第八話 笑
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防疫課の説明を受けて、僕とシラコさんは走る。
――逃げ出した鵺の捕獲。
あの第二班が協力を求めていた。彼らが失敗するとは思えなかったが、冷静に考えると、鵺はあの二人にとって最悪の相性をしている。
鵺たちは、どんな感染症を持っているかわからない。そのため、下手に血液などを飛散させるわけにはいかないのだ。最小限の力で制圧する必要がある。
けれど、あの二人の杖は、そういう手加減に向かない。多頭蛇さえも仕留めきる火力が、裏目に出ていた。
「会長のおっさん。まだ鵺を隠してやがったのかッ」
シラコさんが、防疫課から聞いた話に毒突く。逃走した鵺は、ロンベルト・カンターベルト宅から出てきたらしい。彼の鵺は、一番最初に回収したはずだったが、複数匹を所持していたのか。
報告のあった広場に出る。
オグロさんとライトハウスさんが、鵺をその場に留めてくれていた。
「なんだよ、ありゃ……」
シラコさんが、鵺の姿を見て鼻白む。
それは限りなく、人間の女の子に似た姿をしていた。ただし、その両目はヘビのようで、両手には猛禽のような爪があり、身体の端々にセンザンコウのような鱗を纏っている。顎は耳まで裂けて、肉食獣の牙を覗かせていた。
そして、子ども用の服を着せられている。
その怪物を見て、第二班が二の足を踏んでいる理由を察した。
鵺にしては珍しい、強い混ざり方をしているのもある。しかし何より、人間に近い姿というのが、やりにくいのだろう。ああいうのを殺すのは、一般的に強い忌避感を喚起する。
オグロさんが「よぉ、来たか」と苦々しい顔で出迎えた。
「シラコ、あれをどう見る。愛護団体のおっさんは、先ほどから『私の娘に手を出すな』とイカれたことを言い続けているんだが」
「どうって言われてもな。そりゃま、どうなんだよ」
二人は顔を見あわせて、肩を竦める。
そうか、ベテランの二人でも迷うものか。それは仕方のないことだろう。だったらそうだ。仕方がない。僕は小瓶を取り出して、ぐいっと飲み干す。
魔術師は、魔術を使う際にいろいろな方法で精神を整える。もとになった霊獣の環世界に近づくよう、暗示を掛けるのだ。僕の場合は、薬と呪文だった。
「状況はわかりました。みなさんは包囲を固めて、あれの逃走に備えて下さい。駆除の方は、自分が請け負います」
僕は、手に馴染む杖――〈邪眼〉を構えた。
どこかの屋根で風見鶏が「ガタガタ」と鳴いている。風が冷たくて、今にも雪が降りそうだった。
今日の風車は、よく回るだろう。
◇
シラコ・ハーバーは、ミヅチを買っていた。
自分の部下にしちゃ、勿体ないくらいの男だと思っていた。
その評価は、鵺との戦闘を見た後でも変わらなかった。
けれど、シラコは同時にこうも思ったのだ。
(アイツ、結構危うい奴だったな……)
鵺の鋭い爪をミヅチは掌で防いだ。
彼の杖である〈邪眼〉の応用だ。あの杖が扱う魔術は、筋肉を縮めて硬化するというものだった。普段は杖の先端が示す、極一点のみを硬化する魔術だが、自分の身体に関してはもう少しだけ自由が利いた。
その収縮と硬化によって、右前腕を篭手として使っている。
左手は杖を掴み、その先端で鵺の心臓を捉えようとしていた。
しかし、少女型の鵺は、高速で動き回る。詠唱を終了するタイミングと、杖が心臓を捉える瞬間が、微妙に噛み合わない。
シラコは、何度もフォローに入る瞬間を探った。
けれど、鵺の取るふとした仕種に出鼻を挫かれる。生々しいほど人間らしい動きをするのだ。それが強烈な忌避感を覚えさせる。オグロやリュウも、同じように怯まされていた。
霊獣を殺す覚悟とは、違う覚悟が必要だった。
けれど、ミヅチは違った。すでに彼は、優先順位をつけ終えていた。
何を守って、何を犠牲にするのか。
それを決めていたから、迷いなく戦うことができた。
すでに犠牲にしたものがあったから、彼は引くに引けなかった。
猛攻を繰り返す鵺が、疲労のためか口から涎を垂らしはじめた。その唾液にすらどんなウィルスや、雑菌が潜んでいるかわからない。勝負を急ぐ必要があった。
ミヅチは、動き回るのを止めた。
右腕に掛けた魔術を解いて、あえて無防備を晒す。少女型の鵺は、相手の魔術が解かれたことをすぐに察した。彼女は「誘われている」とわかっていた。わかっていて誘いに乗る以外の選択肢を知らなかった。
振り抜かれた左手の爪が、掲げられたミヅチの右腕に食い込んだ。
続く右手の爪が、無防備なミヅチの左目を引き裂く。
彼の顔から鮮血が舞い、周囲のものたちは息を呑んだ。
しかし、彼だけは微笑んだ――狙い通りだと。
ミヅチの右眼と〈邪眼〉が、鵺の心臓を捉える。
「霞む湿地に住まう影、重い頭と香る下草、視界は広く浅く、けれど、そのひと睨みはすべてを萎縮させる、私は醜い水牛の霊」
少女型の鵺は、心臓の筋肉を固定されて、息絶えた。
ミヅチは、彼女の傍に立ち、俯いて、傷一つない亡骸を見下ろしていた。
「ミヅチよぉ……」
シラコが呼ぶと、彼は顔を上げた。
ミヅチは、仮面を引き剥がされたような、とても疲れた顔をしていた。雑に押さえられた左目から、ドクドクと血が流れ落ちる。
その流血に混じって、透明な滴も石畳に滑り落ちた。
「雪が降るかと思ったんですが、まだ雨みたいですね」
ミヅチは困ったような笑みを浮かべて、シラコにおどけた。
シラコは、痛ましいものを見たように顔を歪めて、次いで優しく笑い返した。その後で、少し怒ったように眉尻を上げて、気遣う声音で言った。
「もう笑わなくていいぞ」
ミヅチはようやく感情に身を委ねると、ただくたびれたようにその場にしゃがみ込んだ。