第32話 大分裂
今回は短め。1話の分量が全然安定しない……。読者の皆様には申し訳ない気分になります。
人物紹介と簡単な地理情報を1話に追加しました。
マチルダとの夕食の翌日、朝食の席で桜達によるブレスト視察の報告が行われた。
それによると、煮干しと昆布は製法がまだまだ未熟なため、改善の余地があるものの、商品として十分な品質があるという。現在の需要はさほど大きくはないが、周辺地域の食生活に徐々に浸透していけば商品価値は計り知れないものになるとはセオドアの弁だ。
また、かつお節も製造できる余地があるのだが、時間の関係で厳しく、今回は煮干しと昆布の指導に専念すると桜は宣言した。やはり桜は食にかなりのこだわりがあるらしい。それにマチルダが即決である程度の予算を出し、マチルダからの仕事という形をとることになった。
ブレストの海軍についてのアルフレッドの所見では、軍船の建造に対して人員の教育が間に合っておらず、今は人員の養成に力を割くべきとの意見となった。マチルダも海軍の専門家であるアルフレッドの意見を受け入れ、海軍担当者と協議すると決定した。この協議には隼人達が滞在する間、言い出しっぺのアルフレッドも参加することになった。
このほかはマリブール観光の感想で、和やかに朝食会が進んだ。
朝食後は熊三郎を教官として訓練を行った。それは軽い昼食を挟んで午後を少し過ぎたころまで続く。その後はマチルダの宣言通り、アフタヌーンティーを開催することになった。
テーブルには多くの菓子が用意されており、皆が目をむく。砂糖の生産、流通自体は確立しているものの、ここまで多くの菓子を用意することはやはり容易ではない。やはりマチルダも貴族であるのだと認識を新たにさせる。
「お茶は俺が淹れよう」
隼人はその礼を兼ねて自らが茶を入れることを志願する。もちろん隼人自身が紅茶好き故のことでもあるが。
まず大きなポットに人数分の紅茶を入れ、3分間に蒸らす。その間に全員分のカップに牛乳を注いでいく。隼人はミルク先入れ派なのだ。紅茶が出来上がったところで、全員分の濃さが同じになるように少しずつ注いで回る。そうして全員の前に紅茶を置いて回るのだが…
「……おい、隼人。なぜすでに牛乳が注がれているのだ」
マチルダが静かな怒気を露わにしながら隼人に問いかける。
「なぜって、紅茶を注ぐ前に牛乳を入れておかないと牛乳の成分が壊れてしまうではないですか。そうなると味が落ちます。これは科学的にも証明されていることですよ」
隼人がさも当然のように語る。
「…科学的かどうかはどうでもよい。というよりその理論は間違いだろう。先にミルクを入れると、紅茶のミルクを入れたときの色の変化を楽しめないではないか。それになにより、最適な量のミルクを注げないではないか。ミルクの量とて、人の数だけ最適な量があるのだ」
マチルダが憤慨して言う。
「そこはご心配なく。最適なミルクの量は存じておりますので」
隼人が笑顔で答える。
「それは隼人の好みだろう。私には私の好みがある。ミルクを先に入れるなど、思慮のない者のすることだ」
マチルダが隼人を睨む。
「各自に合わせてミルクを後から入れるなど、味を落として本末転倒です。ミルクを先に入れるのは、先ほど申しましたように、科学的に正しい、美味しい淹れ方なのです」
マチルダの言いように隼人はムッとして反論する。
「紅茶の味は科学ごときで計れるものではない。それに、そんなことを記した文献など見たこともないし、聞いたこともない。私の知っている学者もみなミルク後入れ派だぞ」
「それこそ木を見て森を見ず、です。牛乳を後に入れると紅茶の熱で牛乳が変質する。これは確かなことです。その学者達もマチルダさんに合わせているだけなのでは?」
「私はそんなことを強制しない!これは貴族として、人として当然のことだ!ミルクの量を強制する隼人の態度こそが人として狭量なのだ」
「私はみなに最高の紅茶を味わっていただくためにミルクを先に入れているのです!これはもてなしの心です!マチルダさんこそ自由を気にするあまり最高の紅茶を淹れることを放棄しています。そのような態度で本当に偽りなく紅茶が好きだと胸を張れましょうや」
「言わせておけば!……」
「これは譲れません!……」
隼人もマチルダも一歩も引かない。このありさまに周囲はドン引きである。
「全く、何を不毛なことを」
「本当に…」
あんまりな争いにセレーヌと桜が嘆息する。
「コーヒーこそが至高だというのに」
「えっ、何を言っているのですか?抹茶こそ究極ではありませんか」
セレーヌと桜の間でも争いが勃発した。
「ミルクと砂糖がたっぷりと入ったコーヒーこそが至高なののは明白ではありませんか?」
「「「コーヒーなど泥水だ(です)!!」」」
セレーヌのさも当然のような発言に隼人、マチルダ、桜が猛抗議する。その抗議の言いようにコーヒー党の何人かが顔をしかめる。
「抹茶の良さがわからないとは、何とも可哀想な方たちですな、桜様」
「さすがは梅子!ここは隼人さんたちにも抹茶の良さを啓蒙しなければなりません」
