11.遠くに行くなんて悲しすぎます
めそめそしすぎって思うときがあります
生まれてから六回目の秋。
まだまだ雪の気配のない、でも少し寒い夜の事。
キッチンの中で一番オーブンから遠い棚から、取り出されてテーブルの上に次々と並べられていくビン。
中には色とりどりの野菜――夏ごろから漬け込み始めたピクルスが入ってる。
その中にいくつか、私の名前の書いてあるのがあって、それを母さんが選り分けていく。
「さぁ、味見をしましょう!」
「はい!」
雨が少なかった夏が過ぎて、そろそろ冬籠りの準備が本格的になってくる時期。 帝都で旱魃が問題になっていて、物資の移動について忙しい父さんはあまり家に帰ってこない。
なので、母さんと二人だけの夕食の後、ピクルスの試食と相成りました。
今年の春からお料理のお手伝いを始めて、作り方を教えてもらって、夏から漬け込み始めたピクルスがそろそろ食べ頃なんだ。
どうせなら一番自信があるのがいいよね……ということで
「かーさま、これにします。これ!」
「ん。トマトのオイル漬けね」
私が指差したのは私が指差したのはしわしわの赤い果実 ――乾燥させたトマトを塩とオリーブオイルといくつかのスパイスを入れて漬け込んだもの。
去年、母さんが作ってくれたのが本当に美味しくて、惚れ込んでるトマトのオリーブオイル漬け。
ベーコンと玉ねぎと一緒に炒めても美味しいし、母さんが焼いてくれる甘酸っぱい黒パンにもよく合うんだ。
「じゃあ、開封っと」
母さんはちょっと力を入れてコルクのふたをぱこっとぬくと、フォークでひょいっと一個取り出して私の手に置いてくれた。
じゃあさっそく、はむっと食べてみる。
……あれ?
「んー。 あんまり美味しくないです」
「あら、そう?」
母さんも、はむ。
「んー。 確かにあんまり……」
分量も漬けこみ期間も母さんに教えてもらった通りなのに、どうしてこんなに味が違うんだろう?
なんていうか、去年のと違って水分がひどく飛んでて、ものすごく油っぽい気がする。
「去年は日照りでトマトの出来がすごくよかったから美味しかったのかもしれないわね」
「日照りだとトマトが美味しくなるんですか?」
「村のブドウもそうだったでしょ。 日照りに不作なしっていうのよ」
言われて手帳を見てみると、去年はトマトの出来が良くて、しかもたくさん採れたから値段も安かったって書いてあった。
「でも、今年も日照りだったんじゃないんですか?」
去年も今年も私には少し涼しいくらいだけど、今年もエアーデ先生が暑い暑いって騒いでたから、そうなんだと思う。
鉄道の運行も非常時態勢になったって父さんが話してて、そのせいか今年は帝都から避暑で来る子もいなかったくらい。 って、旱魃大変なのかな。
「なにごとも適度なら ……って事なのよ」
「そうなんですか」
「トレも畑に出ればわかるわよ」
お裁縫、お料理の次は畑なんだね。
なんだか母さんの書いた通りの道を歩いてる気がするけど、いいのかなあ。
「まぁ、不出来なのも全部トレが作ったって言えば、ファルカとカレカが食べてくれるでしょ」
私よりも思うままにされてる人がいることは、なんとなくわかりました。
冬が近づいてくるにつれて、元から元気のないこの世界の太陽はどんどんしょぼくれていく。
光と影の境目があいまいになった教室は、だけどボイラーの熱を利用した暖房で温められて、ぼんやりと眠気を誘う。
そんな教室の中、どんどん重たくなる眠気を、冷たくなった手をほっぺに当てたりして、私はなんとかしのいでる。
机の上に開かれているのは神学の本――といっても、子供向けに書かれた絵本みたいなものなんだけど、そこには三人の神様が描かれてる。
きれいで荘厳に描かれた。でも、その精緻な絵の中で、でも三人の眼はそれぞれお互いを見ようとしていない。
少し寂しそうな眼をした神様達。
そんな顔をしているのは多分、この絵の間に書かれているお話のせい。
『トレブリカには三人の神様がいた。
