美味しいパンの話
王都にはいくつかの大きな市場が存在する。
ブランドンが王になってから都市周辺の街道整備が進み、整備された道が出来る事によって王都の流通は格段に良くなった。流通が良くなれば、王都には自然と物が集まるようになり、経済活動も活発になる。
経済活動が良くなれば自然と色々な地方から人が集まり、人が集まればその人々の持つ文化も集まる。
そして、文化が集まれば、そこに付随して各地の料理と食材と調理法が集まり、集まった食材達が他の調理法達と幸せな融合を繰り返し、素晴らしい料理が「自由競争」の中に生み出されていく。
かくして、王都の市場を取り囲む食堂や屋台からは、涎が自然と溢れてしまうたまらなくお腹の減る香りを立ち昇らせる結果を生み出している。
アストルは市場に溢れる甘いお菓子を焼く匂いや肉を焼く香ばしい匂い、香辛料の刺激的な香りと市場の人々の威勢のいい掛け声に思わず笑顔になる。
見た事もない色鮮やかな野菜や果物、何に使うのかも判らない珍しい香辛料が並ぶ様を横目にしつつ、アストルは後ろ髪を惹かれる思いで目的の屋台へと足を急がせた。
「急がなくっちゃ、売り切れちゃうよぉ。」
口の中だけで小さく呟き、アストルは道に溢れる買い物客を避け、先へと進んでいった。
事の発端は、ジェームズに聞いた「話題のパン」の話をラウルに話した事だった。
今、街の人々の間で、野菜市場に現れるパンの屋台が評判になっていた。何でも、その屋台の南方出身である主人が作る、香辛料がたっぷり入った肉の煮込みを挟んで焼いた「焼きサンド」が大変美味しいらしい。話題のパンを求め、連日多くの人が小さな屋台に列を成しているらしい。
「侍従武官のジェームズさんも非番の日に買いに行ったそうなんですが、もう売り切れになっていて結局食べられなかったそうですよ。侍女さん達の間でも『幻のパン』なんて呼ばれてて……今のところ、王宮内では料理長のナッシュさんしか食べた人いないそうですって。ナッシュさんも味の復元を試みたそうですが、スパイスの調合が解らなくて未だに再現出来ないんですって。みんな、すっごく美味しいらしいって言ってて……私もとっても気になってるんですよ!」
熱く『幻のパン』を語るアストルの様子にラウルは笑いだす。
「何だそれ?料理長しか食べてないって事は、みんな旨いかどうかなんて本当のところは知らないんだろ?食べた事も無い、本当に旨いのか解らない様な『幻のパン』にお前は何でそんなに必死なんだよ。……お前、以外と食い意地張ってるんだな。」
ラウルが少し馬鹿にしたような調子でからかうと、アストルはむっとした顔になって反論した。
「だって、ナッシュさんも再現を試すほどなんですよ!きっとすっごく美味しいんです!そんな美味しそうなパンがあったら気になるのはしょうがないでしょ。」
怒って頬の膨らんだアストルをラウルはもう一度笑う。
「もう!私、今度の休みに『幻のパン』買いに行くんですから!そんなに笑うなら、王子にはあげませんからね!」
怒った口調でそう言うと、アストルは膨れっ面のまま寝室のチェックに向かった。
久々の休み、アストルは三日も前から外出届を出して、王都の市場への買い物に備えた。
侍従には色々な支給品があるので衣食に困る事はないが、それでも細々とした物は必要になる。買い物リストの順に大急ぎで店を廻ったが、最初に予定していた時間よりも若干遅れている。
アストルは荷物を持ち直し、大急ぎで「幻のパン」の屋台を目指した。
噂のパンの屋台の前には、既に行列が出来ていた。アストルは大慌てで行列に並び、今か今かと自分の順番を待つ。列に並んでいる途中、同じ列に並んでいた客達と「幻のパン」について語り合った。
「そりゃもう、一回食べたら病み付きだよ。中に入ってる香辛料の効いた肉が本当に旨くて……俺はもう、週に二回はこの列に並んでいるよ。」
前に並んでいた市場の近くに住む職人がそう笑い、絶妙なスパイスの調合について熱く語った。
