6.思い出だって有限です
今回、主人公がちょっぴりめそめそしすぎかもです。
イーゼルにかけられたキャンバスの上で滑るようにパステルを動かす真っ白な手。
細かな線を重ねて描かれているのは、どこか憂いのある表情をした中性的な人物。 肩口ぐらいまでの髪が風になびくの様子が風景から切り取られている。
おれはまた夢を見ていた。
窓から見える景色は、すぐ近くにある米軍の滑走路を見渡せるくらい高く、その手前にあるグラウンドでは野球部が汗を流している。
書きかけの絵や石膏像。 それにちょっとした薬品臭のする空間。
おれの記憶が正しければ、ここは特別教室棟の三階にある美術室だ。
絵を描いているのは美術の授業で同じクラスになった大鳥っていう奴。
美術部に所属してて、すごい色白で、そんな白い肌の中に浮き上がるみたいな黒い髪と黒い瞳が印象的だった気がする。
その大鳥のキャンバスの向こうには、背筋をぴんと伸ばして、膝の上に手を置いて座るおれがいた。
「なー、まだ書き終わんないのか?」
「モデルは動くな!」
座っていることに飽きて足をパタパタさせ始めたおれに、大鳥はちょっと強い調子で言った。
「坂下は陸上で推薦もらってんだからヒマだろ? おれの受験を手伝えよ」
「ヒマじゃないって。 今日は土手を上流に向かってどこまでいけるかロードワークするんだから」
「そういうのをヒマっていうんだよ」
大鳥は授業の『友人の肖像』っていう課題が完成できないまま夏休みを迎えようとしていた。 その肖像を描かれる側だったおれは、最初の二~三回授業に出た後、陸上の大会でほとんど不在。
課題の提出が遅れた責任はおれにもあったし、黙ってモデルをすべきだったとは思う。
まぁ、今更だけど。
「大体さ、授業の課題がどうして受験に関係あるんだよ」
「推薦受けるための課題に出すからだよ。 ほれ、ポーズとれって」
「んだよー」
言われて元のように座りなおす姿はかなりみっともない。 ワイシャツのボタンははだけてるし、椅子をガコガコやってて、客観的にみると本当にダメな子供って感じ。
そんなおれの様子を見て、大鳥はちょっと笑う。
この大鳥って奴。 おれにとっては不思議な存在だった。
球技なんかで活躍する方じゃなかったけど運動神経は悪くなかったし、短距離を走ればおれよりも速くて、運動部からのスカウトもけっこうあったらしい。
見てくれもよかったから運動部に入ればモテモテだったんじゃないかって思うのに、美術部で一人黙々と絵を書いてる。
陸上に夢中だったおれには理解不能の考え方を持ってるんだって、勝手に思ってた。
放課後の美術室に二人きり。
他に誰が聞いているってのもないし、おれは大鳥に疑問をぶつける。
「大鳥さぁ、お前どうして陸上やらないの? 体育の時とかおれよか速かったじゃん」
「なんだよ、急に」
大鳥はキャンバスから目を離すと、おれの方を見る。 探られたくないなにかを守るみたいに、ちょっといぶかるような鋭い目をしていたはずだ。
ちょうど、昨日会ったカレカみたいに。
でもおれは、その様子にちっとも気づかないまま話し続ける。
「だって、県記録持ってるおれより早いんだぜ。 一緒に走ったら楽しいのに」
「種目違ったら一緒に走んないだろ」
「共通メニューは一緒にやるし、短距離の奴と走るとペース早いから効率いい気がすんだよ」
おれの勝手な言い分に大鳥は「馬鹿だな」って言ってキャンバスに目を戻す。
「おれが陸上やらないのは、うちの親が許さないからだ」
「え、なんで?」
大鳥の返答に間の抜けた声で返事を返す。 客観的にみているおれ自身、あの時のおれはうすら馬鹿だったと思う。
「うちさ、親が宗教にかぶれてて。 人と競争したりしちゃいけない、なんていわれてさ。 まぁ、親の都合っていうのかね、これも」
