生まれた意味を問うことに関する一つの考え
私達はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、という問いについて考えたことがあるだろうか。この問いは危険だ。とても本質的なように見えるため一度考え始めれば強迫観念に陥り問いが常につきまとう。視界は曇り盲目になる。考えているようで考えていない、しかしそれに気づかず精神を擦り減らす。それでも問い続けるのは本質的なことだという思い込みがあるからだ。本質的であるから目を背けてはならないと奇妙な正義感が襲う。
この問い方は即刻やめるべきだ。なぜなら、こういった問いを発する人間が本当に知りたいことはこの問い方では見つからないからである。
そもそもなぜこのような問いが生まれるのだろうか。それは自分がどう生きればよいのかわからないからだろう。生き方がわからないのでーー正確に言えば生き方を決められないのだろうがーーもっと根幹にある人類全体の生まれた意味を知り、そこから自分自身の生き方、使命を演繹的に決定しようという試みがなされる。しかし実際には人類全体の生まれた意味など探したところで見つからない。結果その者は自分の生を支える根本的な何かに突き放されたように感じ絶望する。
私自身このような体験をした。それから私は人類全体の生まれた意味などどうでもよいと
思うようになった。探しても見つからないのであればとりあえず今のところは生まれた意味は存在しないと仮定して話を進めればよい。当分の間は生まれた意味がないことを前提に生き、もし万が一生まれた意味が発見されればそれに従って生きるだけのことである。
以上のように考えることで元凶とも言うべき本当の問いが炙り出される。それが先程述べた、私はいかに生きるか、である。実のところ私が知りたいのはこれに対する答えだ。人類全体の生まれた意味は先の問いに対する答えを演繹的に導く一つの手段に過ぎず、それ自体は私の目的ではない。したがって、これが駄目なら他の手段を見つけるだけだ。他の手段とは演繹的な推論ではなく、自分の生き方を直接考えることだ。
人類全体の生まれた意味がない世界において自分自身の生き方を考える方法だが、これについては自分を頼るしかないだろう。なぜならそれぞれの人生は人類史上初の試みだからだ。生まれることと死ぬことという二つの事実は誰にでも共通するが、その過程である生き方ーーもちろんこれには、どのように生まれるか、どのように死ぬか、も含まれるーーは人によって異なる。決まり切った普遍的な生き方などなく、あるのは人それぞれの生き方だ。それぞれの生き方は前代未聞であり二度と起こり得ない。それゆえそれぞれの人生は人類史上初の試みと言える。
今現在、私達は未だかつてないことに挑戦し続けている。前例のないことをやり遂げるには自分の頭で考えるしかない。もちろん他の人々の意見も参考になるだろう。人生において何かしらの類似点もあるからだ。しかしそれはあくまでもヒントであって答えではない。その人の人生は固有のものであり、私やあなたの人生もまたそれぞれ固有のものであるから、最終的な判断は自分にしかできない。責任が重すぎると感じただろうか。しかし現実はそのようになっているのだから仕方がない。私達は自分の頭で考えて人生の選択をするよりほかないのだ。
したがって選択の根拠は自分にある。何が好きで何が嫌いか、何を望み何を望まないか、それらに対する一つ一つの答えが自分自身の生き方を構築する。道に迷う人間はこれらの具体的な問いではなく、自分という個人よりも格段に高次元で抽象的な話、それこそ人類全体の生まれた意味といったことばかりを考える。しかしそんなようではいつまで経っても問いに振り回されるだけだ。もっと地に足をつけた思考を身につけなくてはならない。
世界は何の理由もなくただ在るだけだ。生まれた意味がないとはそういうことである。だから私達は自分の生き方を自分で決定するしかない。それが生きることに対する責任である。言うなれば世界に住まわせてもらうために支払う家賃のようなものだろう。そう考えると世界は何とも格安な物件だと思わないだろうか?