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いぎょうさん(後編)

 今の時代にしては珍しいであろうわが家の引き戸の玄関を開ける。ガラガラとけたたましい音が鳴って、私の後ろから桃子姉が続く。


「ただいまー」


 三和土には見知った靴が並んでいて、長女を除いた家族が帰ってきていることが分かった。ひぐらしも鳴き始める夏の夕方、私の家族は不思議とこの時間には帰ってきている。そういえば夜の十時を周って帰ってきたことなんて片手で数えるくらいしかなかったかもしれない。こちとら現役バリバリの女子高生だというのに。きっと中学生まで午後七時の門限があったからなのだろう。


「桃子姉靴そろえなよ」


 靴を投げるように脱いだ桃子姉に注意すると桃子姉は振り向きもせずに「いいのいいの」と居間へ向かう。


「うげ」


 ふすまを開いた途端に桃子姉が硬直するので何事かと寄ってみると居間にはおばあちゃんが座って桃子姉を睨んでいた。


「・・あんた、それ、なんだい」


 おばあちゃんは桃子姉を指さすことも無く静かに尋ねる。それ(・・)が何かを明確にすることも無い。この場にいる全員にそれ(・・)が見えているのだから。


「聞く必要あります?おばあ様」


「・・ないね。しかし、醜い面ばかりだね」


「そうでしょうとも」


 私の目には、桃子姉にぶらさがる数体の奇形の赤ちゃんが見えている。それは桃子姉もおばあちゃんにも見えているのだ。

 何を隠そう早乙女家はこういった霊を代々祓ってきた家系なのである。いや、でもおばあちゃんより前は知らないし、おばあちゃんの次は桃子姉になってしまうのだけど。代々でも何でもないような気がする。


「・・それ、厄介ごとだろう」


 仏壇の前で正座をしてお祓いに取り掛かる桃子姉の背中におばあちゃんが投げかける。


「厄介ごと?」桃子姉が数珠を手に付けて振り返った「これが厄介ごとですって?あら、おばあさまも随分お年を召されたようですね」


「生意気言ってんじゃないよクソガキ。今のあんたを呪い殺すくらい簡単だよ」


「やってみればいいじゃないクソババア」耳の遠いおばあちゃんに聞こえないように桃子姉が悪態づいた。お互い口が悪すぎる。


 桃子姉は数珠を手にかけたまま手を合わせて押し黙る。これの何がすごいかというと、いつもは猫背の桃子姉がこの時ばかりは背筋がまっすぐになるということだ。


「梨子、あんたも呼ばれてるんだろう?」


 おばあちゃんは桃子姉と話すときの鋭い声色を大胆に崩して、猫なで声のような声色で尋ねてくる。おばあちゃんは桃子姉以外には優しい人なのだ。


「・・私には呼ばれてるってとこまで分かんないけど、私がついて行かないと桃子姉は出て行かないしさ」


「そうかい。・・ま、あんたは林檎や杏子(きょうこ)みたいな子じゃないから大丈夫だろうけどね」


 ちなみに林檎は私の母で、杏子は私の長女である。命名したのは他でもないおばあちゃんだ。生まれた時にその子の将来を見据えて、最良の人生を歩めるように直感で付けたと話していた。おそらく適当なんだろう。そんなおばあちゃんの名前はタキである。


「桃子についてるあれは断片だよ。根本を断ち切らなきゃキリがない。まったく何に首突っ込んだんだか」


 おばあちゃんの言っていることと桃子姉の言っていることはお互いが嫌だ嫌だとは言っても合ってしまうものなのだ。二人は祖母と孫という関係ではなく師弟関係にある。幼いころから私や杏子達と離れて、名のある霊能者として雑誌やテレビの取材を受けたこともあるおばあちゃんの下で修業した桃子姉は、おばあちゃんと誰よりも長く過ごし、おばあちゃんに一番似ていて、私たち姉妹の中で唯一おばあちゃんを嫌った。


 振り返ると桃子姉はスマホを取り出して誰かと連絡を取っていた。桃子姉が連絡を取る相手は一人ぐらいしかいないのだけど。桃子姉の周りはすっかり綺麗になっていて、おそらくは私とおばあちゃんが話している数分に満たない時間で今回の依頼人である佐久間さん達に憑いていた赤子を()に上げたのだろう。


