第七話 釜茹刑
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朝起きると、リンゴだった。
いつものパンの香りはなくて、代わりに山ほどのリンゴがあった。
私は、自分の横に置かれたリンゴ満載のバスケットを見て、不思議に思った。なんだろう、このリンゴの山は。そう思いながら、半身を起こす。
正面にオグロ先輩がいた。吃驚した。
彼はベッドの端に座っていて、しゃりしゃりとリンゴを丸齧りにしていた。起きた私に気づいて、「おう、おはようさん」と余裕綽々の顔で言う。
私は、寝起きの顔に自信がなかったから、慌てて布団を被った。厳重に布団で身体を隠して、目だけを隙間から覗かせる。どうしよう、寝顔にも自信がなかった。見られただろうか。どうしよう。
「なんだなんだ、いきなりどうした、リュウ?」
「どうして、こちらに?」
「いや、対策会議の結果を教えてやろうと思って。あと、そのリンゴは見舞いだ。課長が『なんでお前じゃなくてリュウちゃんが寝込んでるんだ死ね!! やっぱり生きろ!! 生きて見舞いを届けてこいリュウちゃんのために生きろ!!』だと。相変わらず怒濤のような方だった」
「はぁ、諸々ありがとうございます」
「体調を崩していると聞いていたが、どんな塩梅だ?」
「熱は下がっているように感じます」
「それはよかった。リンゴ食べるか?」
「いただきます」
オグロ先輩でも、流石に他人の分のリンゴは剥いてくれるらしい。
持参していたであろう果物ナイフで、器用に皮を剥き、気づくとウサギ型になっていた。私が目を丸くしていると、「いや、ウサギは好きだったろ?」とか言うので困る。朝からこれは困る。何というか、不意打ちは卑怯だ。
私がいろいろな葛藤を交えながらリンゴを食べ終えると、オグロ先輩が「もういいだろうか?」と切り出した。「はい、食べ終わりました」と布団越しに答える。
「さて、それじゃあまず現状からだ。下水道の放流口は今、警察と共同で監視と封鎖を行っている。目立った動きはないから、多頭蛇はまだ下水にいると思われる。それで対策会議の内容だが、単刀直入に言うと、あの〈超再生〉への対応案は、二つあった。茹でるか、刻むかだ」
「料理みたいに聞こえます」
「ああ、俺もそう思った。ネギみたいだなと」
なんとなく、二人で頷き合う。
いかん、寝起きのせいか、思考が散らかっている。
話を本筋に戻さなければ。
「その二つの案は、どちらも〈超再生〉を破れると」
「理屈の上ではな。リュウがあれの頭をぶっ飛ばしたとき、飛散した肉片から〈超再生〉は起きなかっただろう? あの多頭蛇も、ある程度まとまった〈生きた細胞〉がないと、身体を復元できないんだ。デタラメな回復力ではあるが、プラナリアほどではないというわけだな。当然、不死身でもない」
「なるほど。では、先ほどの二つの案は、アプローチが微妙に違うんですね」
「流石だな。その通り。茹でる方は――〈超再生〉ができないよう、まとめて全部の細胞を殺してしまおうという発想だ。熱でもって均等にすべての細胞を破壊する。対して、刻む方は――再生不可能なほど、一つ一つの肉片を小さく分割してしまおうという発想だ」
「どちらになりましたか?」
「茹でる方に決まった。まぁ、妥当だな。刻むやり方は、失敗したときのリスクがデカい。肉片の大きさを間違えば、多頭蛇が二匹、三匹増えるってこともあり得る。それこそ、プラナリアみたいにな」
確かにそれは、ぞっとする話だ。
今回の多頭蛇は、過去の棄獣と比べても、頭一つ抜けて対応が難しい。棄獣課も総力戦になるだろう。
私は布団から頭を出して、やや前のめりに確認した。
「具体的な配置は、どうなりましたか?」
「まず第一班が下水道に潜って、多頭蛇を誘い出す。続けて、第三班が〈鍵管理者〉の準備した特製の釜にあれを閉じ込める。釜の設置場所は、俺たちが入った放流口になっている。釜がデカすぎて、下水道の中まで持ち込めなかったそうだ。んで、そこまでいけば、後は煮るだけ。流れはざっとこんなんだ。細かい方法は、各班で詰めている。決行は今日の正午の予定だ」
「第二班は何をするんですか?」
「待機だ」
「…………それだけですか?」
「まぁ、不測の事態が発生すれば、それに対応はするが、そうだな。基本的には待機だけだ。やることはあまりない」
それはつまり、第二班がこの件から外されたということか。
どうして……かは、わかる。私のせいだ。
班の行動は、二人一組が原則だ。私の怪我や体調不良の程度が不明では、オグロ先輩を作戦に組み込めない。少なくとも、〈万全に動けること〉を前提とした配置はできない。課長ならそう判断するだろう。当然だ。それが仕事である。
でも、私は悔しかった。
オグロ先輩が軽んじられてしまったように感じるから。
それも私のせいで。
