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9話

「道……、間違えたみたいだ……」

 僕は何も答えない。

「でも、今日中に山を越えておかないと、明日、よっちんの所までたどり着けなくなる」

 僕は何も答えない。

 もう日は落ちてしまって、真っ黒な雲が空を半分くらい覆っている。温泉街にネオンが灯りはじめる。

「もう一回上るしかない」

 ケイヤは言うと、自転車を漕ぎだした。

 僕はもう自転車に乗る気力はなくなってしまって、自転車から降りると、それを引いて歩いて坂道を上りはじめる。ケイヤもしばらく進んだあと、自転車から降りて、歩きだす。どこかで雷の音が響く。

 僕らは十メートルくらいの距離をあけて、一言も言葉を交わさず、自転車を押して、坂道を進んだ。

 急に空が暗くなる。一瞬、閃光が走り、しばらくしてから地響きのような、雷鳴が轟く。

 下からパトカーがサイレンを鳴らしながら上がってくる。こんな場所で、自転車を押していて、何か言われるかと思ったが、先を急いでいるらしく、僕らには目もくれずにパトカーは峠のほうへ消えていった。

 大粒の雨が自転車のハンドルを握る右手の甲に当たった。雨か? 思ったときに、額に滴を感じた。首筋、左腕、と続いたあと、一斉に雨が落ちてきた。

 夜のような暗さになり、時折、稲妻が光る。間をおかないで雷鳴が響く。雲に近いせいか、今まで聞いたどんな雷よりも大きな音で、地面まで揺れている。雷が鳴るたびに、身体がすくみ上がる。自転車は金属でできているから雷は落ちやすいのだろうか。風は急に強まり、大きな木々がしなりながら揺れる。身体はあっという間にずぶ濡れになった。体温が奪われていく。

 引き返すわけにいかないし、止まることもできない。強い風雨に前を見ることもできずに、自転車の前輪を見つめ、ハンドルに力を込め、ひたすら、黙々と、坂を歩んでゆく。



 僕がケイヤと喧嘩したときも、今みたいに強い雨が降っていた。小学校三年の夏休みが終わって、二学期にも少し慣れてきたころだ。

 昼休み、雨が降っていたからグラウンドには出られず、僕らは教室で話をしていた。

「昨日、梶山公園でこんなにでかい蛇を見たんだぜ」

 ケイヤは両腕を一杯に広げて、蛇の大きさを示す。

 僕はカチンときた。なぜかって言うと、昨日の日曜日も一日中雨だったからだ。雨の日にわざわざ梶山公園なんか行くわけがない。ケイヤのお得意のホラが出た。

 ケイヤはよく嘘をついた。僕が虫が嫌いだと言うと、次の日に、体育館の裏で三十センチの大きなムカデがいたとか、自分の家には毎日十匹以上のゴキブリが出て、捕まえてビンに入れて飼っているだとか、そんは話をし始める。僕は初めのころ、全部本当の話だと思って、ゴキブリを飼っているケイヤの家には絶対に行かないと、心に決めていた。学校の帰りにUFOを見て、そこからパンダに似た宇宙人が出てきた話とか、夜眠れないときに墓場を散歩してたら変な世界に紛れ込んでしまった話とか、薄々怪しいとは思っていた。

 前の週にケイヤが、自分の父親がオリンピックに出たことがあると言い出した。僕は半信半疑だった。家に帰って、父さんに聞いたら、そんな選手は知らないと言う。ネットで調べてもらったけど、自転車関係の競技で辻田なんて選手は、何年遡ったっていなかった。やっぱり嘘だった。

 僕はそのことで、敏感になっていたんだと思う。

「昨日、一日中雨だったのに、何で公園なんか行ったんだよ!」

 僕は初めから喧嘩腰だった。

「あっ、違った、おとといだ」

 僕はその一言で、キレてしまった。

「嘘つき!」

「嘘じゃないよ。昨日とおととい間違えただけだって」

 気付いたときには、ケイヤの右頬を殴っていた。初めて、人のことなんて殴った。人差し指と中指の付け根が、ジンジンして痛かった。ケイヤはポカンとした顔をしたまま、突っ立っている。

「ケイヤの言うことなんて、全部嘘じゃないか! 最初に昨日って言ったじゃないか。嘘がばれたからって、また嘘つくのかよ。川原にワニなんかいないし、蟻の行列の中に、全身を黒く塗った小人が混じってるわけないだろ! お前のお父さんだって、オリンピックなんて出てないじゃないか!」

 怒鳴っているうちに、感情が高ぶってくる。呼吸が苦しい。頭の芯で何かが弾けた。僕はケイヤに飛びかかった。そのとき、スローモーションで近づいてくるケイヤの拳が見えた。僕の左目にゆっくりと迫ってくる。直後、今まで味わったことのない衝撃が顔面に走った。――なるほど、殴られたときには、本当に星が見えるんだ、なんて間の抜けなことを考えながらうしろに倒れる。

