4話
夜明けとともに出発するつもりでいた。
残念なことに、目が覚めたとき、日は昇りきっていた。三人前のカレーを電子レンジで温め、爺ちゃんと三人で食べた。ケイヤは、よっちんの所へ行くから二日間帰ってこないこと、食事は冷凍庫の中に用意してあることを爺ちゃんの耳元で、かなり大きな声で言った。爺ちゃんは壁の向こうの世界を眺めている。なんとなく、うなずいたようにも見えた。
「人間って何も喰わなくたって、二・三日なら死なないよな……」
ケイヤは自分に言い聞かせるように言った。
僕はデイパックに荷物を入れながら、聞こえなかったことにする。
天気はいかにも夏休みらしい晴天で、大きな入道雲が二つ、東の空に浮かんでいた。油蝉が喧しく鳴き始める。夏の太陽が、朝の清涼を蒸発させ、その粒子がキラキラと輝いている。
僕らはマンションの前で、自転車にまたがった。ケイヤも僕のと同じようなマウンテンバイクに乗っている。
迷いは消え去った。
僕は地面を蹴り、ペダルを思い切り踏み込む。
――僕らの冒険は、こうしてスタートした。
僕らは国道に出ると、西に向かって走り始める。しばらく行くと、川原にでる。川の両脇には土を高く盛った土手があり、その上がサイクリング・ロードになっている。対岸の土手までは五百メートルくらいの幅があり、その内側に、野球やサッカーのグラウンドや、芝生の広場、ゴルフの練習場などがある。
サイクリング・ロードは河口まで続いている。僕らは海を目指して進んで行く。一キロごとに海までの距離を表示した標識が立っていて、今通り過ぎたのは、海から二十七キロ、という表示。これがどのくらいの距離なのか上手く理解できない。海まで自分だけの力で行けるなんて、考えたこともなかった。僕らは海よりも、もっともっと遠い所まで行かなければならない。それは素晴らしいことのように思えたし、とんでもなく無謀なことのようにも思えた。
風はまだ、朝の爽やかさを少しだけ残している。日差しは、もうだいぶ高くなっていて、オーブントースターの遠赤ヒーターみたいに容赦なかった。
しばらく行くと、電車の鉄橋の下をくぐる。急に日陰に入り、目の前が真っ暗に感じる。同じ日陰でも、木の陰と全然違う。家の縁の下に入ったような、湿った日陰。
――ここは昔、よっちんが川へ落ちた場所だ。
四年生のころの話だ。梅雨に入り、何日も雨の日が続いた。日曜日、久しぶりに晴れたので、僕らは三人で、自転車に乗ってここまで来ていた。
多分、ヤゴとか、カニとか、水中の生物を捕まえにきていたんだと思う。
ただ、川の水量は多く、流れも速かった。水は濁り、うねっていて、水の中の獲物を捕まえるのは無理だと諦めた。
仕方なく、僕らは、石を投げて何回水面を跳ねさせることができるか競い合っていた。
勝負はだんだんエスカレートしていく。水面に平行になるように、アンダースローでできるだけ低い体勢を保つ。手首のスナップを利かせて、回転をつけて投げるのがコツだ。できるだけ平たくて、丸い石を選ばなくちゃいけない。
よっちんが力いっぱい投げたとき、足が滑り、バランスを崩してしまった。ゆっくりとコマ送りのように川の中へ落ちていく。
初め、僕らは笑っていた。ケイヤはよっちんのことを指差し、腹を抱えて笑っている。僕も、ドジとか、バカとか、そんなことを言いながら笑っていたと思う。少しして、様子がおかしいことに気が付く。水かさが増えていて、背がつかないみたいだ。浮いたり沈んだりしながら流されていく。
僕はまだ泳げなかった。だから、助けに飛び込むなんてこと、できなかった。よっちんは流されていく。流れは、思っていたよりずっと速い。よっちんはどんどん流されていく。