「私もまだ一回も食べた事ないんだけど、ウチの弟が噂を聞いて『どうしても食べたい!』って言うから、私が並びにきたのよ。」
アストルの後ろに並んでいた少し年下の女の子は肩を竦めて笑う。
列に並ぶ人達は皆、「幻のパン」への期待で楽しそうな笑顔だった。この街での暮らしに憂いがない、そんな事が判る明るい光景にアストルの胸は一杯になる。
王は街の人々のこの笑顔を知っているのだろうか。あなたの努力はちゃんと笑顔と言う素晴らしいものになっている。
アストルは街の人達と同じように笑い、パンを待つ時間を楽しんだ。
パンの売出しが始まると、列は少しずつ前に進みアストルの期待も高まる。遂に自分の番になり、アストルは弾んだ声で注文をした。
「パンを二つくださいな!」
はいよ!と笑顔の店主がアストルにパンを渡しおえると、彼は申し訳なさそうにアストルの後ろに並んでいた女の子に声をかけた。
「ごめんよ、お嬢ちゃん。今日の分は売り切れちまった……」
「そんなぁ……」
ガッカリした様子の女の子も後ろには客はいなかった。幻のパンを買い損ねた運の悪い客は彼女一人だったらしい。
しょんぼりとした女の子の姿に、アストルは思わず声をかけた。
「あの、もし一つでいいのなら……差し上げます。弟さんと食べてください。」
恐縮し遠慮する女の子にアストルはパンを一つ持たせ、アストルは駆け足でその場を去って行った。
アストルは王宮に戻り、スケジュールを確認してからラウルの部屋をのぞきに行くと、彼はつまらなそうに報告書を眺めていた。
いつものようにお茶の用意をしてラウルに声をかけると、彼は不機嫌にアストルを睨んだ。
「……市場は楽しかったのだろうな。」
不貞腐れた表情のラウルにアストルは少し苦笑する。
アストルの休みにあわせてラウルも外出を頼み込んだが、ヒューイにけんもほろろに却下された。結局、ラウルは今日一日「お留守番」だったのだ。
朝から拗ねているラウルにアストルはパンを載せた皿をそっと差し出す。
「市場、とっても楽しかったです。だから、今度は一緒に行きましょうね。」
ラウルは差し出されたパンが「幻のパン」だという事に気付き、ぱっと笑顔になる。
「これが『幻のパン』なのか?すごいな、どうだった?やっぱりすごく旨かったか?」
嬉しそうに尋ねるラウルにアストルは少し言葉に困り、視線を彷徨わせる。
「……なんだ、あまり旨くないのか?」
ガッカリした声になるラウルにアストルは慌てて弁明した。
「違います!そうじゃなくて!何ていうか……それ一個しか買えなかったから……美味しいかどうかは、ちょっと……答えられなくて、」
言い難そうに言い訳するアストルに、ラウルは少し頬を赤くして微笑む。
あんなに楽しみにしていたパンを自分に譲るアストルの優しさに、ラウルの胸は温かくなる。自分はアストルにちゃんと大事にされている。そんな事を実感して、とても満たされた気分になった。
ラウルは皿の上に載ったパンを手に取り、半分に割った。二つになったパンをアストルに差し出し照れて赤くなる顔を隠すように、眉を寄せて怒ったような表情を作る。
「ほら、お前も食え!楽しみにしてたんだろ!」
ぶっきらぼうな物言いでパンを突きつけると、アストルは少し驚いたような顔をしてから花が開くようにゆっくり笑う。
「……はい、いただきます。」
アストルは嬉しそうにパンを受け取り、二人は並んで半分のパンを食べた。
少し冷めてしまっていても、「幻のパン」はとても香ばしく、香辛料のきいた肉はとても柔らかい。
しかし、ラウルにとって「幻のパン」の旨さよりも、一つのパンを二人で分け合って食べる、この状況が何より嬉しかった。
「……一つのパンを分け合って食べるって、すごく『友達』っぽいな。」
「はい、すごく『友達』です。たぶん『大親友』ぐらいです。」
嬉しそうに笑うアストルを見て、なぜだかラウルの心臓は胸の中で跳ね回っていた。
ラウルは生まれてはじめてパンが美味しいと思った、そんな日のお話。