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第2章 「人形師」 (5)


 交戦を告げる二度目の呼び()の音が、唐突に途絶えた。


 一瞬、続く音を待つように兵士達は息を潜め、雨の向こうに耳を傾けた。


「公」


 ヒューイットの視線に、アスタロトが頷く。ヒューイットは停滞無く動いた。


「四、五班は内部で一班等と合流、状況確認と報告、その後一度中庭に退け! 展開している六班以下にも臨戦態勢を取るよう伝えろ!」


 兵士達が素早く玄関を潜っていく。

 ヒューイットの視界の端で、アスタロトの黒髪が揺れる。

 アスタロトが建物の玄関へ歩いていくのを見て、ヒューイットは慌てて彼女の行く手を遮るように前へ出た。


「炎帝公? どちらに」

「中で接敵だろ。私が行く」

「しかし」

「術士には貸しがあるしねー」


 軽やかな、ただ余り笑えない口調でそう言って、アスタロトはヒューイットの肩を軽く押し、開け放たれたままの建物の玄関を潜った。


「公!」


 玄関を抜けるとすぐ中庭だ。四、五班は既に棟内に入り、雨の降りそぼる中庭は無人になっている。

 中庭を横切っていくアスタロトを、ヒューイットと六班を構成する兵士達が追う。


「公、合流して出て来るまで一旦お待ちを」

「出て来れる? 剣の音も、何も聞こえない。さっきも聞こえなかったな」


 はっとしてヒューイットは建物を降り仰いだ。

 確かに、交戦の合図は響いたが、剣戟の音は聞こえていない。

 つい先ほど四、五班を踏み込ませたはずなのに、今も物音一つしなかった。


 ヒューイットの顔にも、懸念と――不安が滲んでいる。静まり返った建物からは、音は何一つ聞こえて来ない。

 悲鳴すら。


「おかしい……中で何が」

「退かせた方がいい、早く」


 アスタロトが棟内への扉へ近付く為に一歩踏み出した時、突然、四方の窓硝子が一斉に割れた。

 雨と共に、硝子の欠片と――、幾つもの黒い塊が降り注ぐ。塊は重く湿った音を立てて地面に落ちた。


 ヒューイット達はアスタロトを囲み、背を合わせるようにして中庭中央に寄ると、剣を抜き放った。


「――くそ」


 ヒューイットが呻く。

 落ちてきたのは兵士だ。

 いや、兵士達の身体の一部と言うべきか。

 腕や脚、胴体、首――


 四方の窓から投げ出された兵士達は、雨に打たれる路傍の石くれのように、アスタロト達の周囲にみな無言で転がっていた。

 すっぱりと鋭い刃で断たれたような断面、それ以外は外傷が無いように見える。

 それが示すもの――抵抗の痕跡が無い。


「こんな……」


 検分の為に屈み込もうとした兵士を、ヒューイットの厳しい声が制止した。


「よせ。囲まれている」


 その言葉に答えるように、クスクスと忍び笑いが響いた。

 建物が笑いさざめいていると感じたのは、激しい雨にくぐもっているせいと、中庭を囲む全ての窓から笑い声が流れているせいだった。


 低い、忍びやかな、愉悦を含んだ幾つもの笑い声。

 けれど笑っているのはたった一人だと判る。

 一人の笑い声が輪唱のように流れ、中庭にいるアスタロト達の周囲を渦巻いていた。


「姿を見せろ!」


 割れた窓辺に影が揺れる。

 顔を見せたのは、白い面の、華やかな衣装を纏った女だ。


 一人ではない。複数の女達が中庭を見下ろして笑っている。羽の付いた帽子に飾られた鈴がチリチリと鳴った。


「……十二名です。二階に七名、三階に五名」


 兵士の一人が素早く告げると、ヒューイットは頷いて一歩前へ出た。


「何者だ! 貴様が人形使いとやらか?!」


 ヒューイットは窓をぐるりと見渡し、再び声を張り上げた。


「ここは完全に包囲した! 攫った娘を返し、おとなしく投降せよ!」


 笑い声がふと途切れ、代わりに左手の窓の一角に人影が揺れた。身構えたヒューイット達の目に映ったのは、男の上半身だ。

