53.さよならだけどさよならじゃない
生まれてから十一回目の冬。
今度の夏、私は十二歳になる。
士官学校の入学は、その少し手前の春。
南部の雪は深くて、旅立ちにはまだ早いんだけど。それでも、帝都から疎開してきた子達に比べて準備しなくちゃいけない事が多い私は、少しだけ早く帝都に旅立つことになった。
ふたつなの祝いの時、殴られた左目は、三ヶ月くらい過ぎた今でもあんまり調子よくない。
まぶたより少し上の辺りを深く切っちゃってたらしくて、そのせいで海賊みたい――前世の記憶で見た事あるだけで、この世界の海賊がこんなか知らないけど。
まぁでも、どう考えても人当りのいい職業にはつけなそうな、ぎざぎざの傷跡が残っちゃったのはもちろん。
それ以上に深刻だったのは視力の方。
左目の焦点がうまく合わなくなって、そのせいで焦点が未来にあったまま、いま起きてる事の方がぼんやりして見えるようになっちゃった。
両目で物を見ると、どっちが今で。どっちが未来なのかわかんなくて、色んなものとか人にどかどかぶつかっちゃうんだよね。
秋頃、包帯がとれるまで気にもしてなかったけど、左右の目で違う物が見えるってものすごく不便。
ぶれぶれの視界のせいで頭痛になっちゃったりもしたから、ちょっと一工夫。
左目に布を当てて、そこから伸びてる紐を髪を結う時みたいに頭の後ろで結んで止める。
なんにも見えなくなった左側がちょっぴり不安だけど、右眼だけで見ると視界がすっきりしてて、だいぶ楽。
あんまりつけてる人見た事なかったけど、この世界にも眼帯ってあるんだね。
でも、変だったりしたら嫌だし、鏡に姿を映して確認!
「そんなに変じゃないですね」
口に出して言ってみるのは自己暗示の溜めが半分くらい。
眼帯をつけるときにちょっと髪が後ろに流れちゃって、傷口がものすごく目立ってる。
前髪を整えて隠しちゃえば……よし、見えない!
眼帯を少しめくってみると、左目には血豆みたいのが出来て白い部分のほとんどが赤くて、人によっては気持ち悪いかもしれない。
隠せるし、頭も痛くならないし。眼帯って一石二鳥って思って、昨日、軍医さんにもらったんだけど……。
メープルシロップみたいな色の髪の毛と、士官学校の制服の濃い紺色はあんまり相性よくない気がする。
なんだろう?
眼帯つけただけで強そうに見える、かも。
まぁ、強そうなだけだけどね。全然やせっぽちだし。
「そろそろ準備できたか?」
「あ。はい、もうだいじょぶです」
鏡の前でくるくる――どうしても、左側が見えないから、鏡の前でまわるしかなかったんだよ。
変な態勢で鏡の中の自分を確認してたら、カレカが呼びに来た。
見えない左側に気をつけながら扉を開けて、お部屋の外に。
そしたら、カレカが私の顔をじーっと見つめてきた。
なんなの?
そういう風にじっと目を見られると、変な事――ちょっと前、テアにちゅーされたのとか思いだしちゃうからやめてほしいんだけど。
「ちび。お前、古参兵みたいな」
「なんですか、それ?」
「おっさんみたいってこ……ってぇ!」
失礼なカレカにパンチして歩き出す。
別に、なんとでも言えばいいじゃんか。もう!
州都の真ん中にある駅――だから、中央駅っていうんだって。
十四個もある停車場の中でも、人の行き来が少ない北の端っこのホームは、帝都との間を行き来する汽車専用。
だけど、帝都と州都を行ったり来たりする人なんてそんなに多くないみたい。
おっきな荷物を運ぶ車輌の方が多くて、その周りには荷役のおじさんが大勢いたけど、客車は前の方に何両か繋がってるだけ。
その少ない客車に乗り降りする階段の近くで、出発の時間を待ってる。
「トレ様、寂しいお見送りで申し訳ありません」
「いえ。コトリさんこそ、お忙しいのにありがとうございます」
ここ一週間くらい準備のお手伝いで一緒だったし、父さん母さんがお見送りしてくれるのはわかるんだけど。どうしてコトリさんがいるの?
