道に住んでいる人はどうしても本州に憧れを持ってしまうものなのかしらね」
柾年はそれが自分に向けられた皮肉を含んだ言葉のようにも思えたが、由紀江の気持ちを悪くは取るのはやめた。
「江戸時代にも明治維新の頃にもそして終戦後も、人々は北海道に新天地を求めて、あるいは追われるようにして入植してはみたものの、やはり北海道の現実はかなり厳しかったのだろうな。そんな時には暖かい南を懐かしんでいたのじゃあないのかい」
「そうね、冬の間の厳しさだけでも暖かい地方から来た人達にとっては想像以上だったのでしょうね」
車窓からすぐ近くに見えている海岸線の眺めは、かつての木古内の地から眼前に広がる津軽海峡を見ながら感じていたのであろう先人達の望郷の思いを、柾年の心にも再び思い起こさせた。そして交通が発達した現代においても、人の心の中に本州との境界線を引くかのように横たわる津軽海峡の存在感を、より一層強く感じさせた。飛行機や大きな船の無い時代の人達の目には、この広い海峡の姿はどのように映っていたことかと思うと、胸が苦しいような思いさえしてくるのであった。由紀江もまた何かを考えているようで、車窓の内浦湾の北海道の海岸にしては穏やかな風景に目をやっていた。
「君のお爺さんのやっていた旅館には、どんな人が泊まっていたんだい?」
柾年としては由紀江のお爺さんの事から、昔の函館の様子を知りたいと思ったのであった。
「あの頃の函館駅前は青函連絡船に乗る人や連絡船で渡って来た人達が多かったと聞いているわ。私もよく泊まりに行ったわ」
「君も昔の函館の様子を知っているんだな」
「まあ、自分の生まれ育った街だから。でもなんだか少し寂しい街だなとずっと思っていて、いつかは出て行きたいと思っていたわ」
何事にも不満などあまり感じずに日々を送っている、どちらかといえば保守的な考えの強いと思っていた由紀江の口から変化を望むような言葉が出てきた事は柾年にとっては意外であった。
「君も僕と同じような事を考えていた頃もあったんだな」
「私だってそれくらいは考えていたわよ」
由紀江はさも当然と言いたげな顔を見せた。
「函館の街は、今は観光都市になっているけれど、以前だって連絡船が着く街としてけっこう賑やかだったんじゃないのかい。寂しい街という事はないんじゃないのかい」
柾年には、由紀江が言った、函館の街が寂しいと言った意味がよく解らなかった。
「そうね」
由紀江は少し言葉を探すように黙った。
「私が感じていた寂しさっていうのは人の多さではなくって、街に漂っていた空気のようなものなのよ」
「空気って?」
確かに以前の柾年は、連絡船に乗る為に便宜上函館の街を通り過ぎる事はあっても、その日常の中に浸って街の空気をじかに身近に感じた事はなかった。由紀江の言った「寂しい」という表現は、生活者としてそこに存在していた者だけが感じうる本質的な部分を語っているのかもしれないと思う時、華やかな観光都市のイメージに覆われた函館の街が、その長い歴史上に蓄積してきた数々の哀しみを垣間見たような思いがしてきた。
やがて由紀江は言葉の整理がついたらしくまた話し始めた。
「お爺さんの旅館に泊まる人の中には本州へ向かってゆく人もいれば、反対に北海道に渡ってきた人もいた。理由も様々で新天地に希望を持っている人もいれば、夢破れてどこかへ行く人もいた」
そこまで言うと由紀江は柾年のほうをチラッと見た。柾年も由紀江の最後のことばが胸に迫ったが、何のこだわりもないという意で表情を変えなかったのを見た由紀江は、安心したように続けた。
「時には別れの場面も見かけたわ。どんな事情があったのか子供心には分らなかったけれど、事情が理解できない分、別れていかなければならない人達の悲しそうな様子だけが、強烈な印象として心に残ってしまったという事もあるのかもしれない。あの頃は駅前や港の辺りには、別れの重たい空気が漂っているようであまり好きにはなれなかったものよ。そんな時思った事は、人は旅なんかしないで、いつまでも家族や友達と一緒に同じ場所で暮らしていけることが幸せなんだなという思いがし始めたのよ。それで今でもそんな思いが心に染み付いているのかもしれないわ」
今までならば少し重苦しいような思いで聞いていたかもしれない由紀江のこんな言葉も、実際に函館の風土に触れてきた後では、自分の中の感情とも重なるところがあってか余裕を持って聞く事ができた。
「以前は旅といってもまだ汽車を使う人も多かったから、連絡船にまつわる出来事や思い出がある人も多いだろうな」
「そうね、悲しい思い出もね」
「悲しいといえば、僕の爺さんの弟があの洞爺丸の台風で亡くなったって聞いたよ」
「私もお爺さんから話を聞いた事があったけど、七重浜の海岸には沢山の遺体が流れ着いたそうよ」
その話は柾年も記録映像で目にしたことがあった。自分が生まれるほんの十数年前にそんな大惨事があったことは、良く考えればかなりショッキングな出来事ではあった。漁船に比べてもかなり大きく堂々として見えていた青函連絡船が、遠洋ではなく日本の沿海でもある、ほんの四時間程の津軽海峡の航海の間に転覆してしまうとは誰も予想だにしなかったに違いないと思うと、人間の運命など本当に解らないものだとつくづく思えたし、本州と北海道を隔てる津軽海峡の、なかなか越えることのできない厳しい実態を心に刻み付けられるような過去の出来事でもあった。
「函館の街は戊辰戦争や大火、洞爺丸の事故や、そして連絡船の廃止など大きな出来事をいくつも乗り越えながら少しづつ姿を変えてきたのかな。もしかしたらそんな事情から来る哀愁のようなものが街全体に漂っているのかもしれないな」
「ええ、そうなのかもしれない。外形は常に変革を求められる街なのかもしれないわ」
ふっとため息をついた後に由紀江はそう言った。
「君はそんな変革の街の雰囲気を敏感に感じて早く街を出たかったのかな」
「そうかもしれない、変化を好まない私には、あまり合っていなかったのかもしれないわ」
柾年の問いかけに由紀江は素直にそう答えた。
亀村は自分のデスクに向かって柾年の書いた原稿を読みながら複雑な気持ちになりつつあった。前回の小樽の記事は、読み物としてはそれなりのできではあったが、文章自体少し硬い感じがして型にはまった観光ガイドという感じがしていたのだったが、今度の函館に関する記事は、函館の表にはでない市民達の小さな歴史とでも言うようなものがところどころに織り込まれていて、なかなか面白い内容に思えた。前回のものも編集会議ではまずまずの評価を得ていたから、今度の記事も合格点を取る事はほぼ間違いないものと思われた。その結果として、今後更に柾年への正式の仕事としての依頼が会社の方からなされる公算が大きくなる可能性が十分考えられた。もちろん友人としては、それはそれで喜ぶべき事だと思うのだが、自分が柾年にこの仕事を紹介してから行き違いが生じてきたのではないかと思われる柾年と由紀江の関係を考える時、このまま柾年にこの仕事を紹介し続けていいものかどうかという事に関しての迷いが起こり始めていた。どこか一途なところのある由紀江の少し寂しそうな表情が亀村の頭を離れない日が暫く続いた。
函館から戻って数日が経った頃、今度は由紀江が佐和子をお茶に誘った。由紀江としては前回のお返しの意味もあったし、最近気持ちが行き違っているように思えていた柾年とも、日常を離れた時間の中で久し振りにお互いに心を開いて本音同士で話ができたようで嬉しく思っていたから、そんないきさつを佐和子にも話したくなったという事もあった。珍しく由紀江からの誘いに少し驚きながらも佐和子は都合を合わせて快く応じた。
「この辺りも再開発がされて随分人の流れが多くなったわね」