 窓から乗り出すように上半身を突き出し、それからふわりと宙に浮いた。


 中庭の兵士達が或いは込み上げる吐き気をこらえ、或いは怒りに歯を軋らせる。

 それは建物に入った兵を率いていた、少将ブレンだった。


 上半身だけ――胴から上だけの姿で窓の外に浮いている。

 ゆっくり、まるで操り人形を動かすような動作で、上半身は中庭に下り始めた。


 あまりの光景に半ば呆然とする兵士達の前で、今出てきた窓から慌てたように、何かが飛び出す。

 下半身だ。

 忘れていたと言わんばかりに、滑稽な仕草で足を動かし上半身を追った。


「――ふざけやがって」


 怒りを含んで吐き捨て、ヒューイットはアスタロトを振り返った。


「公はお退りを。建物の外へお戻りください」

「バカ言うなっ! お前達こそどいてろ、ヒューイット」


 アスタロトの深紅の瞳にも激しい怒りが踊っている。


「私が行く」

「公!」


 アスタロト達の様子を嘲笑うかのように、雨音に混じって低い男の声が流れた。


『私の趣向は気に入ってくれたかな? 君達が私を人形使いと呼んだのでね、少し彼等の真似をしてみた。彼等ほど上手くはないが』


 声は正面の二階の窓から聞こえて来る。そこの窓から覗いている美しい女の口から、低い男の声が流れていた。

 人形の口を通しているせいか、声は平坦で無機質だ。

 だがそこに含まれた嘲りの響きははっきりと聞き取れた。


「卑怯者め、姿を」


 怒鳴り付けようとしたヒューイットを、今度はアスタロトが(とど)める。アスタロトは人形を通してユンガーと正面から向かい合った。


「人形師だな!? 最低な出迎えしやがって」


 ユンガーは人形の瞳が映すアスタロトの姿を眺め、愉悦の笑みを洩らした。


『いかにも――炎帝公、君を待っていた。早く君をこの眼で直接見たいものだ』


「中の兵士達はどうした」


『さあ――、彼女達が知っている』


 アスタロトの周囲だけが、陽炎のように揺らめいた。

 発する熱が降りしきる雨をそこだけ蒸発させ、放たれる熱にヒューイット達が僅かに退く。


「どこにいる。お望みどおり、お前の目の前に行って全部焼き尽くしてやる」


 ユンガーは答えず、代わりに女の声が降った。


「自分から来てくれるなんて嬉しい限りねぇ、お嬢さん」


 中庭を囲む建物の屋根の上に、人影が立ち上がる。アスタロトには見覚えのある顔だ。


「お前、この前の」


 エマはどことなくうんざりした顔で、ユンガーの作り出した見せ物と中庭の兵士達を見渡し、アスタロトに瞳を据えた。


「ねぇお嬢さん。こんな悪趣味なこと、あんたが来れば終わるよ。ユンガーもあんたにはこんなひどいことしやしない」


 エマの口調は宥めるように、いっそ同情的ですらある。


「ユンガーはあんたが欲しいんだから」

「――何言ってんの?」


 不可解そうに睨み付けてくるアスタロトの深紅の瞳を受けて、エマは口の端を吊り上げた。


「人形作りの為にね。あんたなら最高の人形が作れるって」


 アスタロトはその言葉の意味を飲み込み、拳を握り締めた。


「……今まで、娘達を攫ってたのは、人形作りの為か」

「そうよ。ユンガーの作る人形は、まるで生きてるみたいに美しいと評判だ。生きてるみたいにねぇ」


 うっとりと響いたエマの含み笑いに、兵士の声が重なる。


「この野郎ッ!」


 背負っていた弓を手に取り、矢を(つが)えた。

 弦が矢を放った瞬間、エマの手元から炎の筋が走る。炎は飛来する矢を一瞬で焼き、火勢を弱めずに更に兵士へ迫った。


 アスタロトが兵士の前に手を伸ばし、炎を掌で受け止める。

 炎は一度渦巻き、アスタロトの掌の中で小さな種火になった。

 ぐっと握り締めると、そのまま炎は消滅した。

 エマが笑う。


「さすがねぇ、あたしの炎なんて赤子みたいなモンだわ。でも、ユンガーの人形とは相性が悪いよ」

「人形なんて簡単に燃やせる」

違うのよ(・・・・)