「お姉ちゃんあとどれぐらいで帰ってくるー?・・そっかー。お土産買ってきてくれたの!?・・うん。あっ、前言ってた洋菓子屋さんの!?ほんとに!?えーもう、お姉ちゃん大好き!!」


 寝ころんだまま足をパタパタさせて幼児退行したような桃子姉。そんな桃子姉を見ておばあちゃんは「年を考えろ」と悪態づいた。何を隠そう、桃子姉はシスコンガチ勢なのだ。あまり人と関わろうとしない桃子姉が唯一自分をひけらかすことができる相手が杏子姉なのである。

 いつだったか杏子姉がお友達に誘われて婚活パーティに行った時のことだ。桃子姉はその事実を知ると泣きわめきながら「あたしが杏子姉と結婚するんだもん!!」と言い放った。その時私は「この人はダメな人だ」と心の底から思った。


 居間にいた私たちが引き戸のけたたましい音を聞くと桃子姉は犬のように玄関へと飛び出した。一瞬本当に犬に見えた。

 どたどたと足音を鳴らしながら駆けていくのが居間にいる私たちにも伝わると「きゃあああああ!!」悲鳴が私たちの鼓膜を揺らした。


「・・・どうしたの桃子姉。そんな女の子みたいな声出して・・」


 ふすまをあけて玄関を見た時、私の眉間にしわが寄って目が無意識に限界まで見開いた。

 おそらくは帰って来たのは杏子姉で間違いないのだろう。どうしてそんな曖昧な言い方をするのかというと、私たちに見えているのもは真っ黒なもやから手や足がのびているというなんだかよく分からない状況だからだ。つまりは霊が覆いかぶさりすぎて私たちの目に杏子姉の顔が映らないのだ。


「・・え、何・・桃子ちゃん、私また連れてきちゃった?」


「・・あぁ・・あ・・」


 声にならない声が桃子姉から漏れている。


「お姉ちゃん・・どこ行ってきたんだっけ?」


「今日はね。スカイツリーとか浅草寺とか・・スカイツリーに上れなかったから東京タワーに上ったの」


「どーしてそんなド観光名所でこんなに連れてきちゃうのよぉーっ!!もう!!すぐにこっち来て!!」


 杏子姉の服を掴んで半泣きで強引に居間まで連れていく桃子姉。私の前で黒い靄が長くてすらっとした足を生やしながら移動していく。なんとシュールな。桃子姉にはこの黒い靄の正体さえ鮮明に見えるのだろう。


「あらおかえり杏子・・って、また随分連れてきたねぇ・・」


 さすがのおばあちゃんも杏子姉の放送禁止っぷりに目を丸くしていた。


「もーっ!!お姉ちゃん今度から東京の観光名所禁止!!」


「無茶言わないでよ桃子ちゃん・・」


 桃子姉が杏子姉を座らせて背中を叩き始める。それから人をこれから殺めるんじゃないかという目つきでぶつぶつと何かを呟き始める。

 私は知っている。この文言がお経の類ではないということを。


「・・・ぶっ殺すぞ・・・」


 ぶつぶつと呟く中で確かに聞こえた殺害予告。予告を受けた相手はとうにこの世から消えているのだけれど、桃子姉はそんなことに構ったりはしない。実際もやが薄くなっていくのだ。除霊でも浄霊でもない桃子姉だけのお祓いの仕方。真に強い能力を秘める彼女だからこそそれができるのだ。


「はい、おしまい。もーいくらやってもキリないんだもんお姉ちゃんはぁ」


「ごめんね桃子ちゃん。私ずっとこんなで」


 先ほどおばあちゃんが私のお母さんと杏子姉がそっくりだと言ったのはまさにこのことだった。お母さんと杏子姉は霊感が皆無の割にものすごい霊媒体質という面倒な性質を持ち合わせている。けど、お母さんにはおばあちゃんが、杏子姉には桃子姉という守り神みたいな存在がいた。