デアルタさんが死んじゃったあの日から、コトリさんとはずっと会ってなかった。
「それから。あの……」
「なんでしょう?」
襲撃してきた人の尋問の時、コトリさんは部屋にいなかった。
その後、お屋敷の中でも、家に帰ってからも一度も会ってない。
ほんとは、沢山話したかった。
デアルタさんの最後の事。私のせいかもしれないって事。それから
「あの、コトリさん。デアルタさんの仇討てなくてごめんなさい」
ほんとはそんな事話したかったんじゃないのに。でも、話せたのはそれだけ。
あの日、コトリさんがどうしてたのか、私は知らない。
でも、尋問の部屋にいなかった。
ううん。
きっと、いられなかったコトリさんにこんな話しても、なんの意味もないのに。でも、謝りたかった。
一番大事な人を、もしかしたら私のせいでなくしてしまったかもしれないこの人に。許してほしかったんだと思う。
きっと、自分勝手な事だってわかってる。
「あの人は、貴女に仇を討ってほしいなんて思わないでしょう。そういう人でしたから」
眼の隅っこに少しだけ、透明な丸い粒を浮かべてコトリさんは笑った。笑ってくれた。私のために。
「貴女が無事で、前に進もうとしている姿を見るだけで満足していると思います」
「そう、でしょうか?」
「少なくとも……」
じりっと距離を詰めてきたコトリさんが、私を抱き上げた。
そんで、ぽーんって!
危ない!
危ないし、恥ずかしいから!
人が見てるから!
赤ちゃんにするみたいに高い高いってされた私は、なんだかぐったり疲れてた。
「司令の元奥さんから、ただの百人長に格下げになるだけですし。謝るような事はなにも起きてません。
これからは、戦車教官として若い連中をびしばししごいて、あの人にみせつけてやるんですから!」
ぐっと力こぶを作る――制服は長袖だし、その下がどんな感じかわかんないけど。でも、そんなコトリさんの様子を見た父さんとカレカの顔色が、少し悪くなった。
「おれ、ちびと一緒にいけてよかった……」
それほど!?
コトリさん、父さんもいるし、少しずつ距離を詰めながら手をわさりわさり動かすのやめた方がいいと思いますけど。
いえ、いいです。
手の動きもそうだけど、さっきのコトリさんの言葉がちょっぴり引っかかる。
「あの。お見送りって、もっと違う感じなんですか?」
「もちろんです!」
もちろんなんだ。
そういうの、全然知らなかった。
「“選ばれた子”を帝都に送り出すって、ほんとに名誉な事なんです。それこそ、司令がお見送りに来るのなんて当たり前なくらい。それなのに……」
話してて余計に腹が立ってきちゃったのか、ぎゅーっと握りしめたコトリさんの手から、みりみりみりって音がした。
革の手袋が千切れそうなくらいの握力ってなんなんだろ。
あと、カレカの顔色がその音を聞いた途端さらに悪くなったのは気のせいかな?
