52.もう涙なんか流さない
分割投稿四話目です。
見知った部屋で目が覚めた。
半年間、言葉の勉強のために住んだ、お屋敷の敷地でも外れにある尖塔。
そのてっぺん近くにあるお部屋のふかふかのベッドは暖かくて、いくらでも眠れそうだったけど、いまはそんな気持ちになれない。
西向きの窓から見える空はうっすらと白んだ群青色。
お日様が見えないから、まだ朝早い時間なんだって思う。
少なくとも、いつもなら絶対起きてない時間だし、まだ寝ぼけてるのかも。
パーティが終わった後の酷い出来事は全部夢で、目が覚めたら元の日常が戻ってくる……なんて思えたらよかったのに、身体中のあちこちが痛くて。
まだぼんやりしたままの頭は、奥の方がつきつきしてて。
だから、全部現実なんだってはっきりわかっちゃった。
あれは全部、現実だったんだ。
フォルタさんもレエレさんも死んじゃって。
デアルタさんももういない。
戦争を終わらせるって強く思って、でも、そんなのすぐ出来る訳なくて。手がかりすらなかった私に、きっかけを与えてくれた人。
意地悪で子供みたいで。だけど、ほんとは誰よりも、南部の人のこと心配してたあの人は、もういないんだ。
心の真ん中にぽっかり穴が開いたみたい。
その穴は胸の真ん中辺りまでつながっちゃって、私の全部がそこに吸い込まれちゃう気がする。
その胸の穴が心臓をぎゅーっとちぢ込めるからなのか、鼓動がどんどん速くなって、お腹がきゅーってしめつけられて。
えづいて。
でも、吐き出すものなんかなにもなくて、それが余計苦しくて。
それなのに、涙は出なかった。
苦しくて、ベッドの上でけほけほ咳き込んでたら
「目ぇ覚めたか?」
「カ、レカ?」
左側から声が聞こえた。
でも、声がした方は真っ暗でなんにも見えない。
朝、まだ早い時間で、部屋の中がいくら暗くても、なんにも見えないなんておかしい。
そう思って顔を触ってみたら、顔の左側は包帯でぐるぐるになってた。
そっか。
だから左側なんにも見えなかったんだ。
ちょっと納得して。でも、片側が見えないってすごく不便なんだって、驚いちゃった。
わかっちゃえばなんて事ない。
とりあえず、暗いし、ランプに火を入れないと。
口の中もからからで。でも、えづいたせいですっぱくなってて気持ち悪いから水も飲みたい。
なにより、カレカの顔が見えないんだもん。
とにかく立ち上がろう。起きてなにかしなくっちゃ!
でも
「まだ寝とけ。頭を動かすなって、医者が言ってたぞ」
「けど……」
立ち上がろうとしてたのに、カレカが私をベッドに押し戻してくる。
ぎゅって強い力。
「必要なものは全部取ってきてやる。だから、動くな」
そうやって抑えられて、はじめてカレカの顔が見えた。
クリーネ王国から帰ってきた日。
兵隊さんが大勢怪我して、いろんなものがぼろぼろで、眠る事も出来なかったあの日と同じ。
いつもだって雪みたいに白いのに、血の気が引いて、紫がかった顔のカレカが目の前にいる。
「あの。皆無事ですよね?」
「……寮とか、あと泊まってた連中とか。何人か被害が出てる」
少し震えた声。
それだけで、怪我した人とか死んじゃった人とか、少なくなかったんだって、なんとなくわかっちゃった。
カレカは軍人さんだけど、そういうの顔とかに出るよね。
気持ちが顔に出るって私をからかうけど、カレカだってそうだよ。
ずっと一緒にいるんだもん。近くにいたら、わかるよ。
ちょっと面白いなって思うけど、もっと別に確かめなきゃいけない事があるんだ。
「デアルタさんは……」
「司令は、死んだ」
もしかしたら、私の勘違いだったかもしれない。
デアルタさんは生きてて、今も皆に指示を出し続けてるかもしれない。
そんなのありえないんだって知ってたけど。だから、カレカの答えを私はもう知ってて。でも、それでも聞きたかった。
私じゃない誰かから。
現実なんだよって。
「そう、ですか」
それを確かめられたからなんだと思うけど。デアルタさんが死んじゃったっていう事実がすとんと胸の中に落ちてきて。
それは、すごく重たい石が水面に落ちたみたいに、私の気持ちに波を立てる。
だけど、それでも
「どうした?」
ベッドの端っこで肩を抑えられてたから、カレカのおへその辺りがいやでも目に入って。だから、ベルトのバックルをじっと見てた私の頭の上に、カレカの声が降ってくる。
どうした……って、なんだろう?
