いぎょうさん(前編)
猛暑続きの毎日だった。それはもう、昼間はもちろん熱帯夜が毎日のように続き、冷房なしには生きていく事さえ困難なほどに。社会人二年目の夏。俺たちは各自の休みが揃ったその夜、このどうしようもない暑さを和らげるために心霊スポットに訪れることを熱心に続けていた。
某県県道六号。この街灯一つない山道の先にあるトンネルは最恐の心霊スポットとネットで噂され、視る人はもちろん普段視えない人にもその恐怖は襲い掛かるという。
「なんか・・マジでやばくなってきたなぁ」
車のライトがあっても周りを見通すことのできない深い山道を見据えながら運転する篠原がぼつりと呟いた。
「気を付けた方がいいぞ。道が狭いんだからな」
注意を促すのは助手席に座った佐久間だ。心霊スポット巡りをするたびに乗りが悪い佐久間だが、だからと言って置いていくわけにもいかなかった。
「・・・あのさぁ。俺は道が狭いから気を付けろとかそういう言葉が欲しいわけじゃないんだわ。なんかあんだろ?これ以上行くと魔の手が俺たちに襲い掛かるとかさ」
「ねぇよ、んなもん。ただの山道だ」
「・・大したタマをお持ちのようで。須藤もなんか言ってやれ」
「佐久間が見えなきゃなんもないんだろ。たぶん」
佐久間が嘘をついていなければの話だ。でも、ただでさえノリが悪い佐久間が自分たちをビビらせるために視えているものを黙っているわけがない。それは分かっている。
「まぁ、そうなんだけどな。しかしこれで五件目だぜ。そろそろなんかあってもいいだろ。ネットに書いてあんのは全部嘘っぱちだってか」
「そうだ。俺の目にはなんも映らなかったんだ」
「じゃあお前霊感ないんだよ」
俺が佐久間に言うと、佐久間は振り返って俺を一瞥した。
「・・お前さ、普段良く行ってるって言ってた昔ビデオ屋だったコンビニあんだろ」
「・・ああ」
「あそこの駐車場にさ、いるぜ。顔潰れてる女が。んでずっとガードレールんとこ見てんだよ。あそこ、たぶん数年前に花束置いてあっただろ」
ごくりと息を飲んだ。確かに花束が置いてあったのを記憶している。佐久間はその花束が置かれなくなってから初めてうちのアパートに遊びに来た。事故があったのだと知る術は限られている。
「気を付けろよ。ああいうのは引き込むからな」
とんでもないカウンターを喰らって言葉を失った。
「ちなみに駐車場のどの辺だ?」
「さぁてね」
そ知らぬふりをして再び前を向いた佐久間はペットボトルのお茶を口に含んでしまう。
「手前佐久間!今度からあそこ寄れなくなっちゃたじゃねぇか!!」
車は一定の速度を保ちながら夜の山道を登っていく。その先に待ち受ける、黒く大きな穴に引き込まれることなど想像もしていなかったのだ。この時の俺たちはまだその恐怖を知らないでいた・・・。
「いねぇ」
トンネルのすぐ脇に車を止めて、懐中電灯を持った俺たちがその恐怖のトンネルへと入った瞬間に佐久間は闇に向けて言い放った。
「だあああっ!!!なんで!!なんでいねぇんだよ!!じゃあこのサイトに書いてある目撃談は何なんだよ!!旧日本軍っぽい格好の霊を見たとか、浴衣の首なし霊だとかはどこにいいるんだよ!!!」
篠原がスマホの画面を見ながら叫んだ。
「んなこと言われても知ったこっちゃねぇよ。むしろここは綺麗だ。なんつーか、澄んでる。空気というかなんというか」
佐久間がそう言ってみせるが俺と篠原にはおどろおどろしい暗い穴が見えるだけだ。小さな照明がトンネルの内壁に残る煤けたような跡を照らし余計に気味の悪さを増している。風は人の嘆きにも聞こえ、雰囲気だけでお腹いっぱいのトンネルを佐久間は普通に踏みしめている。見えるからこそ・・か。
「ここは失敗・・ってことですかね」
とりあえずはトンネルを往復して、結局何も起こらずに早々に車に乗り込んでシートベルトを締める。
「まだだ、まだ終わらんよ」
篠原は鋭い眼光でフロントガラスの先を睨んだ。まだ諦めてはいないようだ。
「この夏を、これで終わらせるわけにはいかない。なぁ、そうだろ?お前、俺たち何してたんだって話だよ。これじゃ」
「憑かれないだけ良かったじゃねぇかよ」
「憑かれたくはないが!霊障ってやつが欲しいんだよ!!声が聞こえたり、誰かに触られたりしてぇんだよ!!」
「変態かよ」
「うるせぇ!!!・・佐久間・・お前なんか知ってんだろ?お前だけだぞ、なんも案持ってこないの。俺と須藤はちゃんと探してんのにお前はまだ何も提案しちゃいないじゃねぇか」
「こんなとこ行かなくてもそこら中にいるって何回も言ってんだろうが」
