第六話 漂流者
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その晩、私は熱を出した。
頬や胸のあたりがぼうっと火照って、全身がゆっくり脈打つような感じがする。汗もかなり掻いていた。患者用の病衣が、肌に纏わり付くようで気持ち悪い。それに吐き気もあった。完全に体調不良だ。
下水に落ちたからかな。
でも、発熱の症状があるから、コレラではない。
あれになると、低体温の症状がでるはずだから。
こんなとき、自分の知識である程度の判断ができるのは嬉しい。安心するし、ダメならダメで覚悟ができる。勉強した甲斐があった。
本当に怖いのは――これからどうなるか、何もわからないことだから。
「リュウ、入るわね」
スワンが手押しの台車を引き連れて、病室に現れた。
台車の上の燭台が、暗い深夜の病室から、彼女の顔を浮かび上がらせる。スワンは嫌な顔ひとつせず、寝ずの看病をしてくれていた。
清潔な布で私の汗を拭き取り、定期的に飲み物を運んでくれる。
『先輩に頼んだら、リュウの担当は私に任せてくれるってさ。だから今晩は、私がずっと付いててあげる。アンタ、知らない人に触られるの苦手でしょ?』
と、彼女なりに気を遣ってくれたのだ。
実際のところ、それはすごくありがたかった。
「リュウ、少し身体を起こすわよ」
そう言って、私の身体を支え上げ、背中の汗を拭ってくれる。冷たいタオルが気持ちよくて、私は「はふぅ……」と弛緩した声が出た。それを聞いて、スワンが苦笑する。
「次は着替えも持ってくるから。さっ、これ飲んで。ハチミツ入りの紅茶。それもスワン様の特製よ。男相手なら金取れるんだから」
「ありがとう。今日のスワンは優しい気がする……」
「どういたしまして。そして、それって失言よ。私はいつでも優しいじゃない、アンタに対しては」
「そうだっけ?」
「そうよ」
スワンはしれっとした顔で、「いいから、飲みなさい」と言う。
私は差し出されたカップをもらい、ぐいっと傾けた。温かくほのかにとろみのある液体が、優しく喉を滑り降りていく。美味しい。
「飲んだわね。はい、カップを頂戴。トイレはいい?」
「うん。大丈夫。ありがとう」
「そっ、何か欲しかったら言ってね」
スワンはカップを台車に片付けて、私を横にした。ゆっくり、丁寧に。すぐに掛け布団もかけてくれる。手慣れている。まるで看病のプロみたい……と思ったら、そうだった。普通にプロだった。
熱でどうかしているのかも。
ぼんやりした頭で、ぼうっとスワンを見る。
小さな顔だ。ちょっと釣り上がった意思の強そうな目と、ふっくらした唇。女の私から見ても、大人っぽい色気があった。手足の血色は健康的だけど、すらっと細いからか、乱暴に扱うと壊れちゃいそうに見える。前髪を払う仕種とかも、うん、可愛いというか上品な感じだ。
どこからどう見ても、完璧に女の子だった。
いっそ理想的ですらある。
私はなんだか、とてもすごいものを見ているような気がしてきた。
「どうしたのよ、私の顔に何かついてる?」
「いや、女の子がいるなと思って……」
「そりゃまぁ、そうでしょうけど。何よそれ?」
スワンが呆れたように笑った。
いや、すごいと思って。と素直な感想を表明する。スワンは「はぁ、どうも」と不思議そうに応じた後、「うん?」と眉を寄せた。
「アンタだって、女の子じゃないの、なぜに驚く?」
「いや、女らしさという概念がありまして……」
「自分にはないって?」
「足りてない気がする。うん。ちょっと今、そんな気がしてきた。たぶん。女らしい女は、下水には落っこちないと思う」
「まぁ、男も女もあんまり下水には落っこちないとは思うけどね。何よ、棄獣課から移る気になってくれたわけ?」
「それはない」
「ねぇ、そんなにあの巨人がいいの?」
「そういう話ではなく」
「じゃあ、どんな話よ。もともと、なりたくてなったわけじゃないんでしょ?」
そう訊かれて、返答に窮する。
答えに困ったわけではなかった。私が棄獣課にいたい理由は、今ではハッキリしている。少なくとも、自分の中では。