大地を作った男神トレブリア。
天空を支える女神アマレ。
二人の息子で人間を作ったアトリア。
大地に人があふれ空の恵みが大地に降り注ぐ楽園だったトレブリカ。
だが、その楽園の絶頂に思い上がった人間は、男神トレブリアから大地の支配を奪おうと戦いを挑んだ。
神殺しの槍を手に戦ったのはオーシニア王。
王と神の戦いは熾烈を極め、王は死に神は大地に溶けてしまった。
天を支える女神アマレの涙は大地に降り注ぎ、その嘆きは空を曇らせた。
アトリアの悔悟は大地を覆い、大地より実りを奪い、人の子が産まれるのを阻むようになった。
オーシニア王の治めていた国は特に強い呪いを受け、産まれる子供は全て魔性に犯された。
天地全てに呪いは満ちたが、慈悲深い男神トレブリアはその身の溶けた大地から人々を祝福し、わずかながらの実りを顕し給う。
トレブリアはその身を以て、今も人を祝福し続けているのだ。』
これはトレブリア教会が、その神様を敬う理由を広めるために広めているお話。
家族を奪われたら神様だって悲しいって事はわかる。 この中の誰か ――多分、女神アマレかその息子のアトリアが、私の魂を買って、この世界に転生させたんだっていう事もなんとなく覚えてる。
でも、どうしてこの二人が争うのかな?
お話を読む限り、神様が憎んでいるのは人間で、二人が喧嘩をする理由がよくわからない。
その理由を知っている人がいれば聞いてみたいな。 って思いながら、私は教科書から視線を上げる。
その理由を知っているとしたら、同じ勇者候補の誰か。 私にとって一番身近なのは、春まで一緒に勉強してたやっぱり勇者候補のテアだけど。 でも、今は教室にいない。
六歳になったテアは幼年学校を卒業したからね。
といっても、放課後お庭で会ったりするし、ちっとも会えない訳でもない。 というか、あの決闘があってから、前よりもべたべたされてる感じがするくらいなんだけど。
そんなテアも、全部を知ってる訳じゃないって思う。
そして、私が知っている勇者候補といえばこの人。
「あの、クレアラさん?」
教壇に腰掛け、こっくりこっくりと舟をこいでいる先生 ――を自称してるけど、真面目に授業をしてくれないその人に呼びかける。
「ん?ああ、トレ」
蜂蜜色の髪の間からエメラルドみたいに輝く緑色の瞳が、なにかを探すみたいに一瞬どこかをさまよって数拍。ようやく私の方を見る。
「ごめんね、ちょっと寝てた」
ちょっとじゃないよ、ずっとだよ!
って思うけど、とりあえず言葉は飲み込む。
すっと通った鼻筋。 とがった顎。
形のいい唇がちょっぴり吊上がって、言い訳みたいに笑顔を作った。
十人いたら十人が格好いいって答えると思うこの人は、きっと正解を知ってる。
「あの、最初のページ、読み終わりました」
「あ、あぁ。 そっか……トレ、ぼくが寝ている間、ずーっとそのページ読んでたの?」
「最初のページを読んでねって、クレアラさんが言ったんですよね?」
おかしい事なんかしてないよ?
ずっとこのページを眺めてるって、ちょっと変だなあって思ったけど。 真面目に読んでたんだから。
なのに、クレアラさんは口元を押さえながら、くつくつと。 でも、その内我慢できなくなったみたいに笑い出した。
「トレは、なんていうか、生真面目だよね。 テアなら勝手に他のことを始めるか起こすかするのに ……あー、おかしい」
そんなにおかしい!?
おかしくないでしょって言おうと思ったのに、時の鐘が授業の終わりを告げる。
「授業はおしまい、だね」
クレアラさんは教壇の上でぐいーっと伸びをした。
着崩した赤と白の教会服から覗く胸元から漂う色気と、ぼきぼきばきばきと関節が鳴る色気のなさ。 それに十七~八歳のあどけなさみたいなものが同居するクレアラさんはふわっと笑う。
開かれたままの教科書と私を見ながらクレアラさんは、にまにまと笑いながら
「顔真っ赤にして、可愛いね。 トレは」
その綺麗な顔で、人の顔じーっと見てそういうこと急にいうところ嫌い!
