第8話 行商の準備
朝、ナターシャは暖かいぬくもりにつつまれて目を覚ます。このまましばらくまどろみに浸っていたくあったが、朝の支度をしなくてはならない。苦労して目を開けると、優しげな男の輪郭があった。隼人の顔だ。
「…おはようございます」
彼女はやや寝ぼけ気味あいさつする。
「おはよう、目は覚めたか?そろそろ離してくれると嬉しいんだが」
「えっ」
隼人の言葉に今の自分の状況と昨夜の出来事を思い出す。
「きゃ」
かわいらしい小さな悲鳴をあげて顔をリンゴのように真っ赤にし、腕で胸を隠して隼人の反対側を向き、シーツに顔をうずめる。
「あー、向こうを向いているから服を着ろ」
「…はい」
ナターシャは隼人が向こうを向いているのをちらりと確認すると、ベッドを出て昨日脱ぎ落した寝間着を手早く身につける。まだ昨日のぬくもりと恥ずかしさで胸の高まりが収まらない。
「あの……終わりました。昨日は失礼しました」
「あ、ああ、別にかまわないよ」
隼人は「気持よかったし」という言葉を飲み込む。ここでそんなことを言ったら紳士として失格である。
「ああ、そうだみんなに宿の中庭に集まるように伝えてくれ」
「あ、はい。わかりました。…あの、迷惑でなければ兄さんと呼ばせていただいてもいいでしょうか?」
「っ…!?あ、ああ、構わないよ。俺たちは家族だからな」
「ありがとうございます、兄さん」
満面の笑みを浮かべてナターシャが退室する。隼人は「兄さん」という言葉の響きに衝撃を受けた。カチューシャの「お兄ちゃん」にも相当来るものがあったが、ナターシャの「兄さん」にも別種の、何か心に響くものがあった。隼人はロリコンでも変態でもないが、紳士であった。
朝から宿の中庭に35人の男女が集合していた。
「今日から3日間自由行動である。一人当たり80デナリを特別支給する。これで個人の日用品などを準備するように。なお、武具はこちらで用意する。宿と朝食、夕食もここでとる限りこちら持ちだ。以上、解散。これより現金を支給するから並べ」
一人につき小銀貨8枚を支給すると、隼人は3人に声をかけた。
「カテリーナ、それにナターシャとカチューシャ。昼から武具を見に行くから付き合ってくれ。俺はそれまで寝ているから、昼になったら起こしてくれ」
「まだ寝るのですか?」
カテリーナが問う。
「うん、まあ、昨日はよく眠れなかったんだ。武具はちゃんと見ておきたいから、しっかり寝てから行くよ」
「そういうことなら…。では昼に起こしに向かいます」
隼人はそう言って何でもないように部屋に戻ったが、隼人とナターシャの顔は少しばかり赤らんでいた。
昼になってカテリーナ達に起こされた隼人は、宿の食堂で4人で昼食をとっていた。昼食は別料金で、自由にメニューから注文する。とはいえみんな示し合わせて全員日替わりランチセットだ。メニューは、隼人もこの国に来てなじんだ、この国で一般的な料理であるボルシチとピロシキに、温野菜である。味は香辛料が効いていない以外は可もなく不可もなくな感じだった。
「とりあえず長槍は揃えたいなそれに何騎か軽騎兵が欲しいところだな。カテリーナ、部隊で騎乗できるのは何人くらいだ?」
武具店への道すがら、隼人が尋ねる。
「そうですね……私を含めて6人くらいでしょうか」
「多いか少ないかわからんな」
「お兄ちゃん、私とお姉ちゃんも乗れるよ!」
「乗れるだけで馬上戦闘なんて無理ですけどね」
そこにカチューシャが助け舟を出し、ナターシャが正直に自己申告する。
「そうなると騎乗戦闘ができるのは7人か、カテリーナ、ナターシャ達のように、乗れるだけの奴はどれくらいだ?」
「ほとんどいないでしょうね。警備隊出身者はともかく、都市から徴兵された者は馬に乗る機会がほとんどありませんから」