二人が会ったのは札幌駅前だった。由紀江の思い出の中にもあったブルータイルの外壁だった以前の札幌駅の駅舎は姿を消して、ホテルやデパートなどが入った大きな総合商業施設が新しく建設され、大都会となった札幌を一望できる、見上げるような高いタワーも完成していた。建て替えの為に長い間見慣れた国鉄時代からの古い駅舎がすっかり取り壊された時には、何かの災害の後のような殺風景な様子に寂しささえ感じたものだったが、こうして新しい立派な駅舎が完成してみると以前にも増して、札幌の顔とも言うべきこの場所が好きになれそうな思いがしていた。但し佐和子の言うように人通りも多くなったようで、新しくできたカフェも結構混雑している様子で、ゆっくり話ができそうな席を探す為には何軒かの店を見て歩かねばならなかった。地下街の一画でようやく少し広いカフェを見つけたが、そこも殆ど満席の状態で人の話し声のざわめきの方が、店内にかかっているクラッシク音楽よりも大きく聞こえ来ていた。函館という地方都市で高校生までを過ごした由紀江にとっては、人の多く集まる場所はそれ程好きではなかったが、仕事や生活の他の面では何かと便利な札幌で暮らそうと思えば我慢しなければならない事であると諦めていた。そんな由紀江であったから、ここよりももっと喧騒のひどい東京で柾年が長い間暮らすことができなかった気持ちも理解ができた。
「私は未だに人の多さには慣れません」
「由紀江さん、私も同じよ。札幌も便利ではあるけれどちょっと一極集中しすぎよね」
由紀江はそう苦笑いする佐和子の笑顔につられて笑いながら、この佐和子とは仲良くやっていけそうな思いを改めて感じた。
「この間函館の実家に帰ったんですよ。丁度柾年さんも雑誌の記事の取材で函館に来ていて函館の街を案内しながらいろいろ話もできて良かったんですよ」
「それは良かったわ、実は二人の仲が最近どうなのかって心配していたのよ。どちらからもぜんぜん連絡が無いものだから」
「すいませんすっかりご無沙汰しちゃって。問題はないのですけれど、私の気持ちが少し不安なだけです」
「不安て何なのかしら?」
本当の姉を前にしているかのような佐和子の優しい眼差しに促されるように、由紀江は最近の二人の間のいきさつを佐和子に話した。
「亀村さんは私も良く知っているわ。小学校時代からの柾年の親友なのよ。きっと今でも二人で会った時には少年時代と同じような夢を話しているんでしょう、きっと」
「私もそんな気がしています。長く続く親友がいていいですよね」
それは由紀江の本心であった。自分では意識していなくても、年齢と共により現実的な考え方になっていってしまう女性達とは少し違う、いつまでもいつまでも諦めることなく、いつかかなうものと信じて子供の頃の夢を心に持ち続けられる男性の心持ちや、それを自分の心の中だけに収めておくのではなく、より現実的に話せる親友が存在しているという状況は羨ましくさえも思えていた。
「でもね、男はそれでいいかもしれないけれど、女には女としての現実があるわけでしょう、できれば男性のそんな思いも理解してあげたいけれど、やはり現実的な考えにならざるを得なわよね」
目の前にいる由紀江の心の内を見抜いたかのような佐和子の言葉に、由紀江は自分の心を見透かされているようで戸惑ったが、そんな表情の動きを、敏感な佐和子に悟られないように持ち上げたコーヒーカップに視線を落とした。そんな由紀江の微妙な心の動きを知ってか知らずか佐和子は言葉を続けた。
「弟も何かやろうとしているみたいだけど、やはり将来的に結婚しようと思うならきちんと現実もみていかないといけないんだけどね」
語尾にため息を含めながらの佐和子の言い方に、由紀江は女同士で通じ合える共通の感覚を感じて少し安堵を覚えたが、実の姉を目の前にしては、柾年の行動に対してはっきりとした否定も肯定もできなかった。
黙って上げた由紀江の視線の先に、変わらぬ優しさで自分の方を見つめる佐和子の視線があった。由紀江は初めて会った時から佐和子の穏やかで常識的でありながら、働く女性としての自信さえも感じさせる姿に引かれるものを感じていた。夢を話す柾年との付き合いの中で将来に不安を感じる事がある時でも、落ち着いた佐和子の様子を思い出すことによって、この人と姉弟なのだから、柾年も佐和子と同じような現実的な部分もきっと持っていると思うことによって安心するという事もあったのだ。そしていずれは柾年が、落ち着いた生活を望んで、自分のところへ戻って来てくれるようなそんな思いも浮かんで来るのであった。
佐和子と別れた由紀江はさしたるあてもないまま大通りの方へ駅前通りを歩いた。途中で何度か外国語を話すグル-プと行き違った。一目で外国人と解る西欧風のグループもあれば、信号待ちで聞きなれない言葉にふとそちらを見ると、外国人らしい姿が見当たらないという事もあった。暫くして再び聞こえてきた方を見ると外見は日本人と区別のつかない人が聞きなれない言葉を話していた。最近多くなってきた台湾か中国辺りからの旅行のグループらしかった。以前にはあまり見かけることの無かった風景であったが、世界の国境が低くなったと言われる象徴的な様子にも思えた。よく考えれば柾年が言っていたように、自分達の祖父母の時代には多くの日本人が海を渡って台湾や中国大陸や遠く南米まで夢を追って移住した事などを考える時、決して珍しい風景でもないのだろうという思いにもなった。同時にそういった未知の土地に渡った先人たちの勇気に感心する由紀江であった。そして柾年がこれ以上再び海を渡る事に憧れを膨らませない事を祈るような気持ちになった。
夕暮れの慌しい人の流れに乗るように、足早にススキノの辺りまで歩いてくると、人の歩くスピードも少し緩やかになったようであった。由紀江は、待ち合わせや入る店を選んでいる人で賑わいだしてきたススキノを中島公園の方へ向かって歩いた。夕暮れに一人でなんだか寂しい気がしてきた由紀江の足は、久しく訪れていなかった同人の事務所に向かっていた。懐かしいような古いビルの入り口から階段を登った二階の奥の一室がその場所であった。由紀江は一息つくと気を静めてインターホンを押した。一度目は何の反応も無かったが、もう一度押すとドアの向こうから暫く振りで聞く木村の声が聞こえた。
「開いているからどうぞ」
声に促されて由紀江はゆっくりとドアを開けた。すぐに玄関脇の流し場で洗い物をしていたらしい木村と目が合った。
「こんにちは、ご無沙汰しています」
「おうい由紀江さんか、本当に暫くだな。この間田村君も来て君の事を話して言ったばかりだよ」
由紀江の取り越し苦労をよそに木村は以前と同じ笑顔で迎えてくれた。
「そうだ、ちょっと待って。下のカフェに行こうや」
部屋の中に他に誰もいないことを気遣っての木村の言葉であったが、木村のそんな心配りは以前と何にも変わっていなかった。暫く振りで訪れた馴染みのカフェはアルバイトの女の子は以前とは変わってはいたが、店の雰囲気は全く変わった様子はなかった。
「ここは何にも変わっていないわね」
「よう、久し振りだね。たまには顔を出しなよ」
穏やかなマスターの言葉も変わらない事に由紀江は少し安心した。
「最近はあまり姿を見なかったけれどどうしていたんだい?」
普段は無口なマスターの思いやりのこもった言葉が由紀江は嬉しくもあり、たまには顔を出して挨拶くらいしておけば良かったかなという軽い後悔の気持ちも起きてきた。
「元気は元気だったんだけど、仕事にかまけて同人の方にもあまり顔を出さなくなっていたから、こちらも暫くご無沙汰だった訳」
「そうか、新しいメンバーも入ったみたいだよ」
マスターの言葉を受けて木村が続けた。
「最近は新しい子が挿絵を書いてくれているけれど、由紀江ちゃんとはタイプが違う絵を描くんだ」
「タイプが違うって私ってどんな絵のタイプなのかしら?」
