59.サインなんか書いた事ない
士官学校の入学式まであと半月。
帝都の暑さには少しずつだけど慣れてきて……とは言い切れないくらい、寝苦しい夜も多いんだ。
それでもなんとか乗り切ってこられたのは、夜のマッサージ前にセレさんがいれてくれるお茶のおかげ。
ミントをたっぷり入れた氷入りのグラスに、ローズヒップを注いだお茶が身体の中から冷やしてくれる感じ。
でも、帝都ってやっぱりすごいよね。
こんなに暑いのに氷が準備できるなんて、びっくりしちゃう。
涼しいはずの南部でも、山間の地域以外で夏場に氷なんてなかったもん。
いつものようにピエリさんのハンドマッサージを受けながら、サイドテーブルの上のグラスをぼんやり眺める。
ランプのゆらゆら揺れる火。
そのオレンジ色の光に照らされた、ワインみたいに真っ赤な。
だけど、透明感のある液体の中で、溶けた氷がからんって小さな音を立てて崩れた。
グラスの中で反響したその音は、風鈴みたいに涼しげで。でも、少しだけ寂しい。
窓から差し込む月明かりは、南部で見ていたのより少しだけ弱々しくて。でも、その青白い光の色は、帝都でも同じ。
夢の中みたいに緩やかな時間が流れてる。
夜。
眠る前のふわんとした時間は、お屋敷でも南部とそんなに変わらない。
でも、変わらないせいで、なんとなくお家を思い出しちゃう。
士官学校に行ってからも、こんな時間あるのかな。
「ピエリさん。士官学校ってどんな所か知ってますか?」
「いえ。私は通った事がありませんので……。お館様にきいてみてはいかがですか?」
「そう、ですよね。でも、ききにくくて……」
左手が終わって、今度は右手。
今日のオイルはお茶と合わせたのか、バラのオイルみたい。
オイルを手にとったピエリさんは、ちょっとだけ考えた風。
それから「では、私が知っている範囲のお話をいたしましょう」って、マッサージの手は止めないまま話してくれた。
士官学校は“選ばれた子”が通う学校で、兵隊さんじゃなく指揮官になるための学校。
通う期間は四年間で、卒業してから二年間は軍隊で働かなきゃいけない。
勉強するのは軍隊で必要になる知識とか銃の取扱いとか、色々。でも、その他に普通の学校で習う勉強とかマナーとか。
そういう授業もあるんだって。
「それと、学校に行っている間はお給料が出るそうです」
「お金貰えるんですか?」
「国のために勉強をするからだそうですね」
「勉強をしてお金貰えるなんて、夢みたいです!」
前世の記憶のせいかもしれないけど、学校って――ってのはちょっと違うかな?
少なくとも、勉強ってなんの見返りもなくするものなんだって思ってた。
それなのに、勉強をしてお金貰えるなんてすごくない?
なんか、ちょっとやる気出てきたかも。
でも、ピエリさんはそんな風に思わないみたい。
「それって、そんなに珍しいでしょうか?」
「そう、思いますけど」
少なくとも、南部ではそういう話ってきいた事ない。
びっくりして、それで変な顔しちゃってたのかぎゅむぎゅむって動いてたマッサージの手が、ちょっと止まってて。
どうしたのかな?ってピエリさんの方を見たら、ちょっと笑ってた。
「このお屋敷では、奉公が終わった後もどこかで働けるようにって、色々な技術を教えてくれます。
セレはハーブの取り扱いについてお館様から教わっていますし、私はマッサージを。全部、お給金をもらいながら、です」
「そうだったんですか」
奉公を終えた子がひらいたお店がすごい繁盛してたりするから、自分もいつかはって思っちゃうって。
そんな話をするピエリさんはすごく楽しそうなんだけど。
でも、お屋敷に戻ってきたとき、ピエリさんがいないとちょっとさみしいな。
「なにかおかしなことを言ってしまったでしょうか?」
「あ、いえ……」
コゼトさんのマナー講座で、ポーカーフェイスを覚えたつもりだったけど、まだまだみたい。
「詳しいお話は朝食が終わった後、お館様からお聞きください」
「……ん。そう、です、ね」
マッサージはいつもより少しだけ念入りで。すごく気持ちがよくて、なんだかふわふわと眠くなって。
身体がぽかぽかしてきたなあ……って思った途端、眠っちゃった。
たまねぎを練り込んだ少しだけ色の黒いパンにミモレット。
マヨネーズで和えたゆで卵。
それから、薄めにスライスされた脂とスパイスたっぷりのサラミ。
南部風で馴染みがある朝御飯だけど、ちょっとお腹に厳しい献立かなあ。
なんて思いながら、食べる。
いつもなら焼きたてのパンが出てくるんだけど、今日は焼しめた感じでぼそぼそ。
南部でデアルタさんが食べさせてくれたふすまのパンよりはましだけど。
でも、南部のご飯ってもしかしてあんまりだったのかな。
ひろーい食卓の遠くの方に座ってるジゼリオさんの手の動きも、いつもよりちょっぴり重い感じ。
毎日のご飯とずいぶん違うし、食が進まなくてもしょうがないね。
ただ、顔色もあんまりよくないのがちょっと気になる。
なにかあったのかな。
けど、ピエリさんが言ってた通り、士官学校についてもききたいし……。
ちょっと迷って、左後ろに控えてるコゼトさんに声をかけた。
「コゼトさん。朝食が終わったら、ジゼリオさんとお話したいんですけど……」
「旦那様はお疲れです。ご用件をお聞きしてもよろしいですか?」
「士官学校がどんなところかききたいんです」
別にそんなすごい話をききたいんじゃないし、って思ってたんだけど。言った途端、左後ろにいるコゼトさんの雰囲気が変わった気がする。
食事中は前を向いてないといけないって言われてるし、眼帯してるからちょっと振り返ったくらいじゃ左後ろなんか見えない。
見えないんだけど。
でも、見るまでもないくらい、明確に雰囲気が固くなった。
怒られるのかなあ。って身体をちょっと硬くして。
けど、手は止めないで食べ続けとく。
「……お父上からなにかお聞きになってはいないのですか?」
「はい。なんにも」
答えた私の言葉にかぶるくらいのタイミングで、コゼトさんはおっきなため息をついた。
よく確認もしないで来ちゃった私も悪いのかもだけど、誰か説明してくれるって思うと思わない?