少し落ちた声のトーン。 大鳥は多分、自分の境遇に納得していなかったんだろうな。
眉間にしわを寄せて、少し固く結んだ口元が震えてる。 握りしめたパステルがぱきりと折れた。
あの時、キャンパスの向こう側で大鳥がどんな顔をしてたのか、ようやくわかった気がする。 まぁ、夢の中だから勝手な思い込みかもしれないけど。
「んじゃあ、おれんちと逆だな。 うちは、母さんが足が悪くてさ。 いつも杖ついて歩いてんだよ。 だから自分の足でどこまでも走っていけるようにって、勝手に入部届まで書いちゃってさ」
椅子の上で膝を抱えてにぃって笑うおれ。 そういう仕草はやめた方がいいぜ、お前自分で思ってるより女みたいだからな。
「どこんちも親って勝手だよな」
大鳥はそういってふっと笑った。
あの時大鳥が書いていた絵は、推薦の課題じゃなくコンクールに出品された。 確か、受験で使う必要がなくなったとかって話だった気がするけど。
絵そのものは綺麗だったけど、自分が女の子そのものに書かれていてえらく腹を立てたんだ。
でも、その時、文句を言うべき大鳥はどうしてたんだっけ?
この絵の事を思い出すと、胸が締めつけられるみたいになる。
なんて夢を見て目が覚めた。
おれにとってなにかすごく重たい出来事だったはずだけど、あの後の事が思い出せない。
窓から見える空は夢の中で見た夏空と違って、晴れた日でもうっすら灰色がかっている。
冬の早朝ともなればなおさら暗い。
石造りの壁に漆喰を塗っただけの室内は空気まで凍らせるみたいに冷たくて、そのせいなのか、涙でぬれたほっぺたがちょっぴり痛んだ。
いつもならおれが起きるのはもう少し日が高くなってからだし、暖かい布団にくるまっていても母さんに怒られるような時間でもない。
でも、あの夢のせいなのか、胸がざわざわしてもう一度眠ろうっていう気分とは程遠い。
おれはパジャマの上に肩掛けを着て部屋の外に出る。 父さんも母さんもまだ眠っているのか、耳が痛くなるくらい静かな廊下を歩き、真っ白くなる息で手を温めながら階段を下りる。
リビングに降りると暖炉の火は小さくなっていて部屋の空気がしんしんと冷えていた。 おれは暖炉のそばにしゃがんで、小さくなった火元を火箸で軽くつつきながら薪をくべて火をおこす。
暖炉の近くに置かれた薪は、気温の変化で少しだけ湿気を吸って、ぱちぱちという音をたててはぜた。
少しずつ温まってくる暖炉のそばにぺたんと座って、火が大きくなるのをぼんやり眺める。
あの夢のあとなにがあったんだっけ?
すごく悲しい出来事があったはずなんだ。
一生懸命思い出そうとするけど、記憶に靄がかかったみたいに、夢より向こう側の事が思い出せない。
夢の事を思い出して鼻の奥の方がつんとして、また泣き出しそうなおれは、不意にふわりと抱き上げられた。
「お久しぶりです、秋久さん」
「し、四十万!」
おれを抱き上げたのは、骸骨をかたどった仮面をつけた女――おれをこの世界に転生させた張本人である、水先案内協会の四十万だった。
「なんでこんなとこに来たんだ?」
「小さくて可愛くなった秋久さんに会いに来ました」
「嘘つけ」
火葬場であった時となんら変わらない装い――ローウェストの黒いワンピースに、白黒ボーダー柄のカーディガンを羽織っただけの四十万は、この寒い部屋の中では明らかに異質だった。
吐く息はうっすらと白く、仮面から露出している唇は少し青くなっている。
「お前、寒くないの?」
「寒いですよ」
四十万はおれをだっこしたまま暖炉の近くにすとんと座る。おれはその膝の上に座る形で背中を預けた。
そんで気づいたのは、四十万は思ったより胸があるという事実。母さんより大きいかも。 大きな胸のおかげか頭のすわりもいい。
「女の子になっても気持ち悪くて安心しました」
心を読むな。 そしてひくな!