私、また変な顔してる?
よくわかんなくて、カレカの顔を見上げた。
暗い部屋の中だからだと思うけど、大きく見開かれたカレカの真っ黒い眼は鏡みたいに私の姿を映してる。
顔の半分以上に包帯まかれててお化けみたい。
変な顔、してるね。
でも、怪我のせいだし、不可抗力だと思うんだけど。
「泣かないのか?」
でも、カレカが言いたかったのは顔の事じゃないみたい。
そういえば、涙。
出ないな。
なんでだろ?
「すごく悲しくて、泣きたい気持ちなんですよ。でも、涙が出ないんです」
「ちび、お前……」
カレカの瞳に映る私は悲しそうで、でも、今、ここにいる私は涙なんかでなくて。それがどうしてなのかわかんなくて、戸惑ってる。
でも。
でもね。
「でも、ちょうどよかったのかもしれません」
「なにがだ?」
そう。
きっと、ちょうどよかったんだと思う。
だって
「トレ、デアルタさんと約束したんです。泣かないで、前を見て進むって」
「なんだよ、それ」
「涙は眼を曇らせるからって。デアルタさんが。死んじゃっても、泣いちゃいけない。足を止めるなって……」
残してくれた言葉は私の中にきちんと残ってる。
だから、泣かない。
ちゃんと約束守らなくちゃ。
「だから、ちょうどよかったのかもしれません」
「ちび」
どうしてだろうって思っても答えなんかなくて。悲しい気持ちはぐるぐるお腹の中を回るけど、それでも。
泣いてちゃいけないんだって私は納得したのに、カレカにぎゅーっと抱きしめられちゃった。
ほんとにぎゅっと。
「ちょ、っと。痛いです、カレカ!」
全然知らなかったけど。カレカってすごく力が強くて。だから、ほんとに痛くて。放してほしくて、胸の辺りをぎゅーって押すんだけど、ちっとも放してくれなかった。
「お前がちゃんと泣けるようになるまで、そばにいる。おれがお前のそばにいてやる」
そう言って。
ぎゅっと。
「うん。ありがとう」
痛くて、ちょっと苦しくて。
どうしたらいいのかわかんなくて。
だから、カレカの背中に手を回して、私もぎゅーっと力を入れる。
カレカの身体はちょっぴり震えてた。
……泣いてる、のかな?
しばらく抱き合って、カレカの体温とにおいでなんだか眠くなってきちゃったんだけど
こんこん
って、ノックの音が部屋に飛び込んできて、カレカも私もびくぅってなっちゃった。
カレカの事、こんなに近くに感じたのってほんとに久しぶりで、そのせいなのか鼓動がすごく早くなってる。
ぴたってくっついてたからカレカの心臓も早くなってて、そのせいでなんだか二重にどきどきしちゃう。
もう一回、こんこんってノックの音が聞こえて、それから少ししゃがれたテノールが響いた。
「カレカさん、アーデ千人長が呼んでます」
ドアノブが回る音がした途端、ぶわって音が聞こえるくらいの勢いでカレカが身体を離して。そのせいで、体重を預けてた私の身体はぐらっと前に向かってかしいで
「った!」
「あ!す、ご、ごめん」
「……なにしてたんです?二人とも」
挙動が明らかに不審なカレカをきろっとにらんだテアは、そんなカレカに構わないで……っていうか、テア、いまカレカのこと軽く押しのけなかった?