「ふざけんな!」

 僕は立ち上がると再びケイヤに飛びつく。今度はみぞおちにケイヤの蹴りが入る。息ができなくなって、目の前がクラクラする。だけど、僕は蹴り上げたケイヤの右足を抱えて離さなかった。そのまま突進したら、ケイヤはバランスを崩して倒れた。僕はケイヤの上に馬乗りになる。ケイヤの両肩に膝を乗せるとケイヤは動かなくなった。

「ケイヤの言ってることは、全部嘘じゃないか!」

 僕はケイヤの胸倉をつかんで、上下に揺らす。ケイヤは悲しそうな目で僕のことを見ている

「この前だって……」

 言葉が詰まった。

 ――何でそんな悲しそうに見るんだ。嘘をついたケイヤが全部悪いんだろ。もうそんな目で見るなよ。

 ――まずい! このままでは泣いてしまう。

 クラスにいた全員の生徒が僕のことを見ていた。三年生にもなって、みんなの前で泣いてしまったら、一生取り返しのつかないことになる。一言でも発したら、声が震えて、嗚咽になってしまいそうだ。

 僕は慌てて教室を飛び出した。


 一人で過ごす昼休みは、とても長く感じた。いつもなら三人で喋ったり、グラウンドでドッチボールしている時間だ。他の友達が遊んでいるのに入れてもらう気にもなれない。かといって、ケイヤがいる教室に戻るのも嫌だ。トイレで鏡を見ると、左目の下が、少し赤くなって腫れていた。手で触ると痛みが走る。僕は小学校の全ての階の廊下を歩き回り、時間を潰した。雨はまだ強く降り続いている。廊下の窓から外を見ると、泥の中に沈んだように暗かった。おやゆび姫に出てくる、金持ちのモグラの住む世界を思い出した。太陽のない暗い世界。きっとこうやって土の中に通路があって、教室がモグラの家だ。確か、おやゆび姫はツバメに助けられて、お花の国へ連れて行ってもらったんだ。

 窓の外を見る。

 ――僕をどこかへ連れ出してくれそうな者は、どこにもいなかった。


 やっと、五時間目の開始のチャイムが鳴った。僕が教室に戻ると、ケイヤとよっちんが何か話していた。僕のことを見て、話すのをやめる。僕はそのことで、余計腹が立ってきて、乱暴に次の授業の教科書を取り出すと、わざと音をたてて、机の上に放り投げた。

 ケイヤの頬は赤くもなっていない。僕の右手は中指の辺りがジンジン痛んで、少し赤くなっていた。頭の中がシワシワし始めてきた。気が付いたら下唇を強く噛んでいて、血の味がした。

 五時間目が終わって、六時間目が始まるまで、僕は自分の席に座ったまま、窓の外を見続けていた。ケイヤはうつ伏して眠った振りをしている。よっちんがどうしたらよいか分からないみたいで、立ち上がって廊下へ出てみたり、戻ってきて席に座ったり、また廊下へ出てみたりと、三回くらい同じことを繰り返していた。

 六時間目の授業が終わると、僕は一番に席を立ち、そのまま校門に向かった。校門を出たところで、よっちんが追いついてきた。

 雨は小降りになったけど、二人とも傘を差したまま歩いている。よっちんは並んで歩くばかりで、何も話しかけてこない。雨の音と、よっちんと僕の湿った足音だけが聞こえる。

「なに?」

 よっちんはなんにも悪くないのに、まるで責めるような口調になってしまう。

「うん」

 よっちんは困ったように、頭をかいている。

「前から思ってたんだけどさぁ、ケイヤの言ってることって、嘘ばっかりじゃん! 僕は嘘つきは大嫌いだ。もう我慢できない」

「うん……」

「よっちんも、そう思うだろ?」

「だけど……」

「なんだよ?」

「……ケイヤ君のお父さんがオリンピック出たのは本当だよ。ぼく達が生まれる二年前にやった冬季オリンピックのスケートの選手だったんだ」

「冬のオリンピックまでは調べなかったけど……」


「ケイヤ君のつく嘘って、全部ぼく達を楽しませようとしてついているんだよね」

 よっちんが傘をたたみながら、つぶやく。

 確かに、ケイヤの嘘は、僕らを笑わせたり、怖がらせたり、つまり楽しませようとしてついているのかもしれない。自分を大きく見せようとか、見栄を張って嘘をついているわけじゃない。それは分かる。そして、僕らがケイヤの話で笑うと、ケイヤは本当に嬉しそうな顔をする。だからって、嘘をついていいってことにはならない。ケイヤがちゃんと謝るまで、僕は絶対に許さない。絶対にだ! ――僕はそう思った。


 そのあとどうしたのか、ケイヤは僕に謝ったのか、思い出せない。僕があらためてケイヤのことを許したという記憶もない。気が付いたら、僕らは、いつもみたいに遊んでいたんだと思う。ただ、あのとき以来、ケイヤは嘘をつかなくなった――


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