まぁでも、ね。
「あのおじさんは、きっと来ないと思います」
「そう、だな……」
思わずこぼれた言葉に、父さんが相槌をうった。
何日か前。
弱く雪が降る日に、私は新しく来た司令――ソンナ・サルカタっていうおじちゃんにご挨拶したんだ。
デアルタさんが使ってた執務室に呼ばれて。ノックして「どうぞ」って言われたから部屋に入ったのに、机の向こうにいるその人は私を一瞬きろっと見ただけ。
机の下でごそごそやってる手元に集中しなおす。
「ごきげんよう。トレ・アーデと申します」
「ふうん。まぁ、帝都に行っても頑張ってきてね」
気のない返事。
それだけじゃなくて、ぐいって足――しかも、靴下も履いてない素足を顔の前に持ち上げて「ふーっ」って息を吹きかけた。
「水虫なんだ」
僧正様よりは若そうで。でも、なんだかぼんやりして、やる気がない人みたい。
あんな事があった後の司令官だから、ものすごくきちんとした人とかが来そうな感じだったのにな。
元々は西部の偉い人だったってきいたけど、こんなおじいちゃんが偉い人じゃ戦争に負けちゃう気がする。
現に西部方面軍は負け続けて、一時は帝都も危なくて。細かい事はわからないけど、それを防いだのが“炎侯”っていう人だとか色々事情はあるみたいだけど。
とにかく、最初は旱魃のせいで疎開してきてたフィテリさん達が南部にいる期間が伸びたのは、西部が負けちゃったからなんだって聞いてた。
いまも穀倉地帯の真ん中くらいを境に、戦争は続いてるのに、このおじいちゃんがここにいるのっておかしい気がする。
しかもね。
「あんたのお父さんの事を聞きたいんだけどね。お酒は好きな方?」
「家ではあまり飲みません」
「そうかあ……。つきあいにくいなあ」
なにそれ?
お屋敷に変な人達が来て、デアルタさんを殺しちゃって。だったら、そういう事自分にも起きるかもしれないのに、お酒の事なんかどうでもいいでしょ!
「デアルタも飲まなかったし、南部はうまい酒をつくるのに、その価値がわかる人間はいないのかねえ」
「村のワイン祭りのときは飲んでいますから、飲まない訳じゃないと思いますけど」
「レンカ村はワインの産地だったね。特別な製法ですごく甘いとか聞いたけど?」
「貴腐ワインっていうそうです」
「それから。……塩もとれる」
村で塩なんか採れない。
ただ、クリーネ王国の荷物がつくのがあの港っていうだけ。
「あんた、隠し事苦手だね?」
「あ、あの……」
「なにか知ってるとしても言わなくていいよ。南部の暮らしがよくなるなら、なにしてたっていいんだ」
眼尻にしわをたくさん寄せて、にこーって笑うなんだか得体のしれないおじいちゃんはなんだか怖くて。
でも、その関心は私に向いてないんだって、なんとなくわかっちゃった。
母さんがそわそわしてる。
私の手をぎゅーっと握って。私の髪を手櫛で整えて。それから駅舎の真ん中にある時計に目をやって
「トレ、忘れ物はないかしら?」
「大丈夫だと思います」
さっきから、何度も繰り返したやりとり。
着替えとか小物を入れた行李はフッターさんに預けて、もう客室に運び込まれてる。
荷解きするまでは中を確かめられないし、もし足りない物があっても、今から準備なんかできない。
「帝都は都会ですし、足りない物もそろうと思いますから」
「そうだけど、ね」
そう言いながら、母さんは私の服の襟をささっとなおしてくれた。
士官学校の制服は、父さんやカレカ。コトリさんも着てる、軍隊の制服とほとんど同じ造り。
色が濃紺なのと、襟章に入学する士官学校のマーク――私は梟をモチーフにしたのが縫いとめられてる。
布地がごわごわなところだけは大人用と変わらないんだよね。
ごしごしこすれた身体のあちこちがちょっとかゆくなってきちゃった。
こんな事なら、出発の時だけでもコービデさんが見繕ってくれた服を着てくれば良かったって思っても、もう後の祭り。
ふたつなの祝いで大怪我をして、久しぶりの学校。
朝、いつものように商館通りを歩いていたら、ホノマくんに声をかけられた。
「久しぶりだな」
「ホノマくん、お久しぶりです!」
あの夜、ほんとならお父さんと一緒に外の宿――鉄道駅の近くにある宿に泊まる予定だったのに、誰かを待って、お屋敷の中にいたホノマくん。
黒服の人達が暴れまわったせいでランプが壊れて、その暗くなったお屋敷の中、そこに残ってた人達を誘導して外に連れ出してくれてたんだって聞いたのは、お家に帰ってきてから。
そのおかげで目の上を切っちゃったってきいてたけど。
もともとちょっときつい印象の顔に、もっと凄味が出ちゃってる。
そんな、ちょっと迫力のあるホノマくんは、私の目をじっと見て。それから
「今日、帰り、うちによってけよ」
「え。でも……」
他の子と違って準備の多い私は、雪が深くなる前に州都に戻らなくちゃいけない。
今日、学校に来る事が出来たのも、その連絡とこれからの事をクレアラさんにお話するためだった。
「あいつがお前のために服を用意したんだ」
「コービデさんが、ですか?」
「あぁ。南部の服だと帝都で浮くからって……だから、持ってけ」
「そんな!……ドレスだって作ってもらったのに、そんなのもらえません」
南部の毛織物ならまだしも、帝都の服なんて染物ばっかりでものすごく高いんだから。
ふたつなの祝いのためにってもらったドレスだって、ほんとはちゃんと洗ってかえさなくちゃいけないって思ってるのに
「いいから。絶対来いよ!」
いつもなら、なんとなく手をつないで学校まで一緒に行くのに、それだけ叩きつけるみたいに言うと、ホノマくんはすごい勢いで走ってっちゃった。
学校までの坂って、けっこう急で大変なはずなのに。大丈夫かな?