思わないのかな……。
「旦那様に時間をとって頂くよう、話しておきます」
「よろしくお願いします」
なんだか気まずーい空気で食べる朝御飯は、内容も微妙だったし、ちっとも美味しくなかった。
朝御飯が終わったらすぐお話きけるのかと思ったんだけど、呼びに行くから部屋で待つようにって言われちゃった。
そんな大げさな……って思いながら、廊下を歩く。
お部屋づきのピエリさんとセレさん。
それからカレカについてきてもらってるけど、なんだか行列みたいでへんてこ。
でも、お休みの日以外だと。夜、寝る前のちょっとの時間とか、こういう移動の時間くらいしかカレカと話せないし。そういう意味ではいいのかな?
よくわかんない。
朝、身支度の時、セレさんにも聞いたけど
「私も軍隊にいた事はないので……」
って言ってたし、この行列の中で軍隊の経験があるのはカレカだけなんだよね。
「カレカ。軍隊の学校ってどんな感じでしたか?」
「今更か?」
「だって、ずっとばたばたしてたから……」
自分でもどうなのかなあって思う言い訳だけど、事実だからね。
仕方ない。
「まぁ、色々教えてもらったし、面白かったけど。なんだろう……理不尽に慣れさせるための学校って感じだったな」
「なんですか、それ?」
「いや、いきなり殴ら……っぶぇ!」
悲鳴が聞こえて、それで話すのやめちゃったカレカの方見たら、ピエリさんとセレさんがカレカの左右にいて。
当のカレカは鼻をおさえて涙目になってた。
意味わかんない。
「確かに、理不尽に慣れていらっしゃるようですね」
「トレ様は大丈夫かと思いますよ」
……それにしても、この二人、ほんとは怖い人なのかも。
応接間のテーブル。
いつもジゼリオさんのお部屋で――しかも、たちんぼで話してばっかりで初めて入ったんだけど。
お日様がたっぷり入ってくるおっきな窓がある、すごく明るい空間。
その真ん中にある、厚いオークウッドの天板に磨き上げた大理石のプレートをはめ込んだぴかぴかのテーブルにどっさり置かれてる。
「これ、なんですか?」
「入学手引書になります」
いまさら!?
ちょっと分厚い冊子みたいなのが三冊と、整容規定みたいなのが書かれた紙とか、署名欄がある用紙とか。
あ。
入学に当たってって紙。
角の生えた蛇が絡み合ったマークが入ってる。
国旗にも書かれてるマークで、特に大事な文書に入れる目印ってきいてたけど……。
ぺらぺらの『入学前に』って書いてある紙――発行日は……三ヶ月前。
おーい!
「読んでおけ」
「なんか、手遅れな感じがしますけど……」
「うるさいぞ、ちび助」
目の下に真っ黒なくまを作ったジゼリオさんは、こめかみを手でもみながら、私の方をきろっとにらんで。でも
「ぅうん!」
コゼトさんのわざとらしい咳払いを聞くと、ちょっぴり居住まいを正した。
ってか、ちび助とかいうな!
なんて、怒っててもしょうがないから、一番大仰なマーク――角つき蛇の奴ね。
書類の内容に目を通してく。
書かれてるのは髪形の指定とかはまぁ、前世で見た校則みたいなの。
こういうのは学校なら当たり前な気がするけど、わざわざ書くって事は守らない人がいるんだろうなあ……。
ショートボブで、前髪は眉毛の上指二本分で切りそろえる。
……なんか、南部にいた頃の髪形に戻るだけで、新鮮さがないなあ。
それから、入学前までに勉強に関する問題集みたいのもこなせって書いてある。
でも、肝心の問題集がないよ。
今からやるって、間に合わないでしょ。
最後の方は、量だけなら結構ハードな――でも、持久力だけを試すみたいなトレーニングメニューが書かれてる。
朝の走り込み――まぁ、お屋敷の敷地から出ちゃ駄目って言われてるし、南部にいた頃よりゆるゆるなんだけど。
それでも、いつものジョギングより負荷は軽いし、心配なさそう。
そういうのの最後に『こなせない者は放校処分となる』って書いてあるんだけどさ。
これ、ほんとに今更渡されてもだよ?
