第51話 ひとときの平和
講和交渉は予想外に難航した。タラント王国の使者がアスティが陥落していないことを前提にした講和条件を持ってきていたからである。彼らが上から伝えられてきた条件はアスティとそれ以北の割譲。
しかし現状ではアスティとその周辺までもがガリア王国の支配下に入っている。アンドラ方面軍も、捕虜を残して地図から消えた。とても出せる条件ではない。
かといってもう一度本国と連絡をとるわけにはいかなかった。講和が遅れればロマーニ地方とイベリア地方の結節点であるタラントが攻撃を受けかねないからだ。
急ぐ必要があった。だがそのために提示する条件が整わない。タラント王国講和交渉団はバラバラになってしまった。徹底抗戦派、もう1戦交えてから講和する一撃講和論派、即時講和派。講和内容も現状維持からタラント割譲案まで幅広く論議された。
しかしその結果、無為に時間が過ぎることになる。ブリュネ元帥はタラント割譲か現状維持に加えて賠償金を獲得するところが落としどころであろうと考え、その方向で貴族達と認識をすり合わせていたが、肝心のタラント王国側がいつまで経っても意見がまとまらない。講和が遅れればタラントを攻撃すると脅し、実際にその準備を進めて見せたが混乱は増すばかり。まともな交渉などできない状態であった。
ブリュネ元帥は粘り強く説得と脅迫を続けたが、1週間後の19日、とうとう見切りをつけ、最後通牒を突きつけた。
曰く、明日までに講和案をまとめよ。さもなくば我々はタラントを攻撃する。
すでにアストンからも大砲を含む攻城兵器が到着し、すぐにでもタラントを攻撃、陥落させうる状態であった。ブリュネ元帥はタラント周辺の割譲か十分な額の賠償金が得られなければもう1戦交える決意をしていた。
この最後通牒にタラント王国交渉団は大混乱に陥った。その日の会議は日をまたいで紛糾する。しかしタラントを失えばもう取り返しがつかない。そう結論づけた彼らは、大急ぎでガリア王国が納得するような講和案を作成する。
アスティとその周辺までの割譲と身代金、それに加えて国家予算3年分の賠償金。タラント王国にとって厳しい内容だったが、ガリア王国の兵の準備を見てはそうも言っていられない。
20日の朝、一様に暗い顔をしたタラント王国交渉団から受け取った和平案に満足したブリュネ元帥は停戦に合意した。細かい部分は本国政府間で決定されるだろうが、大筋は決まりだ。翌日からはガリア王国軍の撤収が始まった。隼人隊はその損害の大きさと戦功から撤収第1陣に選ばれることになった。
隼人隊は足取りも軽く首都、ロリアンに帰還する。往路よりも数が少なく、行軍の練度も向上、士気も高いので12月7日にロリアンに到着することができた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
隼人達が屋敷に帰ってくると早速メイド服を着たカチューシャが抱き着いてきた。ロリアンを出立したのが9月9日であるから実に3カ月ぶりとなる。カチューシャも15歳。栄養状態が良いので発育も良い。そんな柔らかな身体がメイド服に包まれて抱き着いてきたのだ。ロングスカートのメイド服とはいえ、思わずだらしない顔になった隼人を責められる男はそうはいまい。
結果として桜、梅子、カテリーナから冷たい視線が飛んできて背中に汗をかくのだが、せっかくの再会なのでカチューシャを引きはがすわけにもいかない。隼人はできるだけだらしない顔にならないように顔面神経に努力するよう命令を出すが、うまくいかない。隼人はカチューシャを抱き返しながら変な表情を作ることになる。それを見た部外者のセレーヌは笑いをこらえている。
隼人に助け船を出したのはナターシャだった。