押された方のカレカがなんにも言わないし、別にいいんだけど。
「ちょっとお話してました。テア、まだいてくれたんですね」
「守るって言ったからね。家に帰るまで、一緒にいるよ」
決闘の木のところでエウレと三人で話す時みたいに、すすすって自然にテアは私の左側に座った。
っていっても、ほんとはよくわかんないんだけどね。
急に重さをかけられたベッドがきいって鳴って、隣がじんわりあったかくなったからそうわかったけど、ほんとに左側なんにも見えないんだもん。
だから、手を握られたのにも気づかなかったんだと思う。
いつもだったら背中がぞわっとする距離感なのに、なんか変。
変なんだけど、やっぱり理由はわからない。
ただ、今は、テアに手を触られても嫌じゃなかった。
ちょっと不思議。
でも、嫌じゃないんだけど、いつもなら怖くてぞぞってするのに。つないだ手から恥ずかしさが熱を持って顔の方に登ってきちゃって。それに気づかれたくなくて、なんとなく気になってた事を聞いてみる。
「皆、無事でしたか?」
「うちの教会の子達はなんとか守りきれたけど、ね」
“は”っていう事は、そうじゃないところでたくさん犠牲になった子がいたのかも知れない。
テアはそれ以上なにも言わなかったけど、そうなっても不思議じゃない状況だったし。
フィテリさんとかホノマくんとか、疎開組の子達を守って、それだけでも大変だったはずなのに、私を助けに来てくれた。
ほんとに大変だったんだよね。
暗くてよく見えなかったけど、テアもあんまり顔色がよくなかった気がするもん。
だから、どうしても言いたかった。
「あの。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
なんだかほんとに恥ずかしくて、テアの方見られなかったけど。きっと、いつもみたいに色っぽく笑ってたんだろうな。
不便だけど、左目見えなくてよかった。
恥かしくて鼻血とか出たら恥ずかしいもん。
カレカとテアに手をつないでもらって、ベッドから降りようとする。
した。
してたんだけど
「いったぁっ!」
裸足で林の中とか走り回ったせいで傷だらけの足から、頭のてっぺんまで突き抜けるみたいに痛みが上ってきて。ベッドに尻餅ついちゃった。
「だいじょぶか」
「大丈夫?」
二人同時にそんな風に言って、私を支えようとしてくれたんだけど。そのとき、二人の肩がぶつかって、それで二人でなんかにらみあってて。
これ、どうしたらいいんだろ?
「二人とも、ありがとう」
とりあえずお礼。
私のためにしてくれたのは変わんないもんね。
でも、どんな用事なのかわかんないけど、父さんがなにかお話するなら聞いておきたい。
こんな事――しかも、デアルタさんが言ってたのが間違いじゃないなら、私をどうにかしようとしたのが原因の出来事で。
それで誰かが傷ついたんだって思ったら、知らんぷりなんか出来ないから。私も行きたいって二人にお願いして、それで、いまこんな感じ。
「ごめんなさい。やっぱり、歩けないみたいです」
わがまま言って。それなのに私自身が原因で一緒に行けないって、なんかすっごい格好悪い。
もう、寝てた方がいいのかも……って思ったら、テアが部屋から飛び出してこうとしてた。
「車椅子、借りてきます」
「いや、いい」
歩けないんだから車椅子っていう発想は、なんとなくわかる。
でも、塔の上の部屋だし、階段とかどうするのかな?
なんて、疑問に思う暇もなく、カレカの腕が膝の後ろと脇の辺りに入れられて、ぐあっと持ち上げられちゃった。
なんでお姫様抱っことかするのかと!?
「あ、や。あの、降ろしてください」
「いいから!じっとしとけ」
さっきまで、頭を動かしちゃダメって言ってたくせに、なんでこんな揺れそうな運び方すんのさ!
それに、これ落っこちそうで恐い!
ぎゅーってつかまったら、胸が顔に当たっちゃいそうだし、なんかもう。
もう、なにこれ!?