 エマの口元が笑みを刻むと同時に、割れた窓が枠ごと弾け、破片と共に女達がアスタロト達の目の前に降り立った。


 女達――十二体の人形達が、中央に寄っていたアスタロトと十名の兵士達と、ほぼ向かい合うように囲んでいる。

 剣を抜けばそれだけで届く位置だ。人形達は武器を持ってはいない。

 アスタロト達に優位に見えて、だがエマはにんまりと笑った。


「これであんたは得意の炎を使えない」


 アスタロトは目の前の美しい女――人形を睨んだ。

 それは確かに、思わず引き込まれるほど美しく、完璧に作り上げられた人形だった。

 白い陶器の頬、宝石のような硝子玉の瞳、赤く朱を刷いた唇。

 動くのが当たり前と、そう思えるほどに。


 だが微笑みは禍々しい。そして激しい雨にも流されず、纏い付いた血の匂いがした。

 匂い立つ香水のように。

 棟内に入った兵士は、およそ五十名――


 アスタロトは怒ったように笑ってエマを見上げた。


「接近しちゃえば使えないと思ってんの? ――私を甘く見るなよ」


 アスタロトの腕が上がり、目の前にいた人形の肩を掴む。人形が唐突に音を立てて発火し、瞬く間に炎に包まれた。

 激しく叩きつける雨にも火勢を弱める事無く、炎は人形を焼いた。


 白い陶器の頬がひび割れ、ぼろぼろと崩れる。

 華やかな衣装が黒く縮れ、艶やかな髪が煽られて炎を散らす。

 人形は笑みを浮かべたまま、松明(たいまつ)のように燃え盛った。


 それでいてそれは、手を伸ばせば触れられる距離にありながら、そこにいる兵士達の衣服や、足元の草さえ焼く気配も無い。


「私の炎は対象だけを焼き尽くす。距離は意味ないよ」


 高温の炎を意思一つで自在に操る――アスタロトが炎帝公と呼ばれる所以(ゆえん)だ。

 さすがにエマの頬が緊張に引き攣って震えた。人形は成す術も無く燃えていく。


「何やってんだい、ユンガー、いつもみたいに」


『そう焦る事は無い』


 クスクスと笑い声が流れる。

 笑っているのは炎に包まれた人形だった。


『……君の炎は、どこまでが限界かな』


「何それ。限界なんて無いけど?」


 激しい雨にも消えない炎を纏い付かせていながら、かしゃり、と無機質な音を立て人形が歩いた。

 炎によって滑らかな動きが失われたのか、足を出す度に左右に揺れ、揺れる動きに合わせて火の粉が滴のように落ちる。


 人形はアスタロトの横を抜け、兵士の一人と向かい合った。間には身体一つ分の空間しかない。

 アスタロトの面に、微かな緊張が浮かぶ。対峙する兵士も、何かを堪えるように歯を食い縛った。


 熱だ。

 身体一つ分の距離で――人形を包む炎は、確実に兵士へ熱を伝えていた。


 アスタロトの思考を読み取ったように、ユンガーが笑った。


『炎は熱を発する。直に燃え移る事は無くても、どこまで耐えられるだろうね。高温のあまり発火してしまうかもしれない』


 更にもう一歩。

 兵士は苦痛に眉をしかめながらも、ぐ、と足を踏張った。兵士の肌には火脹れができかけている。

 人形が再び一歩近寄る。


「もういいよっ、さがれ!」


 アスタロトは兵士の肩を掴んで引き離しながら、指先を弾いた。炎が四散し、赤い火の粉を散らして掻き消える。

 ただ人形も燃え尽き、音を立てて崩れ落ちた。


『この位置』


 別の人形が声を発する。満足そうなその響きに、一瞬、アスタロトの脳裏をひやりと警告が走った。

 兵を退かせるべきだ、と。

 そして、その警告を打ち消す、はっきりとした予感。


 おそらく既に人形師の布陣は完成し、アスタロト達の退路は閉ざされている――


 アスタロトは予感を振り切るように自分達を囲む人形をぐるりと見回した。


「……それが何? 結局燃え尽きちゃったら話にならないだろ。それに私の炎はこの程度じゃない」


『当然――君は間違いなく、もっと強い炎を扱えるだろう、炎帝公。一瞬にして彼女達を全て焼き尽くせる。――だが、条件がいるはずだ』


「いい加減馬鹿馬鹿しい。いつまでもお前とお喋りしてる暇はないんだ。さっさとおとなしく捕まれよ。それとも大切な人形全部燃やしてから引き摺り出してやろうか。泣いちゃうんじゃないの?」


『饒舌だな』


 微かな、歯車が動く音が雨の音に混じって耳に届いた。


 キリキリ、キリキリ……


 アスタロトは視線をじっと人形に注いだ。音は人形の体内から鳴っている。


(……何?)


