第二話 第二班
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目が覚めるといつも、共同住宅の狭い一室は焼きたてのパンの匂いで満たされている。正確には、充満する匂いに食欲を掻き立てられて、結果として目が覚める。
借りているアパートメントの一階が、パン屋さんなのだ。
パン屋さんの朝は早い。自然と私の起床も早くなる。
遅刻しないで済むのはありがたいけれど、お腹が空く。なので、すぐに朝食の準備に取りかかった。
台所に向かい、蛇口を捻って水を出す。
実家と違い、この街には上下水道が導入されていた。契機はかつて起きた疫病への対策だけれど、とにかく便利なのはいいことだ。とはいえ、そのまま飲めるほど信用できる代物でもないから、一度沸かしてお茶を淹れるのに使う。
水を沸かしている間、出勤の準備をする。
洗面台で寝癖のついた髪を梳かし、部屋に戻って着替えを取り出す。真っ黒に染められたシャツに袖を通して、灰色のベストを着る。下も黒いパンツだ。
そして、より一層と黒みの強い上着を羽織る。私の場合、髪まで黒いので、ここまで来ると本当に黒ずくめになってしまう。
葬儀屋よりも黒々しい。けれど、制服なのだから文句は言えない。
胸に徽章を付け、髪を結い上げたところで、台所に戻ってお茶を淹れる。買い置きのパンとバターを並べて、もそもそと食べる。いつもの朝食だ。だいたい年中、同じものを食べている。違ったとしても、たまに果物が足されるくらい。あまり食事に拘りはなかった。
目覚めの栄養補給を終えると、軽く化粧をしてから家を出た。
ここまではそう、いつも通りの朝だった。
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徒歩での通勤。
馬車の行き交う大通りの隅をぽつぽつと進み、王立公園に入る。
衛生局の建物は、その王立公園の北東側にあった。赤茶けた煉瓦造りで、三階からなる大きな建物だ。別館として、捕獲した棄獣たちを一時保護する施設もあるが、そちらにはあまり顔を出したことがなかった。
荘厳な造りの正門を潜り、入ってすぐの階段を上る。
私の所属する実動第二班は、二階の隅っこにあった。
他所の課の人たちと擦れ違いながら、自分の部署の前に到着。ノックをするような習慣は、うちの部署にはない。むしろ、半ば禁じられているくらいだ。なので、黙ってドアを押し開ける。
――が、ごつんと誰かにぶつかった。
ドアの角で頭を打ったはずの偉丈夫は、平然とした顔で「おう、リュウか。おはようさん」と挨拶をくれた。
同じ実動第二班のオグロ・ステイブル衛生官だ。
私の先輩で、入局以来ずっとコンビを組んでもらっている。並の軍人より逞しい肉体の持ち主で、たぶん痛覚の具合がおかしい人だった。お医者様に診てもらった方がいいと思う。
それでも一応、私は頭を下げて謝罪の弁を述べた。
「すみません。ノックをするべきでした」
「やめろやめろ、そんな女々しい習慣は不要だ。タフガイにノックは似合わない」
「あっ、いえ、私は女なので……」
「ここでは女も男もない。みなが等しくタフガイだ。――と、そんなことより支度してくれ。出勤早々で悪いが現場に出るぞ」
言われてみると、オグロ先輩はすでに対棄獣用の装備で身を固めていた。
黒い制服の上から手袋と脛当てを付けて、耐衝撃用のベストを着ている。大きな掌が掴んでいるのは簡易マスクだ。第一種装備。棄獣と呼ばれる〈市街地に出没した管理されていない霊獣〉に対する防具一式だった。
「第一種装備ですか」
「不確定だが用心に越したことはない。詳しくは道すがら説明する。それじゃあ俺は〈鍵管理者〉のところで諸々一式を借りてくるから、準備ができたら正門で落ち合おう。あっ、靴も履き替えておけよ。耐水用の長いヤツだ」
「了解です」
私が答えると、オグロ先輩は頭を下げてドアを潜った。頭を下げたのは、私への応答というより、ドア枠に頭をぶつけないためだ。不便なくらい大きい人なのだ。
先輩と入れ替わりで、私は部屋に入る。
手前に並んでいる机たちを無視して、奥の壁面に並ぶロッカーに向かう。第一種装備を取り出し、すぐに準備に取りかかった。
〇
正門で合流した後、私とオグロ先輩は、王立公園のすぐ近くを流れる運河に向かった。その運河沿いの道を進むと、比較的容易に街の中央まで出られるのだ。
二人で空いている辻馬車を探しつつ、運河のすぐ脇に作られた遊歩道を進む。オグロ先輩はこちらの歩調に合わせながら、仕事の説明をはじめた。
「今回の棄獣らしき報告、目撃者はドブさらいの連中だ。下水道に潜っていたところ、デカくて黒い影に襲われたと証言している」
「ネズミの群れを見間違えたのでは?」
「いや、どうも違うようだ。ドブさらいの一人が、着ていた襤褸の端を噛まれているんだが、その噛み跡から蛇の類いじゃないかという話だ。噛み跡からの見立てだと、頭の大きさはパン一斤くらいだそうだ」
「大きいですね」
「ああ、頭がそれなら胴回りや全長はかなりのもんだろう。本当にそれだけのデカぶつだった場合、ただの蛇でも十分脅威だ。霊獣以前の話だな。幸いにして、怪我人は出なかったらしいが、幸運なんてのはそう続かんもんだ。さて、不幸な事故が起きる前にタフな仕事といこうか」
ちょうどよく辻馬車を見つけて、オグロ先輩が馭者との交渉に向かう。
すぐに話が付いたらしく、先輩はステップに足をかけて、私に向かって腕を広げてみせた。
あれを意訳すると、「乗せるからこっちに来い」だろうか。
オグロ先輩はどうも、私を子ども扱いするきらいがある。
まぁ確かに、生活に不自由するぐらい巨体な彼からしてみれば、女性の平均身長程度である私は、子どものようなサイズ感に見えるのかも知れない。しかし、だ。
自分で言及するのもどうかと思うけれど、私のような体型の子どもはいない。
耐衝撃用のベストを着てるから、身体の起伏がわかりにくいのは認める。けれど、それにしたって限度がある。いやその、つまりあれだ。あれです。
ええっと。ごほん。まぁ、そうなのだ。
もっと直裁に――取り繕わずに言わせてもらえれば、
私は胸が大きいのだ。
いっそのこと巨乳と呼んで頂いても差し支えないボリュームだと自負している。普段なら殊更に主張なんかしないけれど。死ぬほど恥ずかしいから。
ごほんごほん。
つまるところ、何が言いたいかといえば――だ。
子ども扱いされる謂われはない。
そうだとも。私はタフガイではないし、子どもでもない。
「…………」
「どうした、リュウ? 早く来い」
「……了解です」
それでもなんとなく抗いがたいものを感じて、私は先輩の腕の中に跳び込んだ。
オグロ先輩は、子猫か何かを扱うみたいに軽々と私を持ち上げて、大雑把な性格に似合わず、丁寧に座席へと下ろした。
そして、何でもないような顔をして、私の隣に腰掛ける。
私はささやかな不満を胸にしまい、装備の確認に移った。〈鍵管理者〉の寄越した武器の調子を確かめながら、チラリと隣の席の大男を見上げる。
視線に気づいた大男は、「どうかしたか?」とでも言うように眉を持ち上げた。不思議そうな顔だ。きょとんとしている。私は黙って武器の確認に戻った。
うん、この男。
いつか絶対に見返してやろう。