わざわざ来たんだから、なんか大事な要件があるはずだろ。馬鹿なことしてないで用事を済ませよう。
「なんか話があってきたんじゃないのか?」
おれが水を向けると四十万は「そうですね」と口元だけで笑い、おれを持ち上げて、くるっと自分の方に向けさせた。
体位で言うと座位――四十万からすごい殺気が発されたので、下寄りの話はやめとこう。
手を伸ばせば唇に触れてしまいそうな距離。
仮面で鼻の辺りまで隠れているとはいえ、顎のラインは細く、ほんのり色気を漂わせている今日の四十万はあった初日に金的蹴りをしてきたのが嘘みたいに楚々としている。
真っ白な首筋からほんのり甘い香りがして、身体はもう女の子なのに、大人の女性の雰囲気に、少しだけドキドキした。
「谷間の百合っていう香水ですよ」
いや、そんなブランドとか名前とか知りませんけどもね! いや、これからは知っておいた方がいいのか?
とにかく、おれは話を聞く意思を示すため、四十万の膝の上で居住まいを正す。
「今日は大事なお知らせがあってきました。サポート期間終了のお知らせです」
「サポートって、お前なんもしてないじゃんか」
「まぁ、そういう側面もございます」
サポートなんかなくたって、父さんも母さんも大事にしてくれた。それでだめだったら、それこそどうしようもないだろ。
前世でおれが死んだときだってそうだ。誰にもどうにもできなかったんだし。
「私どものサポートは、転生先の肉体が三~四歳を迎え、胎内記憶がなくなると同時に終了します」
「胎内記憶?」
「お母さんのお腹の中にいる間の記憶の事です。出生時の苦痛などのストレスを忘れてしまうために初期化されるのだともいわれていますが、メカニズムは不明です」
出生の時、確かにものすごい苦しかったけど、初期化するほどのものだったか?
お腹の中の記憶にしたって、ごーごーどくどくっていう音と、ときどき話しかけてもらっていた事ぐらいしか思い出せないけど、その記憶とサポートになんの関係があるんだ?
「胎内記憶には前世の記憶なども含まれます」
ふむふむ。
胎内記憶ってのは前世の記憶も含むと。
……前世の記憶を含む。
含むのか。
……。
「ちょっと待て、四十万! それどういうことだ」
「言葉どおりの意味です」
思わず大声を出して、立ち上がりかけたおれを両手でギュッと抱きしめてとどめながら、四十万は淡々と続ける。
「肉体というのは魂の器です。転生した今の肉体は小さくて、その脳に記憶できる情報には限りがあります。 その肉体と完全互換する事ができない思い出や感情は断片化され、心の隅っこに格納されます」
やめろ!
なんだそれ。
おれは、前世の父さんや母さんを幸せにするためにこの世界に来たんだ。
この世界で頑張れば、父さんと母さんが幸せになって、笑顔になるって思ったから、こんな薄暗くて気持ち悪い世界で、女になってまで暮らそうってのに、それを忘れちまうってなんの冗談だよ!?
「私の話に嘘は一つもありません。ご両親の幸福量の話も真実です。 ただ、重要な真実を話さなかっただけです。貴方の頑張りで私のボーナスが上がるのも本当です」
「お前の給料の事なんか知らねえよ!」
なんでこんな話を今更持ってくるんだ。 最初に話をしておくべきじゃねえのか?
クーリングオフされなくなるまで待ってたみたいに、今更。
「もう胎内記憶の消去は始まりつつあります。 現実を受け入れてください。 貴方いま、お父さんとお母さんの名前を思い出せなくなっていませんか?」
そういえば、転生が決まった頃から思い出せなくなってる。
「友達の名前とか、なにか思い出の中でぼんやりとしてきている部分はありませんか?」
友達だけじゃない。 おれと関わってくれた人、無理に関わってきた人の名前。 どっちも思い出せない。
「前世の夢が客観的になってきていたりしていませんか?」
だからなんだっていうんだ!