 かくいう私は霊が見えるくらいで、自分に降りかかった低級霊による霊障をどうにかすることしかできない。別にそれで構わないのだけど。


 だって私はあくまで普通の女子高生なわけだから。




 数日後、私たちは佐久間さんの運転で例の山へと向かっていた。「そろそろです」そう言った篠原さんにつられるように私は後部座席の窓から景色を見回す。

 なんというか、田舎だ。それしか形容しようがない。四方をそれほど高くない山に囲まれてあとは田園風景のこの何もない風景にのどかという以外の誉め言葉が見当たらない。ここでの時間は大層ゆっくり流れているのだろう。

 桃子姉はというと同じ方向だけをずっと見ていた。呼ばれているということを桃子姉は理解しているのかもしれない。私にはそこまで理解ができない。


 車が停車する。アスファルトでなく、固いでこぼこした土の上。正面にある木から大きな枝が垂れ下がって緑の葉っぱがはらはらとフロントガラスに落ちた。私たちはさっそく車を降りて目の前に現れた自分のお腹ほどもない背の低い門を見据えた。佐久間さんたちはというと、誰もが苦い顔をしながらこの山に入ることを拒んでいるように見えた。


「梨子」


 桃子姉が私の名前を呼ぶので向き直ると、桃子姉は宙を見上げていてとても目が合いそうにもなかった。


「あんたには聞こえる?」


「え、ごめん。何の話・・?」


「そっか。ま、そうだよね。すごく弱弱しいもの。車降りた瞬間、赤ちゃんの泣き声がこの山にずっと反響してるの。それも一人じゃない。何人いるんだろうね」


「俺・・」須藤さんが声を上げた。「ここで赤ん坊に背中掴まれたんですよ」


「だろうね。そういうことがあってもなにもおかしくない。むしろ必然的だよ」


 桃子姉はようやく私たちの方に目線を合わせて「じゃ、行こっか」と軽い調子で言ってみせた。



「そういえばさ」須藤さんが山道を登りながら息を切らして言った。「佐久間お前あの時何言ってたんだ?」


「何って?」


「登ってる時だよ。何かぶつぶつ言って止まってたじゃないか」


「ああ」


 佐久間さんはその状況を再現するように一度山道で立ち止まった。


「ばあちゃんとよくここに来たって話しただろ。あの時、なんつーか、道は分かりやすかったんだ。こんな鬱蒼としたような道じゃなくって、ちゃんと人の通るところは開けてた。たぶんばあちゃんがきちんと草刈りとかしてたんだろうけどさ」


「あの、失礼ですがおばあさまは今・・」


「あぁ・・数年前に他界しました」


「・・それじゃああなたのおばあさまが亡くなってから誰もここに入ってない可能性があるってことね」


 桃子姉が自分の膝に当たったつるを撥ねながら言った。


「おそらくはそうなんだと思います。この場所を知っているのもごく一部の人間ですし・・やっぱり良くないんですか?」


 桃子姉は肩を落とした。


「そりゃ、もともとただの無縁仏だったものを変に祀り上げちゃって、あげく放置しちゃったらダメよ。だから歪んでるのね。この場所。やだなぁ・・帰りたいなぁ・・」


「桃子姉!」


 桃子姉の悪い口癖だ。面倒なのが分かるとすぐに帰りたいと言い出す。依頼人を前にしているからといってその態度は変わりない。社交性が皆無なのだ。


「分かってるわよ。あたしなりに放っておけないとは思ってるしね。ここでなんとかしないとどうなるか分からない。何もかもが歪すぎるのよ」


 桃子姉はそう言ってまたスタスタと歩き始めた。山を上るということを想定していなかったのか、丸出しにして蚊に刺された足を掻きながら。




「うわぁぁぁぁぁ・・やだなぁこれ」


 口を開いた桃子姉に無言で同意せざるを得ないのは、不愉快な重圧が私を襲っているからだ。急に開けたその場所は佐久間さんたちの話通り、人の手の入っていない山だと知れば誰もが異常を感じ取る場所。

 

「この場所にいぎょうさんのお墓があるんですよ。掘り返されてますけど」


 指さす篠原さんを見ることも無く、桃子姉は正面を見続けている。


「なーんでそんなことするかなぁ・・どうしていいか分からなくなっちゃってるよ。アレ」


「・・アレ?」


「あんたには見えない?梨子。霊魂が一緒くたになってぐっちゃぐちゃになってるの」


「・・見えるよ桃子姉」


 秀でた私の感性ではうまく映らないけれど、複数の人間がどういうわけか融合してしまったようなものが目に見えている。どこからどこまでが誰の体なのか、誰の目がそこにあって、その下にある口は本当にその目の持ち主のものなのか。こんな霊体は初めて見た。


