第四話 潜
◇
(はしたない娘だと、思われなかっただろうか……)
キサラ・プリズムは、早鐘を打つ胸に手を添えながら深呼吸する。
自室の戸に背中を預けて、ずるずるとしゃがみ込んだ。腕の中から、愛しのニャーちゃんが抜け出し、部屋の定位置に移動する。
キサラはまだ熱い顔を両手で冷やしながら、ニャーちゃんを見つめた。
愛しい彼女は、ペロペロとグルーミングを始めている。
『グルーミングっていうのは毛繕いのことです。毛玉対策にはまず――』
教わったばかりの言葉を思い出した。
(そうだ、毛玉対策しないと、ブラッシングを、せっかくミヅチさんに教えてもらったんだから……)
彼の名前を思い浮かべて、落ち着きかけていた心拍数がまたトクンと上がる。
我ながら、こんな軟弱な心臓でよく彼を誘えたものだと不思議に思う。変なことを言わなかっただろうか。ちゃんとできた自信がない。お姉ちゃんにも「お前は鈍くさいから」といつも言われるし。おかしな子だと思われていたらどうしよう。
『はい、どうぞ。今度は逃がさないようにね』
あのときの光景が、強く瞼に焼き付いている……ような気がする。
キサラは目を閉じて、その瞬間を呼び起こす。
人混みの中で、彼だけが浮いているように見えた。日射しが、彼だけを照らしていたかのような錯覚だ。
身のこなしに品があって、余裕があって、目もとが涼しくて、ニャーちゃんを抱き留めるときなんか、一枚の絵画のようだった。
運命の出会いがこの世界にあるとして、あれがそうでなかったら、他のどんなものもそんな風には呼べない気がする。
「今日はありがとね、ニャーちゃん。ニャーちゃんが来てから、私なんだか、変われてる気がするよ……」
キサラはそう言って、愛猫の毛並みをブラシで整えた。
〇
非番明けの仕事は、つつがなく進行した。
報告のあった野犬を確保し、登録を要請して回り、局に戻って書類や事務仕事を片付けたころには、いつも通りの退勤時刻だ。この間の多頭蛇の一件は派手だったけれど、本来、僕らの仕事の九割は地味な作業である。
机上を片付けて帰宅の準備を進めていると、シラコさんが声をかけてきた。
「おう行くのか、さっき言ってた〈フェアリーキス〉の夜会に?」
「はい、そのつもりです」
「まぁ、無理はしねぇようにな。そもそも、密売業者を探すのなんざ、俺らの業務範囲外だ。残業代も出ねぇことだし、骨折るこたぁねぇんだぜ?」
「はい」
「まっ、やるなら上手くやれよ。身バレして、袋にされねぇようにな」
シラコさんはそれだけ言うと、「んじゃ、おさき~」と事務所を後にした。
あの感じは、結構心配してくれているみたいだ。言葉遣いで損をすることの多い人だけれど、気遣い屋で、仲間思いな人なのだ。尊敬する衛生官だ。
彼の相棒として、恥じない自分でありたいと思う。
僕は意識的に背筋を正して、席を立った。
〇
リンネルのシャツとベスト、白いタイに黒いコート。
親父に言われて、この辺りの正装だけは真っ当なものを揃えている。
身なりは、魔術師にとっても重要だ――後援を受けるべき方々の印象を損ねないために。
魔術師とて霞を食べて生きるわけにはいかないということだ。
『ミヅチ、我が幼子よ。覚えておけ、第一印象は金で買える』
『よいものを食べ、よいもので装い、余裕をもって優雅に振る舞え』
『世の中の人間の大半は愚かであり、正しく人を測ることなどできない。第一印象をいつまでも引き摺り、評価を落としこそすれ、上げることはごく稀だ』
『清潔な身なりで、優雅な笑みを浮かべよ。すべてを語り切らず、つねに余韻を持たせよ。そうすれば、心根は清廉で、思慮深い人間であると誤解させられる』