「そうだな、由紀江ちゃんの絵はどこか透明感があって繊細な感じがしていたけれど、今の子はどちらかといえば子供受けしそうな可愛らしい感じの絵を描くかな。同人誌にしてはちょっと可愛い過ぎるかもしれないけれど、まあそれぞれの個性が出ているというところだろう」
「そう新しいメンバーが見つかって良かったわ、これでも少しは気に掛けていたんだから」
「美奈子ちゃんの紹介さ、後輩だといっていたな」
「まあ、美奈子ちゃんもまだ来ているのね」
由紀江の心には少し勝気だけれども整った顔立ちの美奈子の表情が懐かしく思い出された。
「美奈子ちゃん達もそろそろ来るんじゃないかな」
それから二十分ほどして木村の言葉通り仕事帰りの美奈子が現れた。
「やあ、久し振りね」
由紀江の姿を見つけた美奈子は満面の笑みを見せた。どちらかといえばおっとりしている由紀江とは性格は全く違ってはいたが、絵の上手かった由紀江の存在はある意味では美奈子にとっては憧れでもあり、目標でもあったのだった。
「今晩は美奈子ちゃん、ご無沙汰ね」
由紀江も以前と同じように明るく応じた。
「でも急にどうしちゃったの」
「何てこともないんだけど、自然に足がこちらに向いてしまったっていうところかしら」
突然の訪問を美奈子たちが驚くのも無理はないと思いながらも、由紀江にとっては、やはりはっきりした理由は無かったのだ。
「また戻って来てくれるんでしょう」
「ええ…」
由紀江は美奈子の問いかけに語尾を濁した。今は自分でもこれからどうしようかという事は何にも考えてはいなかったから、はっきりとした返事は期待を裏切ってしまうようでためらわれた。
「美奈子ちゃんそんなに次々尋ねられても由紀江さんだって困るさ、本人のしたいようにさせてあげようや」
「そうね」
木村の言葉に美奈子も同意した。後から来た美奈子の前にコーヒーカップが整えられる間は会話が途切れ、陶器のあたる小さな音が辺りに響いていた。
暫く振りで引け目を感じながらここへ来たのにもかかわらず、こうして皆が歓迎してくれるのは本当に嬉しかったが、今の自分の心のうちを思う時には、以前のような創作に対する真摯な思いが無くなってしまっていることに改めて気付かされているような思いがしてきていた。それぞれが夢を持って集まってきているはずのこの集まりに、夢を無くしかけていることにさえ気付いていなかった今の自分が参加する資格は無いような気がした。
自分の部屋に戻って一人になってみると、メンバー達や佐和子の言葉が改めて思い出された。メンバー達が以前と変わらず楽しそうにやっている様子を見て安心した部分もあるのは確かだったが、暫く時間が開いたとは言え、自分自身が仲間達の輪の中へすんなりと溶け込んでゆけなかったという違和感を由紀江は確実に感じていた。それがメンバー達の変化によるものなのか自分の問題なのかという事に視点が移った時に、店の中にいた間中感じていた居場所のないような違和感は、由紀江自身の、自分でも気付いていない自分自身の内面の変化によるものだろうという考えが必然的に強くなってきた。由紀江はメンバー一人一人の顔や以前に一緒に活動をしていた頃の柾年の表情も思い浮かべながら、その頃の自分自身の心のあり方を思い返してみた。まだ二十代で柾年と出会った頃には好きな絵を描いている時は楽しく、いつかは絵を描くことで生計を立てたいと本気で思う事もあったことも思い出した。
仕事に浸り日常を慌しく暮らしているうちに、いつしか目の前に次々現れる現実の問題を解決していく事で精一杯の暮らしになってしまっていたのではないのかという、客観的に自分を離れて見つめるような冷静な感覚も湧いてきていた。毎日を無難に終っていければそれでいいと思うような現実的な思いに自分の気持ちがなりきっていることにも程なく気付いた。ただ一人の人間として三十歳も過ぎると現実社会の一構成員としての立場や自覚も当然のように必要な事だと思え、自分がいつしか現実的な考え方になってきていることについても然程間違った方向に向かっているとも思えなかったし、決して開き直るというわけではないのだが、生きていく為には現実的にならざるを得ないような気もした。
少し日常とは違った心境になった由紀江の視線に、本棚の端っこに片付けられたままこの数年の間殆ど開く事の無かった昔のスケッチブックが止まった。ゆっくりと立ち上がった由紀江はそのスケッチブックを大切なものを取り扱うように取り出した。自分自身が責められるような複雑な思いで開いたページの中には、由紀江自身が何年か前に描いた懐かしいイラストが次々と現れた。その一枚一枚に込められた思い入れも同時に由紀江の心に思い出されてきた。中には柾年に見せようと思って思いを込めて描いた特に思い出深いものもあった。
保育園の職員という仕事を選んだ事も含めて由紀江は本来子供が好きであった。日常で見かける自分が担当している幼い子供達の生き生きとした一瞬の表情を記憶にとどめては、家に帰ってからスケッチブックを開いたものであった。一ページずつめくっていくページからは懐かしい子供達の笑顔が次々と現れた。初めは懐かしいという普通の感情が湧いてきて、その後には、一人一人の子供達と触れ合った楽しかった思い出が、最近の出来事であったかのように鮮明に由紀江の心に浮かんできた。何年か経ってそれなりに成長したであろう子供達の表情を想像するうちに、その子供達の笑顔が少しずつ寂しそうな表情に移り変わっていくような思いも由紀江は感じ始めた。もちろん由紀江の想像の中の子供達に過ぎないのだが、その表情は、無意識のうちに自分自身の心のうちを合わせ鏡にように映し出しているらしいことに気付くのに、さほどの時間は必要ではなかった。
以前にこの絵を書いていた頃には、絵を描くこと自体ももちろん楽しい行為ではあったが、それよりも自分の描いた絵を見てくれた人の気持ちが少しでも和んでくれたら、それが一番嬉しいと思っていた事をも次第に思い出してきた。そして今にして思えばあの頃の由紀江は、そんなに遠くはない将来にイラストなどを描いて生計を立ててゆきたいなどという、今から思えばかなり現実離れをした夢を結構純粋な気持ちとして持ち続けていた事なども、夢を諦めたという少し息苦しいような思い出と共に思い出されてきた。あんなに強く思っていた夢をいつの間に忘れてしまったのだろうと思うと、今にして思えば結局は自分自身の気持ちが諦めに向かっていった結果に過ぎなかったのだろうというような思いも浮かんできた。もしも自分自身が諦めなければ今だって自分の夢を追い続けることはできていたことだろうし、その気になればこれからだってやり直す事もできるのではないかという気持ちもふと起きたりもした。
日曜の午後の大通りはさすがに人が多かった。騒がしい都会を離れて、自然の中で自給自足に近い隠者のような生活がしたいと本気で何度も思った事のある柾年にとっては、札幌の中心部の人の多さはなかなか好きにはなれそうもなかった。少し歩いて広めのカフェを探し当てたものの中へ入ってみると店内はほぼ満席に近いようにも見えたが、店員に案内されて奥へ入ってみると丁度二人がけの席が空いていた。音楽と沢山の人達の話し声が飛び交う店内は落ち着いて話すというような雰囲気でもなかったが、この辺りでこの時間帯ではきっとどの店も混雑している事と思われた。
最近は余程の用事でもないと会うことの無かった佐和子が、用があるというのだからおそらくは由紀江との事についての話だろうという察しはついていたが、いざ向き合ってみると何を言われるかと落ち着かない心境ではあった。
「何か急用でもあったのかい」
席に着くと用件の気になる柾年の方からまずそう切り出した。
「そうね、急用という訳じゃないんだけれど」
語尾を少し濁しながら佐和子は柾年の表情の変化を少し見極めた後で言葉を続けた。
「この間由紀江さんと話す機会が有ったんだけれど、もう付き合いも長くなるんだから少し前向きに考えていく事はできないのかなって思っているのよ」
