第三話 下水道
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この街の地下は迷宮だ。
過去に発生した疫病に対する反省から、この街は二十年近くをかけて、下水の網を広げてきた。
街全体を網羅する下水道のネットワークは、複雑に絡み合い、今や全貌を把握できるものなどいなくなっている。その総全長は、アサギマダラの行う渡りの距離ほどもあるという噂だった。
その下水道を縄張りにしているのが、ドブさらいだ。
賎業と蔑まれる彼らだが、汚水に沈む廃品を回収する、現代の冒険家だった。
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私とオグロ先輩は、馬車に乗ってしばらく進み、この街の中心部に出た。再び川沿いの遊歩道を歩いて、下水道の放流口の一つに向かう。
川の水がぶくぶくと泡立っている場所で、一人のドブさらいと合流した。
「結構待ったぜ、衛生官」
放流口に着くと、そう言って向こうから近づいて来たのだ。
ドブさらいの男性は、随分と小柄で、病的に青白い顔をしていた。
とはいえ、顔の下半分は布で覆われており、年齢などはわからなかった。声の高さからすごく若いような気もする。変声期の前かも知れない。
継ぎ接ぎの多い厚手のコートを羽織り、背中には幼児が二人くらい入りそうな大きなザックを負っていた。手にした杖には、角灯が括られている。まさに〈秘境を訪れる冒険者〉といった出で立ちだ。
オグロ先輩は、軽く手を挙げて彼に応じた。
「おう、今日は世話になる。衛生官のオグロ・ステイブルだ」
「ああよろしくな、大男。俺はまぁなんだ、仲間内では鼠男で通ってる。あんたらも揃えてくれりゃあいい。んで、そっちの小男は……なんてこった、どう見ても女じゃねぇか!」
と、自称鼠男が私を指差して叫んだ。
私はそれを聞いて、内心で「ほらみろ」と思った。そうだとも。どう考えても、どう見ても、私は女なのだ。ほらみろ。
しかし、オグロ先輩は「いや待て」と謎の静止をかけた。今の流れのどの辺に「いや待て」の要素があるのだ。失礼にもほどがある。
けれど、鼠男もなぜか「いや待たねぇぞ!」と声を荒げた。
「女は女だ――ネズミを見つけりゃあ悲鳴を上げるような連中だ。そんなヤツらの案内、俺はお断りだ!」
「俺の相棒を侮るな。確かにリュウは女だが、女である前に立派なタフガイだ。ネズミごときに狼狽えたりしない」
「ああん? なんだそりゃあ、男なのか、女なのか?」
「女です」
「だがタフガイだ」
「ややこしくなるので、先輩はしばらく静かにしていてください」
「しかしだなぁ、リュウ。うちではみなが等しく――」
「黙って」
私は先輩の膝を叩いて、強めの意思表示をする。
先輩は口を噤んだ。
鼠男は猜疑と不信の目で、私を睨んでいる。私というより、私も属している〈人間の女性〉というグループに対する不信だろう。女性に対して、あまりいい思い出がないのかも知れない。
けれど、そんなことは知らない。私は仕事で来ているのだ。
個人の好き嫌いなんかに付き合っていられない。
「リュウ・ライトハウス。衛生官です。必要とあらば、素手でネズミを捕まえてご覧に入れますが?」
「そいつはぞっとしない自己紹介だ。俺の前ではやってくれるなよ」
「鼠男でしたものね。ネズミがお好きなら、そうですね、貴方の前では控えるとしましょう」
「そうしてくれ。ああ、だがまぁしかし、なんだ。わかったよ。確かにコイツはタフそうな姉ちゃんだ。するよ、するする。案内でも、観光ガイドでも。あんなバケモノに棲み着かれたら、俺らも生活できねぇんだ」
――着いて来な。
そう告げると、鼠男は遊歩道の端にある鉄柵を越えて川に入った。続いて、手招きしてから下水道の奥へと歩き出す。
私とオグロ先輩は、鼻と口を覆う嘴状の簡易マスクを付けてから、対棄獣用の武器を即応可能な場所に装備して、先行する鼠男に続いた。
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下水道の中は、マスクをしていても酷い臭いだった。
あんまりに臭いので、誰も口を開けようとしなかった。鼠男の道案内に従い、黙々と地下の暗闇を進む。
鼠男の持つ角灯が、下水の壁を成す煉瓦を照らしていた。
煉瓦はところどころで腐食が進んでいて、鼠男は時折、腐食の酷い場所を見つけるとメモを取っていた。私の視線に気づいたのか、彼は「仕事だよ、本業の方のな」と語った。
「おたくらの親分に――衛生局に売るんだ。補修の必要なところの情報は、いい小遣い稼ぎになる。ドブさらいなりの社会貢献ってヤツだ」
「立派な仕事です」
「タフな仕事だ」
私とオグロ先輩が、ほとんど同時に言った。鼠男は、喋るイヌでも見つけたみたいに目を丸くする。その後で、いくらか身悶えしてから、肩を竦めて誤魔化した。照れ隠しの下手な人物のようだ。
「嫌味かよ。嫌味だな。二人揃ってなんてヤツらだ。ああ、まぁなんだ。んなことよりそろそろだぜ、御両人。前にバケモノが出たのは」
そう言って、角灯を掲げて通路の先を照らしてみせる。
どうやらそこで道が切れるらしい。
少し歩き、通路の先から顔を出す。
やや開けた場所だった。複数の水路が交差する中継地点になっているようだ。円柱形に広く空間を取られていて、角度や高さを変えながらいくつもの汚水が流れ込んでいる。
円柱の壁面には、螺旋状に階段が備え付けられていて、反時計回りで上方へと伸びている。私たちは、ちょうど円柱の中間地点くらいの高さにいるようだ。
歩く速度を変えず、通路から階段に移る。
そのときだ。背後から――今まで歩いて来た通路の方から、「キーキー」というネズミの鳴き声が聞こえてきた。それも一つや二つじゃない。その鳴き声は、群れになって押し寄せて来ている。
汚水を跳ね上げる「ピチャピチャ」という音が、雪崩のように迫っていた。
鼠男が苦痛に堪えるような声で叫んだ。
「みんな追われてる、ヤツが出たんだ。衛生官、階段を駆け上がれッ!」
ネズミの気配に追い立てられるよう、私たちは階段を走った。
その直後、黒い絨毯のようなネズミの一群が、通路から跳び出す。跳び出す勢いのまま、円柱の中心へと突き進んだ。混乱したネズミたちが、底に溜まる汚水へと次々に身投げしていく。
そして、そのネズミたちを追って、黒い影が躍り出た。
馬の首のように太い胴体を持つ、黒光りする蛇だ。
蛇の巨大な顎が、撓る鞭のような獰猛さで、黒い絨毯に食らいついた。逃げ損なったネズミたちが、まとめて何匹も丸呑みにされる。その捕食の様子は、小魚の群れを平らげる鯨のそれに似ていた。怖ろしく大きな顎だ。
けれど、問題なのは蛇の身体や口の大きさではなかった。
私は、腰のホルスターから武器を抜き放つ。
黒光りする蛇は、こちらの気配に気づいたらしい。鎌首をもたげて、四つの瞳を私たちに向けた。
一つの頭には、一対の目。つまり、そいつの頭は二つあった。
蛇の中位霊獣――多頭蛇だ。