「ぼくも、もうちょっと背丈があればな……」
「テアも、なに言ってるんですか!?」
両手がふさがったカレカを手伝ってくれてるんだと思うけど、扉を抑えるテアもなんか言ってた。
ほんとに、やめて。
もう。
こちこちと壁に掛けられた時計が鳴ってる。
リズム正しく刻まれるその音だけが響くその部屋は、緊張感であふれてた。
いつだったか、デアルタさんにオーシニアの言葉がわかるって話した私と同じように、部屋の中央の椅子に座らされた男の人。
その人を囲むみたいに、窓側に父さん。
私達に背中を見せる形でハセンさんが立ってた。
カレカとテアが左右にいてくれなかったら押しつぶされちゃいそうに重い空気。
その空気の向こう側にいる父さんの眉間のしわはいつもより深くなってて、眼の下は少し紫になってる。
椅子に座った男の人に向ける冷たい視線は、すごく怖い。
「お前が撃ったのはこの男だな」
「はい。あの、怪我で大分変わっちゃってるけどこの人、だと思います」
トーンを落とした声は、受け止めきれないくらい重くて、どうしても視線が下がっちゃう。でも、父さんに促されて、その顔を確認する。
銃で撃たれた傷――暗くてわかんなかったけど、私が撃たれたのと同じ左肩みたい。
その傷だけは手当てされてるみたいだけど、服は血で汚れたり擦り切れたり、とにかくぼろぼろで。その服以上に傷だらけの顔が、私を見つけるとにたっていうしかないみたいな、気持ち悪い笑みを浮かべた。
『ちびちゃん。こいつがなに言ってるのか、通訳しておくれよ』
『はい』
ドアにいちばん近いところに立ったけむりさんの背筋はいつも通りぴんと伸びてて、その手は腰に下げた剣にかけられてる。
緊張感っていうのか、さっきって言えばいいのかよくわからないけど。
でも、そのぴりぴりとした雰囲気を感じさせないくらい、気軽に話しかけてきた。
返事はしたけど、この人がまともにしゃべるなんてちっとも思えない。
「官姓名を」
「答えるとでも思うか、馬鹿め」
ほら、やっぱり。
こんな重い空気の中で、あんな怖い眼をした父さんに睨まれても、その人は人を小ばかにしたみたいな態度を崩さなかった。
「素直に答えた方が身のためだと思うがな。まぁ、いい」
そんなこと、父さんも百も承知だったみたいで、表情一つ動かさない。
「なんの目的があって、どうやってここに来た」
「そこの娘を始末するためだ。わかりきった事を聞くのは愚かだぞ」
「その愚か者にとらわれているお前はなんだ」
一歩、二歩。
父さんがその人に近づく。
両手はポケットの中に突っ込んだまま。だけど、ぎゅぎゅって皮がこすれる音がして、それはきっとぐーを握りしめる音なんだってなんとなくわかった。
感情を失ったみたいに冷たい眼が、その人を見下ろしてる。
なにが面白いのかけひけひと笑ったその人は、父さんを相手にしても仕方ないって思ったのか、今度は私の方を向いてぺろって唇を舌でなめた。
「その娘を殺せなかったのは惜しいところだが、デアルタを殺せたのは幸運だった」
「……っ!」
椅子から立ち上がろうとしたけど、カレカとテアが私の肩を抑える。
こんな奴、許しておいちゃいけないのに!
でも、カレカは私の方を見ると首を軽く振った。
その間もその人はしゃべり続けてて。
甲高い声で、なんだか馬鹿にするみたいな態度はすごく不愉快で。だけど、その場にいる皆は熱のこもらない目でその人を見てるだけ。
「今頃、中央がデアルタの代官を差し向けてる頃だろうよ。そうなればおれも無罪放免。一転お前らが反逆者になるって筋書きだ」
早口でまくし立てて、勝ち誇ったみたいに口元に笑みを浮かべる。
ところどころ腫れあがって、うまく笑えてないみたいだけど。
どうしてこんな人におしゃべりさせとくの?
許せない!
許せない人なのに!
この人がいる、この空間の空気を吸ってるのがすごく嫌で、気持ち悪くて。
なによりお腹の中で蛇みたいにとぐろを巻いたどす黒いなにかが、首をもたげて私の頭の中を熱くする。
「お前はそれを本気で言ってるのか?これだけの目撃者がいるというのに……」
甲高いおしゃべりと、しゃべり終わった後の笑い声が止まってすっと一瞬静かになった。
その沈黙を切り裂くみたいに冷たい声でハセンさんが問いかける。
「後ろに、黒を白に出来るようなお人がついてるからな」
「教会か……」
黒を白に出来る人?
教会?
教会の人がなんでそんな事できるの?
