微笑
冷え切った空気が漂う中、彼と彼女は周りにいる人の邪魔にならないように、一番後ろの席に静かに座った。
彼の隣には髪を二つに束ねたかわいい女の子が座っていて、どうやら彼とその女の子は知り合いなのか、彼が来るなり女の子は目をらんらんとさせて微笑んでいる。
「・・・、」
ふと視線を上げると、沢山ある大きな窓にはステンドガラスが彩りを添えていて、そこを通過した太陽がまばらに光を差し込んでいた。
なんとも言えない神聖な光景に、彼女は目を奪われてしまった。
◇◆◇
『え?教会?』
(うん、一緒に行かない?)
今日は日曜日。
毎週日曜日は、彼は決まって礼拝に行っていて、彼女はいつも暇を弄ばせている。
思い起こせば、1ヶ月ほど前。通い慣れた図書館でたまたま向かい合わせに座った彼と彼女が、同じ作者の本をお互い手にしていたことがきっかけで話をするようになり、いつしか毎週土曜日はどちらからともなく図書館で待ち合わせをし、ひたすら気が済むまで本を読んだ後、食事に出かけたりする程の仲になっていた。
趣味が読書と、二人とも同じなのが功を奏したのか、いつも話題が尽きる事無く楽しい時間を過ごし、───彼女は次第に彼に惹かれていった。
自分の気持ちを自覚し始めた途端、土曜日だけではなく、日曜日もずっと一緒に過ごせたら・・・と思うようになってしまう。
そんな風に思っている最中、彼からの突然の‘教会デート’のお誘いに、信者でも何でもない自分が、果たして彼に逢いたいが為だけの理由でそんな神聖な場所に行ってもいいのだろうか?返事を出し渋っている理由をかいつまんで彼に説明すると、彼もまた『信者でも何でもない』と聞き、驚いた。
『え?じゃあ、何で毎週通ってるの?』
(ん~、何ていうか、1週間分の溜まった垢を落とすような?さぁ!明日から又仕事頑張るぞ!みたいな。───そうだな・・・言うなれば、心の洗濯をしに行ってるんだよ)
『心の洗濯・・・ねぇ』
◇◆◇
理由はともあれ、昨日も今日も彼に会えるのは嬉しい。動機は不純ではあったが、教会自体にも興味があったのは、事実。
賛美歌が流れるそこは、彼の言ったとおり彼女の心を穏やかにさせて行った。
「・・・アーメン」
皆がそう言うと、胸で十字を切り指を重ね俯いた。ふと彼を見れば、隣に座る女の子と微笑み合いながら同じようにしている。
彼女も慌てて見よう見まねで俯き、指を重ねた。
いつまでそうしていればいいのかわからない彼女は、チラチラっと横の彼の様子を見ながら祈っている<振り>をする。
「・・・。──?」
ふと、ひとつの視線に気付き、彼女が目を向けると彼の隣に座った女の子が彼女をじっと見ていた。
にっこりとその女の子に微笑んで見ると、『フン!』といった表情で目を逸らされてしまう。
“?!、・・・かわいくないなぁ”
彼女もその女の子を怪訝そうな顔で見ている所に、既に目を開けていた彼が割り込んだ。
「どうしたの?」
そういって二本の指で彼女の眉間にある皺をのばす。
「な、なんでもないの」
自分が知らぬ間にすごい顔をしていたんだと彼のとった行動で気付き、大人気ないと自分を恥じた。
ニコニコといつもの様に穏やかに微笑んでいる彼の顔が、突然キョトンと目を丸くした。視線を落としてみれば、彼のジャケットの袖口をその女の子がツンツンと引っ張っている。その事に気付いた彼は更に目元を緩めると、その少女の目線に下がり視線を合わせた。
「なに?」
そう言って首をかしげる彼に、女の子は頬を膨らませて彼女を指差す。
「あの人、誰?」
彼は一瞬彼女の方を振り返ると、すぐに少女に視線を戻し、
「彼女はね・・・今、一番仲の良いお友達かな」
「ふーん。それだけだよね?」
「え? あぁ、まぁ、それだけって言うか・・・ねぇ?」
いつも落ち着いている彼にしては珍しく、この小さな女の子の対応にてこずっていた。
「あのね、私おじさんと結婚しようと思うの!ね?いいでしょ?」
彼女は勿論の事、言われた当の本人も積極的なこの少女の言葉に、開いた口が塞がらない様子だった。
彼女の方に振り向いた彼の目は、まるで‘どう言えばこの小さな女の子を傷つけずに済むか教えて?’と訴えているように見える。
暫く彼が視線をさまよわせていると、何かを思いついたかのように女の子に向かってもう一度視線を落とした。
「あのね、おじさんと君は歳が離れすぎてるから・・・」
「どれ位?」
「えーと、・・・20才位、かな?」
「歳なんて関係ないわ」
“なんともまぁ、おませな女の子だこと!”