『逆もまたしかりだ。どれほど清く正しい聖人であろうと、ドブさらいのような身なりでは、誰にも信頼されない。その心根も薄汚れていると噂される。べらべらといつまでも喋るものは、慎みがないと解される。それらが奇跡でも起こさぬ限り、その評価は終生ついて回るぞ。怖ろしいことだ……』
『自分が望む〈第一印象〉を刻むこと、これが人間関係のほぼすべてだ』
『我が幼子よ。よいか。第一印象は金で買え』
実家と縁を切った今でも、この手の教えだけは抜けないものだ。
忌々しい呪いだ。存外に役立っているのも始末が悪い。
辻馬車に頼んで、目的に向かう。行き先はとある貴族が所有するダンスホールだ。その貴族というのがどうも、フェアリーキスの後援者らしい。
「お客さん、着きました」
馭者に言われて、馬車を降りる。
目の前に聳えるのは、五百人くらいは入りそうな立派な建物だ。
どんな商いをすれば、これほどの財を築けるのだろう。領地経営だけで可能なのだろうか。そんな益体のないことを考えながら、受付に向かう。
キサラさんにもらった紹介カードを見せると、すぐに案内された。
それで、ダンスホールに入って驚いた。
煌びやかなシャンデリアの下には、フェアリーキスの会員と覚しき人たち。僕が驚いたのは、彼らに連れられている、見たことのない霊獣の数々に、だ。
全身に鱗を持つイヌ。
巻き角が生えたオウム。
羊毛の生えたサル。
手足がなくヘビのような体型のキツネ。
挙げだしたらキリがない。
確かに霊獣には、変わった姿の生き物は多い。しかし、何かと何かを無理矢理に入れ替えたような、組み合わせたようなものはごく稀だ。それがこれだけの数集められているというのは、明らかに異常である。
僕の脳裏に、あり得ない文字列が思い浮かんだ。
いや、でもそれは――やっぱりあり得ない。あるはずがない。
「みっ、ミヅチ様。こここっ、こんばんは!」
先走る疑念を断ち切る声がした。
表情を繕って振り返ると、イブニングドレスを纏ったキサラさんがいた。少女のような笑みを浮かべる彼女は、僕の顔を見ると、顔を赤らめた。
深くあいた胸元を隠すように、ニャーさんを持ち上げる。
あれ。いやいや、そんなに露骨に見たつもりはないのだけれど……。
「ええっと、こんばんは、キサラさん」
「きょ、今日はありがとうござます!」
「いえ、まだ来ただけですから」
「そんなっ、いらっしゃって頂けるだけで、その、嬉しいです!」
「そうですか。それはそうと、淡い色のドレスがよくお似合いです」
そう言うと、彼女はニャーさんで顔を隠した。
ニャーさんが迷惑そうに鳴く。彼女は「あっ、ごめんね、ニャーちゃん」と慌てて床に下ろした。すると今度は、僕と目が合ってしまう。目が合うとすぐ、彼女の目は泳ぎだした。二本の腕が、胸元と顔のどちらを隠そうか迷っている。なんだかとっても忙しそう。
まぁ、なんだろう。
とにもかくにも、すごく和んだ。
「おや、これはキサラ嬢。お久しぶりですな」
「あっ、ロンベルト様!」
白髪交じりの紳士が、こちらに向かってくる。
キサラさんは、僕と紳士を取り持つように間に立った。僕は居住まいを正して、紳士に対面する。片眼鏡の似合う、ややふくよかな壮年の男性だ。キサラさんは、紳士に僕を紹介した。
「ロンベルト様。こちらミヅチ様です。先日、私のニャーちゃんを助けて下さったんです。とっても霊獣にお詳しいんですよ!」
「はじめまして、閣下。ミヅチと申します。礼を失することとは存じておりますが、この場ではミヅチとだけ。平にご容赦願います」
「わけありですな。明かせぬ家名とはもしや、いや、詮索は無粋でしたな」
「御厚恩痛み入ります」
「まぁ、そう格式張ることはないのです、ミヅチさん。ここはみなに開かれたクラブなのですから。私はロンベルト・カンターベルト。〈フェアリーキス〉の代表を勤めております。今日は楽しんでいってくださいな、ミヅチさん」
手短に挨拶を交わすと、ロンベルトさんはすぐに次の訪問客へと向かった。