なにがなんだかわからなくて、この場所でたった一人。
教会に関係があるテアの方をちらっと見ると、それに気づいたのかテアはちょっぴり困ったみたいに笑ってた。
「そうだ!今頃、先行したヴィダ司教が一連の報告を持って帝都に戻っているはずだ。そうなれば、反逆者はお前たちって事にな……」
「ヴィダ司教は死にましたよ」
得意げに話すその人のおしゃべり。
でも、言い終わらせない内に、テアはそう言い切った。
「な。に?」
「随伴してきた連中に撃たれました」
驚くその人にかまわず、淡々と話し続けるテアの言葉に、それまでの余裕が嘘みたいに消えて、少しずつ顔色が悪くなってく。
「ヴィダ司教は一連の騒動の最初の犠牲者です」
「う、嘘だ!なんだそれは。なんの冗談だ?」
「お前に冗談を言ってどうなる」
私の位置からは背中しか見えないけど。
でもきっと、デアルタさんと同じくらい。もしかしたら、もっと人の悪そうな顔をしてるんだろうなって、手に取るみたいにわかる嫌な穏やかさでハセンさんは笑ってた。
「この男にはもうなんの価値もない。連れていけ」
父さんがそう言うと、カレカは扉の外に出て行って。それから少ししたら、兵隊さん三人と一緒に戻ってきて、その人は連れて行かれて。許してくれとか殺さないでとか。
そんな風に何度も繰り返して、でも、その声にこたえる人なんか誰もいなくて。
それで、その人の声が聞こえなくなると、部屋の中にまた沈黙が戻ってきた。
かちこちと時計の音だけが聞こえて、耳が痛くなるくらいの沈黙。
『それで、どうするんだね?戦の準備が必要かい?』
そんな沈黙を破ったのはけむりさんだった。
ここで話された事は、訳して聞いてもらったけど、その時は聞いてるだけでなにも言わなくて。
ようやく口を開いたらこんな感じで、ちっとも意味がわかんない。
「トレ、けむり殿はなんと?」
「どうするんだ?って。戦争になるのか?、って言ってます」
「どうする……か」
父さんは口の中で繰り返して、ちらっとハセンさんを見た。
デアルタさんがいなくなっちゃった今。臨時の責任者って、きっと父さんなんだろうなって思うんだけど。
でも、けむりさんはクリーネ王国の王様の代理でハセンさんは皇帝陛下の弟さんで。だから、ここで話す事って、もう国同士の話って事になっちゃうんじゃないかな。
「おれはこの地域の事をほとんど知らない。ファルカ。君が決めろ。必要なら、デアルタに代わっておれが責任を負う」
「ありがとうございます」
軽くお辞儀をすると父さんは、今度はけむりさんと向き合う。
「トレ、翻訳を」
「はい」
わからない言葉があったらいけないから、四十万さんからもらった手帳を開く。
るいゆさんと一緒に、このお屋敷で作ったお手製の辞書。
思い浮かべた言葉が書いてあるページが自動的に開く魔法の手帳の検索機能と辞書はすごく相性がいいんだけど、ちょっと重くて。そんな重みのある手帳を膝の上に載せて、父さんの言葉に集中する。
「今回の捕虜返還は予定通り行う。だが、次期司令が来るまでに、迅速に行う必要がある。けむり殿には申し訳ないが、今回は捕虜を連れてこのままご帰国願いたい」
出来るだけおかしな言葉にならない様に、父さんの言葉を訳してく。
けむりさんは、それをただ黙って聞いてくれた。
『わかった。この状況でも、虜囚の返還をあきらめない貴君に感謝を』
けむりさんが父さんに返す言葉は簡潔で、難しい言葉はほとんどなかったけど。
それでも、注意して訳す。
『だがね。あたしがききたいのは、このちびちゃんの事だよ』
『え?トレの事、ですか?』
びっくりして、なんか変に高い声が出ちゃった。
部屋にいる皆が私の事見てる。
「トレ。翻訳を……」
「あ、はい。あの、トレはどうするのかって、言ってます」
こんな時に、私の事なの?
どういう事?
『必要なら、こっちで面倒見るよ。その方が安全だろう。なんなら、そこの若いのも一緒に来ればいい』
にまにまとなんだか気持ち良く無い笑みを顔にはりつけて、けむりさんが笑ってて。
こんな話、父さんにしたくないんだけど。でも、父さんの眼はそれを強く促してくる。
だから、仕方なくけむりさんの言葉を訳したら、今度はすぐ前にいたハセンさんがけむりさんのことをきろっとにらんだ。
「ご厚意はありがたいが、トレは私が後見する。ジレの家と我が一族が守る」
「え?いえ、あの。きいてません」
毅然と言うハセンさん。
だけど、私は忘れてない。
初対面の私のお尻を鷲掴みしたんだよ。
そんな事した人のお家のお世話になっかなりたくない!