「カチューシャ、兄さんが困っていますよ」
やんわりとした口調でカチューシャを隼人から引きはがす。
「兄さん、お帰りなさい」
今度はナターシャの優しい抱擁が隼人を襲う。ナターシャは17歳だがナスロヴォ村時代の栄養状態がそれほど良くなかったため、カチューシャと身長が並びつつある。それでもその肢体はカチューシャのそれよりも女らしい。結果としてカチューシャの時よりも表情がにやけてしまう。
ナターシャはカチューシャの時よりもたっぷりと抱擁を楽しんでからようやく名残惜し気に身体を離す。そこで隼人はまだ自分が口にすべき言葉を口にしていないことに気が付く。
「た、ただいま。ナターシャ、カチューシャ、セレーヌ」
「はいはい、お帰りなさい。いきなりお熱いですわね」
セレーヌが面白そうに返事をする。ナターシャはそれを、恋人なのだから当然と受け流し、カチューシャは姉に引きはがされたことを不満気にしている。ふと後ろを振り向けば桜、梅子、カテリーナが羨まし気に見ていた。そういえば彼女たちと抱擁を交わす機会は思ったよりなかった。
「ま、まあ、これで全員無事我が家に帰れたわけだ」
そう言って隼人は桜、梅子、カテリーナを軽く抱擁する。とりあえずはこれで納得してもらえたようだ。
「おほん!わしは邪魔せんほうがいいかの?」
熊三郎のことを忘れていた。目の前で孫を抱擁したのだから、少し気まずい。隼人と梅子、ついでに孫扱いされている桜も顔を赤らめる。
「何を言っているんですか。熊三郎さんもお帰りなさい。さあカチューシャ、今日はご馳走にしますよ。明日は兄さんの誕生日ですし、その準備もしないと」
ナターシャが上機嫌に話をまとめ、隼人達を屋敷に入れ、自らはカチューシャを連れて台所に向かう。
ナターシャが隼人の誕生日を口にしたところで梅子とカテリーナが目を合わせてにやりと笑った。帰路の強行軍を主導したのは実はこの2人だ。兵の帰郷心を煽っていたのだが、実のところ隼人の誕生日に間に合わせるために急がせたのだ。
ちなみに兵には特別給与と2週間の休暇を出し、故郷に顔を出すことも許している。その間に隼人達は補充兵の募集を済ませてしまう予定だ。
「留守の間、何か困ったことや変わったことはなかったか?」
屋敷で荷物を整理し、少し落ち着いたあとの夕食の席、隼人はナターシャ達に問いかける。
「当主が戦場に出ていますし、そこまで変わったことはありませんでしたわ。セオドアは隊商を増やすとか言ってましたけど、それは明日当人から聞いた方が早いですわね。ただ……」
隼人に答えたセレーヌがナターシャとカチューシャに目線を向ける。姉妹は何やら困った顔をしている。
「何かあったのか?」
隼人は心配して尋ねる。
「わたくし達、それなりには美少女でしょう?ですから交際を申し込む男も何人かいましたのよ。近衛兵が出入りしているのと、隼人が『闘技場の殺し屋』であることを知ってだいたい諦めましたけど、しつこい男も何人かいましたの」
のうのうと自分が美少女であると言って答えたセレーヌは何通かの書状を取り出して見せる。内容はナターシャやカチューシャ、セレーヌと縁を切って自分達との交際を認めろ。そのために決闘しろというものだ。
この時代の大陸では男女関係に限らず、個人間の紛争を決闘で解決することも多い。今回も隼人が強者であること知ってか知らずか、隼人に実力で挑もうという男たちがいるらしい。
「なんとまあ、あきれたことだな。こんなことをするよりも惚れさせる努力をすればいいものを」
「全くですわね。でもこれも7人もの女に唾付けて、わたくしを部下にしている男の責務よ。ちゃんと勝ってきなさいよ」
「仕方ないな……。あれ、セレーヌ、お前の分もか?」
しれっと自分の分の厄介事を混ぜているセレーヌに気づき、尋ねる。