「じゃあいぎょうさんが目の前にいるってことですか!?」


 須藤さんが怯えた声色で桃子姉に訪ねる。


「いぎょうさんって呼ぶなら・・ま、あれがもっともらしい形ね」


「大丈夫なんですかそれ」


「・・あぁ、手足がひしゃげてどうこうって話?あれはただの噂話に色んなひれがついただけでしょ。そんな力を持ってる霊なんてこの世にいないわよ」


 そもそも霊はこの世のものじゃない。


「それに、すごく弱弱しい。こういう、その場所に縛り付けられてる霊ってだいたい誰かを引き込みたくてしょうがないんだけど、彼らは必死で誰かを求めてる」


「誰かって・・それは俺たちの事ですか」


 桃子姉は須藤さんに向き直るとかぶりをふった。


「ううん。でもそう。彼らは生まれて間もない赤ちゃんよ?一番欲しいのはお母さんの愛情で、今はただ誰かにつなぎとめて欲しいだけ。右も左も分からない。自分は何者で、なにがしたいのか。それすらも分からない。だから求めてる。すがろうとしてる。そうすることでしか生きていけなかった子たちだから」


 ふと、須藤さんの目じりから一粒の涙がこぼれた。

 須藤さんが同調しかけている。まずいと思った私は駆け寄ろうとしたけど桃子姉が右手でそれを制止した。「いい。大丈夫だから」そんなことを言っても、このままではあれが須藤さんに完全に憑依してしまう。


「・・一応聞くけど、なんで悲しいか分かる?」


 須藤さんはなぜ泣いているのか分からないように、必死で涙を拭っていたけど首を縦に振った。


「・・夢を見たんです。ここに取り残されて、必死で何かを求めてた。寂しくてしょうがなかったんです。今桃子さんの言葉を聞いて分かったんです。これがこの子たちの気持ちなんだって」


「・・そっか。そうだよね。それじゃ悲しいよね」


 桃子姉はその背中に手を置いて、早くも須藤さんに憑いた赤子の霊を上げていく。それから桃子姉は霊の集合体の前でひざまづくと静かに目を閉じた。


「・・・・・ねぇ梨子。私、やっぱり人間が嫌いよ」振り向くこともせず、祈りながら私に話しかける。「ここでこうしてるとね、流れてくるのよ。この子たちの意思が。でもやっぱり、うまく形にならない。できないのよ。その形に。ただただ、泣いて誰かに気づいてもらおうとしてる。自分の体と同じくらいの暖かい手をただただ求めてる」


「・・彼らを埋めた大人たちは知ってたのかなぁ。彼らがこんなに無力だってこと。でも、分かろうとしなかったんだろうね。いろんな理由付けて、結局自分たちの都合で全部なかったことにして、殺した後も彼らを苦しめ続けた。彼らは何を思ってると思う?恨めしい?殺したい?憎らしい?違う。みんな同じ気持ちよ。お母さん、お母さんって暗い土の下でずっと泣いてた」


「・・・・ねぇ」唐突に桃子姉が振り返る「佐久間さん・・だっけ?ここにおばあさまと来てたの」


 急に名前を呼ばれた佐久間さんはすぐに「はい」と返事をする。私も急に佐久間さんの名前が呼ばれるとは思わなかった。


「あなたのこと知ってるって」


「知ってるって・・誰がですか?」


「この子たちに決まってるじゃない。なんていうか・・記憶で流れ込んできたのよ。背の曲がったおばあちゃんと、手を引かれた小さな男の子。このくらいの小さな缶に、飴玉持ってきておばあちゃんと一緒に手を合わせてたでしょ?」