出来るだけ遠くにいたいくらいのその人が、どんなに格好よく言ってくれたって、全然嬉しくないから!
「そんな嫌そうな顔をするな」
「嫌そうなんじゃなくて、嫌なんです」
「トレ、やめなさい」
ほんとのこと言っただけなのに、父さんに怒られちゃった。
なんだよ、もう!
「だって、父様。この人、トレのお尻触ったんですよ!気持ち悪いです」
「……殿下」
さっきまで大真面目な顔してた父さんも、なんだかものすごく嫌そうな顔になって。それと、私の左右にいたカレカとテアが、なんて言ったらいいのか。
ものすごく剣呑な雰囲気になって。
カレカの手元からぼきぼきって音が……。
別にお尻なんか減るもんじゃないから、そんなに怒る事ないんだよ?
「いや、その。すまん。二度としない」
「「「ほんとですか?」」」
「デアルタに誓う」
男の人三人に凄まれて、ハセンさんはあっさり謝る。
この人、ほんとに偉い人なのかな?
ときどきだけど、ものすごく威厳がない。
大体、お尻揉まないって誓われるデアルタさんの気持ちはどうなんだろ。
生きてたら、絶対、あの皮肉っぽい笑顔を張り付けて笑うに決まってる。
『ちびちゃん、なんの話だね?』
『あの、なんていうか……』
「トレ、訳さなくていいぞ」
……ですよね。
こういうの、なんていうんだっけ?
国辱、だっけ?
「ともかく」
なんだか変な風に緩んじゃった空気をもう一回締め直すみたいに、父さんが大きな声を出した。
「トレ。帝都に行くか、クリーネ王国に行くか。それはお前が決めなさい。今決めなくていい。家に帰って、トルキアとよく相談するんだ」
明らかに小さくなったハセンさんと対照的に、堂々と話す父さんはすごく格好いい。
「それから、ビッテ従士。貴様は、トレ・アーデに随伴しろ」
「そんなの、おれ、きいてないです!」
「今言った」
それから、カレカに言って。ぎーって睨みつけた。
お仕事でカレカを部下として扱う時の、ちょっと厳しい目。
「復唱を」
「……滅茶苦茶じゃないですか!」
「復唱を!」
「これから南部でも人が必要になるはずだ!あっちの国とのやりとりのためにも、湖の海図をひける人間が……」
「復唱を!!」
「……カレカ・ビッテ従士、トレ・アーデの護衛を拝命します」
私と一緒に行くの、そんなに嫌なの?って思っちゃうくらい抗弁したカレカは、だけど最後はぽきっと折れちゃった。
ちょっぴり格好悪いけど、一緒に来てくれるなら、やっぱり嬉しい。
「トレを頼む」
「わかりました」
口調こそ命令みたいだけど、父さんは敬礼とかじゃなくて、腰を折ってカレカにお辞儀する。
なんか、変な感じ。
家族と一緒に遠くに行くのなんて、全然特別な事じゃないのに……。
「それから、君は……」
「ぼくは今日あった事をクレアラ様とマレ僧正に話します。判断はあの人達次第ですけど、協力できると思いますよ」
「すまないな」
父さんはテアにも頭を下げた。
きっと、なにを話してるかなんてわかってないはずなのに、けむりさんはにこにこ私達の事見てて。それから、私の頭をぽんぽんって軽く叩く。
『じゃあ、またしばらくのお別れだね』
『はい。けむりさんもお元気で!』
どうしたらいいのか、まだよくわからない。
だけど、泣かないで。
ちゃんと前を見て進むんだ。
いつかデアルタさんに会う時、恥ずかしくないように。
今回は、戦いの後、少し落ち着いたエピソードをお届けしました。
長かったから分割したはずなのに、それでもやっぱり長くて。もう一回分割しちゃおうか悩んだんですけど、そのままに。
書いた時の勢いとか、そういうのも大事にしていきたいなって思ったりしてます。
……でも、長い。
とりあえず、物語は次回で一段落。
その後は一週間お休みして、帝都でのお話を書き進めていきたいと思っています。
次回更新は2013/10/03(木)7時頃、旅立つ日のエピソードを予定しています。