 人形の身体の周りに、一瞬だけ、ごく細い線が見えたと思った時、不意にヒューイット達が喉を押さえ苦痛の呻きを上げた。


「どうした?!」

「こ……」


 ヒューイット達は皆同じように、喉から見えない何かを外そうと指を慌ただしく動かしている。

 そうする間にも、顔から次第に血の気が引き始めた。


「――止めろ! 何やってんだ! 止めないと」


『燃やしてみるか? ただ一瞬でやらないと、先に首が落ちるよ』


「何を……」


 はっとして振り返ったアスタロトの瞳に、今度ははっきりとそれが見えた。


 兵士達の首からぷつりと湧いた赤い粒が、筋となってそれを伝ったからだ。つう、と宙を伝った赤い筋が、アスタロトの足元に滴り落ちる。


「――糸」


 いつの間にか、腕や首にごく細い糸が巻き付いていた。それは兵士達の間を縦横無尽に張り巡らされ、人形の指先に繋がっている。

 糸はゆっくりと食い込み、皮膚から滲んだ血が薄らとした線を浮かび上がらせていた。


(いつから……)


 いつから糸が張られていたのか――

人形達が中庭に降りた時か、それとも窓が割れた時にか。

 アスタロトは唇を噛み締めた。


 人の気配があれば気付いただろう。

 全く気配を持たない人形と、糸。

 どれほど精鋭の部隊でも、気付かないままにあっさりと、その罠の中に入り込んでしまう。


『瞬き一つで手足を落せる。どんな状態になるか、足元に転がっている彼らを見れば判るだろう』





 エマは屋根の上に立ったまま、中庭で繰り広げられる見慣れた光景に息を吐いた。

 あれがユンガーの人形の、最大の武器だ。発見するのが困難な、細く強靱な糸。

 必要に応じて張り巡らせ、獲物を捕らえ、或いは切り裂く。


 そして、ユンガーの意志どおり従順に動く人形達には、人を切り裂く事への躊躇いは微塵も無い。

 ここにいる全ての兵の首を落すのにも、一呼吸分の時間程度しか要さない。

 それはアスタロトにも判っているようだった。そしてこの状況が何を示しているのかも。


 ユンガーは炎帝公の炎でさえ、彼の人形達には通用しないと言った。

 それは確かだ。


「――お嬢さん、おとなしく付いておいでよ。あんただって部下を見殺しにしたくないだろ? あと半分とは言え、無事家に帰してやればいいのさ」


 アスタロトはきつく頬を張り詰めたまま、エマと人形達を睨んだ。

 焼き払うのは簡単だ。ただし、この場に居るのがアスタロト一人なら。

 兵士達の首に巻き付いた糸は、そのまま彼等の命を握っている。

 人形を燃やそうとしても、燃え尽きるまでに糸が彼等の命を絶つ。


 かと言って一瞬で人形達を焼き尽くすだけの炎を用いれば、その高温に周囲が耐えられない。

 先ほどユンガーは、わざわざその事をアスタロトに証明してみせた。


 アスタロトの瞳に怒りと、それ以上の戸惑いが揺れた。取るべき手段が見当たらないせいだ。

 まるでこの場を覆う糸が、全ての動きを絡め取ったように思える。


『彼等を助けたければ』


 ユンガーはわざとらしく区切り、愉悦の笑みを零した。


『君が私の元に来る事だ。簡単な事だろう』