 間が空いて佐久間さんが頷く。


「・・はい!そうです!なんかの缶詰の空き缶に飴玉入れて・・『いぎょうさんが好きだからあげようね』って・・子供ながらに粗末だなって思ってたんですけど」


「そっか・・じゃあこれ、きっと、ありがとうの気持ちなんだよ。だから昔のあなたの顔が流れてきたんだ。あなたもおばあさまもすごく暖かい表情(かお)してた」


 それを聞くと佐久間さんは黙って桃子姉の傍によってしゃがむと手を合わせた。私たちもそれに続いてみんなで手を合わせた。きっと、彼らを上にあげてあげられる力を持っているのはこの中では桃子姉だけなのだろう。でも、その魂が長い時を経て、ようやく安らかな眠りにつくことを祈ることはできる。だから私たちは手を合わせた。今度は愛に育まれて同じ過ちを繰り返すことのない大人になれるようにと。


「・・さて、まぁ一件落着かねぇ」


「でも、これだけでいいの?」


 なんというか、想像してたよりも随分と呆気なかったように思う。


「ダメだよ。とりあえずはもう一度きちんとお墓として立て直さなきゃ。上に上がったとしてもお墓は誰にだって必要だもの。それにここを管理する人がいなくちゃ結局無縁仏よ?それじゃあ浮かばれないじゃない。そういえばここを知ってるのはごく一部の人間だって言ってたけど、貴方以外にもいるのよね」


「はい。祖父はまだ存命ですし、家もこの近くです」


「じゃあおじい様たちに頼まなくっちゃね。貴方も遠いから毎日来いとは言わないけど、実家に戻ってきた時くらいここに手を合わせに来てね。たぶんあなたが来れば彼らも喜んでくれるから」


「はい。そうします」


「よし、とりあえず下山しましょっか。もう蚊に刺されまくってしょうがないわぁ。梨子かゆみ止め持ってる?」


「お姉ちゃんの格好見て持ってかなきゃって持って来たよ」


「さすが梨子だねぇ。かゆいところに手が届くわぁ」


 褒められても全くうれしくない。

 それでも私たちが去った後のいぎょうさんの眠る草原は温かみを帯びて、静かにそこに在った。まるで不安で泣いていた赤子が母の胸に抱かれて小さな寝息を立てながら眠る時のように。それはなんとなく嬉しいと思った。




 午後二時を周って私たちは比較的大きな日本家屋である竹本家に来ていた。佐久間さんの母方の実家である。庭では盆栽や白い花の植木鉢が並んでいて薄い水色のトラクターが置いてある。私の家も田舎にあるけれどこんなに庭は広くない。


 佐久間さんがインターホンを押すと数十秒ぐらいの沈黙の後で佐久間さんのおじい様がやってきた。おじいさまは「明弘、どうしたんだ。久しぶりだな」と挨拶をすると後方の私たちを見回して目を大きくしていた。思った通りの反応だった。


「いやはや、まさかこんなにお客さんを連れてくるとは。何も大したものは出せませんが」


「いえ、お構いなく。こちらも突然お邪魔してしまって・・」


 私の一礼とともにみんなも軽く会釈をした。桃子姉だけは子供みたいに辺りをキョロキョロ見回している。私が察知できる範囲で霊はいないと思うので単純に落ち着かないだけなのだろう。桃子姉はいつもそうだ。


「で、どうしたんだ明弘。こんなお客さん連れて」


 佐久間さんは俯いた顔を上げて口を開いた。


「じいちゃん。いぎょうさんってどうなってる?」


 尋ねられたおじいさまはしばらく膠着して、諭すように佐久間さんに返した。


「どういう理由があるのか知らんが、清子が大切にしていたものだ。近寄るべきじゃないと分かっているだろう。ましてや、部外者まで連れて・・」


「それについては謝るよ」


「俺に謝られても困る。あれは清子のものだ」


「・・もう行ってきたんだ。いぎょうさんのところに。酷い有様だった。婆ちゃんが亡くなってからあそこに誰も入ってないんだろ。こちらの二人は霊能者なんだ。いぎょうさんの所の管理をちゃんとして欲しいって言ってた。婆ちゃんがいないんだから、爺ちゃんにお願いしたいんだ」


 おじいさまは顔をしかめていた。怒っているというよりは何かを考えこんでいるように見えた。話を聞くに、いぎょうさんはおばあさまが一人で管理を行ってきたらしい。おじいさまはきっとあの山に入ることすらしなかったのだろう。