お昼前に学校を抜けて、そのまま帰っちゃおうとしてた私は結局、コービデさんに捕まって。一時間くらい着せ替え人形にされちゃって、その上、受け取らないつもりだった服をどっさり持たされちゃったのは別の話。
でも、受け取った服はすっごい可愛かった。さすがコービデさん!
って思った私に
「それ、ホノマが見立てのよ!」
って。
……なんですと?
教室に入るとわあって皆が歓迎してくれた。
皆って言っても、今回の件で疎開を切り上げた子も多くて、教室の中はさみしくなってて。取り囲まれるみたいなことにはならなかったんだけどね。
帝都に行く準備をしなくちゃいけないから会えるのは今日が最後だって話したら泣いてくれる子までいて、私もなんだかきゅんとしちゃった。
「泣いていても仕方ないでしょう。春になれば帝都で会えるのですから、席に戻りなさいな」
ぱんぱんって手を叩いて、わーって集まった皆をまとめ上げたのはフィテリさん。
こういうの真似できない。
「フィテリさんにもお世話になりました」
「こちらこそ。春まで会えないなんて寂しいわ」
「トレもです」
握手して。
それから、フィテリさんの身体が急に近づいて、ふわっとしたハグ。
ハグされただけなら別になんともなかったんだけど、耳元でささやかれた言葉のせいで顔に血が集まっちゃった。
「テア様ともしばらくはお別れよ。キスくらいしたら?」
「……っ!」
そんな事する訳ない!
誰がどう間違ったらそういう話になるんだよ。
授業をお昼まで受けたら給食の時間なんだけど、今日は少し早く帰らないといけなくて。だから、皆が配膳の準備をしてる間にそっと教室を出る。
ほんとはまっすぐ帰らないといけないんだけど。でも、なんとなく。
本当になんとなくだけど、決闘の木に向かう。
背の低い――私の背が伸びたからだと思うけど、テアと決闘した頃よりずいぶん小さくなった決闘の木って呼んでる小さな楓の葉っぱは、緑から赤に色を変えてて、少し灰色がかった空に綺麗に映える。
外校で私達が授業を受けてる時は内校も授業中。
給食の時間は、内校の子達が配膳の手伝いとかに駆り出されてるってきいてて。だから会える訳なんかないんだけど。
それでも、ここに来れば会えると思ったんだ。
ほら。
「ト、レ。今日で、学校お、しまいって本当?」
その予感はほとんど確信で、紅茶色の髪と同じ色の毛皮でおおわれた狼みたいに大きな耳の女の子。
私の生まれて初めての、大事な大事な友達――エウレは、息を切らせてかけてきてくれた。
「はい。帝都に行く準備で、明日から州都に行くので……」
「ひどいよ!なにも言わないで行っちゃおうとするなんて!」
責められても仕方ないんだけど。でも、言えなかったんだ。
だって、話したらエウレが泣くってわかってたから。
それに
「ごめんなさい。エウレ」
そんな顔をするエウレを見たら、私だって泣きたくなっちゃう。
泣きたいんだけど。でも、どうしても涙が出なくて。そういうときって、きっと変な顔してるに決まってるから、そんなのエウレに見られたくなかったんだもん
「手紙、書いてね」
「もちろんです。エウレもお返事くださいね」
「うん。うん!」
こんなときどうすればいいのかよくわからなくて。だから、エウレをぎゅーっと抱きしめた。
背中に巻きつけられたエウレの腕にもぎゅーって力が入って、それで
「トレ、相変わらず魚のにおいがするね」
「……あの、トレって生臭いですか?」
「ううん。いいにおいってこと」
いつかも言われたけど、なんか釈然としない。
しばらく抱き合って。でも、ちょっとしたらエウレはがばって顔を上げて
「じゃあ、戻るね!」
「う。うん……」
ほんとにがばって音がするくらいの勢いで離れたら、一目散に走ってった。
その背中を追いかけるみたいに目を動かしたら
「トレ。久しぶり」
「うげ」
うげってなにさ!
