第86話 ベビーラッシュ
帝国歴1794年3月23日朝、執務室で書類に目を通している隼人は、どこか上の空だった。そして誰から見ても落ち着きがない。それを見かねたマチルダがあきれたように、何度目かわからない注意をする。
「隼人、落ち着け。男のお前が慌てても仕方ないだろう」
「ああ、でも、しかしだな……」
「なに、桜がついているんだ。間違いなく梅子は母子ともに健康に出産するはずだ」
理由は単純、梅子が産気づいたからだ。今は清潔な部屋で桜とともに出産の陣痛に耐えている。
「確かに、絶対安全だとは分かっているんだが、梅子は初産だし、赤子は病気に弱いし……」
この世界は治癒魔術があるので、その使い手さえいれば出産自体はほぼ安全だ。もっとも、使い手を手配する事が難しく、赤子と老人の病気に関しては効果が5分5分である欠点がある。
「やれやれ、見ていて情けないな。……その調子なら私の時も落ち着かないんじゃないか?」
マチルダがあきれと期待を混ぜた目で隼人に問いかける。
「……そうだろうなあ。マチルダもそろそろなんだろう?カテリーナ、ナターシャ、カチューシャも近いようだし……」
隼人はマチルダの大きなお腹を見ながら悩まし気に答える。マチルダも現在執務室いるだけで仕事はしていない。さすがに出産間近の妊婦には仕事をさせられない。本人はまだ大丈夫だと主張しているが、隼人がなんとか止めたのだ。
仕事に身が入らない状態をマチルダに何度も注意される事を繰り返して1時間半が過ぎた。そこへ執務室がノックされる。隼人が入室を許可すると、これまでのように書類を抱えた官吏ではなく、何も持たない女性の使用人が入ってきた。彼女は一礼し、感極まったように要件を告げる。
「無事、お生まれになりました!元気な男の子です!」
「そ、そうか!」
隼人は飛び出さんばかりの勢いで立ち上がり、梅子の下へ駆けて行く。
「……やれやれ、私にも声をかけずに出ていくとは、相当慌てているな」
マチルダも難儀そうにお腹を抱えて梅子の下へ向かう。
「……あ、お手伝いします」
隼人の行動にあっけにとられていた使用人がマチルダに介助を申し出る。
「ああ、すまないな。頼む」
マチルダも使用人に付き添われて梅子の下に向かった。
慌てて執務室を飛び出した隼人も、梅子のいる部屋の前まで来ると緊張する。2,3度深呼吸してから扉をノックする。
「俺だ、隼人だ。入ってもいいか?」
「どうぞー」
中から桜の安心したような声が聞こえる。隼人は数舜間をおいて扉を開ける。
部屋の中では汗に濡れた髪を額に張り付かせた梅子がベッドの上で優しい笑顔で迎え入れてくれた。その隣には赤子が眠っている。そしてベッドの脇の椅子には嬉しそうな顔で桜がいる。
隼人はベッドのそばまで歩み寄り、梅子の手を取る。その手は汗に濡れており、苦労がしのばれる。
「梅子……、よくやった」
隼人は絞り出すような声で梅子に語り掛ける。
「ああ、これで拙者も母親だ」
梅子はしんどそうに、だが幸せそうに答える。
隼人は両手で梅子の手を握ってから片手を離して梅子の頭をなでる。桜はその様子をニコニコと眺めている。
「隼人殿、拙者も疲れた。この子に名前を付けてやってくれ」
「そうだな。……男の子だから、鷹志、中島鷹志だ」
そう言って隼人は桜から抱き渡された鷹志を抱く。そのまま5分ほど抱いて、梅子の隣に鷹志を滑り込ませる。
「鷹志か……、いい名だな。拙者は少し寝るよ。……隼人殿、愛しているぞ」
それだけ言うと梅子は目を閉じ、すぐにかわいい寝息を立て始めた。
「隼人さん、おめでとうございます」
桜が嬉しそうに言う。思えば隼人が部屋に入ってから桜は口を開いていない。梅子を思っての事だろう。
「桜も、ありがとう。桜のおかげで無事に新しい命を授かれたよ」
「ふふ、どういたしまして。それにしても、義人も可愛いですけど、鷹志も可愛いですね」
「そうだな。そう言えば義人はどうしているんだ?」