「・・誤解のないように言っておくが、何も好きで放っておいたんじゃない。清子が入院する数日前に『いぎょうさんのことは全部終わったからもうあの山に立ち入らなくていい』と言ったからだ。俺だって清子が大切に祀ってたことは知ってた。だから俺が代わりを務めようかと提案したんだ」


「・・・終わりだって?」


「今思えばもうあの時から認知症は進行してた。だが、いぎょうさんの下へだけは毎日のように訪れていた。だから清子の言うことを信じたんだ」


 私の頬に、静かな震えが走った。

 終わりとはいったい何なのだろうか。いぎょうさんを祀ることの何に終わりがあるというのだ。


「・・いぎょうさんのお墓は荒らされていました」桃子姉が真剣なまなざしで言う「掘り返されて、埋まっていたものもばらばらになって。いぎょうさんを知っている人はごく一部の人間だと聞きました。心当たりはありませんか」


「荒らされていた・・・!?まさか・・そんな・・」


 容疑者はおそらく限られている。そしてその目星もつく。一番あそこへ行っていたのは佐久間さんのおばあさまである。ただ、大事に手を合わせていたおばあさまがその墓を真っ二つに割って掘り返す。その動機は全くない。


「おばあさまは他に何か言っていませんでしたか?なんでもいいんです。どんな些細なことでも構いません」


 するとおじいさまは「電話をかけてくる」と居間を出て行った。私たちの間に重たい沈黙が走る。


「・・佐久間の婆ちゃんが墓を荒らしたなんてわけねぇよな?」


「ありえねぇよ。俺はまだ覚えてんだ。ばあちゃんに怒られた時の事。ばあちゃんが最後まで大事にしていたいぎょうさんだ。どうしてそんなことする必要がある?」


 考えたところで答えが出るわけでもなく、時間だけはゆっくりと流れた。


 日が傾き始めて竹本家に来客があった。「こんにちは」私たちに挨拶した老齢の女性は大きなスイカとジュースの入った袋をぶら下げて清子の妹の節子です。と名乗った。どうやら彼女もこの近くに住んでいたらしい。いぎょうさんを知るものの一人である。


「節子さんを呼んだのは他でもない。清子が他になんか言っていたかと聞きましたね。・・一つだけ心当たりがあったんです」


 切り分けられたスイカを運びながらおじいさまが言う。


「・・清子は無くなる前、毎日自分の下へあっちゃんが来てくれると嬉しそうに話していたんですよ。最初は近所の友達だと思っていたんです。でもその形跡はなかった。看護婦さんに聞いても『今日は旦那様しかいらしていませんよ』と。その頃には認知症も随分進行していたし、気にも留めなかった。節子さん、あんた何か知らないか?」


 おじいさまの言葉はもう確信に導かれての上での言葉のように思えた。そうでなければ彼女を呼んだりはしなかっただろう。


「あっちゃんねぇ・・」長い沈黙が続いて、それから静寂に声が漏れる「そういえば、私と姉さんの間にもう一人お姉さんがいるはずだったんですよ。どうなったかは聞いてないけど・・確かその子の名前が敦ちゃんだったかもしれないねぇ。ごめんなさいね、記憶がもう曖昧で」


 軽い口調の節子さんに対して私たちの空気は重く、佐久間さんの目は陰っていた。

 おそらくは墓を掘り起こしたのはおばあさまで、掘り起こさせたのは「あっちゃん」なのだろう。あくまで憶測にすぎないけれど。


 結局はおじいさまと節子さんでいぎょうさんのお墓参りをしてもらうことになった。おばあさまのように毎日は訪れなくてもいい。けれど彼らが無縁仏のままで終わらないように手は合わせてあげて欲しい。桃子姉はそう言って佐久間さん達とともに竹本家を後にした。


