42.秘密の話を出来るかな
生まれてから九回目の冬。
窓の外では湖に吹き下ろす風に雪がくるくると踊ってる。
温くなってきた部屋の空気にぼんやりする頭をぷるぷるって振って、ちょっとだけ窓を開けた。
いつだったか、勉強するときは頭を冷やして足を温めなさいって言われたし。ちょっと寒くても換気しないと、ね。
明けた窓の向こうから冷たい空気と雪がふわっと舞いこんできて、ランプの明かりに照らされた雪はすごく綺麗だけど、すぐに消えてく。
秋口から始めた翻訳作業は実を言うとあんまりはかどってない。
いくら収容所が近いっていっても、南部の雪はものすごく深くて。暗くなってから歩き回るのは危ない。
だから、どう訳していいのかわからないところをどぅえとさんに相談したくても、聞きに行けるのは昼間だけ。けど、学校のある日は収容所に行けなくて。休みの日も作業をしてる。
そういうの、別に辛い訳じゃない。
戦争を終わらせるって誓った言葉に少しずつ近づいてるんだって思えばどうってことないんだけど。それでも、ちょっと疲れたかなあ……。
父さんは無理をするなって言ってくれてるけど。でも、そうは言いながら、リビングで作業してるとどれくらい進んだのかとか、そういう事を聞いてくる。
頑張ってるのに心配されるのはうっとうしくって、いらいら。
お仕事で任されてるんだし聞かれて当然なのかもって思うんだけど、父さんにじっと見られたりするのが嫌で、リビングで作業できなくなっちゃった。
難しい言い回しの言葉とか、父さんにきいた方がいい事もあるのかもしれないけど。どうしても落ち着かなくて、部屋にこもってる感じ。
リビングに私もカレカもいない日は父さん母さんも静か。
外の音も雪に吸われちゃうのか、木の枝が揺れるさわさわした音とか、そういう小さな音も聞こえない。
そんな静かな部屋にノックの音が飛び込んで、その後、母さんの声がした。
「トレ、開けてもいい?」
「あ、はい。どうぞ」
ドアを開けた母さんはカップをの二個乗せたトレーを持ってて、そのカップからはふんわり甘い香りが漂ってくる。
窓から吹き込んでくる風に負けないくらい強い香り。
お茶の時間に母さんがよく煎れてくれるカモミールよりもずっと濃くて強い甘い香り。
ココアかな?
「寒くないの?」
「暖かいとちょっとぼんやりしちゃって……」
母さんに言われて窓を閉じる。
外の空気はすごく冷たい。でも、部屋の温度と混ざり合ってるから寒いっていうほどじゃなくて、頭をはっきりさせてくれる感じ。
それでも窓を閉じたのは、南部ではなかなか手に入らないココアの香りがちょっともったいなかったから。
貧乏性なのかも。
翻訳を始めるまで。というより、母さんと生理の話をするまでは、晩御飯の後、リビングでお茶を楽しむのはいつもの事で。でも、今はなんとなく父さんやカレカのいるリビングってなんだか居づらい。
だから、こんな風に母さんがときどき持ってきてくれるお茶の差し入れはちょっぴり楽しみ。
「進んでる?」
「少しずつ。雪が降り始めてからはゆっくりです」
「そう」
ずずって音を立ててココアを一啜り。
甘さが口の中に広がってほろ苦さと香りがふんわりお腹の中から上ってくる。
「学校はどう?」
「楽しい、ですよ。エウレとも仲良くしてますし、ホノマくんもよくしてくれます」
「そっか。それじゃあ安心かな」
母さんが口を閉じると部屋の中に沈黙が戻ってきた。それはちょっぴり重たくて、私の口を重くする。
ほんとは学校、あんまり楽しくない。
いじめみたいなのはまだ続いてるし、クラスで話してくれる子なんてほとんどいない。
それでも楽しいって言ったのは、もう、明確に強がり。変な話して、心配かけたりしたくないもん。