「となると必要な馬は荷馬車用の輓馬8頭に乗馬が10頭ほど、それにいくらかの駄馬(荷物を背に載せる馬)、といったところか。騎乗は移動中の訓練で覚えてもらうことにするか」
「そんなところでしょうね」
後はボルガスキー軍から敵味方識別を兼ねて支給されていた盾を、無地の盾に更新することや、弩を騎乗兵分も含めて20ほど調達することを決めたところで武具店に着いた。
さほど大きくないスモレンスクの街では唯一の武具店だ。武具の需要自体は天井知らずなので、かなり大きい。
「いらっしゃい。ああ、あんたらは昨日来た行商志望の連中か。真っ当な商売をしてくれるって言うなら大歓迎だよ。何が必要なんだい?」
武具屋の女将が出迎える。
「とりあえず長槍が35本ほど欲しい。それから幅広の盾も35欲しい。あとは馬上でも使えるような弩が10に歩兵用の弩が10、それとボルトですね。少々多いですが頼めますか?」
「剛毅だねぇ。うちの倉庫が空になりそうだ。槍はどんなのが欲しいんだい?」
「そうだな、馬上槍が10に歩兵用のパイクが5メートル程度の物が25欲しいな」
「在庫が厳しいね、弩の方もそうだけど4日、…いや、3日で何とかするよ。盾と一緒に宿に送るよ。盾は無地でいいんだね」
「それでお願いします。あとこの2人、…ついでだ、この3人に革鎧一式と鉄兜をたのめますか?」
「在庫があるからサイズ直しだけですぐできるよ。鉄兜は在庫を見つくろってもらうよ……その3人、兄ちゃんの恋人さんかい?」
この予想外の台詞に3人の顔が赤くなる。隼人はどうしてそんな話になるのか分からずポカーンとしている。
「ち、違います。彼は隊長で、私はただの部下です」
1番最初に復活したカテリーナが顔を真っ赤にして反論する。
「はいはい、そういうことにしときましょうか。他には何かいるかい?」
「とりあえず鎖帷子を3つ、以上ですね」
「鎖帷子だね、在庫ぴったりだ。剣の類はいらないのかい?」
「剣は今あるものを使わせるつもりですから、今回はなしです」
「そっか、うちもそれなりの剣を作ってるんだがね。会計はっと……多少サービスして1万5千デナリに、後は鉄兜だね。さあ、女どもは採寸だよ。男は鉄兜と鎖帷子を選んでやんな」
採寸に連れて行かれる女達を見送りながら、鉄兜と鎖帷子を選びに女将に案内される。あまり安物を使わせるわけにもいかないが、交易を考えると資金が心もとないのでそこそこのものを3セット買った。自分の分は以前の戦利品があるので今回はなしだ。金額は5000デナリで合計2万デナリ。結構きついが、初期投資と考え、小金貨2枚で支払う。
「まいどあり。革鎧、鎖帷子、鉄兜も他と一緒に届けるよ」
そこへ採寸を終えた3人が出てきた。
「隊長、ありがとうございます。しかし、私達だけ、良かったんですか?」
「ああ。カテリーナは部隊のまとめ役として無くてはならない存在になりつつあるし、ナターシャとカチューシャはこれからは家族だしな」
この隼人の言葉にカテリーナは絶句し、ナターシャは顔を赤くする。
「た、隊長、結婚するのですか!?」
「違う違う。ナターシャとカチューシャの保護者になるんだよ」
その言葉にカテリーナは少しホッとしている自分に気づく。どうやらこの年下の青年にどこか憧れめいた感情を抱いているらしいことを自覚する。
「お兄ちゃんが本当のお兄ちゃんになるの?」
カチューシャは聞いていなかったらしく、そんなことを聞く。
「ああ。これからは俺が保護者だ。もっと頼ってくれていいぞ」
そういって隼人はカチューシャの頭を撫でる。が、
「いや!あたしはお姉ちゃんがいればいい!」
そう言ってカチューシャは隼人の手を振り払い、ナターシャの後ろに隠れてしまった。村を助けなかったことで信用をいくらか失っていたらしい。これは時間をかけるしかないだろう。
「も、もう。すみません、兄さん」