 空の低い位置に山吹色の月がぼんやりと浮かび、生暖かい風が私たちに吹いた。ひぐらしの声は遠く、もう間もなく夜が訪れようとしていた。


「なんか・・やりきれないよね」


 帰宅する車の中で車中の全員の心境を代弁するように桃子姉が声を上げた。


「あそこで感じたのは確かに感謝の気持ちだったのに・・眠りを妨げたのは毎日手を合わせてくれた人だったなんて」


 返す言葉もなく、私たちは黙り込んでいた。ラジオから流れる陽気なパーソナリティーの声がやけに響いていた。





 数年前、某日。

 その日彼女はいつものように起きて、いつものように支度をすると、いつものように山へと赴いた。ずっと昔、この村で蔓延した麻疹によって生まれてきた赤子のほとんどが奇形だったことを受けて、何者かの祟りだと、泣き声を上げる赤子を生きたまま山に埋めてその祟りを静めようとしたその場所へ。

 彼女の姉も奇形で生まれてきた。だが、その頃にはそういった迷信のために子供を生き埋めにするのは非常識だと考えられてきた時代だった。そして、彼女の母はおろかにもそれを行ったのだ。

 母は彼女に「あっちゃんは生まれてくることができなかったのだと泣きながら言った。ゆえに、あっちゃんがその山に生き埋めにされたことなど知る由もなかった。


 彼女はもうすっかり年を取ったが山に行く事だけはかかさなかった。門を開けて、山に踏み入るとふと、赤子の泣き声が聞こえた。数十年通い続ける彼女には初めての経験だったが驚くことはしなかった。彼女の認知症は進行しており、導かれるようにして山を登った。折れた鋭利な枝の先端が彼女の頬を切ったがまるで意に介さなかった。


「・・あっちゃんかい?」


 ぽっかりと開いた山の空き地にはいると片隅にあった幼少の記憶が突如蘇った。今は無き、見ることも叶わなかった自分の妹。どうしてそれが分かったのかは分からない。ただ耳に反響するこの赤子の泣き声が妹のものであるとは信じて疑わなかった。


 いつも手を合わせていた幼き子供が彫られた墓の前で彼女は立ち尽くした。手を合わせる。そのはずが彼女はあろうことか墓石を倒し、その真下の地面を道具も使わずに掘り出した。


 この下に自分を呼んでいる者がいる。爪の間に土は溜まり、皺だらけの指を細かく砕けた石が切った。地中で這うミミズすら切断し、現れた小さな骨を掬いあげると彼女は黄ばんで腐食しかけた骨を見ながら恍惚とした表情で呟いた。


「そうかい、あっちゃん。こんなとこにいたんだねぇ・・」


 数時間後、彼女は道路の真ん中で突っ立っていたところを警察に保護され入院となった。

 固い土を掘り起こしたせいなのか、両手の四本ずつの指が複雑骨折をし、ぐにゃりと曲がってそこから血を流していたのだという。彼女は痛みを訴えるようなことは無かった。病院から見える景色を眺めては一人ぶつぶつと何かを呟いていた。


 数か月後、彼女は持病であった肺炎で亡くなった。



 

 私たちが帰って数日後、佐久間さんから連絡があった。あれからすっかり霊障は無くなったという吉報だった。桃子姉は「当たり前でしょうが」と得意げに話していた。

 それから数か月たって、あの山の歩道に伸びていたつるや枝は無くなっていたと母親の実家に帰った佐久間さんが電話をかけてきた。一週間に二回程度は花と飴玉をやりにおじいさまが訪れているそうだ。

 それでもたまに、気のせいかとも思えるけれど赤ん坊の泣き声がすると話していた。


「全部なくなるにはまだ時間がかかるのよ。長い時間をかけて複雑になっていったものだもの。まっすぐ終われるわけないよ」


 電車の中で、街中で、母の胸に抱かれるあかちゃんを見かける度に私は思い出す。世の中にはそうはならなかった命があることを。母の愛を求めようと必死で泣き続けながら、誰も訪れることのない深い山に取り残されていた赤子たちのことを。


怖い話を作って話すのが趣味で、これも数年前に作ったんですけど、読んで見て分かってもらえたでしょうか。話すとすっごい長いの。もう、疲れるなんてもんじゃない。

こういう話はやっぱ読み物として読んだ方が良いですよね。ってことで小説として供養。南無阿弥陀仏。同じ理由で前作、木下さんのお守りも小説になりました。二度と怖い話として披露することは無いでしょう。羯諦羯諦波羅羯諦。

早乙女桃子さんシリーズ第二弾です。続きがあるかどうかは知りません。あと、タイトルを変更しました。以上。

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