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キスを頂戴

 通い慣れたとある高級ホテルの一室。

 カードキーを通し、部屋の中へ入りながら毛皮のコートをするりと脱ぐと、それをソファーの背に置いた。

 美しい背中を惜しげもなく露出させている大胆な真紅のドレスは、コートを脱いで初めてそのドレスの価値が上がると言うものだ。

 しかし、その姿を見せ付ける相手は今ここにはおらず、彼女は不満気に小さく息を吐いた。


 アップにした髪と、普段付けることのないヴェルヴェットのチョーカーが気になるのか、彼女は自然と喉もとに手をやっている。彼の痕跡を探そうと室内をキョロキョロと見回していた時、パタンと静かにドアが閉まった。


「いいねぇ」


 聞きなれたその声に振り返ると、ドアの横に立っている彼が、腕を組んで彼女の背中をじっと見つめていた。


「……そんなトコにいたのね」


 彼の方に振り向いた彼女に向かって、彼が人差し指を立てた。


「ダメ、振り向かないで」


『振り向くな』なんて、なんだか納得がいかないけれども、彼の言われた通りに彼女は又彼に背を向けた。


 絨毯を踏みしめる音が徐々に近づいてくるのとともに、彼女の心臓がうるさく跳ねる。両肩に彼の大きな手が触れると、そっと露になっている背中に柔らかく暖かいものが触れた。

 彼が彼女の背中に口唇を這わせ急に与えられた甘い刺激に耐え切れず、彼女は自然と顎を上げ背を反らした。


「今日の君は特別綺麗だ」


 彼女の肩に触れた彼の両手が、いとも簡単に彼女の肩から真っ赤なドレスを床に落とす。足元で輪になったドレープの波の上で立ち竦んでいる彼女は、さしずめ、水を失った魚のように無力なものだった。


「こんなに簡単に脱がす事が出来るなんて、君は用意周到だね」


 背中を這い回る彼の口唇から言葉が吐き出されると、自分の意思とは反して身体が疼き始める。口唇が肌から離れるたびに鳴る水の音が、否応無しに聴覚を愛撫する。彼の言ったセリフに反論しようとも、与えられている刺激が強すぎて上手く言葉を出す事が出来なかった。


「……ち、ちがっ、そんなつもりじゃ……っ、」

「恥ずかしがることはないさ。エッチな女性は大歓迎だよ?」


(違う、そんなんじゃない。少なくとも私は貴方に出会うまではこんなにも淫らな女じゃなかった。――そう、こうなったのも、全部貴方のせい。私は貴方に、――調教されたのよ)


「もう駄目……立ってられない」


 こんなあられもない事をしていると言うのに、彼の衣服は一切乱れておらず自分だけがほぼ全裸に近い状態だという羞恥に顔に熱が集まりだす。そして次から次へと浴びせられる快楽に立っていることが難しくなった彼女は、膝から崩れ落ちるようにしてソファーの上に倒れこんでしまった。

 執拗に繰り返される背中への‘口’撃をなんとしてでも避けるため、背中をソファーの背にグッと張りつけながら、もっと違う刺激が欲しいと彼女は切なげな表情を浮かべた。


「しょうがない子だなぁ、せっかく君の背中を楽しんでたのに。これじゃあもう味わえないじゃないか」


 困ったような顔をして彼がクスリと微笑んだ。


「だって……、ぁっ、ん」


 彼の口唇が首筋を捕え、新たなる快感の波が押し寄せる。大きな掌がふくよかな双丘を包み込み、欲しかったものを一度に与えられて気が狂いそうになる。


「僕が君の背中を好きだって、知ってるでしょう?」


 ゆっくりと開けた瞼の奥に映ったものは、口元を手の甲で拭いながら情欲にかられた雄が一匹、まるで獲物を捕えた様な目で彼女を見下ろしていた。

『お仕置きだよ』耳元で囁かれたその言葉にビクンッと身体が震える。決して優しいとは思えない言葉を投げかけられていると言うのに、その先を期待してしまう自分がいる。


(……おかしくなる)


 呼吸がどんどん荒くなり首に着けたチョーカーですら苦しくて、大量の酸素を求めた彼女の指は自然とチョーカーへと伸びた。


「ダメだよ、それは着けてて」


 伸ばした手を遮られてしまった。

 彼は時々アクセサリーをつけたまま彼女を抱く。何か特別な興奮が得られるのだと彼は言う。


「君は本当に悪い子だ。罰として僕がいいって言うまで勝手にいってはいけないよ?」

「そん……なっ……ああっ、」


 目を光らせた彼が再び覆いかぶさると、快楽を逃がそうと必死で堪えている彼女の切なげな声が、スイートルームに響き渡った。




 彼の腕の中で幸せを感じる。

 普通であれば、今この瞬間は女性にとって一番幸せだと思える時であろう。しかし、彼女の心の中はぽっかりと穴が開いていた。

 どれだけ情熱的に愛し合っても、決して埋めることの出来ないその穴。


「ねぇ……キスして?」


 そう強請ねだると彼はクッと眉を上げた。

 呆れたようにフッと少し口元を緩めると、ベッドが大きく弾んで彼が覆いかぶさってくる。

 徐々に近づいてくる双眸を直視する事が出来ず、淡い期待に胸を弾ませながら彼女は目を閉じると、いつもの様に頬に暖かいものが触れるのを感じた。


「――。」


 これで満足かい? とでも言いた気な顔をして、彼はまた元の場所へ戻るとサイドテーブルに置いた煙草に手を伸ばした。


 彼はキスをくれない。

 いまだかつて、口唇にキスをしてくれた事が無い。


 以前、その事を不思議に思った彼女が彼に問いただした事があったが、彼から返ってきた答えに愕然としたのを覚えている。


 彼はあの娘にしかキスを与えない。自分とは全く正反対のタイプの今時珍しい清純そうなあの女の子。

 あの娘とは身体の関係はまだないが、焦らずゆっくりと進んで行きたいと言っていた。

 彼女が知っている彼は、誰をも自分に従わせようとする独裁者の様な彼の姿だったが、あの娘の話をする彼は独裁者の影など微塵も無く、とても楽しそうに目尻を下げ恋をしている男の姿だった。


 あの日から彼女は彼に問い詰める事を止めた。

 でも、たまにキスをせがんでは様子を伺っている。


 ――自分がいつか”あの娘”になれる事を願って。



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