戸惑いながら、僕は見ているしかなかった。そのとき、ケイヤが川に飛び込んだ。
――よかった、ケイヤが助けてくれる。
安堵したのは束の間で、どう見ても、ケイヤはよっちんを助けているように見えない。明らかに、溺れている。
飛び込もうかと思った。思ったけど、飛び込んだところで絶対助けることなんかできっこない。三人で溺れてしまうだけだ。よっちんが流されていく。ケイヤも流されていく。二人とも苦しそうにもがいている。沈んだと思うと、しばらくして浮き上がる。そして、また沈む。もし、次に浮き上がってこなかったら―― 考えるだけで、頭の中がグチャグチャになる。爆発しそうだ。僕は、何も考えられず、何もできず、ただ、流されていく二人について歩いているだけだった。
下流の岸に、大きな枝が打ち上げられている。僕は走って行って、その枝を持ち上げようとする。重い。すごく重い。濡れてて、ヌルヌルしている。
二人は流されながら近づいてくる。早くしないといけない。全身の力を使って、抱きかかえるようにして持ち上げる。川に向かって投げ出す。まず、よっちんがそれにしがみつく。続いてケイヤも枝につかまった。その重量は想像以上で、流れも速かったから、思わず枝を離してしまいそうになる。ここで離してしまったら、よっちんとケイヤを助けられない。僕は必死にその枝を引っ張った。川岸の地面はぬかるんでいて、力が入らない。滑りやすくて、僕まで川に引きずり込まれそうになる。どんなことがあったって、この枝を離してはいけない。すべての力を出して支える。
枝は、僕を中心に半円を描くようにして、岸に近づいてくる。ようやく、岸に生えているアシの根元によっちんの手がとどく。ケイヤもつかまろうとするが、つかみ損ねて流される。まずい! と思ったとき、よっちんがケイヤの手をぎりぎりのところで握っていた。
ずぶ濡れの二人を岸に引き上げる。よっちんは「助かったよ。二人は命の恩人だ」と、興奮ぎみに言った。ケイヤは助けるはずの自分が、結局助けられてしまったことに不満があるようだった。「もう少しで、俺が助けられたのに」そう言った後に、「ありがとう」小さな声で、僕とよっちんに恥ずかしそうに言った。
ケイヤは泳げなかったらしい。泳げないくせに、よっちんを助けるために、躊躇なく川へ飛び込んだ。僕にはその勇気がなかった。たまたまあそこに枝が落ちていたから、二人を助けることができた。もし、枝がなかったら、僕はどうしたのだろう。二人を助けるために、川へ飛び込んだだろうか。それとも、二人が浮かび上がってこなくなるまで、見ているだけだったのか。そして、そのあと、僕はどうしたのだろう。
濡れ鼠のような二人と、僕は自転車を押しながら、このサイクリング・ロードを歩いていた。後ろから見ると、二人の濡れた足跡が、点々と地面を濡らしていた。濡れていない自分だけが、仲間はずれになったようで、申し訳ないような、切ないような気持ちになった。
小学四年のころより、ケイヤの背中はだいぶ大きくなった。僕もあのころより、身長が十センチ以上伸びている。前を走るケイヤの背中を見ながら、僕は自転車を漕いでいる。
今思えば、もし、僕がケイヤに続いて川に飛び込んだら、三人とも溺れて死んでいただろう。冷静に考えれば、泳げないくせに飛び込むなんてバカだ。ケイヤは思い立つと、後先考えずに行動に移してしまう。今回の自転車旅行だってそうだ。
僕は、どちらかというと慎重に考えて、止めてしまうことが多い。僕一人だったら、こんな計画、立てるわけがない。ケイヤと一緒にいるだけで、いろんなことに巻き込まれてしまう。
――本当に困ったものだ。
――だけど、ケイヤと一緒だと、なんかドキドキする。