「今日はエーリカさんに任せてあります。エーリカさん、あれで子煩悩なところもありますからね。お腹の子の育児の練習だって張り切ってましたよ」
そう言った時のエーリカの張り切りぶりを思い出して桜は微笑む。
「桜、これからしばらく妻達の出産が続くが、しっかり頼むぞ」
「ええ、私もみんなの事は大好きですから、任せてください」
そう言って桜は胸を張る。
「さあ、隼人さんは仕事に戻ってください。ここは私達で十分ですから。お仕事、滞っているんでしょう?」
桜につられて扉の方を見やると、マチルダ、カテリーナ、ナターシャ、カチューシャがそろっていた。使用人も何人か来ている。エーリカは義人の世話のようだ。
「隼人、おめでとう。だがお前の仕事が滞っているせいで部下達が苦労しているぞ。桜の言う通り、ここは私達に任せておけ」
隼人はマチルダに肩を叩かれ、カテリーナに部屋を追い出される。隼人は寂しいものを感じながらも、仕方ないかと執務室に戻るのだった。
この日の後もベビーラッシュは続いた。3月27日にはマチルダが女の子を出産し、中島マリナと名付けられた。4月5日にはナターシャが男の子を生み、中島ミハイルと名付けた。4月10日と11日にはセオドアとアエミリアの子、アントニオとエレナの子が生まれた。4月14日にはカテリーナが女の子を生み、中島ユリヤと名をつけた。4月21日にはカチューシャが女の子を生み、中島ダリアと名前をつけた。
その間に4月9日の桜の20歳の誕生日と4月17日の義人の1歳の誕生日が過ぎてしまった。特に桜の誕生日はベビーラッシュの真っただ中だったので、簡単なお祝いしかできなかった。
ちなみに言うまでもないが、隼人、セオドア、アントニオの父親達は自分の妻が出産するたびに落ち着きを失っていた。隼人などは短期間で5人の子宝に恵まれたのだから、少しは慣れればいいものを、5人目のカチューシャの時でさえ、梅子の出産のときと同様に落ち着きがなかった事は、しばらくマリブール城内で噂になった。
ともあれ、5月に入ると妻達の体調も戻り、一段落した。無論、7人の赤子と義人の世話という難事業があるのだが、妻達が協力して交代で面倒を見てくれている。おかげで妻達が職場復帰できるようになった。
もちろんこれは行商時代からの強い信頼関係があってこそ可能な事だ。普通の家では側室の子供などライバルでしかないし、家臣の子供など身分の違いから一緒に育てるなどもっての他だ。この信頼関係は隼人達の最大の強みと言えよう。
ちなみに、もちろんのことながら隼人も時間を作っては子供達の様子を見に行くのだが、たまに授乳中の妻に出くわして気まずくなることがある。ただ、エレナとアエミリアはともかく、妻達は授乳中に隼人が来ても全く気にしない。隼人が一方的に居心地が悪くなるだけである。母になって精神が図太くなったという事だろうか。そのくせ隼人はいまだに新婚気分でいる事はそれはそれで図太いというか、頑固と言うべきか、ともかく成長しない男である。
ついでに言うと、隼人の次の世代までは一緒に育てられた仲という事で隼人達と同様か、それ以上の強い信頼関係を築く事になり、中島家の興隆の原動力となっていくのだった。
ベビーラッシュが終わると、今度はガリア王国各地から贈り物とともに来客が急増した。出産祝いという形で中島家との関係を密接にしようとする貴族はたくさんいるのだ。ロストフ代官ブルザ男爵、セダン代官エモン子爵といった、経済と政治で強いつながりを持とうとする新貴族。ルーレオー領主ローネイン伯爵、カーディフ領主フェルトン公爵らの、旧貴族派とは縁が遠い旧貴族で、現状の変革を求める者や経済協力をしようとする者達。
旧貴族はもちろんの事、新貴族も味方をつくるためにないがしろにするわけにはいかないので、隼人自身が来客の応対をする。陸路ではるばる来てくれる貴族は少ないので待たせずに応対できるのだが、交易船に便乗してくる貴族は1度に何人も来るので、宿で待ってもらう事になり、交易船の出航日時にも影響する。交易船を待たせるとそれだけで損害になるので、1日の内に何人もの貴族の応対をする事になる。