でも、いつもこんな感じで聞きたいことをはぐらかされてる気は、するんだ。
クレアラさんがなにを思ってるのかも、私にはよくわからないんだ。
元気がない上に、この季節の太陽は少し早めにお仕事を終わりにしてしまう。
給食が終わって、放課後少しぼんやりする頃には、低くなった日差しが色々なものを黄色く染める。
決闘の木――って、私とエウレが勝手に呼んでるだけだけど、お庭の隅っこにある楓の木の下で紅茶色の髪をふわっとなびかせながらくるくる踊るエウレを、ベンチに座ってぼんやり眺める私。
エウレはやっぱり可愛い!
って思いながら、多分にやにやしている私の隣に、ほうきを持った青い教会服の男の子がふわっと座る。
「こんにちは、トレ」
って笑いかけてくれたのは、テア。 なんだけど。
なんていうか、近い!
座る位置が近いんですよ!
「テアさん ……もうちょっと離れて座ってください」
あわあわと、お尻をずらしてちょっと距離をとる。
夕日で少し赤みを帯びた頬にかかる黒くて細い髪。
光の加減で赤みを増したルビーみたいな瞳が驚くほどそばにあった。
そのせいでちょっとどぎまぎして俯くと、今度は青い教会服の裾には黄色や赤の葉っぱがついて、そこから覗くくるぶしの白さが ……っていう、なんて言ったらいいのか、六歳そこそこらしからぬ色気は、ちょっとなしだって思う。
「そんなに慌てなくてもいいのに、未来の旦那様だよ」
「誰がですか!」
私が責めると、テアはふと笑う。
でも、クレアラさんに比べたらずーっと身近な勇者候補だからね。
授業中にクレアラさんに聞けなかったことをきいとこう。
「テアさんは、誰に魂を買われたのか知っていますか?」
「んー。ぼくも詳しくは」
仲間だって言ってたのに、やっぱりクレアラさんはテアにもそういう話をしてないんだ。
そんな事もわからないで代理戦争とかなんだとか、そんな事できるのかな?
自分がなにをしたらいいのかよくわからないって、すごく不安な事だと思うけど、テアの表情はすごく穏やかなんだよね。
この、大人っぽい落着きとか色気はなんなんだろう。六歳そこそこのくせにさ。
「トレはなにをしたくてこの世界に来たの?」
「親孝行のため ……だったと思います」
「そっか。 それは素敵だね」
「テアさんはどうしてこの世界に来たんですか?」
って聞くと、テアは少し目を伏せて。 それから、少し遠くを見るみたいに目を細めた。
「大事な人を守りたくてこの力を望んだはずなんだけどね。 それが誰なのかもう思い出せない」
「誰か……ですか」
勇者候補はなにか特別な能力を持っていない限り、胎内記憶が失われる頃、前世の記憶がなくなったり薄れたりしてしまう。
あの女がくれた手帳に思い出すことを書き連ね続けてるけど、私の記憶だってすごく曖昧で、ふわふわしてる。
テアの持っている剣聖Ⅱっていう、勇者候補のオプションはすごく強力――なんだろうと思うけど、実際は比較対象なんかないんだけど。 でも、そんな強い力を手に入れなきゃ守れないって思うくらい、強い気持ちだったのに忘れちゃうなんて残酷だ。
「そんな顔しないで。ぼくはこの世界で守りたいものを見つけたから」
多分難しい事を考えて、また百面相していた私にテアはにーって笑いかけてきた。
「からかわないでください!」
っていうのが精いっぱい。テアが変に色気を振りまくから、私の顔はかーって熱くなる。
「本気なんだよ。トレ」
って、なんで近づいてくるの!?
じりじり下がっていく内に、ベンチの手すりにこつんって手が当たる。
ぎゅーって目をつぶったんだけど
「二人ともなにしてるの?」
ってエウレの声がして気配がちょっぴり遠ざかったから、私はこわごわ目を開ける。
そういう急接近は怖いんだってば!
「大きくなったらお嫁さんになってねって、トレに言ってたんだ」
「ふーん。じゃあ、あたしはトレちゃんのお嫁さんになろーっと」
「ライバル出現、だね!」
なにそれ?
