第93話 ナルヴェク視察1
帝国歴1795年3月16日、隼人達はナルヴェクの港に入港しつつあった。
「兄さん、船旅は良いものですね。潮風が気持ちいい」
そう言ってナターシャは隼人の右手に恋人つなぎをし、それなりにある胸を腕に押し付けて頭を肩に乗せる。愛情表現は嬉しいのだが、さすがに昼間から大勢の船員に見られる所でされると少し恥ずかしい。
「……ナターシャ、それくらいにしておけ。隼人が困っているぞ。それにみんなが見ている」
マチルダがナターシャをたしなめる。ちなみに妹のカチューシャの方はカテリーナとともに、山地が海に迫るフィヨルドの湾内の絶景に目を奪われている。
「あら、夫婦なんですからこれくらいいいじゃないですか。こうして目に見えて愛を示せば変な女も寄って来ないでしょうし。それとも、自分が恥ずかしくてマネできないんですか?左側、空いてますよ?」
これである。ナターシャは普段は常識人なのだが、隼人に対する愛情表現が過剰で、しかも他の妻達を挑発する悪癖がある。とはいえ、その過剰な愛情表現を拒まない隼人にも責任があるのだが。
「い、言ったな!ふ、ふん。これでどうだ」
まんまと挑発に乗せられたマチルダがぎこちなく隼人の左側にくっつき、ナターシャよりも立派なものを隼人の腕に押し付ける。ただ、頭を肩に乗せるだけの度胸はないようだ。
「お、おい、2人とも、これは……」
両手に花だが、さすがに昼間から狭くて人目を集めやすい甲板でこれは恥ずかしい。しかもフリゲートなので艦首から艦尾までフラットで、丸見えだ。夜に寝具の上でなら大歓迎なのだが。
「駄目ですか?」
ナターシャが最近とみに色っぽくなった声で訴えかける。今回は彼女達とのデートのようなものを兼ねているから断りづらい。
「う……、まあ、かまわないんだが……」
結局ナターシャに負けて認めてしまう。なまじナルヴェクに到着するまでは仕事がなく、暇なので断る理由もなかった。
「……ところでマチルダさん、初めての船旅はいかがでしたか?」
隼人の肩で幸せそうにしていたナターシャがマチルダに問いかける。本来なら隼人が言うべきセリフなのだが、2人の美女にくっつかれて顔を赤くし、使い物にならない。ナターシャはこういう時に空気を読むのも上手い。もっとも、今回のように大抵は自分で作った空気なのだが。
「悪くないな。潮の香りに包まれるのは気分がいいし、海の上を疾走している時の風は心が躍る。そして夕日も綺麗だし、夜空も綺麗だ。旅をする機会は少なかったが、船旅は気楽で気持ちいい。これも隼人達が海を安全にしてくれたおかげだな。ナターシャはどうなんだ?」
「私は今年のロリアンの新年会に出席しましたから船旅は2度目ですが、それでも飽きる事はありませんね。安全に兄さんと旅ができますし、景色も綺麗。海もいつも同じではありませんし、陸地を眺めるのもいいですね。私も船旅は気に入っています」
ちなみに他の妻達も今年のロリアン新年会に出席しており、船旅が初めてなのは留守番をしていたマチルダだけだ。今日は派手に隼人にイチャついているナターシャだが、初めての船旅ではずっと隼人の手を引いて甲板を歩き回って無邪気にはしゃいでいた。
「そうか……。船旅はいいものだよな。あさましいが、私は隼人と永遠に船旅を楽しみたいとも思ってしまうよ」
「あ、それ私もです。でも、それは帰る場所があるから言えるのでしょうね。兄さんと行商をしていた時は幸せでも、どこか落ち着かないというか、腰を落ち着ける場所を欲していましたから。マチルダさん、いつも私達の帰る場所を守ってくれて、ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
いつの間にやらマチルダとナターシャが良い雰囲気になって、隼人に寄り添う。隼人は、いや隼人達が1番マチルダに言いたかった事をナターシャに言われてしまい、しかしナターシャの言葉に便乗する事も気恥ずかしく、不器用にマチルダの手を強く握る事でその意思を伝える。マチルダもそれをくみ取り、握り返し、隼人の肩に頭を乗せる。その空気を感じ取ったのか、ナターシャも2人の方を向いて微笑む。
そんな新婚気分、というよりも恋人気分が色濃く残った空気のまま船がナルヴェクに接岸するのを待つのだった。
桟橋に降り立つと、アルフレッドとシーラが迎えに来てくれていた。
「よお、大将。久しぶりだな」
「アルフレッドも相変わらず元気そうだな。ナルヴェクの統治も順調そうじゃないか」
以前と変わらず気安い言葉で迎えるアルフレッドに、隼人も嬉しそうに、だが少し皮肉を込めて挨拶する。
「いや、まあ、素人だからな。少し慣れが出てしまってな。申し訳ない」
アルフレッドも、1つ前の連絡船からの書状で、隼人が何故ナルヴェクに視察に訪れたかを知っている。だからシーラとともに申し訳なさそうに頭を下げる。