「あの。放校処分って、どうなるんでしょうか?」
「士官学校から兵学校に落ちる」
「んー?」
「貴族籍をはく奪されうる事になります。後見人が外れる事態にもなりえますね」
「重大じゃないですか!」
なんで、そんな大事な書類をほっぽっとくの!?
「お前なら問題なくこなせると判断した」
「……忘れていたと、はっきりおっしゃっては如何ですか?」
おい、なんか眼が泳いでるぞ!
それに、こなせるかこなせないかなんて話しじゃないと思うんだけど。
まぁ、褒めてもらってるみたいだし我慢しよう。
「士官学校を卒業できなくても、婚姻を決めるなり、研究機関にはいるなりされているもので。
滅多な事はおきないのですよ」
「そうなんですか」
最初の二年間でふるいにかけられて、三年目からは配属を希望したところにあわせた専門教育に。
四年目は実地訓練っていうのが大まかな流れで、特別な事情がない限り、卒業から二年間は軍隊で働かないといけないんだって。
軍隊で働かないと貴族籍がはく奪される場合もあるとかなんとか。
私の場合、軍役をこなすと一代限りの貴族籍がもらえて。
私が赤ちゃんを産んで、その子が“選ばれた子”だったら――全然想像できないけど、家紋がもらえて正式な貴族になれる。
みたい。
ほんとによくわかんない。
でも、ジゼリオさんはそういうお話を、あんちょこも見ないですらすらと話してくれた。
「コゼト。事務手続きについての説明は任せていいか」
「はい。旦那様はお休みください」
「そうさせてもらう」
お話が終わると、ジゼリオさんは私の事を見もしないで、ふらふらと部屋を出ていく。
その背中はなんだか弱弱しくて、ちょっと心配になっちゃった。
「あの。ジゼリオさん、なにかあったんでしょうか?」
「昨晩、お帰りになられてから使用人の――厨房の、ペアロの家で出産がございました。
それが難産で、母子ともに危ないとの事で旦那様がおいでになったのです。
お戻りになったのは明け方でしたし、少々お疲れだったのでしょう」
「赤ちゃんは無事だったんですか?」
「もちろんです。
母子ともに無事で、産後の経過は町医者が見る手はずになっております」
そっか。
よかった。
厨房の人がお休みしたんじゃ、朝御飯もあんな感じになっちゃうよね。
それにしても、ジゼリオさんがお医者さんだっていうのは知ってたけど。なんだか色々な事してるよね。
毎日皇宮に出勤してくし
「ジゼリオさんってなにをしてる人なんですか?」
「皇帝陛下の御典医をされておいでです」
「……すごい人だったんですね」
そんな人なのに、私が肺炎になった時、南部まで来てくれたんだ。
私の肺炎のなんてもちろんだし、使用人さんのお産のお手伝いだって、断ってもおかしくないはずなのに。
そういうの聞くと、やっぱりすごい人なんだって。なんだかうれしくなっちゃう。
「ジゼリオさんが後見人になってくれて、よかったです」
「左様ですか。
私共も旦那様と、トレ様にお仕え出来てうれしく思っておりますよ」
「ありがとうございます」
ジゼリオさんに恥ずかしくない様に。
デアルタさんに笑われない様に、学校でも頑張らなきゃ!
って、はりきってみたんだけどね。
署名のところって、普通に名前を書けばいいんだって思うでしょ?
少なくとも、私はそう思ってたの。
だから、一度、メモ紙に下書きをしてからにしましょうかって言われて、普通に名前を書いたらさ。
「トレ様。サインと署名は違うものでございます」
なんていうお話が!
ほんとに!?
結局、名前を上手に図案化して、それを繰り返し描くっていうのがどうしても出来なかった私。
……絵とか苦手なんだよ!
その日の夕方から、サインをきちんと書けるようにびっちびちのみちみちな密度で練習する事になっちゃった。
サインって、前世で言うなら印鑑とおんなじで、それだけでその人を判別する物なんだって!
そんなの全然知らなかったんだから、そんな厳しくしなくていいじゃんか!
……っていうか、印鑑とかにすればいいじゃん。って、ぶちぶち言ってたら
「貴族になれば花押の支給も受けられます」
だって。
貴族、なりたいなあ……。
今回は、士官学校入学直前のエピソードをお届けしました。
先週、点滴を打ってから、手がうまく動かなくなってしまいまして。なんだか難産でした。
健康は大事にしないといけないですよね。
説明的な部分ばっかりになっちゃってる気がして、もう少し書き方があったんじゃないかなって思うんですけど……。
う~ん。
文章って難しいです。
次回更新は2013/11/28(木)7時頃、今度こそ士官学校に入学する日のエピソードを予定しています。