「それはそれとして」
ってテアは話題を区切った。
こほんって、咳払いひとつ。 ちょっとお兄さんぶってる感じが、逆に子供っぽい。というか、ようやく年相応に見えた気がする。
「トレは内校と外校どっちに進むの?」
「内校、外校 ……ですか」
カレカが行ってる外校以外に教会がやっている学校はもう一個あって、それが内校っていうのは私も知ってる。
でも、内校っていうところが具体的にどういうところなのかは全然知らなかった。
「内校は教会で働く子のための学校なんだよ」
「そうなんですか」
戸惑う私にエウレが助け舟を出してくれる。
「そそ。 ぼくも内校。エウレちゃんも内校に進むんだよね?」
「うん。 トレちゃんはどうするの?」
勇者候補のテアはともかく、まだ四歳のエウレももうその進路を決めてる。
私はどうするんだろう? って、今まで考えてもいなかったけど、この世界では小さい内に全部が決まっちゃうんだ。
そういうのは少しだけ怖い。
「まだ、よくわかりません」
そ。 って、テアはいうけど、そんなに簡単に決められないって思うんだ。
「ゆっくり考えて ……って言いたいところだけど、帝都から疎開してくる子がいるみたいで、内校の寮を割り振ったりとかクレアラ様も事務仕事が大変そうでさ。 早めに結論出してあげてね」
将来に影響しそうな選択肢が提示されたけど、どっちにも決められない私はすごく優柔不断なのかもしれない。
なんだかよくわからない内にお互いをライバル認定したエウレとテアが、小枝を使ってチャンバラを始めちゃったのを、ぼんやり眺める私の頭にぽふんと手が置かれた。
「待ったか、ちび」
「ちびって言わないでください」
あと、頭に手を置かない。 って注文したいところだけど、ぐしぐしと撫でてくれるのは気持ちがいいからそこは見逃してあげる。
「二人ともー、カレカが来たから帰ります!」
最終的に掴み合いみたいになったエウレとテアに一声かけて、私はカレカと手をつなぐ。
「トレちゃん、カレカさんとだけは手を繋ぐんだよね。 組の子ともドミナ先生とも手をつながないのに」
「そっか。 エウレちゃんにカレカさん。 ライバルが多いなあ」
ってもう、二人が変な事言ってても気にしないからね!
初めて町に来た頃は怖かった市場通りを村に戻る荷馬車が待ってる停車場まで、カレカと二人で歩く。
指が分かれてない手袋は、指と指の間にひれのあるカレカのために母さんが作った特別製で、外から触ってもほっこりあったかい。
そんなカレカの手をぎゅーって握る。
「どうした?」
「なんでもないです」
手をつないで歩くのがなんだか嬉しいっていうのは、言わない。
「変な奴」
ふんって鼻を鳴らして笑うカレカは、正面を見たままで、その横顔はちょっぴり険しい。なにか思いつめてるみたいに見えて、少し不安になる。
「あの、さっき進路の事を聞かれました」
「そっか……あー、いやいいか」
そういうの気になるよ!
カレカは私の方をちらっと見て少し口ごもった後、でもなにも言わなかった。
黙ったまま二人でてくてく歩く。 食物を売る屋台の客引さんとか、わいわいがやがやした市場通りはにぎやかなのに、私とカレカの間に降りる沈黙はちょっと重い。
そんな重たい沈黙を破ってくれたのはカレカ。
「そういえば、今日、ファルカさんいるだろ?」
「昨日帰ってきて、今日はお休みだって言ってました」
「じゃあ、今日おまえんち行くわ」
「ほんとですか?」
「あぁ」
「トレが作ったピクルスがあるんですよ」
「へぇ、出来はどうなんだよ」
「……」
「なんでうつむいてんだ、おい」
夕ご飯が楽しみ。
案の定、私の作ったトマトのオイル漬けにびみょーな顔をしたまま
「あー、美味しい ……んじゃないか?」
って父さんもカレカも二人してさ。 美味しくないのは知ってるよ。
いいけど。
そんなちょっと微妙な晩御飯の後、いつものように後片付けを手伝って、これからお茶の時間のはず ……なんだけど。
「トレはお部屋に行っててね」
って母さんは私をリビングから追い出そうとする。
なんだよー、って思うけど。 難しい話をするのかもしれないから、とりあえずお部屋に避難。 でもね。
ちょっと古い石造りのこの家は、そんなに防音がよくないから、一生懸命耳を澄ませば話し声くらい聞こえるんだよ。
「なんで、来年の春から州都の軍付属学校に通いたいと思ってるんです」
「わかった。 手続しておく」
って、カレカと父さんの抑え目な声が聞こえる。
どういうこと。
どうして私には話さないの。
私だけ置き去りに、そんな話すすめちゃうなんてひどいよ。
胸がキューってなって、震えて力が入らない足で部屋を出る。
「あの、カレカ、どこか行っちゃうんですか?」
「トレ、お部屋に戻りなさい」
って母さんは言うけど、戻りたくない。 カレカが遠くに行っちゃうって言ってるのに、どうして私はそれを聞いてちゃいけないの?