うまく強がれてるのかよくわかんないけど。
それでもベッドに腰掛けて、カップを包むように持った母さんは私の言葉に口を挟まずに、カップの中を見て、柔らかく微笑んでくれてた。
そのせいで部屋の沈黙は、ちょっぴりだけ重量を増やしちゃったけどね。
「トレはすごく頑張ってて偉いね。でも、頑張りすぎてるんじゃないかって、少しだけ心配なの。ファルカも口には出さないけどね」
そんな沈黙の中、母さんが投げてきたのはそんな言葉。
大丈夫だって答えていいのか。それとも弱音を吐いていいのか。どうしていいのかよくわかんない。
心配いらないよって伝えたいけど、どう話せばいいのかな。
カップの中のココアはミルクたっぷりで、混ざりきらないミルクとチョコレートが少しうねるみたいな模様を描いてて。その小さな水面は赤みを帯びた茶色の方が多くて、その隙間に少しずつの白がある。
前世の記憶は四十万さんから手帳をもらった頃よりずいぶん薄くなって、意識しなければわからないくらい。それなのに時々ぽこんと浮かび上がるみたいに表に出てきて、私を迷わせる。
身体は九歳の子供。でも、前世で十六年生きてきた記憶と今生の意識があって、全部で二十云年生きた感覚が甘えたり頼ったりをへたくそにしてるのかもしれない。
今だって、母さんがかけてくれた言葉にすぐ答えられなかった。
「ありがとう」って一言だけでもいいはずなのに。
答えられないで、少し口をもごもごして。きっとすごく変な子に見えたんじゃないかって思うけど、母さんは柔らかく笑ってるだけ。
「とにかく、無理しないのよ」
「はい、母様」
母さんの目に私はどう見えてるんだろう。
ちょっと真面目に疑問で、母さんの事をじっと見る。
少し吊り上った。でも、生まれて、おっぱいもらってた頃に比べたら目元に少ししわが出てきた目元。
年齢を感じさせるんじゃなく、笑いしわみたいで表情を柔らかくしてる。
その柔らかい目元を、でも、なんだか楽しそうに緩ませた母さんは
「それで、エウレちゃんと月の物の話はしたの?」
「ぇう、あ、あの。……しました、ちゃんと」
なんて。
そう。エウレとはちゃんと話をした。
話したんだけど、ね。
母さんから整理に話を聞いてから幾日も過ぎてない日の放課後。
いつもと同じように私とエウレ。それからテアの三人で、決闘の木の下に集まって、でも、その日はエウレと生理の話をするって決めてたから
「テアは少し離れててください。女の子同士で大事な話がありますから」
なんて言って、ちょっと離れてもらった。
いつも通り「そう?」って、ちょっと悟ったみたいな口ぶりで返事をしたテアは
「じゃあ、ぐるっと庭の掃除をしてくるね」
ほうきをくるくるっと器用に回して持ち直すと、ふてふてと軽い足取りで離れてく。
その背中を見送って、エウレに向き直った私は
「今日は大事な話があるの」
「へぅ?」
なんて、ものすごい大上段に切り出してた。
今思うと、どんだけ緊張してんのって感じだけど。緊張なんかさ。
するでしょ!
勢い込んでへんてこだっただろう私の言葉に、紅茶色の毛皮に覆われた狼みたいに大きい耳をピコって動かしたエウレはすごく可愛くて、撫でまわしたい感じだったんだけど。それは、お腹に力を入れて我慢。
そして……。
「だから、下着が汚れたりするのも赤ちゃんを産めるように準備をしてるからなんだって」
「そ、そうなの?」
母さんから教えてもらった話をエウレに伝えてく。
少し前、生理の話を聞いた時とは少し違うくすぐったい感じがお腹の中をくるくるっと撫でてく感じは、きっと男の子だった時の記憶が変なところに引っかかってるせい。
たぶんね。
そんなくすぐったさのせいで、顔が引き連れるみたいな変な感じになってる。
にやけちゃったりしてないかな?