……なにさっていっても、まぁ自分の声なんだけど。
真っ青な教会服の裾がひらっひらってなびいて、見え隠れするふくらはぎは白くて。
そんな白い肌を隠す真っ黒な髪。
薄いピンクの唇とか、とにかく、相変わらずものすごい色気を振りまくテアを見て、本能的に出た声だからしょうがないよね。
そういうお色気苦手なんだもん。
「内校でも、トレが行っちゃうって騒ぎになってたんだよ」
「そう、なんですか……」
そう言えば、幼年学校の頃、同じ教室で勉強した子も何人か内校に行ってて。その子達にはなにも言ってなかった。
だって、お別れするには時間がなさすぎるって思ったから。
それに……。
それに、なんだろう?
自分でもよくわかんない。
でも、皆にお別れしちゃったら、皆の心の中に居場所がなくなっちゃう気がして。それはテアだっておんなじで。だから
「トレに会えないなんて、寂しくなるよ」
「そんなことありませんよ。エウレもいて、グルーア君とかギーちゃんとか……皆、いるじゃないですか」
なんか、テアの事真っ直ぐ見れない。
いつもそうだけど。
でも、いつもより、胸の奥の方がぎゅってなる感じがして、苦しい。
「君に。そばにいてほしいんだ」
きゅって手をつかまれて、その手をぐいってひかれて。その勢いでテアの方に身体がかしいで。
それから。
それから、腰に手を回されて、引き寄せられて。
っていうか。なんか、ものすごく顔が近い!
「迎えに、行くから……」
ばちってテアと目が合って、そのままテアの顔が近づいてくる。
ルビーみたいに真っ赤な瞳にうつる私は、なんだかすごくうろたえてて。それがすごく格好悪くて。そんなの見たくなくってぎゅーっと目をつぶった。
それで。
それから、唇に暖かい物が触れて、なにか柔らかいしめった物が口の中をかき混ぜて。その度に腰の辺りがじんわりしびれて。
それが少しずつ怖くなって。だから
「辞めてください!」
気がついたら、ばちんって音が聞こえるくらい、思いっきり平手打ちしてた。
「大人のちゅー……」
ちょっと離れたところでエウレの声。
もう、なんなの!?
二人してさ!