ある程度予想どおりの佐和子の話だったので柾年は驚きこそしなかったが、できれば避けたいと思っていた話題が現実に目の前に突きつけられたことには多少の息苦しさは感じた。
柾年はコーヒーカップにゆっくりミルクを注ぎながら、今この話を持ち出す佐和子の真意を推し量ろうと思ったが、姉とはいえ所詮他人の心の内を推し量る事など無理な事にすぐに気付いて止めた。かといって佐和子の言葉に答える言葉はすぐには思い浮かばなかった。
「もちろんあなた達もそれなりに考えてはいるんだろうけれど、男と女では多少の食い違いもあるのかもしれないわね」
柾年としても今更佐和子に言われるまでもなく、由紀江との関係についてはどういう結論にせよそろそろ答えを出していくことがお互いの為だろうという事は重々承知していたが、最近はお互いの気持ちが行き違うようなことも多くなっていて危うささえ感じる事もあったから、できれば暫く時間を置いて冷静に対処したいという考えも無くは無かった。
「解かっているよ、これから二人で話し合っていくよ」
「二人とも大人なんだから、ちゃんと結論を出していくとは思うけれど、女と男は時間の進む感覚が少し違うかもしれないということは言っておくわね。じゃないと由紀江さんが可哀想かもしれないから」
姉の言葉がいつまでも結論を出さずにいる自分の事を責めるでもなく淡々としたものであっただけに、逆に柾年は自責の思いが湧き始めた。佐和子の言わんとしていることは柾年にも解ってはいるつもりであったが、改めて他人から指摘されると、結論を出すべき期限が迫って来ていることを実感として再認識させられるような思いがした。由紀江との事を真剣に考えなければならない時が来ていることを柾年は実感した。
柾年にとって、函館へ行ったついでに祖父の住んでいた地域を実際に目にすることができ、地元の人達の話を聞けたことは大きな収穫ではあったが、自分のルーツ探しをそこから先へ更に進展させて行く為の材料となると、決定的なものは見つかってはいず、再び行き詰まりを感じ始めていた。木古内町の役場へ問い合わせても解らず、地元の人の話を聞いても解らないのならば、もう諦めるしかないのかと思い始めていた矢先、たまたま立ち寄った区役所のパンフレットコーナーに置かれた一枚のチラシが柾年の目に留まった。色の付いた用紙に単色で刷られた簡素な印刷であった。タイトルの「家系図を作ってみませんか」という文字が柾年の心を惹きつけた。とはいえ、インターネットで調べた方法で既に自分なりに調査をしてみた上で行き詰まりを感じていたので、そのようなタイトルを見ても、既に自力でできることはし尽くしたような気がしていた柾年であったから、半ば諦めのような気持ちは消えなかった。もしかしたら自分が知らない良い方法を知っている人達がいるかもしれないという思いから、そのパンフレットに記載されていた電話番号に電話してみた。
家系図を作成する市民団体ということであったから、少し気難しいどこかいかめしい感じの人達を勝手にイメージしていた柾年にとっては、電話口から聞こえてきた丁寧で穏やかな口調は意外な気がした。電話の相手は、柾年が事情を話すと快くあっさりと、数日後の日程で個人的な相談の時間を指定してくれた。
指定された日時に札幌駅北口に新しく建設された立派な公共施設の一室を柾年は訪れた。IT企業の進出などで、この数年で札幌駅の北口は大きく姿を変え、新しい大きなビルの姿が増えた。以前は駅の裏口といったどこか寂しい印象を感じていた柾年にとっても、札幌の街全体が明るくより近代的に姿を変えてゆくことは悪い気はしなかった。
エスカレーターで二階に上がり、白い壁の廊下を奥へと歩いてゆくと、研修室と表示された一部屋の前には、そこが柾年が探している部屋である事を指し示す立て看板があった。開けっ放しになっている入り口から中の様子を確認してみたが、小部屋の中には数台の事務机とそれに合わせた数の椅子が準備されていて、三、四人ずつに分かれてそれぞれの机の上に何らかの資料らしいものを広げながら熱心に話し込んでいる様子で、入り口に立っている柾年の方に関心を示す人はいなかった。誰も初めて来た自分の姿に興味を示さないそんな様子を見て、少し感じていた柾年の緊張感も無くなった。
開いたままのドアを改めてノックした後で、柾年は受付に座っていた女性に挨拶と、この時間に来るように指示された旨を伝えた。すぐに一つ空いていた机に案内され、お茶とお菓子が運ばれてきた。少し堅苦しいような雰囲気を想像していた柾年は、少し戸惑いも感じたが、そんなのんびりしたような雰囲気は心地よかった。
辺りの様子を見回すと、ホワイトボードや壁には、具体的な先祖調査の方法や、実際に作成された家系図が見本として掲げられていた。壁際のテーブルの上には、家紋や氏姓に関する厚い資料や、インターネットが検索できるようにノートパソコンも置かれていた。そんな部屋の中の様子を眺めていると、自然と柾年の心の中には、ここへ来たことによって、実質的に行き詰まってしまった状況にある自力での家系調査にも、新しい光がさしてくるような明るい気持になれて来た。
他の二つの机では、やはり柾年と同じようにあらかじめ予約をして相談に来ているらしい人と会員らしい人達が熱心に話し合っている様子が見られた。会員は首から胸元に自分の名前が記されたカードを下げていたから、一般の人との区別はついた。
そうやって柾年が興味深げに辺りの様子を見ていると、程なく名札を首から下げた中年の女性が柾年の座っていた机へ来た。
「お待ちしていました」
お互いに簡単な挨拶に続いては、この会の事をどこで知ったのかということから始まって、個人での先祖に関する調査がどこまで進んでいるのかというような事を尋ねられた。一つ一つ尋ねながらメモをしてゆく女性の物腰は穏やかで真摯であった。
柾年は現在自分自身の頭の中にある家系調査に於ける情報を整理しながら問いかけに答えていった。途中からは電話で予約を受け付けてくれた男性も加わった。その男性もまた柾年が思っていたよりも年配の年恰好で、女性と同じように穏やかな物腰で話し易そうな雰囲気で、柾年はすぐにこの会場全体がそのような穏やかな空気に包まれている事を知った。更に柾年は二人に対して、最近実際に木古内町まで出向いてきた事も含めて自分が今迄調べてきた内容を詳細に話し、壁につきあたったような状況に陥っていることを話した。
「ほんの小さなきっかけから色々なことが解ってくる事もあるので、どんな小さなことでも解っていることがあったら、書き出してみて整理してみるといいのよ」
「そう、何でも良いから書き出してみる事は大事だよ」
二人は柾年が持ち込んだ田村家に関する除籍謄本を熱心に読み出していた。小さくて読み難い片仮名交じりの文章で書かれた古い資料は、現代文に慣れてしまった柾年にとってはとっつき難いものに思われたが、二人にとっては読み慣れたものらしく、手際良くページをめくっていく。
「明治八年が一番古い記述なのだな」
最も古い除籍謄本の最初の行は明治八年の年号から始っているのは柾年にも読み取れた。
「そうなのですよ、でもそれ以前が全く解らないのですよ。もしかしたら江戸時代の終期には既に北海道にいたということなのでしょうかね」
柾年は自分の期待も込めてそう思いたかった。
「そうなのかもしれないわね。今の時点で分っている親族の氏名を順番に書き出して整理してみるといいわよ」
女性は自分の家系を元に作った家系図のモデルを見せながらそう言った。そのうち手の空いた他の会員も集まってきて、法務局へ行って昔の土地台帳を請求してみたらいいとか、改正原戸籍を請求したらいいとか、現地に近い函館の図書館へ行って郷土資料を見てみたらいいなどの意見も出た。インターネットで木古内町在住の田村の姓を調べてくれたりもしたが、その日の話は予約の一時間が経過して終了した。
