第五話 医療課
〇
目が覚める。
そのことで、今まで眠っていたんだと知った。
どうやら私は、ベッドで横になっているらしい。
室内は薄暗く、すぐ近くの窓から夕日が射し込んでいた。下水道に潜ったのはまだ昼前のことだ。あれから随分と時間が経っている。
ああそうだ。私は下水道にいたんだ。
そして、多頭蛇と戦った。
寝ぼけていた頭が、段々とハッキリしてくる。すると疑問が生まれた。これはどういう状況だろう。とりあえず、身体を起こそう。
「……痛い」
上半身を起こすと、右腕に痛みが生じた。続けて、脇腹も痛む。右腕の痛みは尻尾を当てられたからだろう。脇腹の方は、落ちたときかな。受け身を取ろうとした覚えはあるけど、どうだろう。
ああそうか。私は落下して意識を失ったのか。
それじゃあ、ここはどこだろう。鼻につくのは、アルコールの匂い。他に気づいたことは、やたらに清潔そうな白い壁。規則正しく並んだベッド。
ああ、わかる。ここ、衛生局の管理する医療施設だ。
よし、だいぶ状況がわかってきた。わかってきて、溜息を零した。これはつまり、そういうことだろう。
オグロ先輩に迷惑をかけた。
久しぶりにやってしまった。
「あっ、ようやく起きたな、この鉄砲娘」
項垂れていると、出入り口から燭台を持った女性が現れた。
すらりと背筋の伸びた長身に、医務員の証である淡い緑色の服を着た美女。
スワン・ナイトウィング。
私と同じ年に入局したいわゆる同期。
衛生局医療課の衛生官だ。
スワンは病室の壁際を歩き、ランプに明かりを灯して回る。最後の一つまで点け終えると、「アンタねぇ」と半眼で私を睨んだ。腰に片手を当て、栗色の綺麗な髪を掻き上げる。
不満そうというか、怒ってる?
「聞いたわよ。多頭蛇相手にタイマン張ったんだって?」
「そういう状況だったから」
「呆れた。あんな怪物、男の衛生官だって尻尾巻くような相手じゃない」
「オグロ先輩はそんなことしないと思うけど」
「あのねぇ、自分のこと、あんな歩く最終兵器みたいな男と同列にしないの! か弱い乙女でしょうが、アンタは!」
スワンは、カツカツと床を踏み鳴らし、私のベッドに腰掛ける。
白くてすべすべの柔らかい手で、私の手を掴んだ。ぐいっと顔を近づけて、ぐいぐいっと顔を近づける。ちかいちかい。距離感がおかしいんだ、この子。
スワンは、私の目を熱心に覗き込む。それと同時に、ほっそりとした指が、私の指を絡み取った。指と指を交差させるように握り込みながら、彼女は言う。
「私、嫌だからね。同期のアンタが、冷たくなって帰ってくるのなんて。今回はたまたま打ち身くらいで済んだけど、噛まれてたら死んでたかもしれないのよ?」
「ああうん」
「というか、打ち身だけで済んでるって、どんだけ頑丈なのよ。話に聞いてるだけでも、普通は骨の二、三本折ってるはずなのに。鋼鉄製かなんかなの、アンタ?」
「つい今し方、か弱い乙女って呼んだ相手のこと覚えてる?」
「いや、思い直したわ。アンタをか弱いなんて呼んだら、そこらの男どもの立つ瀬がなくなるわ。誰より男らしいもん、アンタ。マジでタフガイって感じ」
「言ってることめちゃくちゃだ……」
「ああもう、アンタさぁ。さっさと棄獣課なんかやめて、医療課に来なさいなよぉ。アンタの頭ならこっちでも余裕でしょう?」
スワンが、口癖のようなことを言って、私を抱き締める。
彼女の声音や仕種からは、私を大事にしようという気持ちが、ひしひしと伝わってきた。なんというか、人付き合いが苦手な私にとって、奇跡のような友人だ。
でもやっぱり、距離感はおかしいと思う。
ほら、やっぱり近い。ちかいちかい。あれ、どうして今押し倒したの?