それに、私は本当に遠くに行っちゃうのか、カレカから聞きたい。
暖炉の火がちらちらと反射して、少し赤みを帯びたカレカの黒い瞳を私はじっと見る。
「おれは春から州都の学校に行こうと思ってる。 ファルカさんの紹介があれ……」
「やです!」
カレカが話し終わるよりも前に声が出た。
自分で思うよりもずっと大きな声に、私自身びっくりしながら、深く息を吸い込む。
何度だっていうんだ。 いっちゃやだって。
「トレ、やめなさい」
そんな私に対する父さんの声は冷たい。
「どうして遠くに行くんですか? 村にいればいいじゃないですか」
って、言い募る私にカレカはゆっくり、言い聞かせるみたいに
「お前もおれと同じ年になったら士官学校に行くんだろ。 いずれ離れ離れにな……」
なんて言うけど、そんなの関係ない。
「士官学校なんて行きません! 村にいます! みんなで……」
「トレ!」
大きな声に身体がびくってなって、その後、ほっぺに鋭い衝撃。 今まで父さんがこんな風に大きな声を出したことなんかなかったのに、その父さんが私の前で怒りをあらわに立ってる。
「自分の道は自分で決めるものだ、一時の感情でお前が口を出す話ではない!」
見たこともないくらい目を吊り上げた父さん。
「部屋に戻りなさい」
父さんの声は低く冷たい。
盗み聞きなんかよくないって、知ってる。
勝手な事言ってるって、私だってわかってる。 でも、家族みんなでいられるのが一番いいに決まってるのに、どうして自分から離れていこうとするの?
私は声も出さずに泣きながら、母さんに連れられて部屋に戻って。
自分でもよくわからないまま眠った。
お天気がいい日が続いているせいなのか、湖から上ってくる霧がうっすらと立ち込めて、いつも以上に寂しい道をとぼとぼ歩いて馬車の待つ停車場に向かう。
泣きはらした眼。 あと、ちょっぴり腫れた左ほっぺのまま一人きり。
いつもなら母さんと一緒に歩く道だけど、今朝は母さんと一緒に行きたくなかった。
足が重い。
停車場につくと、少しくすんだ青いコートを着込んだカレカがいた。
「よぉ」
「おはようございます」
気まずい雰囲気。
そりゃそうだよね。私だって気まずいもん。ぎこちない沈黙が私とカレカの間に降りる。
でも、御者のおじさんが
「そろそろ行くよ」
って、私たちを促す。
いつもみたいにカレカはひょいっと荷台に乗った。 いつもなら振り返って手を差し出してくれるけど、私の方をじっと見ただけ。
いいよ、もう。
もたもたと私も荷台に……乗れないんですよ、これが。
一年半たってもそんなに身長が伸びてないって事なのかな。 それとも、いつも手を引いてくれるカレカに甘えすぎてたのか。
きっとどっちもなんだけど。
(……格好悪い)
情けなくって、じんわり涙が出る。
「だああぁぁー、お前面倒くせええぇぇ!」
しょぼくれてたら、初めて町に行った日みたいに、カレカに襟首つかまれて荷台にぶん投げられちゃった。
荷台の隅っこに座った私の隣に、仏頂面のカレカが座る。
全部初めて町に行ったあの日と同じ。
でも、春が来たら手を引いてくれる人も、こんな風にひょいっと乗せてくれる人もいない。
他の誰かに手を引いてほしくなんかない。v触れてほしくなんかない。
カレカにそばにいてほしいのに。
「カレカ、どうして州都の学校に行くんですか?」
「新聞で読んだんだ。 旱魃の影響でまた戦争が広がりそうなんだって」
そんなの私には関係ないよ。
「おれはファルカさんの役に立ちたい。 困ってる時に力になってくれたトルキアさんに報いたい。 いざっていうとき、お前を守れるようになりたい」
「それは村にいたらできないんですか?」
「あぁ」
カレカは多分、私よりもずっと先を見てる。