もう少し自分での資料の収集が必要なようであった。柾年は市立図書館の郷土資料コーナーへも何度も足を運んだ。函館・渡島地方の郷土史やら松浦武四郎の蝦夷探検資料などにも目を通してみた。江戸時代の終わり頃の資料も随分探したが、木古内町の中の更に一地域の字と呼ばれる地域の記述となると、そこに数軒の集落が存在しているというわずか数行の記述しかなされていなかった。明治維新後にまとまった人数で集落ごと北海道の開拓を目的に移住してきた場合とは異なる場合には、正確な記録などほとんど残っていないようだった。その理由を想像するに、本州のどこかの地域に在住していた者が、何らかの理由でその地を離れて人知れず蝦夷地に流れ着いたのだろうということだった。故郷を離れた理由は何だったのか。長男が家を継ぎ、次男以下は居場所がなくなったということだったのか、あるいは、狭い地域のなかで何らかの問題があってそこにいられなくなったものなのか、できれば良く考えて、新天地に新たな夢を求めたのかもしれないと思いたかった。
それはあまりにも突然のことに思えた。月曜日のいつもの朝礼の後で、柾年は思いがけず支店長室へ来るように呼び出しを受けた。支店長から呼ばれるというからには気楽な用事ではなさそうな事はある程度は想像できたが、この日の話にはさすがに驚いた。柾年がノックをして支店長室のドアを開けると直属の上司である部長が柾年を室内へ招きいれた。いつになく機嫌が良さそうな部長の様子からとりあえず難しい話ではなさそうな事は解ったので柾年は少し安心したが、その後の話の内容にはさすがに驚いた。
「突然だが本社の方から連絡があってな、まだ新しい岡山の支店を順調に軌道にのせるために、この札幌支店から誰かを派遣して欲しいということなんだ。君も知っている通り我社は全国に支社があるが、今後は遠隔の支社同士の連携を強めて、この難しい時代を何とか乗り切ってゆきたいというのが本社の方針でもあり、そこでこの札幌から誰かをということになって人選を進めてきたわけだ。君は上司からの評価もなかなかいいようだし、能力が高く仕事に携わる能力も姿勢も良いと聞いている。それに何よりもまだ一人身で身軽なのもいい。そこで部長らとも相談の結果、君に岡山へ行って貰えないかなということになった訳だ」
何とか行く気にさせるためのほめ言葉である事を差し引いても、確かに多くの社員の中から白羽の矢を立てられてこうして話を持ちかけてくれる事自体は、決して悪い気持ちではなかったが、行く先が岡山などという殆ど馴染みのない地名を聞かされてもすぐには実感が湧くはずも無かった。柾年のどこか腑に落ちないような表情を見て支店長の隣に柾年と向き合う形で座っていた部長がすかさず口を挟んだ。
「一応期間限定の転勤ということで、任期は一年でその間は遠隔地手当てが別に支給されるし、住居はマンションを社宅として使えるから家賃の心配もない。そして一年後にこちらに戻ってきた時にはもちろん業績にもよるが、一応の昇進は考えているよ。条件的には悪くはないと思うよ」
確かに条件としては悪くは無かったが、たちまち喜んで受け入れられる話でもなかった。柾年は視線を机の方に落として提示された話の内容を心の中で思い返してみた。転勤の話は同僚達の中でも時々はあったから特別驚くような話ではなかったが、まさか自分の身にかかってこようとはあまり意識はしてはいなかった。まして大阪よりもまだ遠い、岡山と言う馴染みのない地名をいきなり出された事にはさすがに驚いて、すぐには返事がしかねていた。もちろん会社としての辞令であれば自分自身が考える余地は無いのも解っているのだが、向き合っている支店長や部長の口振りは、柾年自身の意向を尋ねてくるような感じである事にも多少の戸惑いを感じていた。ある意味自分自身での決定を望まれている雰囲気だった。
「もちろん会社の意向であれば従わざるを得ないのでしょうね」
二人の上司を相手にしているという目に見えないプレッシャーを感じながらも、どの程度確定的な話なのかということについて探りを入れてみた。
「そうだな、この話は札幌から誰かが行かなければならないという訳ではないんだが、札幌支店から希望者が出れば札幌支店の評価も上がろうかということなのだ」
確かに一会社員として会社側から期待を持たれる事は喜ぶべき事であったが、柾年の心には真っ先に由紀江のことが思い浮かんでいた。地図で確認しない事にははっきりしたことは解らなかったが、岡山と言えば札幌からはかなり離れていて簡単に往き来ができるような場所ではない事は想像できた。柾年の率直な本心としては意に沿わない無理な話ということで断るしかないという気持であったが、一応社会人としての立場からは二人の上司から出た重大な話を簡単に断るわけにはいかないことも承知していた。
「とっても良い話だと思いますが、何分突然の事なので」
さすがにその場ではっきりと断る事ははばかられたので、柾年は自分の気持ちを匂わせながら言葉を濁した。部長は少し困惑したような様子を見せながら、支店長の方を見て支店長の決定を促すような様子であった。更に強い口調で押してくるかと思った支店長は、柾年の予想に反して少し考え込むような顔を見せた後、隣の部長の方を見た。お互いの視線で合意に達したのか支店長はおもむろに言った。
「まあ、急な話でもあるし、今結論を出すのは無理だろうから二、三日考えて改めて返事を聞かせてもらうよ。会社としても精一杯の事はさせてもらうつもりだからな」
「解りました、少し考える時間が頂ければ私も有難いです」
二人の上司が決して無理強いをして来ない様子を見て、かたくなになりかけていた柾年の気持ちも少し和んで来ていた。この事は由紀江や亀村にも話さねばならないと思ったが、相談を持ちかけるにも二、三日の期限では自分の気持ちを整理するので精一杯のような気がして、由紀江に対してなんと話していいものかと思いあぐねた。いきなりこの転勤の話を聞いた時の柾年の気持ちは断りたい思いであったが、少し時間を置いて独りになって少し冷静になって考えてみる時には、どこかの組織に所属をしていればごく日常的に起こりうる事態でもあり、支店長が提示した条件を思い出してみても、柾年にとっても決して悪い条件ではなかった。また一年という限定された期限である事を考え合わせると
「無理な話です」
とばかりも言い切れないような気もしてくるのであった。これが柾年一人の問題であったならば、あるいはかえって良い経験として喜んで受けるかもしれなかったが、長い間付き合ってきた由紀江との関係を考える時には自分だけの問題ではなくなるのであった。
翌日柾年は、まず亀村に上司から持ち出された転勤の話をした。さすがに亀村にとっても思いがけない話であったらしく、柾年の顔を見つめたまま黙り込んでしまった。もともと最終的な結論は自分で出すつもりでいる柾年であったから、亀村から何か良い解決策が出るなどと言う事は期待はしていなかったが、親友ということで話だけはしておきたかったのであった。
「で、どうするんだ」
しばしの沈黙の後亀村が思い出したように言った。
少しづつ自分の考えを決めていかねばならないとは思いつつも、柾年の気持ちはまだ整理がついてはいなかった。
「そうだな、会社の方針なら余程の理由が無ければ断るわけにはいかないだろうし、さもなければ転職するしかないかな」
亀村の問いかけに答える為にそう口にしては見たものの、転職となると言うほど簡単にはいかないことだった。
「まあそういうことだろうな。由紀江さんにはなんと言うんだ」
「ありのままを話すさ」
亀村は自分の事のように難しい顔をしながら小さくため息をついた。柾年もまた黙ったまま自分なりの思考の中に入り込み始めていたが、それも長年の友人の前であればこそであった。
