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第36話 ナターシャと逢引

 隼人の隊商はケルン西門に集結している。ヴェルダン、サン・ローを経由し、サン・ローから北上、湿地帯を突破してマリブールに向かう計画だ。この時期は乾燥しているため、一度湿地帯を突破してみようと考えたのだ。これが成功すれば夏季と冬季はセダンを経由せずに済む。春季は雪解けで、秋季は雨季で湿地帯は間違いなく泥濘化しているが。


 「何かありそうな気がする。気を付けてくれよ」


 エーリカが隼人の手をとり、声をかける。


 「何かある?」


 「ああ、俺の勘だが、何かが起きそうな気がする。良いことか悪いことかはわからないが」


 隼人の疑問にエーリカが渋い顔で答える。


 「勘、かぁ。考え過ぎだと言いたいところだが、エーリカの勘は当たるからなぁ」


 エーリカの答えに隼人も渋い顔になる。


 「まあ、隼人殿1人ではないのだから、隼人殿1人で手に余るなら拙者達が手を貸すよ」


 そこに梅子が助け船を出す。


 「そうですよ。兄さんは1人じゃありませんから。私だって兄さんを慰めるくらいのことはできますよ」


 「ナターシャ、それでは悪いことが起きると決まっているようではないか」


 ナターシャの言いように隼人は苦笑する。


 「ま、それはともかく、エーリカ、今回も世話になった。また近いうちに顔を出すよ」


 「おう、また世話させてくれよ。隼人がいないと寂しいからな」


 隼人とエーリカが抱擁して再会を誓う。その姿にうんざりする目や、羨ましく眺める目が注がれる。

 人前での抱擁を終えると、隼人達は馬上の人となる。


 「それじゃあ元気で」


 「お前も元気でな」


 隼人とエーリカが名残惜しそうに挨拶を交わす。


 「出発!」


 隼人の号令で隊商が動き始める。隼人は速足でその先頭に向かう。その姿をエーリカは、隊商が丘の陰に隠れるまで見守っていた。




 道中特にトラブルもなく、6月25日にヴェルダンに到着する。ヴェルダンには3日間滞在する予定だ。明日はナターシャの誕生日だ。隼人はちゃんと間に合ったことに安堵する。ナターシャもどこかそわそわしている。




 ナターシャの誕生日当日の朝、いつものように宿の1階で隼人がナターシャを待っていると、しばらくしてナターシャが現れた。

 ナターシャは白い上着に茶色いロングスカートのいでたちで、まさに上品な街娘といった雰囲気だ。


 「兄さん、待ちました?」


 ナターシャが微笑みかける。


 「いや、そうでもないさ。その服、綺麗だな。よく似合ってる」


 「ありがとうございます。色々悩んだんですけど、やっぱり兄さんにはいつもの私を見てほしくて、普段着に近い服装にしてみたんです。これでも新品で、高かったんですよ」


 「ほほう、それで上品な感じなわけだ。しかしそれほどの服、よく買えたな」


 「ええ、節約した分を使い切りました。だから、今日は兄さんにたっぷり甘えますね」


 ナターシャの笑顔に隼人はドキリとする。恋人であると同時に妹分でもあるから、存分に甘えさせたい気持ちも持ち上がる。


 「よし、今日は俺に任せておけ。俺も懐が豊かなわけではないが、ナターシャのためならいくらでも甘えさせてやろうじゃないか」


 隼人は男前なことを宣言する。実はこれから先はカチューシャの誕生日まで予定がないので、支出の予定がないことも、この宣言を後押ししている。


 「しかしナターシャが甘えてくるのも珍しいな。どちらかと言うと、むしろ甘えさせる方なのに」


 事実、ナターシャは隼人の恋人たちの中でもお姉さん的な存在となっており、甘やかしたり、まとめ役となっていることが多い。これは彼女が実際に妹を連れていることも原因だろう。妹の前でお姉さんぶろうとして、そのまま彼女の雰囲気として定着してしまったようだ。