「気にするなとは言わんが、まあ軍を動かすような揉め事を起こさなかったんだから、上手くやったと思うぞ。ただ、権限を踏み越えすぎたな。ただ、それだけの能力がある事はわかったよ。そこは評価するよ。ただし、今度は海軍の方で忙しくなってもらうがな」
「了解だ。色々軍政改革をやったり、統合士官学校だっけか?そんなのも作ったんだろ。俺も色々勉強しないとな。ところでそっちの見知らぬ方が新しい領主かい?」
「ああ、そうだ。正確には領主ではなく代官だな。川西氏綱だ。敷島から来た、重臣をやっていた人物だ。3カ月ほど、引継ぎついでに補佐して欲しい」
隼人はアルフレッドに川西氏綱を紹介する。川西氏綱は隼人とアルフレッドの気安いやり取りに面食らっていたが、意識を切り替えてアルフレッドに着任の挨拶をする。気安い関係だとは聞いていたが、実際に目の当たりにすると小言の1つも言いたくなる。が、できた人間なのでそんな野暮な事はしない。隼人とアルフレッドの間に信頼関係を感じられたからこそである。これがアルフレッドが隼人と対等の立場だと勘違いしていれば即刻首を進言していたところだ。
「引継ぎが終わればアルフレッドにはマリブールに戻って海軍長官の任務に戻ってもらう。シーラには引き続き川西氏綱の補佐を……」
「あー、その事なんだがな、大将……」
事前の書状で決めてあった配置転換を確認する隼人の言葉をアルフレッドがさえぎる。
「どうした?アルフレッド?」
書状での一方的な命令であったとはいえ、特に不満が残る命令ではないはずだったので隼人は首をかしげる。
「えっと、その……」
しかし、隼人の言葉をさえぎったアルフレッド当人ももじもじしている。正直、海の男がもじもじしているのは様にならない。
隼人が呆れて続きを促す声をかける直前、シーラが口を開く。
「閣下!俺、いや私とアルフレッドとの結婚を認めてください!」
そう言ってシーラは隼人の前で90度に腰を曲げて頼み込む。
「大将!お願いだ、俺はシーラに惚れっちまったんだ!シーラと離れたくない!シーラと結婚させてくれ!」
アルフレッドも慌ててシーラの横で頭を垂れる。
いきなりの事態に隼人は困惑し、目を点にする。その横で川西氏綱は苦笑いし、マチルダ達女性陣は祝福の微笑みを浮かべている。
「……まあ、その話は城でゆっくり聞こう。配下の子爵達が待っているんだろう?話は彼らに会ってからだ」
隼人はそんな大事な話を今まで聞いていなかった事に頭痛を感じつつ、先に別の用事を済ませる事にする。この件は時間をかけて聞き出すべきだと思ったからだ。
ナルヴェクの城で子爵達に挨拶した後、一行は大きめの応接室に移動した。上座の中央に隼人が座り、その左右にマチルダとナターシャが、テーブルの左には川西氏綱が座り、右にはカテリーナとカチューシャが席を並べる。そして下座に囲まれるようにアルフレッドとシーラが座る。
「それで、いつからなんだ?」
紅茶に一口口を付けた隼人は、もっと前に言ってくれれば考慮したのに、という苛立ちを隠せずに言った。
「前の連絡船が出航してすぐ後の事だ。シーラと別れると思うと、急に寂しくなってきて……。それでシーラに会いに行ったら、シーラも同じ気持ちだと言ってくれて……。どうやら一緒に仕事をしているうちにシーラに惚れていたみたいなんだ。すまん」
「いや、アルフレッドは悪くない。私に勇気がなかったせいなんです。アルフレッドよりも前に自分の気持ちに気づいていたのに、アルフレッドに拒絶されるのが怖くて……。それでどうしても言い出せなかったんです。だから、悪いのは私なんです」
「いや、悪いのは俺だ。ずっとシーラの気持ち……、いや自分の気持ちに気付かなかった俺が悪いんだ」
「はぁ、誰が悪い、悪くないの話をしているんじゃないんだがな。まあいい、経緯は分かった。シーラの代わりに川西氏綱を補佐してくれる人物にアテはあるんだろうな。ナルヴェクは昔から海賊が根を張っていた難しい土地だ。スカンジナビア地方の他の領主の土地では何度も反乱が起きている。ナルヴェクの安定を維持するためには元海賊の協力は必須だ」
お互いをかばい合う2人にため息をつきながら、今後の事について話す隼人。隼人は元から部下達の恋を引き裂く気はなかった。しかし政治情勢は別だ。シーラはナルヴェク海賊団の頭領であっただけに、どんな影響が出るか分からない。
「それについては私の副官だった男を推薦します。彼は私が頭領だった時代によく皆をまとめてくれました。彼なら立派に補佐を務められるはずです」
隼人の問いにシーラが答える。アルフレッドはそこまで考えていなかったのか、ポカンとしている。この表情に隼人は、アルフレッドは、シーラとセットじゃないと政治は駄目な奴だったんだなと認識を改める。