そんな心配をしながら話す私の目を、それでもしっかり見てくるエウレの視線が恥ずかしくて、なんとなく目をそらした。
真面目な話をしてるはずで。こういうのよくないってわかってるんだけど、なんか駄目だった。
「それっていつごろ始まるのかなあ」
「あ。えと」
完全に挙動不審になってる私に気づいてるのかそうじゃないのか、エウレは疑問を口にする。
そりゃそうだよね。
いつ来るかが一番の心配事だもん。
「おっぱいが膨らみ始めてから一年くらいで来る人が多いみたいですよ」
「そっか」
うつむいて少し下がったままの視界の中で、エウレが自分の胸の辺りをごそごそするのが見える。
左右合わせの青い教会服は押さえつけるみたいな仕立てだし。そもそもエウレの今のサイズだと触ってもわかんないんじゃないかな?
って、私、余計なこと考えてる!
「じゃあ、あたしはまだまだだね。トレは……」
視線に敏感な方じゃないんだろうなって思ってたけど、エウレの視線が私の胸に――っていうか、おっぱいにちくっと刺さってるのがなんとなくわかった。
教会服みたいに押さえつけるデザインじゃないけど、ビロードの少し重い生地で作られたインバネスを少し硬い生地のブラウスの上から着てる。
服の上から見たってわかる訳ないって思うんだけど
「もうすぐかな?」
エウレはそんな風に言ってくくっと笑った。
最近、自分でもおっぱいが少し目立つようになってきた気がして、それが恥ずかしくて。だから、冬服で厚みのある服を着て目立たないようなにしてるつもりだったのに、それでもエウレにはお見通しみたい。
なんかもう、ほっぺが燃えそう!
「トレはちゅーも経験済みだし、もう大人だもんね」
「っそ、その話、やめて!」
なるべく思い出さないようにしてきたのに、そんな事言うな!
いよいよほっぺの熱さは限界で、それなのにさ。
「二人とも、そろそろ終わった?」
なんて、私が知ってる男の人の中では少し高いテアの声に、心臓がびくってなった。
こういうタイミングで張本人が戻ってきちゃうとか、なんなの!?
お掃除しに行っただけだから、その内戻ってくるって知ってたけどさ!
けどさ!
少し目もとにかかるくらいの長さの髪はからすの羽みたいに真っ黒で、その隙間からきろっとこっちを見る真っ赤な瞳。形のいい唇は少しかさついてて、でも柔らかかったな。
って、なんで過去形だ!?
……いや、思い出してるんだから過去形なんだけど。
テアの声を聴いただけで、立ち姿を見ただけであの時の感じが唇に戻ってきて、恥ずかしさで心臓どうにかなって死んじゃったりしないのかなってくらい、心臓のどきどきが早くなってく。
「うん、終わったよ。テアはお掃除終わった?」
「全部やったらエウレに悪いかと思って、ちょっと残しといたよ」
「えー」
そんなやりとりしながら私とエウレが座ってるベンチに近づいてきたテアは、ためらう様子なんかなんにもなく私とエウレの間に座っちゃった。
近いっつうの!
「エウレばっかりトレと二人っきりで話してて、ちょっとうらやましかったから。ね」
「あー」
「あー」じゃないからね、エウレ。
いろんなことに抗議したくて、なにか言わなきゃって口をぱくぱく。でも、言葉がちっとも出てこない。
私の方をちらちらって見てて、私が困ってるって絶対わかってるはずのエウレは、それなのにすっと立ち上がって
「じゃあ、掃除は交代。あたし、テアのやり残し片付けてくるね!」
だって。
「ちょ、ちょっと待ってください!エウレ、あの……」
ばちっと器用にウィンクするとか、全然いらないから!