「分かってねぇなぁ。俺も篠原も雰囲気のある場所じゃなきゃ面白くないんだよ。見えないんだからな」
「そうだ!なんか言ってみろ!!怖いとこあんだろ!!」
そうこうするうちに何の収穫もないまま車は走りだした。腐るほど木の生えるこの場所さえ、それが闇に溶ければ何も無いも同然の虚無をヘッドライトが照らしていく。
「・・一つだけある」
しばらく黙り込んだ佐久間が口を開いた。カーステレオから流れる音楽もそれなりの音量を出してはいたがはっきりとそれは聞こえた。
「だが、行くなら昼間だ。雰囲気求めて夜に行くってんなら絶対に連れて行かねぇ」
佐久間は太い声で一つ一つを強調しながら続けた。
「その場所では俺より先に前を歩くな。俺の言うことは絶対に聞け。何かあっても触れるな。そしてその場所を誰にも教えるな。ここにいる俺たち以外には誰もだ。それが約束できるのなら一つだけ教えてやる」
もはや怒りのようにも聞こえたその言葉に俺たちは静かに頷く他なかった。
今度こそ、何かが起こるのではないか。本来期待として訪れるはずのそれは妙な不安を抱え込んだままこの胸に去来した。
数日経ったその日、朝も早くから集合した俺たちは佐久間の運転で高速道路に入るとそのまま数時間進み始めた。その間、どこに行くのだとも佐久間は言わなかった。聞いても「すぐ分かる」と答えただけだった。
車から見える景色は山に覆われて、たまに田んぼや畑が青々と山のふもとで茂っているだけだ。もう少し行けば観光地やスキー場があるというのだがその手前で車は高速道路を降りた。
「これから行く場所では、まず何も起こらないと思う。それでいいな」
看板を見て右折した後で佐久間が言った。
「何かあるんじゃねぇのか?」
「何かあったら」佐久間は助手席の篠原を睨んだ「ただの霊障じゃ済まされねぇ」
この先も変わらなそうな田園風景。その言葉に手のひらに汗がじんわりと浮かんだ。
「実はこの場所、俺の母方の実家があるんだ。俺も良く遊びに来た。短い期間だったが数か月祖父母と一緒に暮らしたこともあった。婆ちゃんは毎朝必ず朝早くに起きてどこかへ行った。俺がどこに行っているのか尋ねると婆ちゃんはにっこりと笑って『いぎょうさんとこだよ』と言った」
「・・・いぎょうさん?」
「何日か続けて婆ちゃんに連れられてそのいぎょうさんのところへ行った。何の変哲もない小さな山だった。人一人通れるかどうかという山道を上ってようやくその場所に着いた。それまで鬱蒼と生い茂っていた森がぽっかりとその場所だけ開けた不思議なとこだ。そこに婆ちゃんは毎朝手を合わせに行ってたんだ。すると婆ちゃんは『一人でこの場所には来てはいけないよ』と念を押して言っていた。『お前の魂を取られてしまうからね』ってな。でも一回それを破って一人でいぎょうさんのところへ行ったんだ」
「それが婆さんにバレたのか?」
「あぁ。どうしてかは分からない。だが俺に対して一度も怒らなかった婆ちゃんは血相を変えて俺を怒鳴りつけた。今でも鮮明に覚えてるよ。なんせ爺ちゃんも親父もおふくろも止めに入ったんだからな」
「それほど危ない場所ってことか」
「だろうな。なんでも婆ちゃんが子供のころ、そこでかくれんぼした奴がいたらしい。一人がどうしても見つからないまま日が暮れて大人たちにその場所でかくれんぼをしたことを話した。大層怒られたがいなくなった子供の捜索は村中の大人全員集めて行われた」
「で・・見つかったのか」
「ああ。翌日の朝、すぐに見つかった。そのかくれんぼをした場所にいたんだよ。一人で取り残されてたそうだ。だがな・・その子は手足がひしゃげて曲がっていた。もはや人の形とは思えないほどいたる部位を折り曲げられていたそうだ。それでも息をしていた。正気じゃなかったみたいだがな」
「・・いぎょうさんってのはそういうことか」
異なる形と書いて異形。頭で出来得る限り再生されたその凄惨っぷりに俺も篠原も言葉を失った。
「俺の言っていることは分かったか?だからその場では俺の言うことを聞いてくれ。そして誰にもこの場所の事を喋ってはいけない。何も起こらないんじゃない。何かが起こってはいけないんだ。分かったか?」
俺たちは静かに頷いた。
その場所がどこなのか、すぐには分からなかった。車は県道を抜けて、より狭い道路を走っていく。対向車が来たらどうにもならないほどの田んぼの中心を走る狭い道をガタガタと揺れながら。そうして標高のごく低い山を脇に走っているとその突きあたりで停車する。
「・・まさか、着いたのか」
「ああ」
シートベルトを外して降車してドアを閉める。嘘だろう?
