5話
川を上ってくる風が、気持ちいい。川面が太陽を反射して、きらめいている。グラウンドでは、低学年がブカブカのユニフォームを着て野球の試合をしている。帽子とグローブがやけに大きく見える。声援をおくる幼い声。ピッチャー・ゴロで必死に走る小さなバッター。
鳩が僕らと並んで飛んでいる。こんな近くで飛んでいる鳥を見るのは初めてだ。鳩はゆっくりと羽ばたき、目の前を横切って、青い空に高く舞い上がっていく。
「気持ちいいな」
僕はケイヤの横に並び、声をかける。ケイヤは僕のことを見ると、眩しそうに笑った。ケイヤの柔らかい髪が風になびき、いつも隠れている生え際が、むき出しになる。丸みがあって、形のいい額だ。意思の強さを表す太目の眉毛。お母さんの写真に似ている、切れ長の瞳。薄い唇に、少しとがった細めの顎。ケイヤの顔をこんなにじっくり見たことなんてなかった。ケイヤを好きな女子って誰なんだろう。何か、ムカついてきた。前からランニングしている、太ったおじさんが近づいてくる。いつまで二人で並んで走れる程、道幅は広くない。僕はペダルを漕ぐ足に力を入れると、ケイヤの前に出た。
空はどこまでも青く、入道雲は限りなく白く、大きかった。
河口近くになると、川幅はいっそう広くなり、対岸の土手は遥か向こうに見える。大きな橋がかかり、その先に海が見えてきた。カモメが僕らの周りを滑空している。
長い橋を渡り切ると、去年、僕が家族で来た海水浴場があった。あの時は道が渋滞して、ここに来るまでにすごく時間がかかった。三歳年下の妹が車の中に飽きてしまって、文句を言い続けていた。仕舞いにイライラした父さんに怒られてた。その道を、今、僕は自転車で走っている。
海岸沿いの道は、去年と同じように渋滞している。歩道も海水浴客で溢れていて、にぎやかだった。人を縫うように自転車で走って行く。背中に照りつける太陽さえ、気持ちよく感じた。
しばらく進むと、メインの場所を過ぎたようだ。歩道の人はだいぶ少なくなって、走りやすくなった。車の渋滞は相変わらずで、ほとんど動いていないように見える。
僕らは車を追い抜き、スピードをつけて走っていく。渋滞に飽きあきした人たちが、僕らのことを羨ましそうに眺めている。僕らは数え切れないほど車を抜き去った。「ヒャッホー!」ケイヤがうしろで、喚声をあげている。僕もそれに釣られて、なにやら意味のない言葉を叫んでいた。
昼近くになったので、道路沿いにあったハンバーガーショップでセットを買い、海岸で食べた。遊泳禁止区域なのか、海水浴客は一人もいない。サーフィンをしている人達がいるくらいだ。夏の太陽は、真上から容赦なく照らし続ける。僕らはハンバーガーを食べ終わると、デイパックの横にスニーカーを脱いで、浜辺で足を濡らした。火照った体に、打ち寄せる波が心地よかった。波が引くとき、世界が海のほうへ引っ張られているような感じがする。不安定な足の裏の感覚。
短パンのギリギリのところまで、進んでいく。波が引いたときに、ケイヤがもっと前に進む。僕は負けじとその前に出る。ケイヤはさらに僕の前に進んだ。ケイヤは僕のことを振り返ると、自慢げに微笑んだ。
ケイヤのうしろから、ひときわ大きな波が押し寄せてくる。僕は後ずさりし、そして、浜辺に向かって駆け出した。ケイヤが異変に気付いて、海のほうを向いたときには、すでに手遅れだった。波はケイヤの目前に迫っており、逃げようと浜辺のほうを向き、三歩走ったところで、波に巻き込まれる。
波が去ったあと、そこには人影がなくなっている。しばらくして、海の中からずぶ濡れになったケイヤが立ち上がっる。
僕は笑いながらケイヤに近づき、手を差し出す。ケイヤは僕の手を握ると、屈託のない笑顔を見せた。ケイヤはくるりとうしろを向くと、背負い投げの要領で僕のことを投げ飛ばす。不意をつかれた僕は、そのまま仰向けにひっくり返る。丁度そのとき、大きな波がやってきて、上下が分からなくなるほどゴロゴロと転がされた。鼻に海水が入ってすごく痛かった。
僕はケイヤのことを追いかけ、うしろから羽交い絞めにして引き倒した。立ち上がると、今度はケイヤが僕に襲いかかってくる。
しばらく、そんなことを繰り返し、散々海水を飲んで、クタクタになって僕らは海岸に上がってきた。トイレの横に、簡易シャワーがあったので、服を着たまま浴びた。一回分の着替えしか持ってきていない。この日差しだから、濡れたまま走ったって、すぐに乾いてしまう。