戦争を終わらせたいって手帳に書いた私よりも、どこでなにをするべきなのか考えてる。
前世十六年間のビハインドがあったって、人間を大人にするのはやっぱり環境とか覚悟で、そういう意味で私は全然子供だった。
「四年したら卒業して帰ってこられる」
「四年も会えないなんて寂しいです」
「だか……そん……てろ」
がたがたと馬車の音ばっかり耳について、カレカの声が時々聞こえない。 「なに?」って聞きたくて、カレカの方を向いたら、思うよりカレカが近くて。
おでこに暖かい物がふれた。
「絶対帰ってくるから、待ってろ」
のぼせちゃったのか鼻血が出た。
やっぱり私は格好悪い。 でも、まだ四歳だからね。
エメラルドグリーンの瞳が私を見る。
一晩中泣いて、まだ赤く腫れぼったい目の周りと、じんじんしている左のほっぺ。 なんでもないって、そりゃあ嘘だって思うよね。私だって信じない。
でも、クレアラさんは教団の上に座って、自分の膝に頬杖をついたまま、私をじーっと見てるだけ。
「あの、お勉強……しないんですか?」
って私がきくと、クレアラさんはにーって笑った。
「トレがしたいなら」
なんて言うけど意味が分からない。
「今日は勉強の事は置いとこうか」
言いながら、クレアラさんはふわりと ――そう、本当に空気も動かないくらいふわりと教団から飛び降りて、私のすぐ後ろに立った。
その手が私の方に置かれる。 ぞわっとした恐怖。
「ご両親と進路の話をしたんじゃない?」
「してません」
……少なくとも私のは。
「でも、喧嘩はしたよね」
「だからなんですか?」
って私が言った途端、クレアラさんの顔が私の耳元まで来てた。 毛穴も見えないくらいきめ細かい肌。 でも、それはかえって作り物めいていて怖い。
「そろそろ答えを聞かせてほしいんだ。 ぼくの仲間になるのかならないのか。 君のお父さんは軍人だから、ぼくも少し焦れてきてる」
「とーさまの職業とトレが仲間になるかどうかって、関係あるんですか?」
「大ありだよ」
耳に吐息がかかるくらいの距離で、クレアラさんはふっと笑う。
「士官学校に入ってしまったら、その時点で君は国の要人だからね。 教会といえども君をどうこう出来なくなってしまう。 仲間になるかどうかはともかく、春から内校に入ってくれたら安心なんだけど、どうする?」
カレカが遠くに行ってしまうって焦っていたけど、私は私で選択を迫られてるんだ。 人生が決まっちゃうような選択なのに、考える余裕はあんまりない。
「あの。 内校に行くのと外校に行くののなにが違うのか、トレにはよくわかりません」
「本当になにも知らないんだね、トレは」
クレアラさんが話す内校と外校の違いは結構単純だった。
教会の仕事をする人になるために行くのが内校。
敷地内にある寮で暮らして、教会の人として生きていく事になる。
エウレが私の家に泊まりに来るときすごく色々な人が動き回らなくちゃいけなかったのと同じように、外に出て家族と会うのも難しくなる。
商家を継ぐとか教会以外で働く、でも少し高い教養が必要な子が行くのが外校。
お家から通えるし、教会のなにかに縛られることはない。
でも……。
「君の場合、外校に行けばいずれ必ず軍役につくことになる。 それは、戦争に行くって事だって、よく覚えておいて」
私は、どうすればいいんだろう。 戦争を終わらせたければ、その渦中に行かなくちゃいけないのかな。 でも、それはすごく怖い想像だ。
そんな話をしていたら、時の鐘が鳴って勉強の時間は終わった。
いつものように晩御飯の用意を手伝う。