「まあ、カチューシャもいきなりの話で戸惑っているんだろう。仕方ないさ」
そんなこんなで武具店を後にすると、もう夕方だった。
「今日はここまでだな。明日は馬屋に行くが、お前達は自由にしていいぞ」
「私は隊長にお供します」
「私も兄さんと行きます。馬を見る目には結構自信がありますから」
「…私はお姉ちゃんと一緒に行く」
明日も同じ面子になりそうだった。
翌朝、早くから馬屋に向かう。馬屋は何軒かあるが、まずは一番大きなところだ。
「輓馬と乗用馬をそれぞれ7頭と10頭欲しいのですが、ありますか?」
「ほう、それはまた剛毅ですな。軍用に訓練されたものはすでに先約でいっぱいですが、通常の馬ならいくらかお安くお譲りできますよ」
中年の恰幅の良い男性商人が答える。
「ではすこし見せてもらっていいですか?」
「どうぞどうぞ、こちらへ」
商人の先導のもと、4人は厩舎に向かう。
「こちらが輓馬の厩舎です」
さして広くない厩舎にそれなりの輓馬がひしめいていた。ナスロヴォ村で馬の世話をしていたため、馬を見る目に一日の長があるナターシャが中心となって、若くて健康な馬を選ぶ。ここで選んだ輓馬は5頭、ややゆったりした乗用馬の厩舎で選んだ馬は7頭だった。
「駄馬も見せてもらっていいですか?」
「ええ、どうぞ」
案内された厩舎はかなり狭苦しかった。駄馬は安く、用途が限られているからだろう。
それでもナターシャは掘り出し物を見つけたらしく、1頭の乗用馬が確保できた。そのほかにも、おとなしいが体格が不足して乗用馬にならなかった、安い駄馬を4頭確保した。
「お嬢さんはなかなか目が利きますな。うちで欲しいくらいです。っと、乗用馬が1頭につき2000デナリ、輓馬が1500デナリ、駄馬が500デナリ、17頭合計2万4000デナリですね」
小金貨2枚と大銀貨4枚での支払いだ。かなりきついが、設備投資として必要不可欠だ。
「まいどありがとうございます」
商人は店の外まで見送って来た。安い馬を買って行ったとはいえ、即金で金払いが良かったから上客だったのだろう。このあと何軒か馬屋をまわり、さらに輓馬2頭と乗用馬3頭、駄馬4頭を確保した。これでここに来るまで荷馬車を引かせていた輓馬を含めて、輓馬8頭、乗用馬11頭、駄馬8頭を確保できたことになる。
馬屋をじっくり回っているうちにもう夕方になっていた。
「今日は3人ともありがとう。助かったよ。自由時間は明日一日しかないが、楽しんでくれ」
「いえ、隊長のお役に立ててなによりです」
「私も、兄さんと一緒で楽しかったです」
「…あたしはお姉ちゃんについてきただけだから」
「ところで隊長は明日はどんな予定ですか?」
「明日か?明日は商業ギルドでの打ち合わせに、武具屋に注文の品の進捗状況の確認、それから日用品の買い出しだな」
「…休みがありませんね」
「まあ仕方ないさ。盗賊に襲われて死にたくないからな」
実際のところ、隼人はゲームでも行商が好きだったのでそれほど苦でもない。
「ともかく、今日のところは宿に戻って飯だな。何か1品くらいならおごるぞ?」
「それでは私はウォッカを」
カテリーナが即答するのを聞いて苦笑する。
「じゃあ私は……腸詰を追加で」
「あ、あたしもー」
こうして隼人は大きな買い物を済ませたのだった。
ちなみに夕食時、ヒマワリの種を肴に飲んでいたカテリーナが絡み酒をしてきて、隼人は人生初の深酒をすることになった。
2日後の昼前にようやく到着した武具を全員に支給し、出発の準備は整った。荷馬車と駄馬には、交易品として麻布とウォッカ、毛皮、それに道中の保存食が積み込まれている。
「出発!」
目指すは北西、ノルトランド帝国首都ノースグラード。そこからさらに人員を増員しつつ、行商をさらに西へ続ける予定だ。
俺達の行商はこれからだ!
つづく