小さな門に入り口をふさがれた山への入り口。門さえなければ誰も入り口だとは気づかなかっただろう。振り返るとのどかな田園風景が広がっていて、家もぽつぽつと見えている。何もないとは家屋も無いということではなく、家屋が見えるからこそ、何もないのだ。これがもう少し秘境めいたところにあったのなら俺たちはもう少し何かを思うところがあっただろう。
「入るぞ」
そう言って佐久間は門を開けた。針金で縛られた『関係者以外立ち入りきんし』と手書きで書かれた木の看板は妙に古めかしく、マジックのインキが滲んでいる。佐久間は関係者なのだから現実的な意味で咎められることは無いだろう。
足を踏み入れると佐久間の話が本当だと再認識させられる。まさに人一人通ることができるかどうかという獣道。足元を見ていても自分の通る道を間違えるだろう。獣道まで伸びた背の低い木の枝や、つるが俺たちの行く手を遮っている。
ふと、前を歩いていた佐久間の背中にぶつかった。足元を見過ぎていたせいだろう。
「悪ぃ!でもどうしたんだ?急に立ち止まったりなんかして」
佐久間は答えなかった。代わりに周りを見渡しながら何かを呟いていた。
「・・すまねぇ。なんでもない。行くぞ」
そうして十五分ほどかけてそこに着いた。それまでに佐久間は何度も立ち止まっては何かを呟いていた。迷ったのかと思っていたが進めばその足取りに迷いはなかったように見えた。
ここがその場所だと、いちいち佐久間が言わなくても俺たちには分かった。その証拠に一番最初に声を上げたのは篠原だった。
「ここだろ」
「ああ、ここだ」
時間はようやく昼の十二時を周った。陽は高く俺たちの真上でギラギラと照りつける。その真下で俺たちは確かに異常な寒気の中にいた。皮膚に浮かび上がる鳥肌は何かを無意識に感じている様だった。
佐久間の話通り、そこは確かに異常だった。今までの道は人も歩くことが困難なほどそこら中に木が生えていた。セミの鳴き声もすぐそばで聞こえて腕や足を草やつるが撫でた。だがここはどうだろう。
セミの鳴き声は遠く、ぽっかりと口を開けたその広場は背の低い草以外生えることを許されていないかのようで異質で不快な解放感を覚える。端から端まで百五十メートル。大まかで言えば円形のその場所には何もないのだが何かある気がしてならなかった。
その何もない空間のどこか、もしくは何かに恐れおののいた俺たちは声を上げることもできない。無言でその地を踏みしめる。
「どうだ篠原?なんもねぇが満足はしたんじゃねぇか?」
篠原が神妙な面持ちでこくりと頷いた。佐久間の話を思えば当然なのだろう。
「でもさ、佐久間の話でおばあちゃんが毎日お祈りしてたって言ってたけど、おばあちゃんは何にお祈りしてたんだ?」
佐久間に尋ねてみる。というのも、ここには見た感じ何もないのだ。祀る対象が何にせよ、お墓や祠、その他もろもろ何かあってもいいはずだろう。だが、この場所にはそれがない。その事実が妙に胸を騒ぎ立てさせた。
「・・そういえばあんとき、お墓があったはずなんだ。立派なもんじゃないけど、小さな石に小さい人間が彫られてたんだ」
「小さい人間?」
「言ってなかったっけか。いぎょうさんってのはさ、もともと奇形児なんだよ」
「えっ・・」
「どのくらい昔かは知らないがこの村で一時期奇形児ばっかりが生まれるような年があったんだ。村人はそれを呪いだと思ったらしい。それで、村の隅のこの場所に奇形児を生きたままその場所に埋めて、それをいぎょうさんって呼んで祀り上げたんだよ」
「最初に言ってくれね?」
そうすればもっと身構えていただろうに。奇形児を生きたまま埋める・・。そりゃ昔は口減らしなんてものもあったのだろうがそう