停車場の真ん中にある時計を見る。
出発まで、まだ少しだけ時間がある。でも、その時が近づいてくるのがはっきりわかるくらいに近づいてきてた。
「忘れ物はない?」
「大丈夫だと思います」
「そうかしら……」
もう何度目かになるやりとり。
荷物はポーターさんが客室に運び込んでくれてて、荷解きしなくちゃ中身なんか確認できない。
それに、南部より都会に行くんだから、忘れ物をしても大丈夫だと思うけど、母さんはなかなか納得てくれなかった。
もし、送り出す側だったら私もこんな感じかもしれないし、母さんを馬鹿にしちゃダメなんだけど。でも、いつもと全然違って、ちょっぴりおかしい。
「母様、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうかもしれないけど、心配なのよ」
ちょっと恥ずかしそうに笑いながら、母さんはまた私の服の襟を軽く整えてくれた。
士官学校の制服――父さんとかカレカとか、軍隊の人が着てるのとほとんど同じデザインのグレーの服なんだけど。襟のところに学生だってわかるように襟章がついてて、そこだけ生地が固くて。
そのせいで、少し首を動かすとすぐ型崩れしちゃう。
父さんもカレカも、身体に馴染んで生地が柔らかくなってくるから大丈夫っていってたけど、そんなのいつになる事やら……。
そもそも、父さんもカレカもこのごわごわの制服着てて、身体かゆくなったりしないのかな?
私はあちこちかゆいよ。
脇の下とかお股とか、膝の裏もそう。
でも、少し離れたところに立ってる二人がそういうの気にしてるとこなんて見た事ない。
今だって、なんでもない顔して、父さんは煙草を口元に持ってってる。
私なんか、あんな感じで、ひじを曲げるとひじの内側もかゆいよ。
「カレカ、火あるか?」
「はい。……どうぞ」
何度も何度も確認する私達に比べて、カレカと父さんは静か。
父さんの煙草にカレカが火をつけて、それを見届けてから、カレカが煙草をくわえて、父さんの煙草から火を分けてもらう。
それから二人で「ふぅ」って煙を吐いた。
ただそれだけ。
しゃべりもしないし、お互いを見もしない。
でも、隣り合って一緒に立ってるだけでなにかが通じてる。そんな感じ。
ちょっとうらやましい。
二人の事見てたら、遠くの方でぽっぽーって小さめの汽笛が鳴った。
その音に弾かれるみたいに、荷役のおじちゃんとかパーサーさんとかあちこちが少し慌ただしくなる。
「そろそろ、だな」
「そうですね」
父さんとカレカが頷き合って、それから私と母さんの事を見た。
母さんの視線と父さんの視線が絡み合って、そうしたら母さんは私のほっぺをそっと撫でてくれて。それから少しだけ距離をとる。
「トレ、辛くなったら戻ってきなさい」
「ありがとうございます。母様」
「二人仲良くな」
「はい。父様」
「辛くなったらお手紙下さいね。すぐ駆けつけますから!」
「コトリさんも、ありがとうございます」
別れの言葉なんか口にしてない。
それなのに、ここで別れたら父さんにも母さんにもあえなくなっちゃう気がして。だから、父さんと母さんにぎゅっと抱き着いた。
「トレ、頑張ってきます」
「えぇ」
「あぁ」
汽車が動き出す時は客室に入ってなくちゃいけないっていう決まりなんだけど。でも、父さんと母さんの事。コトリさんや南部の景色を目に焼き付けておきたくて。
だから、州都の時計台が見えなくなるまで、廊下側の窓にはりついてた。
そんな私を窓から引っぺがしたカレカは、わしわしと私の頭を撫でてくる。
せっかく整えてもらった髪型だけど、いまはなんだかそんなの気にならなくて、ずっとしててほしいなって。そんな気持ちが胸の中をあったかくしてくれた。
んで、それから一時間くらいで完全に乗り物酔いした私。
でもね。帝都まで汽車で八日間かかるんだって!
その間、客室のトイレが私の部屋みたいになるなんて、この時は思ってもみなかったんだ。
帝都についたら、からっからのミイラみたいになっちゃってるんじゃないかな。
私。
今回は、旅立つその日のエピソードをお届けしました。
主人公がどうして帝都に行く事を選んだのかが、ちっとも描けなかったのが心残りの今回。
帝都に行ってから、少しずつ描写していこうと思います。
新しい舞台で、気分を一新してお話を進めていくつもりなので、お見限りにならずおつきあい頂けたら幸いです。
次回更新は一週間お休みして2013/10/17(木)7時頃、帝都周遊のエピソードを予定しています。