「わたくしは隼人の部下なのですから、当たり前でしょう?指揮官は部下を守る義務があるのですから。それに今のわたくしはただの『セレナ』ですよ」
「それはそうだが……」
セレーヌの言葉に拒否できない隼人。忘れていたが、セレーヌは今ガリア王国王女ではなく『セレナ』という偽名の少女なのである。自分でなんとかしろとは言えない。結局隼人は休暇の間に愚かな男達の相手を務めることを決めるのだった。
「まずは戦勝おめでとうございます、隼人隊長」
「ありがとう、セオドア」
翌8日朝、隼人は早速中島商会で会長代行を務めるセオドア(会長は隼人)を訪ねていた。
「隊商を増やすと聞いたが、儲けはどうだ?」
「順調ですよ。やはり行商は利益がいいですね。特に戦争中だったので南部での売り上げが良かったですね。うちは護衛が多いですから危険地帯にも安心して行けることが心強いです。あと、男爵の商会ですから貴族の手出しもないこともありがたいです。利益はこんなところですね」
セオドアはそう言って経営に関する資料を隼人に渡す。
「……これはすごいな。隊商が2つくらい増やせそうだ。安全カミソリの特許料もなかなかだな」
「ええ、ですが隼人隊長の軍勢の維持費や補充にかかる費用を考えれば1つ増やすくらいでしょう。……ずいぶんとやられたそうじゃないですか」
「そうだな……200人くらい補充したいな。悪いな、セオドア。せっかく稼いでもらっているのに」
「かまいませんよ。そのための商会なのですから。……それはそうと、少し不穏な情報がありまして」
「不穏な情報?」
暗い顔をするセオドアに隼人は聞き返す。
「ええ、ノルトラント帝国、それもセダン周辺で食料価格が不自然に上がっているのですよ」
「セダンで上がっているということは……、ガリア王国に対する戦争準備、ということか?」
「そう考えるべきでしょうね。ですからノルトラント帝国との取引を減らそうと思っていますが……」
「しかしマチルダ子爵との縁がある。そう簡単に引き上げられるのは困る」
「そう言うと思っていました。そこでノルトラント帝国との取引はマリブールのみに限る、といったところでどうでしょう?幸い、湿地帯が凍結する時期ですから、ロリアンから直接マリブールに行けます」
「ふむ……。まあそんなところか」
「じゃあ決まりですね。早速隊商に連絡します。それはそうと……」
仕事の話が終わったとみると、セオドアは何通かの手紙を取り出す。
「スペンサー・マチルダ子爵とバイエルライン・フォン・エーリカ侯爵からの手紙です。3カ月分ですから、ちゃんと返事を書いてくださいよ」
「おっ、マチルダにエーリカからか。それは楽しみだ」
隼人は嬉しそうに手紙を受け取る。
「それからもう1つ、私的な報告があるのですが……」
隼人が手紙を後でじっくり読もうと懐に収めたところでセオドアが若干赤い顔で話を切り出す。ちらちらと横目で隣に座るアエミリアを見ている。アエミリアの方は顔がもっと赤い。
「どうした、言ってみろ」
察しの悪い隼人は続きを促す。
「ええと……、この度アエミリアと結婚を前提にお付き合いすることになりまして……」
隼人は思いもよらない言葉にセオドアとアエミリアを見比べる。そういえばセオドアがアエミリアを呼ぶときにさん付けがなくなっている。
「そいつはめでたい!おめでとう!それで、結婚はいつごろするんだ?」
「それは……隼人隊長が結婚されてからにしようかと」
「うっ……」
素直に褒めていた隼人だが、セオドアの言葉に沈黙する。別に冗談ではなさそうなのがセオドアとアエミリアの表情からわかる。
「ですから私たちのためにも隼人隊長も早く身を固めてください」
「……善処する」
隼人は逃げるようにして席を立った。