だとしてもおぞましい。いぎょうさんもそれを行った当時の人間たちも。
「おい!!」
隣にいた佐久間が急に叫んだので背筋が跳ねあがる。
「篠原!お前俺より先に行くんじゃねぇって言っただろうが!」
見れば、この場所の一番奥で篠原は佇んでいた。佐久間の後を追って篠原の下へ行く。
「この場所がどんな場所かってあれほど・・」
「おい」
篠原が目を大きく見開いたまま俺たちを見ている。その腕は前方に伸びて、指は地面を指している。
「これ、まずいんじゃねぇか」
篠原が指を指すその先、佐久間の言っていた小さな人間の彫られた墓石は倒され、真っ二つになり、その下の地面が掘り返されたような跡を残している。乾いた地面のうえには小さな骨のようなものまで見えていた。
「っ・・まさかお前!」
「俺じゃねぇよ!!」篠原が声を張り上げる「俺じゃねぇ!!こんなことするわけないだろ!!」
「じゃあ誰がやったっていうんだよ!ここ知ってる人間は俺たち以外には何人もいねぇんだぞ!」
「でも俺じゃねぇよ!!」
叫ぶ篠原。佐久間にも分かっているはずだ。篠原はそんなことをしたりしないし、墓を掘り返す時間なんてなかった。手掘りなら数時間はかかりそうなほどの穴が空いている。もちろん篠原の服は汚れてはいない。
「じゃあ誰が・・!」
急に噴き出した汗を拭いながら佐久間が頭を抱えた。
「分かんないけどさぁ・・ここ逃げ出した方が良いんじゃないか」
「そうしようぜ。なんか・・すげぇ嫌な空気になって来た」
その場所から見える空は透き通る青を一面に広げ白色の陽光は余すことなくこの場所を照らす。だが、それでも不吉が俺たちをなじる。一刻も早くここから逃げ出したい。そう思うと足を速めずにはいられなかった。
それは森に入った時に唐突に訪れた。
ヴヴー・・ッ。ヴヴーッ。
何かが唸るような声。動物ではない。それははっきりと分かってしまった。いまだ遠くに聞こえたその声に俺たちは顔を見合わせた。ただそれだけで、来た道を戻っていく。声を上げる余裕すらない。アレに捕まれば最悪生きては戻れない。
だがそれも走り出して三十秒ほどで霧消する。
「どうしてだよ・・」
篠原が声を上げた。何のことを言っているのかすぐに分かった。
「どうしてこんな暗いんだよ!!!」
時刻は十二時半前。滞在時間は予想よりもずっと短く、これから家に帰っても日はそれなりに高いところにある。陽光は木の葉で遮られ、それでも木漏れ日として森を照らす。そのはずだ。
なのに、前が見えない。真っ暗ではないのだが、日の陰り方が尋常ではないのだ。見上げればそこにある光も自分たちの周りでは機能していない。例えば突如訪れた夕立。暗く黒い雲が陽の光を遮って夕方ごろとは思えないほど暗くなるような、あの感覚に似ている。だが今現在入道雲ははるか遠く。晴天もいいところなのだ。
荒れ果てた獣道をすぐに見失う。
ヴヴーッ。ヴヴーッ。
おそらくはこの森に入った序盤でとうに道を外していたのだろう。腕や足が枝に切られた痛みを訴え始める。
「今、降りてるよな!!ちゃんと!降りてんだよな!!」
「知らねぇ!!でも走れ!!走ればそのうち着くだろうが!!」
ヴヴーッ。ヴヴーッ。
謎のうめき声はすぐ傍なのか遠いのか、よく分かりはしない。分かりたくもない。ただ走るしかないのかもしれない。
ふと、体が浮いて地面に叩きつけられる。比較的尖った石や枝が自分の腕を抉るようにして傷をつけた。
「っだあっ!!」
「須藤!!」
「走れるから大丈夫だよ!!」
そう叫んで体を起こし、すぐさま走り出したその時、シャツが何かに引っかかった。ぐいと引き寄せられたその時、耳元で声が聞こえた。
「ア゛ア゛-ッ!!」