私は、彼がどれほど優秀な衛生官かを知っている。
スワンは〈歩く最終兵器〉などと茶化すけれど、彼の実力を鑑みれば、的外れな表現ではない。本当ならもっと評価されていても、いいはずなのだ。
「前にも言ったが、謝るなよ」
「まだ何も言ってません」
「いや、お前の頭がこう、徐々に下がっていたからな。平身低頭って感じで」
オグロ先輩が、右手を使って平身低頭の変遷を再現する。
私は仕方なく口を噤んだ。でも、不満なものは不満だし、もどかしい。
オグロ先輩は「そう不満がるな」と、私の頭をがしがしと雑に撫でた。雑に撫でるのが癖になっている。困った癖だ。
「これも昨日言ったが、リュウはよくやったさ。お前のおかげで、この作戦は成立したようなもんだ。第二班の功績としちゃあ、それで十分過ぎる。他の班の顔も立ててやらんとな」
「しかし、それでは、オグロ先輩が……」
「相棒の誉れは、俺の誇りだ。まっ、そういうことだから。俺は念のために放流口で待機しておくが、お前は今日一日は寝ておけ。課長には俺から伝えておく」
それだけ言い残すと、オグロ先輩は病室を立ち去ってしまった。
私は布団に包まって、「ううー」と恥ずかしいやら、悔しいやら、ちょっと嬉しいやらと、起き抜けの頭では処理しきれない情報量に悶えた。
〇
「そろそろだ……」
太陽が中天に至るのを見て、そう呟いた。
釜茹作戦の開始時刻。
私はまだ病室に残っていた。
担当医の検診が終わり、退院の許可は下りたのだが、着替えがなかったのだ。ここに運ばれたときの制服は、下水に落ちたという理由からすでに廃棄されていた。
ちなに〈出会い〉と〈別れ〉は、スワンに確認したところ、すでに回収済みらしい。だとすれば、今は〈鍵管理者〉が保管しているのだろう。
私は、ぼうっと窓の外を眺めながら、着替えが届くのを待つ。
スワンが「着替えなら私が見繕ってくるわよ。そのダサい病衣で出歩かせられるもんですか」と言ってくれたので、彼女の好意に甘えていた。デートのときは、食事代くらい持とうと思う。それはそうと、同性同士でもデートと呼ぶのだろうか。呼ぶのかもしれない。そんな益体のないことをつらつら考えていると、スワンが帰ってきた。
「お待たせ。買ってきたわよ、服」
「ありがとう。でも、わざわざ新しいのを?」
「私のだと丈が厳しいでしょ。まっ、古着なのは勘弁ね」
「ごめん、いくらだった?」
「安物だから気にしないでいいわよ。それより、早く着替えて着替えて」
スワンが何か期待した目で急かす。
不穏なものを感じながら、渡された着替えを見る。別に変なものじゃない。何を期待していたのだろう。そう思いながら、白いブラウスを着て、黒いズボンを履く。サスペンダーもあるから、それも使っておく。あと靴下。
うん。別に普通だ。仕事柄、ズボンも履き慣れているし。
でも、スワンはご満悦の表情。彼女の趣味的にはこれがいいらしい。
「やっぱりもとが良いから、シンプルでも栄えるわね~」
と自画自賛というか、自分の選択の正しさに見蕩れていた。まぁ、サイズさえ合っていれば、私としても文句などない。動きやすくて助かるくらいだ。髪をまとめるのは、今日はやめておこう。仕事でもないし。
「そういえば、棄獣課の作戦ってそろそろ?」
「もう始まってるはず。今ごろ、第一班は下水道だと思う」
「上手くいくといいわね」
「大丈夫。一班と三班が動いてるから」
「それもそう……ねぇ、下が騒がしくない?」
そう言って、スワンが病室の窓を開けた。遠くの喧噪が入り込む。
かなり離れているが、確かに何か騒いでいる。
私は胸騒ぎを覚えて、窓から身を乗り出した。通りを行く人たちが、何かに追われるように同じ方向に走っていくのが見える。背後から声が掛かった。
「スワン、急患が入ったわ。手を貸して頂戴」
振り返ると、スワンの先輩らしき衛生官がいた。かなり急いでいるらしく、声だけ掛けるとすぐに走り去った。スワンも「ちょっと行ってくる」と間髪入れずに後を追う。
同時に私も走り出した。
嫌な予感がしていた。
廊下に飛び出し、階段を二歩で駆け降りる。受け身を取って、さらに走る。
玄関ホールで、見慣れた制服と擦れ違った。第三班の衛生官が、担架に乗せられて奥に運ばれていた。嫌な予感が、さらに現実味を帯びていく。
私の脳裏で、今朝のやり取りが思い出された。
――不測の事態が発生すれば、それに対応するが、
私は衛生局に向かう。
もしも、彼の言っていた〈不測の事態〉が起きていたのだとしたら、私がまずやるべきことは〈現場に急行すること〉ではない。素手の私では、役に立たない。
だから急ぐ。
張り裂けそうになる心臓を堪えて、足を動かす。
もしもそうなら、私には〈彼女ら〉が必要だった。
最低最悪の現実に向き合うために、
デタラメな壁を突破するために、
あの日の決意を貫くために、
私には、あの双子の杖が必要だ。