「そうか。ならそいつを呼んでくれ。人柄を知っておきたい」
隼人の要望にシーラが頷いて肯定し、応接間に控えていた侍女に副官を呼びに行かせる。
しばらくして応接間に現れた男は、禿げ頭に隻眼の、これぞ海賊、といった風情の男だった。
隼人はいくらかこの男とやり取りをして、信頼できる男である事を確かめる。そして最後に質問した。
「シーラの代わり、務められるか?」
「もちろんです。今までもシーラの嬢ちゃんを支えてきましたし、これからは川西様を通じて間接的に支えるだけです。それに、私が代わりを務めねばみんな不満に思うでしょう。シーラの嬢ちゃんがアルフレッド様に懸想しているのは元海賊達はみんな知っていますし、応援しています。隼人様がシーラの嬢ちゃんとの仲を引き裂いたら、それこそ不満の種になるでしょう。ですから、シーラの嬢ちゃんの代わりを務めるのは副官だった私だと、元海賊連中はみんなそう思っています。シーラの嬢ちゃんの幸せのためなら我らナルヴェク海賊団、誠心誠意、川西様にお仕え申し上げます」
シーラを頭と呼んでいた男、今でも呼称をシーラの嬢ちゃんと変えてシーラを慕っているようだ。話を聞く限り、それは元海賊一同同じらしい。隼人はナルヴェク海賊団の団結心の強さを改めて思い知る。思えばナルヴェク海賊団は相対した海賊団の中でも突出して勇敢であった。
「……わかった。シーラの代わりはお前に任せる。シーラにはマリブールでアルフレッドの補佐についてもらう」
隼人はシーラへの忠誠が厚すぎる海賊達に一抹の不安を感じたが、シーラを神輿にする気はなく、純粋に幸せを願っている事に、同時に安堵した。おそらく、シーラが幸せであるならば彼らの結束は中島家の力になるはずだ。
「アルフレッド、聞いたな。シーラを幸せにする自信はあるんだろうな」
「も、もちろんだ、大将。絶対に幸せにするし、命に代えてもシーラを守る!」
「ま、待て、アルフレッド!幸せにしてくれるのは嬉しいが死ぬ時は一緒だ!お前だけが死ぬなんて俺の最大の不幸だぞ!」
アルフレッドの宣言にシーラが顔を赤くして恥ずかしい事を言う。隼人も結婚しているから気持ちは分かるが、それを人前で言わないで欲しい。
「……まあいいや。マリブールに戻って来るまでの3カ月、しっかり引継ぎ業務を終えるんだぞ。川西も難しい土地だと思うが、よろしく頼む」
「はい、ナルヴェクをお預かりします」
川西氏綱は苦笑して快諾する。
隼人はドッと疲れたような気がしてアルフレッド、シーラ、川西、そして副官に業務を始めるように言って下がらせる。
「人の恋路は面倒だな」
「あなた、あたし達も人の事言えないよ」
隼人の嘆息に、歳が歳ゆえに『お兄ちゃん』呼びに堪えられなくなって『あたな』呼びに変えたカチューシャが批判する。確かに隼人も結婚に関しては優柔不断で周囲をヤキモキさせていたのだ。
「隼人さん、私達も謝らなくちゃいけない事があるんだ」
「?何のことだ?」
カテリーナの言葉に隼人は首をかしげる。
「実は私達は以前からシーラさんに文通で相談を受けていたんだ。どうも煮え切らない態度だったから、最後はここに来てから私達が背中を押さなきゃいけないかな、と思っていたんだけど、知らないうちにああなっちゃってたから……。それに乙女の恋路を隼人さんにばらすのもはばかって……。私達も話をこじらせちゃった原因なんだ。ごめん」
カテリーナに続いて妻達が頭を下げる。
「……なんだい、水臭いなぁ。知らないのは俺だけかよ。……まあ、気持ちは分からんでもないからいいんだけどさ」
そんな話をしていると、城下からまばらに歓声が起こり始める。隼人が何事かと確認しようとすると、侍女がそれを止めて言う。
「心配ありません。みんな、シーラ様の恋路が成就して喜んでいるんですよ。シーラ様は私達ナルヴェク海賊団の自慢でしたから。今日は大宴会になるでしょうね」
「そうなのか。しかし君も海賊だったのか」
「ええ。とはいえ、前の戦いの怪我で戦えなくなり、今は侍女の仕事をもらっていますが」
「そうか……。しかしこのありさまじゃあ、アルフレッドとシーラの結婚式はここで挙げなきゃならんかな」
「そうしていただけると、みんな喜びます」
侍女の言葉に、隼人はしてやられた感がひしひしとした。だからちょっとした意趣返しをしたくなった。
「……ええい、面倒だ。アルフレッドとシーラの結婚式は俺がナルヴェクに滞在している間にやる。明後日だ。明後日に式を挙げさせろ」
窓から城下を見下ろす隼人の言葉に女性陣が顔を見合わす。そして満面の笑みで言った。
「「「「「喜んで!!」」」」」
隼人の命令が伝えられるとアルフレッドとシーラは狼狽し、城下はさらに湧きかえるのだった。
今回は視察という名の痴話話……。ケルンではもう少し真面目な話ができるでしょう。……たぶん。