彼女でも‘好きです’のたった一言ですら言う事が出来ないと言うのに、彼女の年齢の半分以下しかまだ人生を経験していないであろうその女の子は、‘好き’と言うのをすっ飛ばし、あろう事か逆プロポーズをしているのだから、流石の彼女も焦りを感じる。
“そろそろ、気持ちを伝えてみようかな?───でも、もし振られたらこの関係すら無くなるのが怖い”
結局そこに落ち着いてしまって、彼女は前に進む事が出来ないで居た。
「実はね・・・おじさんは結婚したい、って思っている人がいるんだ」
その科白に一瞬胸がドキンッと大きな音を立てる。
彼と女の子のやり取りを微笑みながら見守っていた顔が見る見る強張っていく。
“誰、・・・だろう”
そう言えば彼の好きな本についてなら胸を張って堂々と言えるが、彼の私生活については何も知らない事に気付き、彼女はうろたえた。
名前は知っていても、年齢も何処に住んでいるのかも知らない。携帯番号は知っているけど、メールアドレスは知らない。好きな食べ物は?仕事は何をしてる?犬派?猫派?、今まで何人と恋に落ちた?
───今、好きな人は?
「・・・。」
せっかく日曜日に彼と会う事が出来たと言うのに、現実を見させられてしまった。そう、今までが夢の中での出来事だったのだと、自分に言い聞かせながら膝の上に置いた手で、スカートをギュッと掴んだ。
「どんな人?おじさんの結婚したい人って」
女の子は率直に彼を質問攻めにする。
悪気も妙な駆け引きも無い、そんな純真な心が彼女にはとても羨ましかった。
彼女も聞きたい事は山ほどある。しかし、大人の常識がそれをさせてくれないのだ。
どきどきしながら彼女も又、彼がどう答えるのかを固唾を飲んで聞き入っていた。
「んーとね、その人は・・・強情で、意地っ張りで、我侭で、負けず嫌いで、───鈍感で・・・。っ、たまに大きな声出してしまって、周りから顰蹙を買ったり」
彼はその時の事を思い出したのであろう、どこか嬉しそうに口元を緩めながら笑って言った。
「僕の大好物を僕がよそ見してる間に勝手に食べちゃったり、僕の眼鏡をどこかに隠したり・・・」
女の子の顔がどんどんしかめっ面になっていく。そんな人の何処がいいのかと言わんばかりの表情を浮かべ、彼の話に耳を傾けている。
「・・・本当は聞きたい事が一杯で、不安で不安でしょうがないくせに、無理して平気な顔して見せたり。すごく涙脆い人なんだけど、『泣いてないし!』とか言ったり・・・。僕が少し触れるだけでね、彼女、すぐ真っ赤になっちゃうんだ。僕だって緊張するのに先にあんな風に顔を真っ赤にされちゃ、男の僕は赤くなれないよね」
少し真面目な表情で語っている彼。
側で聞いている女の子は、彼の言っている意味がちゃんと判っているのだと思わせたいのか、又大人びた発言で彼を困らせた。
「ふーん。で、その人は誰?何処の人?」
「っ!・・・、」
“───私もそれ聞きたい!”
もう少しで声に出しそうになり、ビクッと自然に動いた手を彼女は慌てて止めた。
女の子の不躾な質問にも、彼は嫌な顔一つせずニッコリと微笑みながら、
「その人はね、僕のすぐ側にいるんだ」
そう言うと、彼は少女と視線を切り背筋をピンと伸ばして前を向いた。彼女は何度も彼の視線の先を確認しては、その視線を追って彼の言う『その人』を探している。そんな挙動不審な彼女の様子に気付いた彼は、
「まだ気付かないの?」
「っ?!」
お腹を押さえ、笑いをこらえている。
ムキになった彼女は、もう一度彼の視線の先を見て『その人』を探す。女性の姿を見つけては、‘あの人、彼とつり合うだろうか?’‘本の趣味合わなさそう’と、勝手な言い分を心の中でブツブツと言っていた。
その彼女の額に又、彼の二本の指が触れ彼女の眉間の皺が伸ばされる。
「ああっ、また・・・」
何度も同じ事をされ、彼女は俯いて彼の指から逃れると、知らぬ内に刻んでしまう皺を今度は自分で何度も擦った。
行き場の無くなった彼の手がそのまま彼女の首元にまわったかと思うと、頬にチュッと温かい感触がし、その事が次第に彼女の眉間の皺を解きほぐす。
「君の事だよ」
誰にも聞こえないように、彼女の耳元でそっと囁いた。
「・・・。」
目を見開いて彼の方へと振り向いた彼女の前には、ステンドガラスに差し込んだ光に包まれている彼が、にっこりと穏やかな表情で微笑んでいた。
LOVE IS MAGICAL