先ほどから聞こえていた唸り声ではなく、確かに聞いたことのある赤子の泣き叫ぶ声が鼓膜を蹂躙した。
「うわあああああ!!!!」
恐怖に引きつりながらも転がるようにして三人で山を駆け下りる。その先に見えた先ほどの狭い道にひとまずは安堵の念を覚えつつも俺たちは車に飛び乗った。その時、門からは六十メートルほど離れていた。完全に道を踏み外していたらしい。
佐久間がエンジンをかけて車が急発進する。バックミラーに映った山の入り口が小さくなるとようやく誰もがため息をつき、自分の体に刻まれた痛みを思い出す。服はもうボロボロになっていた。
高速に乗るまで、誰もしゃべらなかった。サービスエリアで飲み物と軽食を買い、車中でようやく篠原が口を開いた。
「・・・なんだよ。アレ」
「いぎょうさん・・じゃねぇのか?」
「分かってるけどさ・・俺たち大丈夫なのか?佐久間、お前なんか見えるか?」
「・・いねぇ。マジだ。なんもいない。とりあえず憑いてないはずだ」
「俺さ」自分の身に起こったことを二人に話すことにした「転んだだろ?あの時。何かに引っかかったんだよ。しばらく木の枝にひっかかったんだと思ってた。でも違うんだよ。思い返せばさ、あれ、赤ちゃんの手に捕まれた感触なんだよね」
「気持ち悪いこと言うなよ・・」
「俺が一番気持ち悪いんだよ!こんくらいの、ちっちゃい手で掴まれた・・!!」
「もういい。やめろ。お前には何も見えない。憑いてないから忘れるんだよ。今日の事全部」
「そうは言ったって・・」
「何もかも全部終わりだ」
佐久間はカーステレオの音量を上げていく。今日起こったすべてをかき消すように。ようやく日が傾いてきた頃、良く知った街並みが俺たちに見えた。
何もかも終わったはずだった。
その晩、酷い悪夢を見た。俺は事もあろうに今日のあの場所に取り残されてその場から動けずにいた。逃げ出したい、というよりは何かを求めていた。その場所にいることは何も問題はない。ただ、何かが欲しかった。形容することのできない何かを。
風は何もないその場所に吹き曝すばかりだ。その静謐とも言える場所に踏み出すこともできぬまま寂寥だけが俺を襲った。悲しい。そう。悲しいのだ。切なくて、本来そこにあったものを失ったことに俺は泣き続けた。なぜ?理由を考えても出てはこない。すべて雲散霧消する。
陽光はいつまでもこの場所を照らし続けた。その暖かな光が欲しかったわけじゃない。俺はその暖かいものを知っていた。だが、その時俺は、世界中でただ一人の人間だった。
目を覚ますとまだ闇の中で、時計の針だけがカチカチと音を立てている。体に馴染んだベッドと枕。その枕を自分の目から流した涙が濡らした。いまだ胸に残る寂寥が何かの名残のように残っている。別に俺は何かを失ったわけではないのにこの胸に空いた穴はどこか生々しかった。
その時、ドンと強い衝撃が自分を襲った。衝撃ではないのかもしれない。ぬっと宙から圧迫されるようなその感覚は最悪なことに人生で最初の金縛りであることを理解した。
体が動かない。まるで自分の体ではないかのようだ。声を上げようとすれど潰れて動けない。これはまずい。どうにかもがこうと試みる中、声が静寂を裂いた。
「ア゛ア゛-ッ!!」
昼間に聞いた赤子の鳴き声。体中の血が凍り付いてもがこうとする体に拍車をかける。だが、それでも、動かない。まるで動きはしない。ふいに布団の下で何かが俺の足を掴んだ。確かにあの時俺のシャツを掴んだ小さな、小さなその手。それはゆっくりと俺の体を徐々に上っていく。
「や・・やめ・・・」
空っぽの声が喉を通って出て行く。小さなその体はとうとう肌着を掴んで盛り上がった布団の中から顔を出した。半分以上へこんだ顔の赤子、おそらくは骨が変形しているのだろう。その手はぐにゃりと曲がり肩を掴む。