「いっそのこと由紀江さんを一緒に連れて行ったらどうだ」
亀村は少し明るい表情を見せながら言った。一瞬は柾年も亀村の一言がかなりの名案のようにも思えたが、追い込まれた者の窮余の策でしかないことに思い至るのにそう時間は必要無かった。あるいは柾年自身があと五歳程も若かったなら、あるいは由紀江や周りの人間を説得してでも具体的な行動をすぐにでも起こしていたかもしれないとも思えたが、そこそこの年齢に達して、一社会人としての役割をもになっている以上、周囲にも波紋を投げかけるような行動を軽々しく取る事もできなかった。たとえば由紀江や周囲の人達から二人の間の結婚話に了承を取り付けるにしては、余りにも時間が無さ過ぎて無理な事は明らかだった。
「俺も考えたけど余りにも時間が無さ過ぎるよ。由紀江と話し合う時間だけでも足りないくらいだ」
「確かにそうだな、でも早急に答えは出さねばなるまい」
亀村の言う事は柾年にも痛いほどに感じていたが、由紀江の気持ちを聞かないうちに、現時点で自分一人だけで答えを出す事はできなかった。
重苦しい思いを心に押し込めたまま時間が過ぎた。まだ正式の辞令は出されてはいなかったが、いったん辞令が出てしまえばそれこそそんなに間をおかずに出発となるのは解かっていた。今は僅かに許された考える為の猶予期間であり、それもあと二日間しかないという切羽詰った感覚が柾年の心に重くのしかかってきていた。話があってからも由紀江と電話で話す事はあったが、やはりまだ言い出せなかった。
由紀江と会う約束をした時間までは、柾年にとってとても長い時間のようでもあり、約束の時が近づくにつれて、何か理由をつけて会うのはやめようかという気にもなった。
二人で会うときには最近は郊外へドライブに出かけることも多かったが、この度は落ち着いて話をする為に大通りのカフェで会うことにしていた。函館へ行った頃から二人の間の目に見えない心の溝が少しずつ解消されつつあるような雰囲気になってきていただけに、自分の意志ではないこととはいえ、柾年としても突然の転勤の話を由紀江に話さなければならないことに大きな心の負担を感じていた。
何も事情を知らない由紀江は、機嫌が良さそうな様子で姿を見せた。そんな様子を見ているとこのまま何も話さずに帰ってしまいたいような心境であったが、これ以上先延ばしできるような時間の猶予は無かった。
いつものような雑談のあと由紀江の様子を見ながら柾年は転勤話を持ち出した。
「今日は大事な話があるんだよ」
改まった柾年の口調に由紀江の表情も少し硬くなった。
「急に何なのかしら」
由紀江の目を見て、微妙な心の動きを見逃さないようにしながら柾年は頭の中で言葉を選んだ。
「突然の話なんだが、今度転勤する事になりそうなんだよ」
由紀江も突然の事にやはり戸惑いを隠せないような表情を見せた。
「どこへ行くの」
「行く先は岡山」
「岡山ってあの遠い岡山県の事」
「そう、広島県の隣の岡山県だよ」
「どうして東京や東北じゃなくて岡山なの?札幌と岡山なんて何の関係もないじゃないの。なのにどうしてあなたがそんな所へ行かなければならないの?」
柾年の予想通りに由紀江の驚きの様子は大きかった。道内や東北地方やあるいは東京くらいなら、由紀江も良くあることとしてさほどには驚かないのだろうと思われたが、この札幌とはあまり関連性の感じられない岡山への突然の転勤話には自分自身が戸惑っているのだから、由紀江が驚くのも当然であると柾年は思った。
「理由は僕にも解らないよ、ただ会社の方針なのだろう。僕が選ばれた理由も僕には解らないよ、でもそうなった以上はその条件を元にして結論を出さないと仕方がないのだろうな」
「で、いつから行くの」
「正式に決まれば来月の初めからだ」
「それならあと三週間しかないじゃないの。どうしてもっと早く教えてくれなかったの」
次第に由紀江の語気も強くなって来ていた。
「会社から話があったのは数日前だった。君になんと言って話そうかとずっと考えていたんだよ」
由紀江は殆ど見せた事の無いような少し厳しいような表情のまま黙り込んでしまった。柾年も心を閉ざしてしまったかのような由紀江に対して、それ以上に何も言う言葉が無いような気がして黙ったが、転勤の話を受け入れようとしている自分が改めて責められるような心境にもなった。とは言え、社会の仕組みの中では自分の思いなど通るはずもなかった。柾年は由紀江の重い表情を見つめながら自分もまた思い気持ちで言葉を続けた。
「僕も迷ったけれど、今の時代に簡単に仕事を辞めるわけにはいかないんだよ。転勤は沢山の人が経験する事だから仕方がないことかもしれないと思っている。ただ自分ひとりでは決めたくはなかったから君にも話したんだよ」
「それで行くことに決めたの?」
「今の状況では断りきれないから自然にそういうことに決まっていくだろうな。ただし期間は一年間ということになっているよ」
「そうなの」
期間が一年という事を聞いて少し由紀江の表情が落ち着いたように柾年には見えた。
「一年は長いわよね」
「ああ、長いけれど先が見えているからね」
また一人で何かを考え出した由紀江は黙ってしまった。柾年もそれ以上に続ける言葉もなく、少しうつむいた由紀江の表情が明るくなって欲しいという希望を持って見つめた。正直なところは、柾年は由紀江の反応を待っていた。もちろん自分の気持ちの中では、一社会人である限り受け入れるべき出来事であり、由紀江にも理解を示して欲しかったが、かなり突然の話であった事や、場所が予想もしなかった岡山であるという事、また長年の由紀江との関係においても、そろそろ答えを出してゆかねばならないと思い始めていた矢先であることなどが、柾年の気持ちを複雑にしていた。もしも由紀江が真剣にこれからの二人の付き合いを考えていて、それなりの強い思いがあって反対してきた時には、場合によっては会社側に断りの返事を出す事も有り得るという事も柾年の考えの中にはあった。その結果として、今の会社を辞めざるを得ないことになる事も今は選択肢の一つとして気持ちの中には存在していた。
由紀江は時々小さくため息をついたり、黙ったまま柾年の顔を見たりしていたが、何も言わないままだった。かえって色々と由紀江自身の心の内を語ってくれた方が、柾年にとっても対処しやすいと思えたが、沈黙したままでは由紀江の本心をうかがい知る事もできなかった。不自然な沈黙は暫く続いたが、それは由紀江がこの度の転勤話を快くは思ってはいないという意思表示を示す結果となっていた。このままでは一向に話が進展しないと考えた柾年のほうから言葉を切り出した。
「今日は急な話だったから君も驚いたろうと思う、悪かった。でも早急に結論を出さねばならないことには変わりはないんだ。少し考えて君の気持ちをまた教えて欲しい。僕ももう一度考えるよ」
由紀江は答える代わりに大きく頷いて見せたが表情は相変わらず思いつめたような表情であった。これ以上一緒にいてもかえって感情が行き違ってしまいそうな気がして、柾年は由紀江を促して席を立った。
店の前で由紀江と別れると、何か大きな仕事を終えたような安堵にも似たほっとした気分を感じた。それはとりあえず由紀江に今起こっている事態を伝える事ができ、由紀江もそれなりに考える姿勢を見せてくれたことから来ていたが、柾年自身の気持ちもやはり冬の札幌の空模様のように薄暗く重苦しかった。
柾年にしても今迄付き合って来た由紀江と、突然一年もの間離れた状態になるということなどはついぞ考えた事もなかったので戸惑いは感じているのであった。かといって残された三週間の間に、正式にプロポーズをして入籍するなどという慌ただしい結論を出す気にはなれなかった。何よりも転勤後の新しい仕事のことやら住居のことやらも考えなければならず、気持ちにも余裕はなかった。ましてや入籍もしていない由紀江を、仕事を辞めさせて何の縁もない岡山まで同行させることなど出来る筈もなかった。
