第五話 罠
〇
夜会の翌日。
棄獣課の事務室には、第一班と第二班、それに課長が揃っていた。
「今晩、密売業者に会ってきます」
緊急会議だ。第三班は本来非番のところ、使いを出して呼んでいる最中だった。僕は、昨夜取り付けたジーン・クリスパーダとの約束について語っていた。
『貴方の紹介できる霊獣をもっと見せて欲しい』
僕の申し出を、あれは快諾した。
だから僕は、密売業者のアジトへと潜入するつもりだった。
そのことを簡単に伝えると、ライトハウスさんが質問を挟んだ。
「少し、いいでしょうか」
「はい、なんでしょう」
「密売業者の居場所がわかったのなら、警察局に任せるのが本来の在り方のように思います。何かわけがあるのでしょうか?」
「ああ、それは俺も思った」
オグロさんも相づちを打つ。もっともな質問だ。
僕は「確かに筋としてはそうですね」と首肯する。
しかし、わけはあった。
「理由は二つあります。まず第一に、相手が指定した場所です。彼は表通りの目立つ場所で落ち合うように指示しています。そこから、彼のアジトに案内をするつもりのようです。ですから、僕が出向かなければ、アジトを突き止めることはできない。もう一つは、アジトにいるかも知れない霊獣のことです。これを確認する必要があります。できるだけ早急に」
「それは多頭蛇とは、また別なのですか?」
「そうですね。もしかすると、あの事件とはまったく別物の可能性があります」
「何か、目星が付いているのでしょうか?」
「それは――」
僕は言葉を呑む。目星は、ある。
本来はあり得ない可能性だった。なぜならそれは、すでに絶滅させられた霊獣のはずだったから。
衛生局の前身である〈冒険者ギルド〉の時代に、衛生官の前身である冒険者たちの手によって、滅ぼされたはずの霊獣だ。
あまりの危険性から、一匹たりとも存在を許されなかった種族。
扱いを間違えば、この街すら消しかねない大厄災。
危険度でいえば、多頭蛇を遥かに上回り、
実在するのなら、衛生局の天敵となる霊獣。
「鵺の可能性があります」
僕はそれの名前を口にする。
そうであってくれるなと、心の底から願いながら。
◇
キサラ・プリズムは、昨夜の彼について思う。
彼とは勿論、ミヅチのことだ。余裕があって、目もとの涼しい紳士。まだ二回しか会ったことはないけれど、その印象が崩れることはなかった。
あの一瞬、〈風車の邪眼卿〉と呼ばれた瞬間を除けば。
(あの後は、いつも通りのミヅチさんに戻って、楽しくお喋りできたけど、確かにほんの一瞬、今までにない眼をしてたよね……)
キサラは、そのときのミヅチの眼が気になっていた。
絶えず柔和な笑みを浮かべる彼の見せた、凍てつくような鋭い眼。知り合って間もないのだから、知らない面があるのは仕方がないけれど、それにしても、あのときの眼は何か違った。
背筋の凍えるような、底なしの洞察眼。
眼前の人間のすべてを明らかにするかのような、すべての謎を解き明かさなければ気が済まないと宣言するかのような、あまりにも強く、あまりにも雄弁な瞳。
あんな眼は、初めてだった。
そして、生涯二度と出会わないに違いない。
少なくとも、彼以外の人間には不可能だ。
キサラはそう直感していた。
同時に、自分の直感が優れているわけではないのだとも、彼女はわかっていた。自分のような小娘にもそれがわかるほど、彼の持つ〈何か〉が凄まじいのだ。
「うぃんどみるの――じゃがんきょう」
それは夕食の席だった。
今朝からずっと考え続けていた言葉が、不意に口を吐いた。それを聞いた瞬間、キサラの父親は、ナイフを取り落とした。キサラに似た色素の薄い目が、大きく見開かれている。右手が口ひげを触り、震える声で問い掛けた。
「キサラ。その名前は、どこで聞いた?」
「お父様……?」