赤子は開くことのないだろうまぶたから一粒の涙を流しながら泣き叫んだ。
「ア゛ア゛-ッ!!!!」
その晩、全員が仕事終わりだったにもかかわらず佐久間と篠原でファミレスにやってきた。
「単刀直入に言うけどさ」
オーダーをしてすぐに話を切り出した。
「俺・・赤ん坊連れてきてるかもしれない」
二人が同時に息を吐いた。
「お前もか・・」
「佐久間、お前も連れてきたのか?」
「俺もだよ」
篠原も声を上げる。聞けばここにいる全員がほとんど同じ時刻に赤ん坊の霊に遭遇したという。俺が見たものと姿形は違えど状況は同じだった。
「佐久間、お前居ないって言ったよな」
「言った。そして見てなかった。でも嘘はついてない。俺だって全部が全部見えるわけじゃないんだよ。とりあえずお祓いしてもらうしかないだろう。すぐにでも休みあわせて行くぞ」
その晩、二人は俺の家で泊まった。幸い、赤ん坊の幽霊を見ることはなかったのだが、佐久間は見たと言っていた。その翌日の晩は現れてしまった。この前と同じようにふとんの中に現れて泣き叫んだ。お祓いが待ち遠しかった。
三日後には全員の休みが合い(というか強引に合わせたのだ)、そう遠くない神社でお祓いをしてもらった。そこで何かが変わったような気はしなかった。神社を出ても何かが残ったままだった。
案の定、その晩にも彼だか彼女だかは現れて泣いていた。首を絞められるわけでも無いがただ怖かった。どうして欲しいんだ。俺に一体何ができる。あそこに立ち入ったのは悪かったよ。でも俺には何もできないんだ。どうしたいのか。何をしてほしいのか。赤子は泣き叫ぶだけで何も言わなかった。当然と言えば当然なのだが、その事実は霊障に悩む俺を苦しめた。
そんな日が続いて、佐久間の姉の知り合いに霊能者がいると話が上がった。藁にもすがる思いの俺たちはすぐにコンタクトを取って待ち合わせの喫茶店にやってきた。
「お待たせしました」
先に来てコーヒーを飲んでいた俺たちに一礼とともに挨拶したのは見た感じで言えば女子高生くらいの女の子と、その横に来て軽く礼をしたワンピース姿の女性。年齢は分からない。自分より若いと言えば若いし年が上だと言われればそれはそれで納得するのだろう。女子高生の方が先に口を開く。
「早乙女梨子です」
「早乙女桃子です」
二人は姉妹なのだろうか。それにしてはあまりにてないような気がする。そもそもどちらが霊能者なんだ。二人合わせて霊能者なのだろうか。
「ほら、お姉ちゃん。何があったか聞かなくっちゃ」
「・・分かったわよ。んで、なにがあったの?」
低血圧気味に尋ねられた質問に三人でこれまでの経緯を語る。
「ふーん・・」桃子さんのほうはあまり興味がなさそうに頷いていた「・・まっどっちみち行かなきゃなんないだろうね。その、いぎょうさんのとこにさ」
その言葉に俺たちは顔を見合わせる。
「・・行かなきゃダメなんですか?」
「根源をどうにかしないことにはねぇ。貴方たちに憑いてたそれ、生霊みたいなものだもの」
「生霊・・?」
「例えよ例え。生霊はその生きてる人間をどうにかしないことには完全な解決には至らない。根源をなんとかしないことにはお祓いも効果ないわよ」
「ああ・・」
「でも、とりあえずさっきその赤ん坊たち貰っちゃったからとりあえずは大丈夫よ」
「貰っちゃったって・・そんなポケモン交換みたいに・・」
「ポケモン交換する方がずっと難しいわよ!あたしのゴーストはいつまでたってもゲンガーにならなかったもの・・」
「桃子姉!」
恨めしそうに語る姉をしかりつける妹。この人たちは大丈夫なのだろうか。
「とりあえず予定付けて行きましょ。そのいぎょうさんのところ」