夢が客観的だからって、思い出がなくなった訳じゃない。
「行動が新しい肉体の性別に引きずられはじめていませんか?」
そんなはずない! そんなはず……ある、のか?
四十万がいってる事には全部心当たりがある。
父さんと母さんの名前もそう。
夢はどんどん客観的になって、幽体離脱して自分の死体を見ていた時みたいになってる。
大鳥の下の名前はなんだった?
あいつが受験する必要がなくなったのはなんでだ?
夏休みが終わった頃、あいつのご両親がうちに来て、父さんと母さんを怒鳴りつけてたんだ。
でも、なんでそんなことをされた?
……なんだよ。
もう本当に思い出せないじゃんか。
「新しい身体に適合するように魂の形が変わってきているんです。 魂のありようは肉体にひきずられます。 入りきれなかった部分はこぼれていくんです」
「な……ん、で」
喉の奥が痛くなる。 涙も鼻水も止まらない。 はじめて四十万と会ったとき、金的を蹴られた時よりもずっと苦しい。
息が詰まる。
「なんで先に言わなかったんだよ!」
「先に言えば、貴方はあのままあそこにとどまったんじゃないですか?」
それは多分当たってる。 なにをしていいのかわからずに、あそこにいて。 その内、家に帰って、悲しい顔をする父さんと母さんに、どうしてあげる事もできないまま。 それだけの存在になってしまっただろう。
多分、べしょべしょの顔で泣きながらぴったりと抱き着くおれの背中をさすりながら、四十万はなお淡々と言う。
「なにも全てを忘れてしまうという話ではありません。 前世を夢に見ることはあるでしょうし、心の中のどこかに大事な気がかりとしては残ります。 断片化された記憶を自発的に思い出すことができなくなるだけで……」
「でも、そういうの思い出せなくなったら、もうそれはおれじゃない」
思ったより強く出た否定の声に、自分でも驚きながら、でも、その声はやっぱりおれが十六年間慣れ親しんだ自分の声じゃなくて、また泣きたくなる。
でも、そんなおれの弱気を吹き飛ばすくらい、四十万は強く言い切った。
「もし、思い出を失ってしまっても、貴方は貴方です。 ご両親を思いやって、自分の苦労を顧みず、転生を選ばれた貴方の本質は、なにも変わりません。 違いますか?」
そんな事言ったって、そのよりどころを忘れちゃったら、本質も糞もないじゃないか。 転生の目的そのものを忘れるかもしれないのに、どうやってそれを成し遂げるっていうんだ。
「至極高額なオプションとして、前世の記憶を完全に保持するというものもありましたが、それは貴方にとって本意ではないと考えました」
「そう、だけど……」
情けない話だけど、おれは四十万に縋り付いて泣いた。 自分の浅はかさが悔しくて。 それ以上に自分が自分ではないなにかになってしまいそうな感覚が怖かった。
「秋久さんの親御さんを思う気持ちを利用した部分は確かにあります。 なので、一つだけお詫びの品をお渡ししようと思って、今日は直接来たんです」
十分かそこら、四十万に背中を撫でられながら、ものすごい勢いで泣いて、そうしたらこの小さな体はすぐに疲れてしまったのか力が入らなくなった。
ぐったりしたままのおれを抱き上げて長椅子に横たえると、四十万はワンピースの裾をバサバサやる。
もう女の子同士ってことだからなのか、転生前に世界カタログを出した時よりその振り方に容赦がない。
ちなみに白と黒のボーダーだった。
……こんな悲しくて、ぎりぎりの状況なのに、そんなことチェックしてる辺り、おれも相当だよな。
ガチャガチャと訳の分からないガラクタがそこらじゅうにまき散らされる中に、一冊の分厚い手帳があった。
今のおれの身体には、手に余るような大きさのそれを拾い上げると、おれの胸の上に抱かせる。
「本当は、他の世界の物品を直接持ち込むのはルール違反なんですけど、私からの贈物と思ってください」
「どういうこと?」
四十万の説明に応えた声が、思った以上に細くて弱弱しい。おれ、こんな声だったか?