私がテアと二人になるの知ってるくせして、見捨てたな!……なんて心の中でぎりぎり歯ぎしり。
すぐ隣に座られたせいで、息遣いとか体温とか、そんなのが空気を伝わってじんわり伝わってくる。
もうやだ!
どっかに消えちゃいたい!
そんな風に思ってるの、テアは全然気づいてないんだろうな。
「二人でなんの話してたの?」
「秘密です」
っていうか「生理の話です」とか言えない。
女の子の内緒話に首突っ込むと長生きできないんだぞ!
なんて思うけど、でも、なんだか意地悪な答えだなあ。感じ悪いって言うかなんていうか。
それでも、テアはなんだか穏やかに笑ったまま。
なんでそんなに、余裕があるんだろ?
そういう大人びた感じって、二歳くらい年が離れたからって身につくもんなのかな。きっと、そういうもんじゃないよね。
前世に身に着けてきたんだろうなって思うけど、だとしたら、テアって前世ではどんな人だったんだろ?
きいたら教えてくれるかな。
「あの。テアって、前世どんな人だったんですか?」
「どうしたの。急に」
「いえ。その……。テアってなんだか大人っぽいじゃないですか。時々、どんな風に接していいかわからなくなっちゃって」
心の中にある気持ちを切り出して形を整えて、ようやく言葉にした私をテアはふふんって笑う。
そういう、なんだろう。
余裕みたいのが、私の気持ちをきゅーってするってわかんないのかな。
「ぼくに興味出てきた?」
「そういうんじゃないです!」
がー!
近づいてくんな!
肩に手を置くとか、ふざけんな!
触られんの怖いんだからな!
そういう近づき方。ちゅーされた時の事思い出すから、ほんとやめて!
ってか、やめろ。馬鹿!
「そういう事するテア、嫌いです!」
「そ?」
近づいてくるテアの横っ腹あたりを肘で邪魔して、方に置かれた手をぎゅーってつねりながら。もう、緊張とか恥ずかしさでちょっとぜーぜーなる喉の奥から拒絶の言葉を絞り出したのに、テアはなんだかにこにこしてる。
気持ち悪い!
「なんでにこにこしてるんですか?」
「嫌いでもなんでも。無関心よりはましだから。……ね」
いつか好きになるかもって事!?
そういうのないから。
母さんとした生理の話だって、それをエウレに伝えるのだって十分恥ずかしかったはずだけど。それ以上に、テアと話したのを思い出すと恥ずかしくて、そのせいでココアの熱とは関係なくほっぺが熱くなる。
心の中がかき回されて、ぐずぐずになっちゃう。
思い出し笑いとかよく言うけど、思い出し恥ずかしでどんどんほっぺが熱くなって
「トレ、ほっぺ真っ赤よ。大丈夫なの?」
「ぅあ、えと。だいじょぶです」
母さんに心配かけるのなんてほんとはやなんだけど、恥ずかしい事思い出してたとか言えなかった。
「ココア飲み終わったら、今日はもう寝なさい」
肺炎――この世界ではかかるとほとんど死んじゃうって病気をしたこともあるし、おでこくっつけて熱を見てもらうのとかすごく久しぶりで、母さんとくっついてても変じゃない距離感は嬉しかったけど。
これ。ほんとに熱とかじゃないよ。
今回は、主人公がふわっと自分の事を見つめなおすエピソードをお届けしました。
本当はいじめっ子と和解するエピソードをお届けする予定でいたんですが、果たせませんでした。
夏休みではしゃぐ子供たちの夜更かしが、思ってる以上の難敵に……。
次回更新は2013/08/08(木)7時頃、今度こそいじめっ子と和解するエピソードを予定しています。
……が、子供の夏休みもあって、ちょっとばたばたしてます。
更新日が前後するかもしれません。
里帰りイベントが発生する可能性もあります。