「――」


 アスタロトはじっと憤りを堪えるように立っていたが、やがて周囲を見回し、溜息を吐くと、無造作に一歩踏み出した。


「公! お止めください!」


 焦りに満ちたヒューイットの声が後を追う。


「我々の事など気になさる必要はありません! 公の御身を」


「平気平気。私が行って、攫われた娘達をちゃんと連れ戻してくるよ」


 アスタロトは視線だけを向け、気軽な挨拶をするように手を振って見せた。


「公! ――くそ!」


 ヒューイットは右手の剣を振り上げ、自分の左手に巻き付く糸を断ち切ろうと振り下ろした。

 ぎょっとしてアスタロトが手を伸ばす。


「やめろ、それは!」


 鈍い音と共に剣が弾かれ、代わりにヒューイットの左手首から血が噴き出した。

 アスタロトは素早く剣を取り上げ、それから血を迸らせているヒューイットの左手首を掴んだ。アスタロトの掌が高熱を帯びる。


「傷を焼いて血を止める。我慢しろよ」


 そう言いながら、アスタロトは剣に視線を走らせた。鋼鉄の白刃の、糸に打ち下ろした辺りに、刃毀れと亀裂が走っている。


「――他のヤツも、こんな真似しようとすんなよ。お前達は無事に戻すんだから」

「我々が全て倒れても貴方をお守りするのが務め、公、どうぞ――」

「おんなじだよ」


 手にしていた剣を地面に置いて、アスタロトは顔を上げた。


「私とお前の命はおんなじ。誰かが助かれば誰かが助からなくてもいいなんて事は無い。だから、全部が助かるやり方をするだけだ」


 ヒューイットの眼がアスタロトを追う。


「あ、一言忠告しとくけど、戻って兵を出そうなんて思わないでよ」

「しかし」

「どうせまた同じ事だ。それよりは私を信頼して任せろ。それと――」


 ユンガーの人形達を相手にするのに、法術や通常の剣では間に合わない。

 全ての糸を一瞬にして断ち切れるものでなくては。


 アスタロトはヒューイットの顔をひたと見つめると、そっと、ヒューイットにしか聞き取れないほど微かに告げた。


「王から、剣を一振り借りてきてよ」


 ヒューイットはアスタロトの瞳に浮かんだ意図を読み取り、頷いた。


『もういいかな。では、エマが君を案内する』


 アスタロトは目の前の人形の瞳を正面から見据えた。

 その向こうで見ているだろうユンガーと対峙する。


「ユンガー、兵を解放するときっちり約束しろ。私を騙したら、いつでもお前と人形を消し炭にしてやるからな」


 一歩も退かない意思を見せながらも、それはこの場でユンガーが勝利を収めた事を物語っていた。

 人形は陶器の頬にくっきりとした笑みを浮かべた。







 アスタロトが導き入れられたのは、先ほどの建物からほど近い、運河の傍にある倉庫のどれかのようだった。まだ弱まる気配のない雨が水面を叩く音が聞こえる。


 エマは扉を閉めると、アスタロトの瞳を覆っていた布を解いた。

 室内は鎧戸が下ろされ、灯りも職台に蝋燭二本が揺れるだけだったが、もともと雨雲が陽光を閉ざしていたせいと瞳を閉じていたおかげで、暗い室内の様子をすぐに見て取る事ができた。