夕食の席、屋敷に隼人隊幹部が集まっていた。隼人の誕生日を祝うためである。食卓には隼人の希望でトンカツにスープ、サラダ、パンといったトンカツ定食が並べられている。食用油が高価なため、意外と高価な食卓になっている。これらは桜、ナターシャ、カチューシャの手によるものだ。
「「「誕生日おめでとうございます」」」
みんなが杯を掲げる。
「ありがとう」
隼人も返礼して杯を掲げる。テーブルが大きいため杯をぶつけることはしない。桜あたりからも貴族になったのだから上品にと注意されていたことも理由である。
「兄さん、私達から贈り物があります。どうぞ受け取ってください」
そう言ってナターシャが綺麗な銀の指輪を隼人の左手薬指にはめる。
「こ、これは?」
「私達からの隼人さんへの気持ちですよ。私達にも贈ってくれたでしょう?」
隼人の疑問に代表して桜が答える。隼人は贈られた指輪をまじまじと眺める。シンプルだが上品な指輪だ。
「……ありがとう。いい指輪だ」
「良かった!セレーヌさんと選んだかいがありました」
「ちょ、ちょっと!わたくしは手伝っただけですわよ!」
聞けば隼人が出征中にナターシャとカチューシャが頼み込んでセレーヌに選んでもらったらしい。セレーヌはあくまでも手伝っただけだと顔を赤くして主張している。
「これは、婚約成立、ということかの?」
そこへ熊三郎が嬉しそうな、そしてどこか寂しそうな表情で隼人に話しかける。隼人は言われてはたと気づく。だが桜達といつかは結婚したいと考えていたのは事実だ。
「……そう、だな。みんながいいなら、婚約したい。だが結婚はもう少し待ってくれ。まだ心の整理がついていない」
隼人は乙女のように顔を赤らめて宣言する。その言葉に桜達も顔を赤らめて頷く。みんながやいのやいのと祝いと急かす言葉を口にする。隼人は酒を口にして赤い顔をごまかす。
こうして隼人は結婚へとまた1歩近づき、21歳の誕生日を終えるのだった。
9日、隼人は朝から闘技場を訪れていた。ナターシャ達に手を出した男達を処理するためである。
全員腕前は大したことがなく、5人連戦しても楽勝に終わった。4人は実戦経験すらなかったのだから当然である。むしろ何故決闘を挑んできたのか不思議なレベルだ。爵位は隼人よりも高かったから、それが要因であろうか?
ちなみに1人は伯爵家3男で、負けたところで親に言いつけると言って去って行った。こんなことで親が出てくるほど貴族社会は恥知らずではないのだが、どうやら15になったばかりの少年で、そのところがいまいち理解できていないらしい。親が出てきたところで隼人も引く気はないが。
その後、補充兵の徴募や武具の発注をして過ごしていると、12日に王城に呼び出しがかかった。隼人はすぐに出頭する。
呼び出しの内容はやはり褒賞であった。新たに2村を下賜され(給金の増額)、さらに多額の褒賞金を与えられた。
ちなみに隼人は知らされなかったが、件の伯爵の横やりで下賜される村が3村から2村に減じている。裏ではきっちり関係が悪化していたわけだ。
ついでに隼人はセオドアから伝えられた、セダンで食料価格が上昇している件をアンリ王に伝える。
「ふむ、それは確かなのか?」
「はっ、私の商会が直接確認した情報です」
「そうか、わかった。進言、感謝しておこう。男爵も戦に備えて速やかに兵を養うように。下がってよろしい」
「了解しました」
隼人を下がらせたアンリ王はブリュネ元帥に帰国を急ぐように命令を下すとともに隠密にセダン方面の監視を強化するように命じる。早くも次の戦争の足音が近づいていた。
そして明くる年の帝国歴1792年1月12日、ロリアンに伝令が到着する。
さる1月5日、ヴェルダンがノルトラント帝国軍に包囲さる!救援されたし!