そうなると残された選択肢は、自分自身が退職を覚悟で転勤話を断るか、あるいは一年間由紀江と離れて暮らすか、またはこれを機に由紀江との関係を清算してしまうかという事になりそうであった。そうなると自分にとって由紀江の存在というものが、どれほどのものなのかという事を、改めてそしてはっきりした形で自分自身に問われているような気がしてきた。
翌日の日曜日、一人で市内の中心部へ出かけた柾年の足は時計台の方へと向かっていた。特に意味や目的は何もなかった。何だか急に札幌らしい風景に接したくなったのだ。今の自分にとって札幌という街がどのような意味を持っていて、どのような存在なのかということについて再認識したような気持はあった。そうすることによって、もう一度冷静に自分の心を見詰めながら、未知の土地である岡山へ行くのかどうかということに結論を出したいと思ったのであった。
実際にいつも札幌の街で日常を送っている時には、たとえ用があって近くまで行っていても、たまたまその前を通りかかったとしても、改めて時計台のその姿を仰ぎ見るようなこともなかったから、目的意識を持って見上げるのは久し振りのような気がした。周囲には相変わらず大勢の観光客の姿があった。このような今に残る明治時代の洋風建築は札幌らしい建築物であるのかもしれなかったが、それは裏返せばそれ以上に歴史を遡った古い建築物は札幌には存在していないということでもあるのだ。やはり北海道が本州とは一線を画した特異な土地柄であろう事を再認識させる風景であった。そんな風に考えると、札幌よりも遥かに長い歴史を経て存在している多くの文化財と身近に接している筈の、ここにいる大勢の観光客達が、どうしてこのようなたかだか百年ほどの歴史しかない建築物に興味を感じるのかという素朴な疑問も感じるのだ。
明治という新しい時代を迎えた時に、新天地開拓という名の元に日本の各地からこの北海道を目指して多くの人達が移住してきたという経緯は、格好の良い美談話にも聞こえるが、その中の多くは、実際には様々な理由の元でこの北限の未開の土地を目指した人たちなのだろう。何故なら日々の暮らし向きに然程の不自由もなく、将来的にも安泰が望めるのならば、何も好き好んでこの極寒の未開地へ移住する必要性などどこにも無い筈なのだから。
北海道の各地に残る本州の県名や市町村名と全く同じ地名表記などを見聞きすると、実際に移住してはみたものの、やはり本州の故郷のことは忘れ難かったというような、移住者達の想いを今に伝えらるような場所も随所にあるのだ。そこから続く子孫達には、必然的にその時の無念な思いが受け継がれることになり、結果的には柾年が子供の頃によく耳にしていた「内地」という言葉に内包された、どこか哀愁と羨望の混じったような感覚が生み出されたものらしい。
柾年が今頃になって自分の先祖の家系を調べたくなったのも、子供の頃に感じていたそんな不可思議な感覚がいつも心のどこかに残っていた為なのかもしれなかった。自分の先祖がいつ頃にどのような事情で、どのような心境でこの北海道に渡って来たのかということを知ることが、せめてもの先祖に対する自分なりの供養の方法であると柾年自身では感じていた。
時間は昼近くになっていたが、柾年は時計台を離れると今度は札幌市のほぼ中心に建つテレビ塔へ向かった。テレビ塔に最後に登ったのがいつのことだったかもう覚えてはいなかった。それくらいずっと以前のことであったのだ。札幌の中心部を歩いている時などには意識しなくても視界に入ってきていたのだが、それだけに札幌に住んでいる市民にとっては風景の一部になっていて、普段は殆どその存在を意識することはないのであった。
そんなテレビ塔へ柾年が向かったのは、その場所が祖父である徳太郎との思い出の場所であったからであった。幼稚園の頃か、あるいはそれ以前の思い出なのか定かではなかったが、爺さん子であった柾年は、徳太郎に連れられて、テレビ塔の最上の展望台から札幌の街を見下ろしたり、途中階のレストランでお子様ランチというものを食べることが楽しみだったのを覚えていた。数十年振りで再びテレビ塔の上に上ってその景色を眺めて見ることで、行き詰まってしまっている家系調査の上でも何か良い方法を思いつくかもしれないという、全く根拠のない淡い期待感からであった。
展望台へは、レストランのある途中階で別の専用エレベーターに乗り換える必要があった。外が見える小さなエレベーターに乗り込み上昇を始めると、急速に車や人の姿が小さくなってゆくと共にビルの頭越しに視界が開けていった。周囲をガラス窓で囲まれた狭い展望台であったが、子供の頃にはもっと広いような感覚を感じていた事も思い出した。
下を見るとそのまま観光絵葉書になりそうな、真っ直ぐに伸びた緑地帯としての大通り公園の姿が目に入った。その先には割りと昔からある街並み越しに藻岩山や大倉山のジャンプ競技場など、もう一つの札幌の表情とも言える緑の多い独自の風景が眺められた。転じて反対側へ回ると新しく開けた広々とした住宅地域と遥かかなたの地平線を構成するように、大雪山に連なるのであろう山々の姿も遠景として小さく見える。
柾年にとっては自分の故郷である札幌の風景であったが、徳太郎にとっては様々な人生の浮き沈みを経験した後で住む事になったこの札幌の風景は、どのように見えていたのだろうかということに、柾年は初めて想いを馳せた。
自分の故郷である木古内町を離れて、昭和の開拓団として満州へ渡り事業を起こし、昭和二十年の終戦と共に夢破れて北海道へ帰ってきて、木古内ではなく函館の七重浜に暫く住んだ後、札幌へ出て再び自分で事業を起こした波乱の人生であった。自分で思い描いた夢が破れてこの札幌へ来たというところは、自分も徳太郎と似ていると思う。そんな徳太郎が度々、孫の自分を連れてこのテレビ塔の展望台にやって来ていたのは、孫を楽しませるというのは勿論としても、後の半分の目的は、遠くまで見渡せるこの場所に来て、過ぎ去りし自分の生きてきた過去を振り返りながら、故郷である木古内や遠い大陸の満州のことや、あるいは田村家の先祖が日本のどこからやって来たのかということを徳太郎は知っていて、津軽海峡を経た本州の遠い地方へと想いを馳せていたのかもしれないと柾年には思えた。
徳太郎の事を、性格が頑固で我がままだったと周囲の者はよく言っていたが、そんな気性であったからこそ、満州へ渡って事業を起こしたり、志半ばで引き上げてきた後でも、ここ札幌で再び一人で事業を起こす事もできたのだ。そんな徳太郎の血を確実に受け継いでいる事を感じることが柾年にはあった。だからこそ若かった頃に高台に上っては、心の中ではいつも津軽海峡のその先にある本州に強い憧れを感じ続けていたのだとも思うのであった。
とは言え、勿論今の柾年にとっては、若い頃のように単純に津軽海峡を越えた本州に憧れを感じているという訳ではなかった。どこにいても世界中の情報が解るような現代では、未知の都会の様子も結構詳細に知る事ができるのだから。
だからと言って、柾年の心の中がすっかり冷めてしまっていて、自分が日常をおくっている札幌以外のことには関心が湧かないという訳では無かった。自分の気持ちを冷静に見詰め直すときに感じることは、やはり旅への憧れなのであった。日常を抜け出して非日常に自分の身体と心を置きたいという衝動と同時に、かつて同人誌に参加していたように、自分自身の心の内を何らかの形によって表現したいと衝動を感じるのであった。表現の方法は個人によって様々であるのだが、柾年の場合は音楽のセンスがある訳ではなかったし、画才がある訳でもなかったから、自然と文字を媒体とした形に落ち着くのであった。その方法が自分には合っているのであろう事は柾年自身でも感じていることであったから、そのことについての迷いは今更無かった。