「ええっと、まぁなんだ。お取り込み中のところ悪いんだが、俺の相棒を勝手に持ってかれては困るぞ、医療課の」
スワンが露骨に嫌そうな顔をした。
なぜだか彼女は、彼に敵愾心を燃やしているのだ。
私はスワンの肩越しに出入り口の方を覗く。目が合った彼――オグロ先輩は、なんとも言えないバツの悪そうな顔で頬を掻いた。
〇
「――すみませんでした」
私は、オグロ先輩に頭を下げた。
ベッドの端に腰掛けた彼は、吃驚したように目を丸くした。
ちまみにスワンは、「んべーっ!」とオグロ先輩に舌を出してから、さっさと部屋を立ち去っている。彼女とオグロ先輩の間で、何かあったのだろうか?
オグロ先輩は天井を見上げて、「あー……、なんだ」と言葉を選んでいる。その後で、彼はボリボリと頭を掻いて答えた。
「謝るな、俺の立つ瀬がない」
「けれど、私のせいで、目標を取り逃がしました……」
「いや、リュウはよくやった。おかげであの個体の〈超再生〉の程度もわかった。これで対策も立てられる。だいたい俺が前衛に出るべきだったんだ。あれは二人で対応するべき棄獣だった」
「でも、先輩は協力者を――」
「それこそ、リュウに任せるべきだった。お前の〈出会い〉と〈別れ〉なら中距離からでもフォローができるしな。今回の件は、俺がとちったんだ。だから、お前は謝らんでいい。いや、謝らんでくれ」
そう言って、彼はくしゃくしゃの苦笑いを浮かべる。
そんな顔をされては、謝りたくても謝れない。
だから、私は切り口を変えることにした。
「では、ありがとうございました」
「うん?」
「ここまで、連れ帰ってくれたんですよね?」
「ああ、まぁ、お前は軽いからな。運ぶくらい大したことじゃない」
「それで、あの多頭蛇はどうしたんですか?」
「……覚えてないのか?」
「?」
「お前が追っ払ったんだぞ」
私は首を傾げる。すると、オグロ先輩は教えてくれた。
あの落下の途中、私はまだ右手に持っていた〈出会い〉で、再生途中の多頭蛇に反撃したらしいのだ。治りかけていた新しい頭に二発。叩き出された後のおかしな姿勢だったにも関わらず、弾倉に残っていた全弾を的中させていた。
我ながらどうかしている。
炸裂する弾丸を学習していたのか、多頭蛇は慌てて逃げ出したそうだ。
「まさかあれが無意識の行動だったとはな。驚くほどにタフなヤツだ。鼠男も感謝していたぞ、『タフな姉ちゃんに、よろしく』ってな」
オグロ先輩は、誇らしげに困っていた。
熊手のように大きな掌を私の頭に置く。がしがしと雑に撫で回す。私は首がぐわんぐわんなって、顔が熱くなった。もっと優しく撫でるべきじゃないか。いや、何でもないです。恥ずかしいのでいいです。これでいいです。
私の内心などつゆ知らず、オグロ先輩は「よっこらせ」と立ち上がった。
「そんじゃあ、俺はこれから対策会議だ。第一班と第三班の連中と、あのデカブツの仕留め方を話してくる」
「それでは、私も――」
「いや、お前はここに残れ。というか、今は連れ出せない。すぐに引き上げて、たっぷり洗浄したとはいえ、一度は下水に落ちてる。何かしらの感染症を持っていてもおかしくない。だから、お前はここで休養だ。少なくとも、丸一日は外出禁止。俺もこのあと、アルコール消毒するしな」
そう言って、オグロ先輩は大きな手を広げてみせた。ちゃんと消毒するからなという意思表示。衛生官らしい職業意識の表明。その後で、出入り口に向かう。彼の歩幅だと本当にすぐ辿り着いてしまう。別れを惜しむ様子もない。
けれど、病室を出る間際、彼はもう一度だけこちらに言葉を寄越した。
「相棒として、お前を誇りに思う。だから後は、俺に任せろ」
その大きな背中は振り向きもしない。
私はたぶん呆れたように笑って、その背中に応じた。
「それでは、お気を付けて」
「おう!」
そして、やっぱり、彼はすぐに見えなくなった。