今朝、一緒に行きたくないって母さんの手を払った私に、母さんはなにも言わなかった。 ただ、いつもみたいに「おかえりなさい」って言ってくれて、私も普段と同じように荷物を部屋に置いたら ――っていっても、あの大きな手帳くらいしかないけど。
そのままキッチンに入って、テーブルの上に置かれた、小さなまな板の上で野菜を切る。
「かーさま、あの」
どうにも話しづらいけど、私が話さなきゃいけない気がして、オーブンの火を調整する母さんの背中に声をかける。
「なあに」
「今日、内校と外校。どっちに進むのか決めるように言われました」
「そうなの」
きちんと火の入ったオーブンに、お芋をぽいぽいって入れた母さんは、私のすぐ隣に座って、私の目をじっと見る。
「トレはどっちにしようと思っているの?」
「よく、わからないんです」
「んー。 まだ小さいもの、カレカみたいには決められないわよ」
カレカの名前を聞くだけで、胸の真ん中がちくっとする。 人生を決めるような選択を、たった一人で考えて決めたのかな。
こんな風に母さんに話している私には、そんなことできそうもない。
「内校に行ったらとーさまにもかーさまにもあえなくなっちゃうって言われました。でも、外校に行ったら、いつかは戦争に行かなくちゃいけないって……」
「そうね」
涙が出てくるのはまな板の上のたまねぎのせい。多分。
「ファルカにも相談しましょう。ね」
今は母さんよりも話しにくい父さんが、その日家に帰ってきたのは、いつもなら私がベッドに入るくらいの時間だった。
上着を脱いで、グレーの制服姿のままの父さんは、昨日の夜よりもずっと威圧感があって、リビングの対角線に座っていても怖い。
「昨日はごめんなさい」
って私。
「いや、おれも叩いたりして悪かった」
ぎしぎしした気持ちの悪い間が私と父さんの間に横たわる。 暖炉の薪がぱちぱちと音を立てて爆ぜる。
「今日、外校と内校、どっちに行くのか聞かれたんですって」
その沈黙の間を取り持つように、キッチンからお茶を持ってきた母さんが声をかけてくれた。 ちょっぴり眠い私にはミントの。
父さんには多分タイム。
「とーさまはどっちにするべきだと思いますか?」
お茶を一啜りして……それが父さんと一緒のタイミングで、ちょっとおかしくて、ようやく笑えた私は、父さんのグレーの目をじっと見る。
「おれは軍の人間だから、士官学校に行くことも視野に入れて外校に行くべきだと思う。 でも、娘が戦争に行く事を喜ぶ親なんかいないよ」
「でも、内校に行ったら会えなくなります」
「そうだな。寂しくなる」
父さんもそう言って、私を見ながら、目をすっと細くして笑う。その笑顔は少し寂しそうだなって、私は思う。
そんな私達の様子を見た母さんは
「仲直りできたかしら? なら、そろそろ寝ましょう」
って。 じゃあ、今日はね。
「あの、今日は一緒に寝てもいいですか?」
二人のあったかさに挟まれて、こういう時を失うのは嫌だなって思う。
どこか遠くに行かなくちゃいけない決まり事なら、その時が来るまで手放したくない。
明日目が覚めたら、父さんと母さんとまだまだ一緒にいたいんだって伝えよう。
私は外校に行く。
決めたよ。
今回は主人公が小さなお別れと、自分の生きる道について手がかりをつけるところを書こうと思っていました。
お別れは悲しいですけど、折り合わなきゃいけない事なときもあります。大人になれよ、元十六歳(肉体的には四歳ですけど)。
などと。
まぁでも、私自身も相方の単身赴任とかに絶対反対の立場なので、主人公寄りのメンタルです。
いなきゃいないで気楽かもと思うところもありますけどもねー。
次回更新は2013/1/22(火)7:00頃、お母さんの“授かり物”についてのエピソードを予定しています。
いよいよ主人公も小学生に……って、おそ!




