銀雪の悲劇
翌朝、俺たちは雪の花を見に、早くから出発した。
眠そうな目をこすりながら、はりきった装備でとぼとぼと歩く我が主の背中をそっと押しながら、急な坂道を登っていく。イザベラは朝が苦手らしい。だが仕方がない。雪の花は朝早く、日が昇ると同時に咲き、ほんの短い時間で花が閉じてしまうので、そうのんびりはしていられないんだ。
「うーん?」
先頭を歩く現地の男が、急に変な声を出した。
「ああ、こりゃ駄目だ」
一行の頭にはてなマークが浮かび上がる。
「どうした? 何かあったのか?」
「アロイス様、どうもこうもないでさぁ。今日はもう雪の花は咲きませんよ」
なんだって?
「どういうことだ?」
「見てくだせぇ」
男は地面を指差し、皆はその先を見つめた。
「地面に積もってる雪が固まって、地面に蓋しちまってる。昨夜はなんだか酷く冷えましたからね、昨日一昨日の融けかけた雪が凍っちまったんでしょう。これじゃあ雪の花は出てこれませんわ」
おいおい嘘だろ。ここまで来たのに、何の収穫もなしかよ。いや、まて、それどころじゃない。イザベラは今朝侍女に無理やり起こされて、重たい足で雪の中歩いてきたんだ。これで何もないってなると……。
「なんとかならないのか?」
「なんとか、ってもねぇ……こう固まっちまうと、次々と雪が降り積もってくるわけだから、今シーズンはお目にかかれねぇかも」
「そ、それは困る」
うん。大いに困る。
「どうしたんですの? アロイス様?」
「い、イザベラ嬢、実は……」
アロイスの説明を一音一音聞く度に、イザベラの不機嫌メーターは上昇していった。それは彼女の放つオーラで分かる。どす黒い。空が白み、太陽が顔を出し始めたにもかかわらず、イザベラの周囲はまるで闇夜のような漆黒だ。
まだなんとか公爵令嬢として微笑みを崩してはいないが、その表情は完全に引き攣っている。
「なら、仕方がありませんわ。今回は、運がなかったということです」
え、偉いぞ! その調子だイザベラ! ギリギリなのは誰の目から見ても分かるけど、頑張って耐えてる!
「申し訳ありません。態々このような遠方へと足を運んでいただいたのに」
「いいえ、私もいい経験を積ませていただきました。それよりも、早く帰りましょう。靴が濡れてしまったわ」
ああ、とりなすのが大変だな。帰ってヴィルフリートに言いつけたりしなきゃいいけど。
せっかく楽しみにしていた雪の花探索が残念な結果に終わり、一行はとぼとぼと重苦しい空気で帰路に就ことになった。
不幸は重なるものだ。屋敷へ帰る途中に、天候が悪化し吹雪いてきた。イザベラの黒いオーラはその密度を増すばかりである。
凍えるような寒さの中を歩いてきた俺たちにとって、ハイルミュラーの屋敷は天国だった。入った瞬間からあったかい。アロイスの魔道具のおかげだろうか。マジでアロイス様様だ。
「お湯の用意ができてあります。お着換えになってから、お食事になさいましょう」
流石雪国のメイドはこういうとき用意がいい。
俺は素早くイザベラの着替えを用意して、侍女二人の補助に回る。女の子の着替えの手伝いなんて、奴隷のやることでもないような気もするが、命令されればやらざるを得ない。
優雅な洋服に身を包み、まるで西洋人形のように様変わりしたイザベラだが、その顔はまるで般若の面のように歪んでいた。
「何でこんな所まで来たのに、雪の花が見られないのよ!」
「仕方ないじゃありませんか、お嬢様」
「そうですよ。いつも見られるとは限りませんのよ?」
フローラとベティーネがそう言うも、イザベラの怒りが収まるわけはない。
「アレク!」
「はい」
「雪の花をここに持ってきて!」
どこの暴君だよ。
「そ、それは難しいんじゃ……」
「いいから!」
収拾つかなくなってるな。はるばる来たのに何もないで帰るのが嫌だっていう気持ちは分からなくもないけど、すっぱり諦めるのも重要だぞ。
イザベラの我儘はちょっと問題がある。ありすぎる。教育が行き届いてない、というよりも、教育そのものが間違っているのかもしれない。帝国の貴族が通う学校で行われる教育は、人をいかに使うかということを主眼に置かれている。魔法を習ったり、剣術を習ったり、座学を習ったりももちろんするのだが、重要なのは貴族間での交流だ。派閥を作り、下の者を従える。貴族社会では確かに重要なことかもしれない。ただ、人間性が失われている。
彼らは基本平民を人間だと認識していない。ただ農作物などを生産する道具、領主にとっては財産だ。領地を上手く動かしたいなら、それで十分なのだろうけど、現代日本で義務教育を受けてきた俺にとってはうかがい知れぬ価値観だ。少なくとも俺の学んだ道徳とはかけ離れている。
しかし、イザベラの無茶な要望はそれを鑑みてもおかしい。貴族といってもまだ九歳の子供だ。人の使い方がまだ分かっていないんだろう。そのための教材として俺がいるわけだが。
「イザベラお嬢様、食事の準備ができているそうですよ」
「いきましょう? ね?」
「む……」
ご主人様はフローラに連れて行かれ、俺もそのあとの続こうとすると、ベティーネが俺の前に立った。