ただ、それを言葉にするのが難しいのだ。
スワンはしばらく待った後、「大丈夫よ、無理に説明しなくても」と私の額に手を伸ばした。彼女の冷たい指先が、私の眉間のしわを解きほぐす。
「それより、アンタはさっさと寝なさい。早く元気になって、話の続きはそれからにしましょう。そうだ、デートしましょう、デート。約束よ」
そう言うと、彼女は汗を拭いた布やら氷嚢やらを片付けて、台車にまとめた。その台車を押して、流れるように病室から立ち去る。
勝手にデートの約束を取り付けて、有無を言わさない。
なるほど、すごい手際だと感心する。
私は、友人の女子力に感銘に近いものを受けながら、瞼を落とす。
考えているのは、私が棄獣課にいたい理由のこと。あの大切な友人に、できればきちんと伝えたい。どうして、あの場所で働きたいのか。
私が教えてもらった、漂流者に纏わる話を――――
〇
熱に浮かされて、浅い眠りを繰り返す。
その中で、私は夢でも見るように、かつてのことを思い出した。
実際に夢だったのかも知れない。でも、夢と呼ぶには少しだけ都合が良すぎたように思うから、あれはきっと思い出していたんだと――そう思う。
あれはまだ、私が棄獣課に配属されたばかりのことだ。
当時の私は、この仕事を嫌っていた。今だって楽しい仕事だとは思っていないけれど、それとはまた別の話だ。
好きか嫌いかの話。
仕事に持ち込むようなものではなかったかも知れないが、それでも厳然として、その気持ちは存在した。私は、棄獣課の衛生官であることが嫌だった。
理由なんて決まっている。
この仕事が、生き物を――霊獣を殺すからだ。
棄獣課が相手にする霊獣のほとんどすべては、人間の手によって街に連れて来られたものだ。そして、捨てられたとか、管理者の能力を超えてしまったとかで、彼らは棄獣――市街地に出没した制御されていない霊獣――と呼ばれるようになる。
人間の欲のために生息地から攫われ、人間の手に余ったから棄獣と呼ばれ、人間の生活を脅かすから殺される。徹頭徹尾、人間の都合だ。
棄獣課は、その〈人間の都合〉の終着地点なのだ。
人間のエゴが、霊獣を殺す。そして、棄獣課は〈人間のエゴ〉の最後の担い手だ。
あれはとても気持ちの良くない仕事だった。
その日、私とオグロ先輩はある邸宅を訪れていた。そこはいわゆる成り上がりの家で、最近になって上流階級の仲間入りを果たした一家が住んでいた。
私たちはその一家から、棄獣を預かることになっていた。
帯電兎。
長い体毛に静電気を溜めて、その電撃によって捕食者から身を守る、低位の霊獣だった。毛深くてもこもこした姿は、とても愛くるしいものがある。ぬいぐるみのような外見なのだ。
その一家は、上流階級との付き合いで鹿撃ちに行った際、帯電兎を見かけて捕まえたらしい。子どもへの土産としてだった。また低位の霊獣を飼育することが、上流階級の人々の間で流行っているからでもあった。
その結果、彼らは持て余した。
『それのせいで、お坊ちゃんが怪我をした。もういらないから処分してくれ』
男使用人がそう言った。
私が彼を殴り倒さなかったのは、オグロ先輩が私の片手を掴んでいたからで、もう片方の手が帯電兎のケージを握っていたからだ。
決して自制が利いたからではなかったし、奥歯が軋むほどに悔しかった。オグロ先輩を恨めしい目で睨んだりもした。どうして殴らせてくれないんだと。
――命をなんだと思っているんだ。
そう叫んでしまいたかった。でも、口にできなかった。
だって、その命を摘み取ることが、私の仕事なんだもの。
私は衛生局に戻るまで、ケージを抱いて泣いていた。泣きながら歩いていた。子どものころ、兎小屋で過ごしていた時間を思い出した。突然、裏切りものになってしまったような気がした。私はもうあの小屋の中には戻れないのだ。こんな仕事がしたくて、勉強していたわけじゃない。そう思った。
でも、勉強して何がしたかったのかを考えると、何もなかった。
流され続けた末の消去法が、自分なのだから。これはそのツケだ。
