第一話
騎士爵家当主マンフレート、その日はまだ常なる平穏の中にあった
「相手が筋を通してきた。
断る理由もなし。
……などという、そんな安易な話の進みで嫁を取れと?」
「マンフレート様、世の大半は『そんな理由』で回っておりますれば」
その日の午後、食事を終えて屋敷の仕事部屋───胸を張って執務室と言えるほど書類仕事はなく、応接机やソファの代わりに細工机や書類棚が激しい自己主張をしている───に戻るなり、五代前から我が家の一切を預かる半魔族の老執事はいつもの調子で頭を下げた。
表情には出さないが、昨日からこの調子で結婚を勧められていたので、実は少々飽いている。
「マンフレート様もお戻りになられてからは恋人が居られぬご様子、あちらのご令嬢もご婚姻には適齢期とのことで問題ありますまい。
この一つ前の手紙が届いた後、運良くあちらの領都に住んでおりましたわたくしめの弟の嫁の従姉の娘の三女の義弟に手紙を書きましたところ、小さい頃から病気一つせぬご健康なお身体をお持ちで、使用人にも気さくな心優しいご令嬢とのこと、悪い噂は特に聞かぬと返事がございました。
家格の差も、あちらが先にお望みですから特に問題とはなりませぬ。マンフレート様は若いながらも騎士爵家ご当主、ご令嬢は当代が正式に継承権をお認めになられながらも妾腹であり、その順位は帝国貴族令に定められた血順通りであれば実際の継承もほぼあり得ぬとわたくしめは愚考いたします。
シュテルンベルク辺境伯家も娘の嫁ぎ先になりふり構ってはいられぬと慌てているような様子はなく、むしろ当家の方が……」
「まあまて、ハルトヴィヒ。言いたいことは私にも解る。
なるほど、年回りもお互い適齢期なら、格の差も相手方の譲歩で問題なく、世の論理とやらからも外れてはいない。
私も辺境伯閣下とお会いしたことはないが、帝都にいた頃、次期当主レオポルト様とは知らぬ仲どころか懇意ですらあった。
故に可愛い妹が『たくさん』いるとは聞いていたし、手紙にも嘘偽りはないだろう。
手紙には一切名はないが、思えばレオポルト様がこの縁談に絡んでいることも、恐らくは疑いない。
だがな、ハルトヴィヒ……」
先ほど渡された手紙には、二度三度と目を通した。
平民からは尊敬と羨望の目を向けられる領主でも、位階は高々騎士爵である我が家では使えぬ赤の封蝋を施されたそれは、差出人が断れない相手ということを暗に示している。
その上で……我が家がまともに縁談を望まれていることも、その手紙が挨拶伺い、御機嫌伺い、縁談の申し込みと半年掛けて手順を踏んでおり、作法から外れていないことも理解していた。
「いくらなんでも、第五十二息女はないと思うのだ」
『たくさん』、とは聞いていた。
レオポルト公子は十六を数える帝国騎士団のうちの一つ、銀鱗騎士団の副団長で、当時は私の後見人かつ上司だった。
お相手のご令嬢のことは手紙に書かれている名前しか知らないが、次期当主である公子の異母妹で、長女、次女、三女と順に数えて五十二番目の息女。……令息も同数近くいるとすれば、さぞや賑やかに違いない。
そこに彼ら彼女らの母親達も加わるであろうし、両親が他界して数年、長子にして弟妹のいない私としては、うちの領民より多い家族で家が溢れ返るなど想像のしようもなかった。
「あちら様は権勢も財力もある名家、お妾とご子息とご令嬢が少しぐらい多かろうとお家が傾くようなこともありませぬのでしょう」
「……少し?」
「ええ、少しでしょう。
十人も百人も、大して違いはありませぬ」
「……。
とりあえず、この話は一度置こう。
頭を冷やすついでに午後の見回りをしてくる」
「いってらっしゃいませ、マンフレート様」
先ほどとまったく同じく、ハルトヴィヒはいつもの調子で頭を下げた。
厩舎から愛馬を引き出し、自分で鞍を着ける。
馬屋番などという気の利いた存在は、我がシリングス家には居ない。
執事兼庭師のハルトヴィヒ、ハルトヴィヒの妻で料理番兼メイドのヨハンナ、そして私。
ひひん!