 「私だって1人の女です。好きな人には甘えたくもなりますよ」


 ナターシャが口をとがらせて言う。


 「すまんすまん。どうにもナターシャはお姉さんという感じがしてな」


 「もう、私は兄さんの妹でもあるんですよ」


 「そうだったな。じゃあ行こうか。何か欲しいものはあるか?」


 ずっと宿の前で立ち話をするのも何なので、話題転換ついでに隼人はナターシャの手をとって歩き出す。


 「あっ……、ま、まずは指輪から…」


 いきなり手を握られた恥ずかしさからナターシャは顔を赤くする。


 「指輪だな。じゃあ行こう」


 隼人はそんなナターシャを見て、可愛いナターシャを再発見するのだった。




 宝飾品店は場末の露店から見て回ることにした。ナターシャが高級品店に慣れておらず、身近な店から見ていきたいと主張したからだ。実際にナターシャはこれが可愛い、あれが綺麗と楽しそうだ。そんなナターシャの姿を見るのも隼人にとっては楽しい。



 「次はあの店に行きましょう」


 上機嫌のナターシャが指さした店は、前にカテリーナの指輪を買った店だった。隼人はちょっとした喧嘩をした悪い記憶を思い出すが、ナターシャはそんな隼人の気持ちをつゆ知らず隼人の手を引く。隼人も、2回も同じことがあるわけがないと気持ちを切り替える。


 隼人とナターシャが店に着くと客の波が綺麗に割れた。どうやら先日の噂が残っているらしい。さらには「あいつが『ヴェルダンの怪物』を…」だとか、「あいつ、前とは違うべっぴんさんを連れていやがる」とかささやき始める。


 「兄さん、この店で何かありましたか?」


 ナターシャも困惑気に聞いてくる。


 「ああ、カテリーナの指輪を買ったときに少し、な」


 「ああ、あの話に出ていた店がここですか」


 ナターシャも話だけは聞いていたので納得する。


 「カテリーナさんの指輪、綺麗だったなー。私もああいうのが欲しいな」


 そう言って隼人を上目遣いで見上げるナターシャ。


 「別にもっと高級な店でもいいんだが、まあ好きなだけ見てくれ。気に入ったのなら買ってあげるよ」


 隼人も苦笑してナターシャに答える。

 ナターシャは「ありがとう」と言って店を見て回る。相変わらず店は繁盛しており、客が多いが、隼人の噂のせいで隼人とナターシャの周囲だけがぽっかりと空間ができる。しかし2人は気にせず、肩を寄せ合って宝飾品の品定めを続ける。




 2人は期せずして同時に1つの指輪の前で足を止める。それは銀でできた、シンプルで上品な、悪いがこの店には似つかわしくない指輪だった。その指輪を2人で手に取る。2人とも何か感じるところがあったのか、真剣に見入る。


 「…兄さん、私、この指輪がいい」


 「いいのか?もっと高級な店でもいいんだぞ」


 「いえ、この指輪が気に入りました。この指輪がいい」


 ナターシャがにこりと微笑む。隼人はナターシャにはもっといい品を贈りたかったが、ナターシャが気に入っているし、隼人も心惹かれる指輪だ。これも何かの縁だろうと、隼人はこの指輪を贈ることを了承する。この指輪はナターシャの左手薬指に輝くことになった。