衛生局に着くと、オグロ先輩が「一時保護棟には、俺が連れて行く」と言って、帯電兎を連れて行った。私は自分の机に戻って、辞表の書き方について考えていた。
〇
その日の帰りだ。私はお酒を飲むお店にいた。
流され性の私が、オグロ先輩の誘いを断れなかったからだ。
お店は女性店主が切り盛りする大衆酒場で、まわりにはお年寄りが多かった。顔馴染みが集まる店らしかった。
私とオグロ先輩は、カウンター席に並んで座っていた。
今思うと、すごいことをしている。まぁ、当時の私にとって、先輩は「がさつで、大雑把で、デリカシーのない上司」くらいの認識だったから。
「ライトハウスはどうして棄獣課に来た?」
オグロ先輩は、安めの葡萄酒を呷りながらそう訊いた。
「なんとなく流されていたら、こうなりました」
と嘘偽りなく答えた。軽蔑されるかなと思ったけれど、お酒が入っていたのと、どうせもう辞める予定だったので、言えてしまった。
彼はなるほどと頷いた。続けて、「ライトハウスは漂流者だったんだな」と納得したように言った。
「何ですか、それ?」
「どこからか流れ着いたヤツのことだ。うちなんかには、割と多い」
「そりゃそうですよ。こんな仕事、望んでやるもんですか……」
「酷い言いようだが、まぁ、気持ちのいい仕事ではないわな。特に今日のとかは」
「あんなの、最悪ですよ……」
「なるほど。そうか。ここを辞めるつもりか」
「悪いですか?」
「悪いとは言わない。惜しいなぁ、くらいは言うけどな。お前はあれだ、素質があったから」
「素質って……霊獣専門の殺し屋の?」
「タフになれる素質だ」
「……酔ってます?」
「まぁ、聞け。よく聞け。ちゃんと聞け」
オグロ先輩は、柔和で真剣な顔で言った。
よく見ると、彼は全然酔ってなかった。私の三倍くらい飲んでいたけれど、私の十倍くらい素面に見えた。嬉しいことなんて何にもない顔だ。
「ライトハウスは、棄獣課は必要ないと思うか?」
「それは……必要です」
「ああ、俺もそう思う。霊獣産業が拡大し続ける限り、俺たちの仕事は増えるし、実際のところ必要性も増していくだろう。棄獣の問題は無視できることじゃない。だからそう、誰かがやらなくちゃいけない。辛いことでもな」
「わかってますよ、それくらい。でも、嫌なんです……」
「そうだな。俺たちの仕事は、最悪だ。もっといえば、俺たちの社会そのものが最悪なんだ。こんな酷い仕事を必要として、誰かに押し付けなければ回らない程度には腐っている。酒が不味くなって、酔いも吹っ飛ぶような話だ。こんな社会に生きている人間は、どいつもこいつも最低のクズだ。違いがあるとすれば、知っていて最低か、何も知らずに最低かくらいだ」
オグロ先輩は、葡萄酒を一息に呷る。「こんなに飲んでも酔えねぇんだ」と苦笑いを浮かべて、空のジョッキを見せた。「あのウサギ、可愛いかったよな」とも。
「今のライトハウスがなれるのは、三つだけだ。一つは、船乗り。自分の目的地を決めて、航路に出る。目的地に着くかどうかは、本人の腕次第だ。もう一つは、漂流者を続けること。どっか日当たりのいいところに漂着するかも知れんし、しないかも知れん。残念ながら運次第だ。そんでな、最後の一つが〈タフ〉になることだ。俺としては、最後のヤツが一番向いていると思ってる」
「それは……どうして?」
「まず一つ。やりたいこと、決まってるか?」
「今は……ないです」
「だとすれば、今は、船乗りはなしだ。じゃあ、漂流者はどうだ?」
「それは、できる気がします。今までだって、ずっとそうして来ましたから」
「だが、お前はもう今までとは違う。知っちまったからな、最低であることを。こんなことを言える関係じゃないとは思うんだが、それでも、俺の知る限りのリュウ・ライトハウスは、都合の悪いことを忘れられるほど器用な人間じゃない。最低であることを開き直れるほど、恥知らずでもない。どこか流れ着いた先でも、自分が最低であることを思い出すだろう」
「……じゃあ、どうすれば」
――いいんですか?