にゃあ。
それから私の愛馬にして軍馬のアウドラと、愛猫にして倉庫番のエリーゼ。
我が家の住人はその三人と二匹が全てであった。
「午後の見回りだ。
行くぞアウドラ、エリーゼ」
戦場に行くわけではないので私にも緊張はないし、主の気分に敏感なアウドラやエリーゼには散歩としか思えないのであろう。
いつものようにエリーゼがアウドラの右手前方に位置し、とてとてぱかぱか出発する。
青空を見上げれば、結婚話を棚上げしたくなるほどいい天気だった。
うちの村───正しくは『帝国領邦オストヴァイセンフェルズ=アルテンブルク管区アイゼンブルク郡シリングス騎士爵領』とやたら長い正式名称を持つが、私も領民も行商人も単に村、もしくはベアルの村と呼ぶ───は極小さい。廃屋まで含めても三十軒ほどの集落は大きいと言えるはずもなく、はっきり言えば田舎の中の田舎、真の田舎を選ぶ大会があれば近隣の村共々優勝候補だ。
領主の館───我が家のある小高い丘、ふもとの集落とその周囲にある小さな薬草畑、村落から少し離れた狩り小屋と炭焼き小屋とそれらを取り巻く深い森と山が、領地の全てであった。
「こんにちわ、若様」
「やあ、『剛腕』。精が出るね」
集落に着く前に、枝打ちした灌木の束を担いでいる牛頭の大男に出会う。
若い頃は傭兵だったらしいが、数十年前、村の娘を娶ってそのまま居着いたというミノタウロス族の大男だ。
いつぞや本名を教えられた気もするが、誰もその名で呼ばないし長すぎて私も覚えていない。今は孫まで居る好々爺ながら、年齢を感じさせない筋肉と身のこなしで未だに若い衆のまとめ役をさせられている。
「今日はいい日でしたぞ。
ほら、このとおり!」
「おお、角付きじゃないか!」
彼が自慢げに指差したその腰には、一本角の兎がくくりつけられていた。たまにしか見かけないが、角は強壮薬になるのでありがたい。
「アルベルタ婆ちゃんに伝えておくよ」
「たのんます」
『剛腕』はアウドラの首とエリーゼの頭を撫で、炭焼き小屋のある方角へと向かっていった。
行儀作法にうるさいハルトヴィヒの説教が面倒なので館では口調も態度も改めるが、外ではこんなものだ。
しばらく歩いて村落に着くと、そのうちの一軒を目指す。
広場には子供一人いないが、今の時間なら大人はそれぞれ忙しいし、子は親の手伝いをしている頃合いだった。
私は一番大きい家の前でアウドラから降り、門扉の呼び金を三度叩いてそのまま入っていく。領民全員が顔見知りのこの小さな村では、不作法とはならない。
エリーゼは屋根の上に小鳥を見つけた様子で、にゃあと啼いて走っていった。集落も彼女の縄張りだ。飽きればその内帰ってくるだろう。
「アルベルタ婆ちゃん」
「おや、若様」
村長の妻アルベルタは土間の上に筵や盆ざるを広げ、薬草を干す準備をしていた。一見ただの老婆だが彼女は生粋の地精霊族で、この一帯を司る土地精霊でもある。
そろそろ行商人が来る日が迫っていたかと、マンフレートは思い出した。
「婆ちゃん、さっき『剛腕』に会ったんだけど、腰に角付きをぶら下げてた。
炭焼き小屋に行ったところだから、後で来ると思う」
「ありがとうございます。
準備しておきますよ」
「うん」
アルベルタは薬師であり、昨日から村中の猟師を率いて森に出ている村長は熊狩人のまとめ役だった。
こちらではベアルと呼ばれる熊の魔物───書物などではシュヴァルツヴァルト・ベルンハルトの名で記されている───の糞を見つけたと、炭焼きのハイニから知らせを受け、村の猟師は総出で熊狩りに出ていた。
何せ一頭狩れば、毛皮から肉から肝から、いつもの猪や野鳥とは較べものにならない金になる。この村がベアルの村と呼ばれる由縁だった。
「そう言えば若様」
「うん、なに?」
「お嫁様をお迎えになるとか?」
「何で知ってんの!?
って言うか婆ちゃん、誰から聞いたの!?」
「ヨハンナさんが、それはもう嬉しそうに」
アルベルタの答えはこれ以上ないほど的確で、ああ、これが外堀を埋めるというやつかなと、マンフレートは肩を落とした。
主家の家格も低く領民全員が家族同然のシリングスでは、それが当たり前のことである。
だがそれが世間の当たり前ではないと知ったのは、両親がまだ存命中、遊学と軍役も兼ねて王都で帝国騎士の末席に名を連ねていた頃の事であった。