 ちなみにこの指輪、カテリーナの指輪と同じ作者で、後世カテリーナの指輪同様、この作者の初期の代表作となるのだった。




 その後も2人は宝飾品店続けたが、高給な店になるほどナターシャは隼人の肩に密着してきた。宝飾品を手に取るときもおっかなびっくりで、肩からは緊張が伝わってきた。


 「あまり緊張しなくてもいいぞ。何かいい品があれば買ってやるし」


 隼人が見かねて声をかける。


 「い、いえ、そういうつもりではないのですが、どれもどこか心に響かなくて…」


 「緊張してるなら、ここらで切り上げて雑貨店に行ってもいいんだぞ」


 「いえ、普段はこういうお店には来ないので、こういう時に楽しんでおきたいんです」


 ナターシャが隼人の手を強く握しめて言う。その言葉に嘘はないだろう。隼人はひとまずナターシャの好きにさせることにした。




 「ふう」


 店から出たナターシャは晴れやかな顔でため息をつく。高級店に入ったときの興奮と緊張が一気にほぐれた感じだ。その様子に隼人は苦笑する。


 「どうだ?楽しかったか?」


 「ええ、とっても。兄さん、ありがとうございました」


 ナターシャは嬉し気に返す。


 「それならよかった。じゃあ昼食に行こうか」


 隼人は自然にナターシャの手をとり、事前に調べていた食堂へ向かった。




 昼食を終えると次は雑貨店を見て回り、いったん荷物を宿に置くとヴェルダンの城門を出て郊外の河辺に腰を下ろす。ここは城壁の近くなので安全で、この街のデートスポットとなっている。


 「兄さん、最近不安なことや悩みはありませんか?」


 雑談をしていると、ふと思い出したようにナターシャが話題を振る。


 「不安や悩みは特にないと思うのだが…」


 「でも、ここ最近の兄さんは考え込むことが多くなったように思えますよ」


 「…よく見ているな。まあ最近、自分の将来について考えることが多くなったよ。別に不安とか悩みというほどではないのだがな」


 意外とよく観察されていたことに苦笑して隼人が答える。


 「エーリカ様に何か言われたのですか?」


 「まあ、な。将来どうするつもりなのか、問いかけられたよ」


 「それで、何か考えはあるのですか?」


 「…特に何も思いつかなくて悩んでいるんだ。夢は見つかったんだがな」


 「あら、どんな夢ですか?」


 ナターシャがにこりと聞いてくる。


 「ナターシャ達と幸せに暮らすことさ」


 「も、もう。恥ずかしい冗談はよしてください」


 ナターシャは顔を赤らめる。


 「冗談じゃないさ。それに、女を7人も幸せにするなんて、大した野望だと思わないか?」


 隼人は皮肉気に言う。確かに、もしこの世界に来る前の隼人がこれを知ったら壁を殴り壊すだろう。もっとも、鉄筋コンクリートを殴り壊せる筋力はないのだが。


 「それもそうですね。この浮気者」


 ナターシャも冗談っぽく返す。


 「うっ、否定できないな。こんな浮気者ですまん。だがお前達全員のことを本当に愛しているんだ」


 「も、もう、冗談ですよ。本気でそんなことを言われたら恥ずかしいじゃないですか」


 隼人の告白にナターシャが顔をさらに赤らめて抗議する。


 「ははは、すまんすまん。だが、夢はあってもそれをどう実現するかが問題なんだ。そこがどうもしっくりこない。このまま行商を続けるのは違うし、商会を立ち上げるのも違う。エーリカかマチルダのところに婿入りするのも違うし、仕官する気もあまりない。俺はどうしたいんだろうな」


 「…目の前のことを一生懸命やって、少しずつ道を見つけていったらいいと思いますよ。道を外れることもあるでしょう。後戻りすることもあるでしょう。でも、進み続ければ前が開けてくるかもしれませんよ。それに、兄さんがどうあろうと、私達は兄さんにどこまでもついていきますからね」


 「…ナターシャ、ありがとう。ついでに膝枕をしてもらってもいいか?今はナターシャに甘えたい気分なんだ」


 「ふふ、いいですよ。ほら、ここに」


 隼人はゆっくりとナターシャの太ももに頭をのせる。隼人の頭を、温かく柔らかいものが包んでいった。2人はこのまま夕方までゆっくりとした時間を過ごした。


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