「前世の思い出や思い出した夢の事、この手帳に書き込んでおいてください」
「でも、忘れちゃうんだろ?」
「この手帳と付属のペンは貴方の手元から絶対に消えません。 そういう品物です。 ページも無制限ですし、書いた内容を検索することもできます」
泣きすぎて熱でも出たのか、疲れて眠ることしか考えられない時みたいに、どこかふわふわとした、意識が四散する感覚に少し酔いながら、おれは四十万の眼――があるはずの位置をじっと見る。
「先ほども申し上げましたが、失われる記憶は断片化され、心の隅っこに格納されます。 この手帳は、いつかその記憶を思い出すための手掛かりになるはずです」
「十六歳の誕生日まで……」
眼が覚めたら、あの女はそこにいなかった。 身体を冷やさないようにというせめてもの気遣いなのか、かけられていた白と黒のカーディガンからはうっすらと甘い匂いが香るだけで、そこに温もりはない。
十六歳の誕生日までになにをすべきなんだろう?
いままでどことなく感じていた誰かとつながっている感覚はもうなくて、その疑問に答えは返ってこない。
夢だったのかもしれない。 そう思う事も出来たけど、胸に抱きしめたままの手帳は確かにある。
だから、彼女がいたのは現実だったんだ。
私は彼女が言った通り、書き留めておかなければならない。
なにを?
前の世界で体験した出来事を、覚えている限り記録しておかなければ。 いつか思い出すその日のために。
手帳はなにか赤茶色の皮革で装丁され、ばらばらと開かないようにベルトで裏表が固定されている。 鍵穴のある厳重な綴じ方。
それでいて縫製された痕跡はなく、それだけでこれが特別なものだと確信できた。
でも、どうやってあけるんだろう?
鍵穴にそっと触れる。
触れた指にかちりと金属の噛み合う感触の後、ベルトが外れた。
この世界で目にしてきたどんなものよりも薄く、なめらかな手触りの紙がたくさん束ねられた手帳の綴じる部分には、薄紅色のペンが留められている。
手に取ると金属の冷たさに少しだけ指が痛んだ。
「忘れちゃいけない事……書いておかなくちゃ」
私は今はずっと遠くに感じる、別の世界の友達を。別の私を育ててくれたお父さんとお母さんの事を思い浮かべる。
少しずつ書き溜めよう。
でも、最初に書き込むのは一言だけ。
私は父さん母さんのために、この世界の戦争を終わらせる。
「お邪魔します」
自分のための決意表明を手帳に書き込んで、でもその現実感のなさにもう一回押しつぶされそうになった私の耳に飛び込んできたのは、そんな声。
家の中に呼びかけるにしては抑えた調子。 でも、わざわざ挨拶をして玄関から入ってきているのに、こっそりしてるのはどうしてだろう?
そう思って玄関に出ていくと、そこにいたのは大きな魚を携えたカレカだった。
少し雪のついた空色のコートを指のわかれていない手袋をつけた左手でパタパタとはらう。
そのボアつきのフードからのぞく白い肌は、秋口に見た時よりもさらに白くて、永い間外にいたんだってすぐにわかった。
「なんだチビ、起きてたのか」
本当はこっそり入ってきてこっそり帰ってしまうつもりだったのかもしれない。
私に見つかってそのまま帰る事が出来なくなったのか、カレカは手袋を脱いでポイポイとよこしながら、魚を落とさないように片袖ずつコートを脱ぐ。
魚を守るためなのか、それとも元々大雑把なのか、脱ぐとき裾を床にこすったせいで少し濡れてしまったコート掛けに置くのをぼんやり眺めていたら。
「お前、泣いてたろ」
なんて指摘される。
そんなにボロボロの顔してるのかな?