そう吐き出そうとして、言葉を呑んだ。
漂流者と指摘されたことが、私の喉を詰まらせていた。ここでまた誰かに尋ねてしまったら、決断を委ねてしまったら、何も変わらない。
流され続けた消去法の自分のままだ。
何も変われないままだ。
そう思った。
そう思ったことに驚いた。
なんだ。私は変わりたかったのか。
馬鹿みたいに簡単な話だ。
「強く……なりたいです」
気づくと呟いていた。
「最悪な現実を直視できるくらい強くなりたいです」
「最低な自分を我慢できるくらい強くなりたいです」
「辛い決断を自分で下せるくらい強くなりたいです」
「最低な役目を背負って何でもない顔ができるくらい大人になりたいです」
「いつかきっと、目指す場所を決めて、あの子たちみんな救ってあげられるくらい、社会を変えてしまえるくらい――強くっ」
顔が熱かった。お酒のせいだ。
青臭いことを言っていたのも、お酒のせい。
二十歳になろうというのに泣いていたのも、お酒のせい。
馬鹿みたいなのも多分そう。
全部お酒が悪い。
お酒が悪いから、私はお酒を懲らしめるためにお酒を飲んだ。たくさん飲んだ。たくさん飲んで、カウンターに突っ伏した。へべれけだった。
オグロ先輩は、カウンターに突っ伏す私の頭を撫でて言った。
「お前はなれるさ、誰より立派なタフガイに!」
その言葉に、私は顔を上げた。
くしゃくしゃの泣き顔に鼻声という悪状況でも、きちんと反論する。
「タフにはなれるがもしればぜんが、ガイにはなればぜん!」
「馬鹿を言え。〈タフ〉に続くのは〈ガイ〉と相場が決まっている!」
「せんぱい、やっぱりよってるれしょ?」
「馬鹿を言え。いささかも酔っちゃおらん!」
「え~、ふらん『いささかも』なんてつかわらいれしょ~?」
「いや、ライトハウスの酔い方もあれだなおい、どうした?」
「らいじょうぶですよ~、あらしってきおくはろこってるほうでして~」
「それ全然大丈夫じゃないことないか? 翌日めっちゃヘコむヤツじゃないか?」
「らいじょうぶで~す」
実に懐かしい思い出だ。頭が痛くなってきた。
そして、振り返った結果、やっぱり無理だなぁと思った。この無茶苦茶な話で、スワンに納得してもらえる自信がない。だって、変な話だ。
よくよく見ると消去法だし、だいぶ誘導されてるし、何より結局〈タフ〉になるという選択肢の正体が不明だ。
やっぱり変だよね、これ。全然意味不明なんだもん。
でも、この日のことがずっと私の中にあった。それは確かだ。そして、この日にした青臭い決断が、私の今を作っている。
最低な現実から目を逸らさない生き方を――私に選ばせる。
つまりはまぁ、お酒のせいなのだ。