12話
「いいから早く脱げ! そんな濡れた服を着てたら、風邪引いちまうぞ」
浮浪者のおっちゃんはロープの端をカーテンレールにかけ、もう片方を壁に刺さった釘にかける。紙袋の中から洗濯ばさみを取り出し、僕に手渡す。
「脱いだら、これでロープに干しとけ」
僕とケイヤは、渋々着ていたTシャツと短パンを脱いで、ロープに洗濯ばさみで止める。デイパックの中身も濡れていたので、着替えにもってきていた服も一緒に干す。白いブリーフ一枚しか身につけていないケイヤの痩せた身体が、オレンジ色の光に照らされている。
おっちゃんは、紙袋からカセットコンロを取り出すと、鍋にペットボトルから水を入れ、沸かし始める。その中に、缶を入れる。
「お前ら、運がいいぞ。丁度これを仕入れてきたところだ。賞味期限は二週間過ぎてるけど、缶入りのものの賞味期限なんて有って無いようなものだ」
鍋の中を見ると、入れられているのは缶入りのポタージュスープだった。それを湯煎で温めてくれているらしい。
「寒かったら、そこにある毛布にくるまってていいぞ」
横を見ると、普段おっちゃんが使っているのだろう毛布が畳の上に置いてある。多分、洗ったことなどないのだろう。何ともいえない風格がある。とてもじゃないが、恐れ多くて触ることさえはばかられる。
「家出か?」
「ううん、違う」
僕は引っ越した友達のところへ向かっていること。これまでの経緯をおっちゃんに話した。このおっちゃんは信用しても大丈夫なような気がしたからだ。
「そりゃまた、えらいシンドイことしとるな」
ランタンとカセットコンロの火に照らされて、鍋を覗き込んでいるおっちゃんの姿は、やっぱり魔法使いにしか思えなかった。
「おっちゃんはここに、一人で住んでるのか?」
ケイヤは目の前の鍋に話しかけるように言った。僕らは鍋の前に膝を抱えて座っている。
「まあな」
「寂しくない?」
「もう慣れたよ」
笑うおっちゃんの口に、二本しかない前歯が光っている。
「何でこんなところに住んでるんだ?」
「まぁ、いろいろあってな。ほれ、温まったぞ、飲んでみぃ」
おっちゃんは鍋から直接手づかみで缶を取り出すと、僕とケイヤに手渡した。
それは手で持つことができないほど熱くなっていて、僕らは上に放り投げてはキャッチし、持っていられなくなってまた上に放り投げる。手から伝わるその熱が気持ちよかった。
賞味期限のことは少し気になったが、もうそんなことはどうでもいいくらいお腹が減っていた。缶コーヒーみたいにプルトップを開けると、直接飲むことができる。
一口飲むと、その熱が、コーンの芳ばしい香りが、舌の付け根に染み入るような甘みが、疲れきった僕の身体の中へ溶けていく。僕とケイヤは、うっとりとスープの缶を見つめた。
今まで食べた物の中で、一番美味しい。世の中にこんなに美味しいものが存在したなんて、奇跡だ。目の前にいるのは、本物の魔法使いなのかもしれない。
「怖くないの?」
僕は幸福な気分の中、おっちゃんに聞いた。
「ん? 人は夢とか希望を持っているから恐れを感じるんだ。夢も希望もなくしてしまえば、ほとんどの恐怖はなくなるんだ」
僕はおっちゃんの言っていることの意味がよく分からなかった。多分、大人は多少のことでは怖くないのだろうと思った。
魔法のスープが身体中にいきわたると、心地の良い眠気が襲ってきた。僕らはいつの間にか畳みに横になり、眠っていた。夜中に目を覚ますとランタンの灯は消され、おっちゃんは奥の毛布の中に包まっていた。
すぐ隣にケイヤが仰向けに寝ている。ケイヤの裸の肩と僕の肩が触れている。そこからケイヤの温もりが伝わってくる。ケイヤの呼吸する音が聞こえる。その音に合わせて、ケイヤの胸が上下に動いている。見ているだけでなんとなく心が温かくなる。もしかすると、こういうのが夢とか希望とかいうものかもしれないと、ふと思った。僕はケイヤといることで恐怖を感じているのだろうか。よく分からない。ただ、もしケイヤがどこか遠く、自転車なんかじゃとても行けないような場所に行ってしまって、二度と会えなくなることを考えると、なんだか怖いなと思った。
次に目覚めたとき、窓を塞ぐベニヤ板の隙間から、透き通った、境目のハッキリした光りが差し込んでいた。身体を起こそうとするが関節が悲鳴を上げる。足と腰が自分のものでないように固まっていた。ケイヤはもう起きて、窓のそばに立っている。おっちゃんの姿は見当たらなかった。カセットコンロやランタンも片付けられている。それらがあった場所に、コーンスープの新しい缶が置かれている。
ロープに吊るされたティーシャツを触ると、まだ少し湿っていた。気持ち悪かったが、洗濯ばさみを外してそれを着る。ちょっと我慢すればすぐに乾くだろう。
「おっちゃんは?」
「俺が起きたときには、もういなかった」
荷物をデイパックに詰め、コーンスープを手にもって部屋を出る。レストランには窓の隙間から漏れるなんスジもの光が、重なり合うように幾何学模様を作っている。
入ってきた窓から外に出ると、そこには光が満ちていた。眩しさに慣れるまで、しばらく目が開けられない。薄目を開けながら周りを見回すが、おっちゃんの姿はなかった。
自転車の脇で、冷たいままのコーンスープを飲む。魔法が解けてしまったのか、昨夜ほどの美味しさは感じられない。
おっちゃんが戻ってくる気配もなかったので、埃まみれの窓ガラスいっぱいに、『ありがとう』と指で書いてから、自転車に乗った。