「泣いて、ないですよ」
とりあえず言い返そうとしたのにまた涙が出た。
鼻も出た。
「……なんだってんだ」
そんな私を見たカレカは、ものすごく大きな溜息をつきながら「おら、いくぞ」と玄関からリビングに私を押し戻す。
コート掛けに魚もかけてたけど、それはいいの? 臭いが移っちゃうよ。
そんなことを気にする私を暖炉にいちばん近い椅子に座らせ、自分はそのすぐ脇の床に直に腰を下ろすとカレカは核心的な問いを投げてくる。
「お前、朝っぱらからなんで泣いてんだ?」
リビングには私とカレカの二人だけ。 しかも、息が届きそうなくらいの距離でぐしぐし泣いてる三歳児って、カレカにとってはいい迷惑だろう。
涙が止まらなくて息が苦しくて、しゃくりあげる私の声とくべられた薪のぱちぱちという音。
落ち着いてくるまでそんな音だけを聞いていた。
「大事な人達の事を忘れてしまう夢を見たんです」
少し落ち着いて話し始めた私の答えを聞いて、カレカはふっと笑う。
「怖い夢見て泣くって、お前もちゃんと子供だったんだな」
「どういう意味ですか?」
「手紙はポンポン読むし、子供っぽくなかったからさ。そういうの、ちょっと安心した」
カレカが言うように、私が子供かといわれればそんなに子供じゃない。
精神的な経験値というか、そういう部分はもう二十歳近いっていう自信 ――はもう薄れちゃったけど、それでも精神年齢はカレカより上のはずだ。
「気休め程度にきいとけ」
でも、そんな私から見ても大人びた ――でも、年齢よりもはるかに疲れの見える穏やかな笑顔のまま、カレカが話し出したのは自分の過去の話だった。
それはつらかったはずだけど、失われてしまった過去。
「おれの親父とお袋な、お前が生まれるちょっと前に死んじまってんだ。水難事故らしい」
「らしい、ですか?」
「あぁ、乗ってた船が沈んじまったって話だ。 そんときおれも同じ船に乗ってたはずなんだけど、おれだけが助かった」
暖炉で燃える火を火箸でつつくカレカの横顔は、その白さのせいか氷みたいに冷たい表情を浮かべて、でも寂しそうで、私はふっと息をのむ。
「でも、助かったおれは、親父の事もお袋の事も全部忘れちまってた」
「全部、ですか?」
「毎日日記でもつけてりゃすっと思い出せたかもしんねえけどな」
カレカは口の端だけを上げて笑う。 それは過去の自分に対する後悔のようなものも見え隠れする、ちょっとさみしげな笑顔だった。
「悲しく、ないんですか?」
「まぁ、なんも覚えてねえからな」
いいながらカレカは深く腰掛けなおして、背もたれに体を預ける。
「ファルカさんがいうには、なんかのきっかけで思い出すかもしれないらしいけど、まぁ望み薄だろうな」
頭をかきながら「おれバカだから」と冗談めかしてカレカは笑い、私の方を見つめながらいう。
「めそめそ泣いて過ごしてたら、思い出したその時後悔すっかも知れねえだろ。だから、背筋伸ばして生きるって決めた」
「そんな風に生きられるでしょうか?」
「少なくとも、そう思ってないよりは可能性あるだろ」
視線は私を見ているけど、私の身体よりも向こう側のどこか。カレカが思うその時を見つめているように見えた。
「泣いてばっかいると、どっかで後悔するかもだぞ、チビ助」
「チビじゃないです!」
「いいから顔洗ってこい、いいもの見せてやる」
言うとカレカは玄関の方に歩いて行く。
その背中は、秋に見たあの時のまま、やっぱりすごく格好良く見えた。
私が言われるままに顔を洗って戻ると、カレカは台所でなにかごそごそと探していた。
まな板の上には大きな魚。 三キロか四キロはありそうな巨体は、まだうっすらと湿っていて、水からあげられてそう時間がたっていないように見える。
「これを塩釜にする」
「塩釜ってなんですか?」