また、大抵は経済の話題になるので、セオドアにも同席してもらっている。そのため来客が重なると、普段は不満を言わないセオドアも子供に会えないだのアエミリアに会えないだの仕事が進まないなど不平をこぼしている。それでも商売の話となると真面目にしてくれるのだからご苦労様である。
救いがあるとすれば、妻達の出産と来客応対の都合でパーティーを開く余裕も、招待される余裕もない事だろうか。そろそろ義人のお披露目パーティーをするべきなのだが、順調に延期されている。
「いやはや、マリブールは噂に勝る活気だな。我がカーディフも景気が良いが、卿の領地には負けるな」
「ありがとうございます。私の方もカーディフの石炭に助けられています。カーディフの石炭は質がいいですからね」
今回の来客はフェルトン公爵である。マリブールとカーディフを結ぶ交易船に便乗してきたそうだ。ちなみにフェルトン公爵はブリタニア地方の古い旧貴族であるのだが、ブリタニア系ゆえにルブラン家が主導する旧貴族派には入れてもらえず、かといって新貴族派からも距離を置かれていた人物だ。隼人の伯爵昇爵を新貴族派に属する突破口にしようとして、石炭を欲していた隼人と利害が一致して協力関係を結んだ仲である。
「こちらこそ石炭の売り先ができてうれしい限りだ。なにせ石炭が採れる領地はカーディフだけではないからな。冬場以外は買い手が少なくて困っていたのだ。今は卿のおかげで海路も安全になって、港町でもある我が領地は活気づいておるよ」
「それは何よりです。やはりお互いに利益がないと関係は長続きしませんからね」
「全くだ。ちなみに最近新しい石炭の鉱脈が見つかってな、奴隷も増えたし、さらなる交易ができればよいと思っているのだが……」
「セオドア、どうだ?」
ほとんど単刀直入な貿易要請に、隼人はセオドアに経済面での確認をとる。
「石炭なら慢性的に不足していますから、輸入拡大はぜひともお願いしたいところですね。ただ、交易船の建造が間に合っていないので、すぐには無理です」
セオドアはそう答えて物流の資料を隼人に渡す。マリブールでは石炭と鉄鉱石が特に不足しているようだ。食料も十分とは言えず、食料価格は周囲の領地よりも高めだ。一方でナルヴェクでは鉄鉱石が余り、食料も魚を少しばかり捕りすぎているようだ。一言で言えば、流通が滞っている。交易船の配属待ちといった状況だ。隼人はその資料を確認してから口を開く。
「交易については、ぜひお願いしたいところです。できれば穀物も買い付けたいと思います。こちらからも鋼鉄の輸出量を増やしましょう。ただ、交易船の数が足りていないので、交易船が就役してからとなりますが……」
「おお、穀物も買ってくれるか!鋼鉄も不足しているからうれしいぞ。交易船については我がカーディフでも建造している。卿の交易船の大きさには至らないが、完成次第送ろう」
フェルトン公爵は商談がすんなりと進み、破顔する。
「それから卿は5人も新たに命を授かったそうだな。記念に御守りの細工物を用意してきた。親子が健やかである事を祈っているぞ」
「これはこれは、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
「それはこちらこそだ。この関係がいつまでも続くと良いな。それではまた会おう」
フェルトン公爵は隼人と握手して会談を終える。2人とも、この後にマリブールに滞在中の貴族達とも会談の場を設けているのだ。お互い忙しく、長く語り合う事は難しいのだ。その代わり、お互いの家臣達が別室で詳細を詰めている。
ベビーラッシュ後の2、3カ月で一気に他の貴族達との交流を深め、隼人は名実共に新貴族派主要人物に名を連ねるのだった。