 四間四方の広い室内の真ん中に長方形の卓がぽつりと置かれ、卓上に蝋燭を立てた燭台が一つある。

その灯りの輪の中に、男の姿が照らし出されていた。

 痩せて頬のこけた、三十代前半の男だ。頬がこけていなければもっと若く見えるかもしれない。

 本来なら整っているだろうその顔には、蝋燭の幽かな揺らめきも手伝って、生気が失せている。


 その横に二人、彼を支えるようにして女が立っていた。あの中庭で嫌と言うほど良く見た姿だ。

 まるで生きているように見える、精緻な人形。

 彼の後ろの壁にも――良く見れば部屋の壁際にも、ぐるりと人形が囲んでいた。


「お前がユンガーか」


 ユンガーは笑みを浮かべて頷いた。瞳だけが異様な光を帯びてアスタロトに向けられる。


「その通り」


 ユンガーは椅子の上で身を起こし、座ったままながら慇懃(いんぎん)にお辞儀をしてみせた。


「お会いできて光栄に存じます、アスタロト公爵」


 周囲の人形達も、ユンガーに倣い、優雅にお辞儀をする。薄暗がりに異様な光景だ。


 キリキリ、と微かな糸を巻く音を聞き取り、アスタロトは眉をしかめた。この人形達も、糸が使われている。


「光栄とかどうでもいいけどね、ていうか気持ち悪いし」


 そう言うとつかつかと近寄り、卓を挟んでユンガーと向かい合った。


「娘達はどうした。無事か、無事じゃないか、答え次第でお前の命運は決まるぞ」


 たった一人でこの場にいても全く動じる様子の無いアスタロトが可笑しいのか、ユンガーは俯くようにして笑みを浮かべた。


 どうあっても優位は揺るがないと、ユンガーは確信している。

 彼の人形達がある限り。


「無事だ。今のところは」

「よし、じゃあ帰せ」


 端的過ぎる言葉に、ユンガーは今度は肩を震わせて笑い声を立てた。


「帰せと言われても、困るね」


 息を付き――それは笑うだけでも疲れるからか――、ユンガーは再びゆったりと椅子の背に凭れた。


「私にも目的がある。人形を作るという大切な目的がね」

「そんな身勝手な目的、私が知るか」


 凭れたまま、ユンガーは瞳だけをアスタロトに向けた。


「身勝手というが、そもそも人形師とはそういうものだ。人形に命を与えるのが我々人形師の役目だから」


 その、さも当然という口調に、アスタロトは苛々して唇を噛んだ。


「人形を作り続け、魂を注いでいくごとに、その対象が次第に深まって行く。

最初はどれほど美しい瞳を作り出せるか――、その次は陶器の頬にあたかも血の通ったような色を差すにはどうすればいいか。髪の艶は。唇に吐息を息付かせるには。誰もが人形を人に近づける為に心血を注いで没頭する」


「どうでもいいよ、そんなの」

「極めた人形師の人形は、最後の仕上げに唇に朱を差せば微笑んで動き出すという」

「単なる理想だろ。人形が全部動き出したら子供が逃げ回って商売にならないじゃんか」

「そう、まあそんな事は理想だが、そうであるべきだと考えられてきた。――ところが私は才能があってね」


 アスタロトの様子を可笑しそうに眺め、ユンガーはゆったりした口調にじわりと熱を灯した。

 低く囁く。


「私の作る人形は本当に動いた」


 カタリ、と音を立て、周囲の人形達が動き出した。

 華やかな衣装の裾を揺らし、室内をゆらゆらと歩く。


「最初に人形が動き出した時――その時の驚きと喜びを、今でも明確に思い出せる」


 ユンガーの熱に浮かされた瞳が宙を見つめる。アスタロトには理解しがたい、狂気を孕んだ瞳だ。


「初めはただ動くだけだったが、次第に言葉を理解し、私が命じるままに動くようになった」


 人形達はアスタロトを囲むように卓の周りをゆるりと回る。

 まるで舞踏会のようだ。


「素晴らしい光景だった――微笑むのだ、私の人形は」


 ばん、とアスタロトは卓を打った。ユンガーの瞳が焦点を結ぶ。


「どうでもいいよ、そんなの。だからって娘達を攫う理由にはならない」

「理由か――」


 ユンガーは高ぶった気分を落ち着かせるように瞼を伏せ、伏せたまま笑みを浮かべている。


「簡単だよ。物足りなくなった」

「何だと」

「木で骨を組み、陶器の肌を与えるだけでは、それ以上人には近付かない。もっと美しく、精巧な人形を――」

「だからって、人を」

「せっかくの美しい者がむざむざと衰えるのも惜しい。だから私が、永遠に美しいまま留め置いてあげようと思ったんだ」


 あっさりと、微塵も疑い無くそう言った。


「私の技術なら、生命の美しさ、その一瞬を永遠に留めておく事ができる――。最初のうち何例かは失敗したが、今は失敗もしなくなったよ。この通り」


 ユンガーは両手を広げ、自分を支える二体の人形を示した。

 まるで生きているように見える、精緻な人形――


 いや。精緻な人形に作り替えられた、人間だ。


「素晴らしいだろう」


 背中を冷たいものが走るのを感じ、アスタロトは卓に置いた手を握り締めた。

 二体の人形の頬に浮かんだ、物言わぬ笑み。

 硝子玉の瞳は美しい色を湛えながらも、何も映していない。


「……最低だな」


 アスタロトは唇を噛みしめ、漸くそう吐き出した。ユンガーが身体を起こし、卓に両肘を付いて手を組む。


「さっきも言ったとおり、娘達はまだ傷一つ付けてはいない。王都ではゆっくり時間が取れなくてね、ここを出てから処理するつもりだ。だが、君が逃げようとしたり、彼女達を逃がそうとしたら、容赦なく首を落とす。少しもったいないが、君が居ればまあ惜しくはない」