「しかし桜様、抹茶は敷島でしか手に入りません。まずはそこから始めませんと」
「そうですね…。でも、私と梅子なら、きっとできます!」
「その通りです!拙者も微力ながらお手伝いいたします」
美しい主従愛を見せる桜と梅子。しかし神のみのほか、誰が知るであろう。後年、煎茶の味を知った梅子が煎茶派に鞍替えし、美しい主従愛があっけなく瓦解するとは。
そんな喧騒のなか、遠慮がちに紅茶と菓子を楽しんでいたナターシャ、カチューシャ、カテリーナであるが、さすがに紅茶を飲み干してしまい、勝手にお替わりを淹れ始める。遠慮して茶葉は先ほど淹れた時に使ったものをそのまま使い、牛乳はなしにする。
そうしてお茶を引き続き楽しもうとした矢先…
「あっ」
カチューシャがどうしたわけか、菓子に塗るはずジャムを紅茶の中に落としてしまう。カチューシャは気を落としながらも、もったいないのでそのまま紅茶に口をつける。
「!?これ美味しい!お姉ちゃん!紅茶にジャム入れると美味しいよ!」
「えっ…、本当?」
興奮気味に話す妹に押されてナターシャも紅茶にジャムを入れる。カテリーナはそのさまを疑問気に眺める。
「本当!とっても美味しいわね」
ナターシャも大いに気に入り、喜んでジャム入りの紅茶を飲み始める。
それを見たカテリーナが半信半疑にジャムを舐めながら紅茶を飲む。
「…確かに美味いな。だがさすがに紅茶に直接ジャムを入れるのはどうかと思うぞ」
そう言いながらもカテリーナはジャムを楽しみながら紅茶を飲む。
ちなみにカテリーナの飲み方がノルトラント帝国貴族では一般的なのだが、紅茶にほとんど縁のなかった3人にはわからないことである。
彼らの口論を発端にしてみながみな、紅茶の淹れ方がどうだのコーヒーの飲み方がどうだの論争を始める。全体的に見ればコーヒー党がやや優勢、それに紅茶党が続き、抹茶はその他扱いだ。
ちなみに同じころ、ケルンではエーリカが慣れない書類仕事をしつつ
「やはりコーヒーが一番だな。濃く淹れてミルクと砂糖をたっぷり。これに尽きる」
「???いきなり何を言い出すのですか。それから手を止めないでください」
「いや、なぜか急にそう言わねばならない気がしてな」
エーリカがコーヒーの好みをつぶやいて家宰のルドルフにたしなめられていた。
しばらく討論が続き、白熱してきたころ、桜達に抹茶が好みだと伝えた以外、これまで沈黙を保っていた熊三郎が重い口を開く。
「それまで!討論も良いが、せっかくの紅茶が冷めてしまうぞ」
その言葉に討論に熱中していた隼人達はハッとする。せっかくの熱い紅茶がもうすでにぬるくなってしまっている。特に隼人とマチルダなど、まだ一口も口をつけていなかったのだ。
「「これは惜しいことをした」」
隼人とマチルダが後悔する。
「全く、年寄りは若者の暴走をたしなめるのが役割とはいえ、こんなことでたしなめることになるとは思わなかったぞ」
熊三郎はそう言いながらナターシャに注いでもらった3杯目の紅茶に口をつける。
「ですが、お爺様も抹茶には一家言あったのでは?」
しかしここで梅子がいらぬところに放火してしまう。
「それは当然じゃ。抹茶は紅茶やコーヒーなんぞよりもよほど洗練されておるからの。侘び寂びの分からぬ人間ほど哀れな存在はあるまい」
「「何を!」」
熊三郎の発言に隼人とマチルダが噛みつく。2人は紅茶党の中でも最も紅茶に熱い。
それから夕食までの間、紅茶がいかに優れているか、コーヒーがいかに美味しいか、抹茶がいかに高尚な精神を内包しているかを熱く語り合うこととなった。
その後の1週間の滞在期間は訓練や行商の準備、観光などに費やされた。それでも隼人は、桜達の厚意によりマチルダとともに過ごす時間が多く、時には書類仕事を手伝ったりもした。もちろん紅茶はミルク先入れと後入れで別々に淹れている。
出発の日、マチルダは隼人達の見送りに城門まで出てきていた。
「もう行くのだな。寂しくなるな」
「今度はマリブール、ガリア、ケルンを回る交易ですから、前ほどには間は空きませんよ」
顔を曇らせるマチルダに隼人は苦笑がちに答える。
「それでも、9カ月も顔を出さなかったのはさすがにひどいぞ」
「それは…、すみません。今度はできるだけ早く顔を出せるようにします」
「本当に頼むぞ」
マチルダが隼人に抱き着く。隼人もマチルダを抱きしめ返す。隼人も短期間で多くの女性と付き合ったことで女慣れし始めている。
短い抱擁の後、隼人は馬上の人となる。
「それでは、次に合うときまでお元気で」
「ああ、隼人も壮健にな」
隼人達はセダンを無視してヴェルダンに向かう。そこからケルンに向かう予定だ。
「出発!」
隼人の合図で隊商が動き始める。隼人はマチルダに手を振ってから隊商の先頭に立つべく馬を走らせる。マチルダはその隊商が丘の陰に消えるまで城門から見守っていた。
ちなみに筆者はミルク先入れ紅茶派です。これは英国王立科学協会で科学的に認められた飲み方です(笑)。さすが冷戦中に核戦争時の紅茶の供給を心配した国は違う。