尋ねる私をまじまじと見て、カレカはなにか説明しようと口を開きかけた。 でも、結局、見せた方が早いと思ったのだろう「そこの入れ物いっぱいに塩用意しとけ」と大雑把な指示を出すと、作業に取り掛かった。
えらを抜き、腹を開けて内臓を出したら水でよく洗う。それが終わるまで一分とかからない。
「手際いいですね」
「まぁな。お前もトルキアさんから習っとけよ。女は料理くらいできねえと……って、これ料理じゃないけどな」
「そうなんですか?」
開いた腹の内臓が収まっていたところに、私が用意した大量の塩を入れて、外側にもどんどん塩をすり込んでいく。 カレカは料理じゃないっていうけど、したことがない私から見れば立派な料理だ。
私達が台所でわーわーやっていると、階段を下りる音が聞こえてきた。
「あ。カレカ、来てたのね」
「お邪魔してます」
「トレもおはよう、二人ともずいぶん早いわね」
「かーさま、カレカさんが……」
「さん付けはやめろっての」
「あ、えと。カレカが大きなお魚を持ってきてくれたんです」
「ありがとう。ファルカもそろそろ降りてくるから、今日はみんなで朝ごはん食べましょ」
塩釜にするときにベイリーブスを入れるともっと美味しいのに、なんて母さんが混じってきて、台所に居場所のなくなってしまった私は父さんを起こしに行く。
こんなに賑やかな朝は、もしかすると生まれて初めてかもしれない。
「ごちそうさまでした」
「ごっそさんです」
母さんの作った腸詰の入ったお芋のポタージュにザワークラウト。
少し甘酸っぱい堅い黒パンという朝食を済ませて、食後のお茶の時間。
私も温めてもらった蜂蜜湯を飲みながら、暖炉の近くでふわふわと頭を揺らしているとカレカと父さんが話し始めた。
「ファルカさん、親父の船、見つけました」
「そうか……」
「一区切りついたんで、学校、もう一回行ってみようかと思います」
「そうか」
その話が始まると母さんはすっと立ち上がり、私のところに来た。
男同士の話し合いっていう雰囲気だから、私も席を外すつもりで母さんに抱き着く。
普段はあまり入らない、父さんと母さんの寝室で、私は母さんの化粧台に座り、髪に櫛を入れてもらっている。
自分ではあまり意識していなかったけど、背中の真ん中くらいまで伸びているみたいで、櫛を動かす母さんの手がすーっと長いストロークで動くのを見ながら、私は気になっていたことを口にした。
「カレカさん、学校いっちゃうんですか?」
「なに? トレ、寂しいの?」
「そんなこと、ないですけど」
なんで口ごもってるんだ、私。
「トレも、今度の春から学校行きましょうか」
「え?」
「嫌かしら?」
「いえ、行きたいです」
「といっても、トレは読み書きもできるし、算術もできるみたいだから、ちょっと退屈かも」
「でも、お友達できますよね?」
「トレは可愛いから、きっとモテモテよ」
「男の子は嫌いです」
言い切る私に母さんは意地悪な笑みを浮かべる。
「カレカの事は?」
「嫌いじゃないです」
といった瞬間、カレカが鏡の隅っこに映っているのを見つけた。
なんなの、ねぇなんなの母さん!
「お話終わった?」
「春からもう一回町の学校に行って、卒業が近づいたらもっかい相談するって事になりました」
「じゃあ、春から一緒に学校に行けるわね」
私の肩に手を置いて満面の笑みの母さん。 そういうんじゃないですから!
「チビも学校いくのか」
「チビじゃなくて、トレです!」
チビって言われるのは前世から嫌だったんだから。
――あ、これ手帳に書いておかなきゃ。
秋久くん(……主人公の前世の名前、忘れがち)がいなくなってしまった訳ではなくて、身体と同期してしっかりと落ち着く様子を書きたかったんですが、ちょっと鬱々とした展開になってしまいました。
次回からはまた元気なトレにシフトします。
次回更新は2012/12/27(木)7:00頃、トレが幼年学校に進学する準備のエピソードを予定しています。