既に人生の半ば近くを生きてきたと言ってもよい年齢に自分が差し掛かってきたところで、残りの人生はできることならば、そのような形での自己実現の時間としたいと思うのであった。
非日常ということと文字による表現を組み合わせるとなると、そこには時々旅をしながらの文筆活動という姿が具体像として思い浮かぶのであった。
最近は自分でも自分がどうしたいのかということについて、少し解らなくなりかけていたような気がしていた柾年であったが、こうして改めて徳太郎の事を思い浮かべてみながら、その遺伝子を受け継いでいる自分の姿を客観的に見詰める時、自分の気持ちの整理をつけてゆく為の方向性も見えてくるような気がした。但し、由紀江との関係については、この先どのように折り合いをつけていけばいいのかということになると、霧の中にいるような、先の見えない状況に置かれているような気はした。
日曜日の朝、柾年は旭山公園に上った。由紀江は幼稚園の行事があるからその日は会えないということであったが、かえってそのほうが良かったような気がした。もうそんなに時間がない今は、会っていれば必然的に由紀江と転勤について話さなければならなかったことだろう。
まだ十代の頃にはこうして高台から見下ろす札幌の街並みに、テレビで見るだけで実際に訪れた事のない本州の街並みを重ねてみては、いつか、かの地を訪れることが出来る日が来ることを心待ちに描いたものであった。
その頃から時を経て様々な人の世の現実を垣間見てくると、そんな若い日の未知のものに対する激しい憧れの感情が湧いてくるようなことこそ無くなってはいたが、仮に今目の前に突きつけられている転勤の辞令を受け入れたとして、その時から始まるであろう未知の街での、新しい日常と人間関係に対する期待感が少しずつ起こり始めている自分自身の心の変化には気が付いていた。由紀江との関係については結論を出さなければならないにしろ、ではそれとは別の問題として考えた時に、自分のこれからの人生にとって、岡山へ出向くことが良いことなのかどうなのかということに焦点を絞って考えてみることにした。
先の見えない転勤ならいざ知らず、とりあえずは一年間という期限があることを考えれば、もしかすると一生縁が無かったかもしれない岡山と言う未知の土地で過ごす短い月日が、今後の自分の人生に於いて貴重な経験の日々となるかもしれないとも思えるのであった。志津の言っていた
「夢を追っていても、いつかは由紀江さんもそのことを理解してくれると思う」
という言葉も柾年の心をよぎった。今は会社からの辞令を受け入れて、これからの一年間を岡山へ赴任して過ごすことも、人生における自然な流れであるかのような思いも初めて湧き上がって来ていた。同時に、それが今の自分にとっての最良の選択肢であるかのような思いも。
由紀江が自分の夢を理解してくれる事とはいったいどのような状況になることをさすのだろうかと考える時、自分の都合だけで考えた時には、一緒に岡山についていって欲しいということになるのだろうが、そうなれば、自分としても由紀江に対して結婚というはっきりとした意思表示を示した上で尚、由紀江がそれを受け入れてくれるという条件も要求されるところ、出発までの残りの日にちを考えた時には、それこそ現実的な問題ではなかった。
そこから少し条件を緩和したとして、婚約までをしたとしても、自分だって一年後には確実に札幌に戻れるという何の保障も無いわけであり、その間由紀江の人生を拘束してしまうような結果になってしまうことも、それでいいのかという気もするのであった。この時点で考えうる妥当な結論としては、由紀江との関係については取り立てて新たな動きを起こすことなく今のままで、自分は自分で自然な流れとして岡山へ赴任するしかないような思いにも至った。その結果として、由紀江の心が自分から離れていってしまうようなことになった時には、その状況をも受け入れる覚悟を持って。
出発の夜、深夜の苫小牧のフェリーターミナルに由紀江の姿があった。一人の暮らしではやはり車があったほうが便利だろうし、赴任先で新たに買い換えるほどの余裕もなかったから、必然的にマイカーでの転勤となったのだ。
「出航は深夜だから、帰りが遅くなるから見送りはいらない」
と柾年は断ったのだが由紀江はやはり姿を見せた。
「わざわざ来てくれてありがとう。出て行く方は緊張感があって結構気が楽かもしれないが、残る方が何だかわびしい気分になるんじゃないのかい。僕が送る立場だったら寂しさを感じるよ。ましてこんな深夜じゃ」
柾年の乗るフェリーが出航した後は、由紀江は一人で真夜中の高速道を一時間もかけて札幌まで帰らなければならないのだ。そんなことを考えると自分もまた心配で、ただでさえ揺れるフェリーのベッドで、尚更よく眠れないような気が柾年にはしていた。
「心配ないわよ、私が好きで来ているんだから。明日は、仕事はお休みだからゆっくり帰るわよ。たまには夜の海も見てみたくなったのよ」
柾年にしてみれば、お互いにもう若くはないのだから、あまり感傷的な別れにはしたくはなかったが、これから少なくとも一年もの間離れ離れになると思うと、やはり感傷的な気分になることもやむを得なかった。
「じゃあ、元気でね」
自分で決めた転勤であるだけに、由紀江に対しての心の負い目と、申し訳ないと思う気持はやはり強かった。
「柾年さんもね、そのうち岡山へ行くから」
由紀江は笑わずに、強い意志を込めたような固い表情でそう言った。それ以上いると何だか由紀江の涙を見ることになって、余計に心苦しくなるような気がして、柾年は自分の車に乗り込んだ。
大型フェリーは音もなく静かにゆっくり苫小牧港の岸壁を離れた。部屋に荷物を置いてすぐに岸壁側のデッキへ出てみると、そこには数人の見送りの人に混じってたたずむ由紀江の姿があった。ひと昔前ならばこうして船での移動ということもそれ程に珍しいことでもなく、岸壁から紙テープととともに、ゆっくりとゆっくりと引き離されてゆくかのような悲しい別れの様子も、他人の同情を引く光景ではあったのであろうが、航空機が主流になりつつある今では、そんな光景も感傷を誘うまでにはいかないようであった。
柾年は、少しづつ小さくなってゆく由紀江のほうを見続けていたが、あえて手を振ったりはしなかった。この別れはある意味では自分が決めたことであり、そのことについてはやはり迷いを断ち切れたわけではなかったから、ことさらに感情を表に出さないことによって、自分自身の迷いや由紀江に対する詫びにも似たような気持を伝えたかったのだ。
柾年が苫小牧までの見送りを辞退したのも、このような複雑な感情を伴う別れ方をしたくはなかったからでもあった。反対に由紀江にしてみれば、柾年が決めた自分との別れという決断に対して、柾年がどのように気持の整理をつけようとしているのかという見極めをつけたいという気持があった。そして言葉少ないまま静かに出発していった柾年の姿から、深い迷いを感じ取ることができていて、その点では満足していたし、嬉しくもあった。
そして、一応は一年という期限の決まった柾年との別れの日々が、今日からは一日一日短縮されてゆくと思うと、予想していたほどの悲しさも感じなかった。
更に冷静に考えてみると、高校生の頃からずっと、高台からいつも本州の方向を見詰めては、その土地に憧れを感じていた柾年が現実にそこへ到達できることは喜ぶべきことであり、そんな柾年にとっての大きな転機が自分にとってもあるいは人生の大きな転機になるかもしれないとも思えてきた。そんな明るい前向きな気持にさせてくれたのは、車も少なくなって走りやすくなった高速道路から、郊外の街の明かりが宝石のように綺麗に見えたせいでもあった。
第2部、第3部へ続きます