「いいから答えなさい。その名前を――口にするのも憚られる、あの一族の名を、どこで聞いたのだ……?」
「お父様は、うぃん―――」
「その名を口にするなッ!!」
「ひッ」
父親の今までに見せたことのない剣幕に、キサラは息を呑む。
話に興味のなかった姉まで、一緒になってビクついた。
見かねた母親が、父親の態度を窘める。
「あなた、それではキサラたちが怯えるだけです。キサラ、その名前は口にしないで頂戴。食事の席で出すようなものではないわ」
「ご存じなのですね?」
「古い話です。貴女たちの代では、もう不要になるはずの知識でした。詳しく知りたければ、ご自分で調べなさい。あなた、書斎に本は残してあって?」
「ああ、あるはずだ。すまない、キサラ。私としたことが、酷く動転してしまったようだ。許してくれ」
「いいえ、お父様。きっと、私も口にするべきではなかったのでしょう」
キサラはそう微笑みながら、胸がざわついた。
すごく知りたいことだったのに、知るのが怖くて堪らなかった。
〇
夜が来る。約束の時間だ。
僕は一人で表通りを歩く。指定された場所では、シラコさんと警察局の方々がすでに待機していた。こちらの動きに対応し、臨機応変に行動できるよう手はずを整えてくれている。
僕は、シラコさんたちとは時間をずらして、その場所に向かっていた。
一緒に行動していては、流石に不自然に見えるからだ。万が一にも、ジーンと名乗った男に警戒されて、姿を隠されでもしたら僕たちの負けだ。
退勤した人々でごった返す通りを歩く。
今日は随分と風が冷たい。吐く息も白く煙るほどだった。
ポケットに手を差し入れて、不意に足を止める。
振り返るのも面倒だ。このまま指摘する。
「死角から近づくなんて、趣味が悪いですよ」
僕は背後に現れた気配に対し、先手を打った。
「これは失礼致しました。流石はウィンドミル様。二度も背後を取らせては、頂けませんねぇ。ああ、なんと。なんと、美しい眼なのでしょう」
「約束の場所は、もう少し先だと思っていたのですが?」
「いえいえ、ワタクシも向かっている途中だったのです。その道すがら、ふと、ウィンドミル様の後ろ姿が見えたものでして、ああ、なんという奇遇でしょう!」
「なるほど。奇遇ですね」
そう応じながら、内心では「やられたな」と毒突く。
約束の場所には、まだいくらかある。ここで落ち合ってしまったら、シラコさんたちの協力が受けられない。しかし、そうか。気づかないふりでもして、約束の場所まで走ってやればよかったのか。いや、それはそれで不自然だったか。
ああ、ダメだ。冷静な判断が下しにくい。
確実にあの〈第一印象〉に引き摺られている。
僕は心のどこかで、あれに上を行かれていると、そう思っているのだ。だから、相手の些細な行動に対してさえ、過剰に反応してしまう。これ以上不意を突かれまいと構えれば構えるほど、何かがズレていく。
本当にやり辛い相手だ。
そもそも、こちらの動きに気づいているのか。
真実、偶々なのか。
それすら疑わしい。そして、まただ。疑っても仕方がないことに意識を使わされている。
今はそれより、変更された状況に対応するのが先のはずだ。この真綿で絞め殺されるような閉塞感は、やはり親父の立ち振る舞いだ。
ジーン・クリスパーダ。
彼はどこまでも不気味な男だった。
「それではウィンドミル様。善は急げという昔の人の言葉もございます。昔の人はよいことをいいますねぇ。きっとこの日を見越して言い残して下さったのでしょう。そうに違いありません。なんと、ああなんと、気の利く方たちなのでしょう」
――それでは、こちらにどうぞ。
不意に枯れ枝のような五指が、僕の腕を掴んだ。その掌が有する意外なほどの力強さと、力強さに反して精力を微塵も感じさせない冷たさが、
ああ、とにかくもう堪らなく、気持ち悪かったのだ。