「アレク、就寝の用意をしておいて」
「かしこまりました」
ベッドメイクなんて、ここの屋敷の人がやるだろうに、俺からイザベラを遠ざけたかったからだろうか。
イザベラ達が食事している間に、俺は早々と仕事を片付け、アルマさんからもらった分厚い本を開いた。文字通り呪文のような文字の羅列にうんざりしてくる。
「魔法は、魔力を持つ……持たない、人間に……あ、人間には使えない」
この本に書かれているのは、ここザルダートの言語じゃない。南大陸のフリンデル王国の文字だ。もうザルダートの文字は難しい固有名詞など以外はほとんど読めるようになったが、やっかいなことに今の魔法や魔術の最先端はザルダートではなくフリンデル王国だから、教科書も難しくなるにつれてフリンデルの言葉で書かれているものになってきた。何ヶ国後も読み書きできるようになるなんて、前世では考えられないほどの勉強量だ。
「魔石にルーンを……刻む、刻み込む、ことによって魔力を持たない人間に……も、にも、魔法と同じ力を……使う? いや、扱うことができる、か」
この本は魔法や魔術の本というよりも、魔力の運用方法全般の指南書のようだ。魔法陣のように、文字や図形にも魔力は宿る。音や言葉も同様だ。魔力を持たない人間は、この世のあらゆるものに宿る魔力を利用することで、魔力を持つ者と同じように魔法を使うことができる。簡易的なものだと、もともと大きな魔力を持つ魔石に、文字を刻みこむことによって魔法を使用できるというもの。プログラミングのように、刻んだ文字の意味によってその仕事も違ってくる。魔道具のほとんどがこの技術を利用したものだ。
ブオー、という音を出して温風を吹き出しているあの暖房具も、裏になんらかの魔法陣が書かれてるはずだ。
「……ちょっとだけ、見てもいいよね」
うん。別に壊すわけじゃないし、見るだけだし、誰もいないし。
中学校時代の一時期プログラミングにはまり、本を買ってきて独学で勉強していたことがある。工業高校でも授業でちょっとやってたし、今でもパソコンで簡単なプログラムをするくらいはできるはずだ。で、自分の中で再ブーム到来といったころか、こっちの世界でも魔法陣など習っているうちに、興味がだんだんと湧いてきたのだ。
だって楽しいじゃない? 魔法は自分の中で発動するから、仕組みが漠然としていても感覚で発動できるけど、魔法陣は可視化した仕組みを正確に組み合わせないと発動しない。やっぱり得体の知れない力より、出所とかがはっきりしたものの方がいいでしょ。安心感が。
「えーっと……ここが、あれか」
暖房器具は壁に埋まっていたが、カバーを外して手入れができるように少し出っ張っている。出っ張りに指をかけ、ガコッっとカバーを外す。
中はごちゃごちゃとした電気回路が……あるわけもなく、何枚もの金属板が本棚のように立て並べられていた。一枚一枚に魔力を感じるが、やはりそれでは魔力不足なのか、奥のほうに拳大の丸い魔石が置いてあった。この地方の特産品だな。
おや、もしかしてこれは、隣の部屋にも繋がっているのかな? これ一つで二つの部屋を同時に暖めているのか。なるほどね。
並べられた金属板には魔法陣が描かれている。魔法の種類としては、火(熱)属性、風属性、そして水属性だ。魔法陣の形は見たことのあるものもあれば、そうでないものもある。でも陣の系統が分かれば、効果も大体のところは想像がつく。アルマさんから貰った教科書もあるし。例えば、この熱を操る魔法陣は――
「きゃああああ!」
甲高い女の叫び声が、館に響き渡った。
何だ?
その声は今居る場所よりも下のほうから聞こえてきた。ここは二階だから、イザベラ達の居る一階からだ。
急いで階段を下ると、屋敷の人間たちが忙しなく動いているのが分かった。
一つの部屋の入口に、人が集まっている。
「叔父さん! 叔父さん!」
「ダニアン! 早く来い!」
吹雪が、まるで誰かを急かすようにガタガタと窓を叩いた。その音も、周りの喧騒さえ、その場に近づくほど遠くなる。
知ってる。知ってるぞ、この感覚。
冷たく張りつめた空気の中、人の間をすり抜けて、俺はドアが開かれた部屋の前に立った。
部屋の中には、数人の近衛騎士、この館の当主ランドルフ、その息子アロイス、そしてアロイスの胸に抱かれる暗い物体。
濡れた衣が、まるで闇に塗られたように暗く染まり、それに重く圧し掛かっていた。
そう、俺はこの空気を知ってる。この世界に来てから、何度も感じたこの空気。人の死が醸し出す、重苦しい空気だ。
「ダニアン!」
「どうしたランドルフ」
ランドルフの叫ぶような呼び声に対して、この状況には相応しくないいつも通りの声が、俺の背後から聞こえた。
「……これは」
振り向くと、ダニアンは顎に手を当てて、部屋の中を見た。そして――
「――面白いことになったね」
狂気的な笑みを浮かべ、囁くようにそう言ったのである。
まるで、この部屋の中にある死を、ドミニク・ハイルミュラーの死を、歓迎するかのように。