「――」

「君は私の手で、今のまま、美しいままに生きる事ができるんだ。素晴らしい事だろう。――永遠の命を得るんだ」


 アスタロトはしばらく黙ってユンガーを睨み据えていたが、やがて息を吐いた。


「私は永遠なんて欲しくないね。本当に綺麗なものっていうのは、命が移り変りながら見せる、その一瞬一瞬にあるんだ。作り物じゃ表わせない」


 ユンガーは失望したように肩を竦めた。


「もっと喜んでくれると思ったが――まあいい、いずれ感謝するよ。エマ。彼女を奥の部屋に。丁重に扱うんだ」


 エマの手がアスタロトの腕を掴む。


「逃げようとしちゃだめよ。法術でちゃんと見張れるからね」

「私が逃げようとしなくても、軍はすぐお前達を見つけるさ。さっさと逃げた方がいいんじゃないの。でも娘やこんな大量の人形連れてたらすぐばれるけど」


 ユンガーは笑みを返した。


 がちゃりと鍵が開き、男が一人入ってくる。アスタロトは初めて見る顔だ。


(まだ仲間がいたのか)


 男はアスタロトを見て驚いたように眉を上げ、ヒュウと口笛を吹いた。


「こりゃすげぇ、あんたどうやったんだ」

「口をつつしみな、ウルド。公爵様だよ」


 エマは鬱陶しそうにウルドを睨んだ。


「はは、どうせもうすぐ物言わぬ人形だ、もったいねぇ」

「ウルド。どうだ」


 低く問われ、ウルドは少しうろたえて唇を舐めた。


「あ、ああ――何とか持ってきたぜ。ちと値は張っちまったが間に合ったからいいだろう。この雨だ、深夜か、遅くても明け方には堰が開く」

「判った」


 ユンガーは頷き、アスタロトを見上げた。そこには満足そうな、勝ち誇った色がある。


「もう王都に用はない。今夜中に出る。君は救援を呼んだようだが、残念ながら間に合わないだろうね」

「――」

「おいで、お嬢さん」


 エマに背中を押されて部屋の奥の扉へと歩きながら、アスタロトは鎧戸を閉ざした窓に視線を向けた。

 光はほとんど入って来ないが、まだ夕刻に近いはずだ。

 まだ時間はある。ただ、ユンガー達の逃走手段は判らず、伝える(すべ)もない。


(ヒューイット、上手く伝えてくれよ)


 あと数刻の内に、全てが停滞なく動かなければ間に合わない。

 もちろん、いざとなれば自分一人でもどうにかするつもりでいたが、少女達を傷付けずに取り戻す為にはアスタロト一人だけでも、通常の軍がいたとしても難しい。

 あの糸を問題にせず断ち切る事ができなくては――


 それができるのは、一人だ。


(頼むから管轄だの何だの、めんどくさい事言わないでよね)


「何考えてるか知らないけど、まあ諦めなよ。ユンガーは本当に、あんた一人いりゃあ他は平気で殺しちまうよ」


 エマは扉を開け、アスタロトに入るように促した。

 窓もある、普通の部屋だ。

 アスタロトの視線が窓に向けられているのを見て、エマは笑みを浮かべた。


「窓は無理さ。ちゃんと術をかけてるよ。開かないし――探索の術も効かない」

「……お前は何であんな男に付き合ってんの?」

「あたし? あたしは綺麗な女の子が好きなのさ。ユンガーはあたしにも人形で遊ばせてくれるし。ああ、でもあんたはさすがにもったいないわ」


 エマはアスタロトの腕を取って豊満な身体を寄せ、口付けをしようというように顔を近付けた。


「あたしのものになるなら、あんただけでも助けてあげる――」

「遠慮する!」


 アスタロトは慌ててエマの腕を振り払った。


「何よ、そんなに嫌がらなくたって。珍しくもないでしょ」


 髪を掻き上げ、エマはにんまりと笑った。


「でもそういう事よ。人形の方が好きに遊べるもの」


 アスタロトを部屋に残し、エマは廊下に出て振り返った。


「あんたが人形になったら、うんと着飾らせてあげるわ」


 扉が閉ざされ、足音が遠退く。

 鍵を掛けた様子も無かったが、把手を回そうとしても、飾りのように動かなかった。




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