キサラさんが「ふぅ」と息を吐いている。堅苦しいのは苦手かな。
微笑ましく眺めていると、キサラさんは視線に気づいて耳まで赤くなる。花も恥じらう年頃とは、よく言ったものだ。いや、待て。あれは花の方が恥じらうんだったか……。
右足に擦り寄る感触。
しゃがんで喉もとを触ると、幸せそうなゴロゴロという鳴き声。
翼の生えたネコ、ニャーさんだ。
妙に懐かれたものだと苦笑する。キサラさんの表情も和らいだ。
「なんだか、懐かれてしまいました」
「ニャーちゃんきっとわかるんです。この人は霊獣が好きなんだにゃ~、って」
「そういうものですか?」
「そういうものですよ、きっと」
くすくすと笑い合う。ニャーちゃんは「もっと撫でよ」とお腹を見せた。あくまで不遜な態度。僕と彼女は目を合わせて苦笑い。少し背筋がこそばゆくなる。春の日の陽気の中にいるかのようだ。
本来の目的すら忘れてしまいそう。
いや、というか、すっかり忘れていた。
そうだった、目的があったのだ。
「キサラさん、そういえば、霊獣を紹介してくれる方というのはどち――」
「それはワタクシのことでしょう」
「――らにって、うわっ!」
僕とキサラさんの背後から、青白い顔がにゅっと出現した。
その唐突さは、まさに〈出現〉という表現が適している。
キサラさんも、「きゃ」と小さく悲鳴を上げていた。
病的に青白い顔をした男は、「これは失礼。お二人の世界に埋没していらっしゃったようで」と悪気のない顔で言う。というか、その顔には、感情が欠けているように見える。
殊更に人間味を薄めたような表情をしている。
白塗りの仮面のような顔。
失礼を承知で評すれば、そこに立つ男は不気味だった。
オグロさんにも匹敵するほどの長身で、しかし、インバネスを纏っていてもわかるほどに痩せすぎている。腰まで届く長い頭髪をそのままにしており、室内でも上着を脱がない異様さと相まって、妙な威圧感を生んでいた。
親父の語る〈第一印象〉論でいけば、およそ最悪の部類。
しかし、同時にこの場にいる誰よりも、親父の語る〈第一印象〉論の体現者でもあった。その男は間違いなく、自分の望み通りの第一印象を他人に刻みつけている
彼が演出しているのは、異物感であり、正体不明さであり、
わからない故の、不気味さだ。
強烈に、凶悪に、自らの存在を他者の記憶に刻み込んでいる。
正直、やや気圧された。
僕は内心の動揺を咳払いで誤魔化して、自己紹介に移った。
「失礼しました。ミヅチと申し――――」
「ええ、勿論、存じ上げておりますとも。よもやこのような場所でご尊顔を拝する栄に預かれましょうとは、思っておりませなんだ。ああ、なんと身に余る光栄でありましょう、風車の邪眼卿」
僕は、今度こそ本気で気圧された。
家名を当てられた。それも顔を見られただけで。
正体不明の不気味さが、未知の恐怖に変わっていた。それでいて、わからないからこそ、目を離せなくなっている。いくつもの謎が、この男への興味を呼び起こす。不気味で怖ろしいのに目が離せない。
この感覚は、最高に上手く描写されたゴシック・ホラーのようだ。
第一印象の操作としては、およそ完璧な手際。
まったく正反対の人間だが、不思議と自分の父親をダブらせた。
あの〈古き魔術師〉の見本のような男と――。
「貴方様にワタクシの成果物を見て頂けるとは、なんという幸せ。ああ、今日は記念すべき日です。なんという僥倖。なんという運命。ああ、なんと。ああ、なんということでしゅう。そうです、祝杯をあげましょう! ――っと、これはご無礼を。感極まって名乗りが遅れてしまいました。なんという無礼を。ああ。ワタクシは、ジーンと申します。ジーン・クリスパーダ」
――以後、お見知りおきを。
その怪人は、この上なく不気味な笑顔でそう言った。