婚約者は幼馴染に三千万円のドレスと宝石を贈ったのに、私には偽物のブランドバッグだった
十五夜の晩、榛ヶ丘市にある鳴海家の屋敷では、親戚を招いて食事会が開かれていた。
縁側にはすすきと月見団子が飾られていたが、あいにく外は雨だった。庭に面した広間には季節の料理が並び、食事が進んだ頃、婚約者の鳴海修吾と幼い頃から親しい早乙女莉央が、余興を始めようと言い出した。
莉央はバッグから四枚のカードを取り出し、楽しそうに読み上げた。
「榛ヶ丘の出身じゃない。大学はごく普通のところ。実家にお金もなければ、頼れる親戚もいない。おまけに両親はもう亡くなってる。さて、誰でしょう?」
食卓が一瞬静かになり、親戚たちの視線が私に集まった。
修吾の甥の陽斗が、勢いよく手を挙げた。
「わかった! 澄花お姉ちゃんだ! おばあちゃんが言ってたもん!」
修吾の母親、鳴海佳代は陽斗の頭を撫で、よく覚えていたわね、と笑った。周囲からも笑い声が上がる。
私の名前は宮原澄花。
十七歳のとき、両親は誘拐された修吾を助けようとして、使われなくなった倉庫で命を落とした。
修吾は、そのとき何があったのかを誰よりもよく知っている。
けれど今、彼は莉央のためにカニの身をほぐしていた。細かな殻を丁寧に取り除き、彼女の小皿に載せている。
「修吾まで笑うの?」
彼は顔を上げ、わずかに眉を寄せた。
「何が? 莉央はちょっと冗談を言っただけだろ。嘘を書いたわけでもないし。家柄も学歴も莉央のほうが上なのは、お前だってわかってるだろ」
莉央が修吾の袖をそっと引いた。
「修吾、そんな言い方しないで。澄花がかわいそうよ。私はちょっと場を盛り上げたかっただけなんだから」
そう言いながら、彼女は笑ってカードをしまった。
そのあとは佳代と莉央が地元の知人や昔の出来事について話し始めた。私の知らない名前が次々と出てきて、会話に入る隙はなかった。ときおり、学歴や育ちについての言葉だけが耳に入った。
スマートフォンが震えたのは、そのときだった。
大学の先輩、久我律からLINEが届いていた。
「澄花、いつまであの事務所にいるつもり? 冬篠の席はまだ空けてある。本当にこっちへ来ないのか?」
私は顔を上げた。
修吾はおしぼりを手に、莉央の口元についたソースを拭ってやっていた。
画面に目を戻し、律に返事を送った。
「今月で辞めます。来月、そちらに行きます」
1
莉央は佳代の隣に座り、楽しそうに話していた。二人は何か言うたびに私をちらりと見て、口元を押さえて笑う。
私の服が安っぽい。そんな言葉も聞こえてきた。
これ以上ここにいる気にはなれず、スマートフォンをしまって席を立った。
すると陽斗が駆け寄ってきて、バッグの持ち手をつかんだ。
「澄花お姉ちゃん、これって本当にmiumiuなの? ほら、minminって書いてあるよ! ここも剥げてる!」
陽斗が金具を指さすと、食卓からまた笑い声が上がった。
莉央は椅子の背にもたれて笑い、ようやく顔を上げた。
「陽斗くん、本人の前で言っちゃ駄目でしょ。澄花が修吾にもらった偽物のバッグを大事そうに使ってるの、私たちずっと黙って見てたのに」
私は手元のバッグを見下ろした。
去年の誕生日に、修吾がくれたものだった。
海外にいる知人に頼んで買ってもらったと言っていた。値段を気にする私に、そんなことは考えなくていいから、と笑っていた。
嬉しくて、普段はほとんど使えなかった。付属の袋にしまっておき、鳴海家の集まりに呼ばれたときだけ持ってきていた。
莉央が近づき、親しげに私の手を取った。
「あれ、澄花。もしかしてバッグだけだと思ってた? 今日のワンピースも靴も、修吾にもらったアクセサリーも、ほとんど偽物よ。そういうブランドに縁がなかったら、見分けられなくても仕方ないけどね」
彼女は私の服を上から下まで眺め、気の毒そうに首を傾げた。
「でも、澄花が本物を身につけてたって、誰も信じないんじゃない? そんなに気にしなくてもいいと思うけど」
そう言って、伊勢海老の身をひと切れ、私の皿に載せた。
「ほら、せっかくの伊勢海老だけど、澄花にはちょっと贅沢だったかな?」
佳代が吹き出し、周囲にも笑いが広がった。
修吾は席についたまま、ゆっくり酒を飲んでいる。莉央を止める気配はなかった。
「これ、全部あなたが買ってくれたものよね?」
修吾がグラスを置いた。
「それが?」
「偽物だって、知ってたの?」
彼は面倒そうに眉を寄せた。
「澄花、こんなところで話す必要あるか?」
「理由を聞いてるの」
修吾は莉央を一瞥した。
「莉央のドレスとジュエリーだけで三千万円は超えてる。全部俺が買ったんだぞ。たかがバッグ一つで、いつまで文句を言うつもりだ?」
私は彼を見つめたまま尋ねた。
「三千万円が大した額じゃないなら、どうして私には偽物ばかり買ったの?」
修吾は答えず、グラスを持ち直して目をそらした。
私はバッグを開き、財布とスマートフォン、鍵を取り出した。近くにあったきれいな手提げ袋に入れ、何も残っていないことを確かめてから、バッグを椅子に戻した。
「これで十分だと思ってたんでしょう。だったら、もう持ってる必要はないわね。服やアクセサリーも、明日まとめて送り返す」
修吾が眉をひそめた。
「澄花、何してるんだ?」
「修吾、別れましょう」
一瞬、彼の表情が固まった。
すぐに不機嫌そうな顔に戻る。
「くだらないこと言うなよ」
私は手提げ袋を持ち、そのまま広間を出た。
廊下に出ても、扉の向こうから声が聞こえた。誰かが、追いかけなくていいのかと修吾に尋ねている。
彼は鼻で笑った。
「追いかけてどうするんだよ。俺と別れて、あいつに行くところがあると思うか? 鳴海家と縁ができただけでも十分恵まれてるんだ。二、三日したら戻ってくるさ」
私は扉の前で立ち止まった。
手提げ袋の持ち手が指に食い込んでいた。
十七歳のとき、修吾が誘拐された。
両親は彼が廃倉庫に監禁されていると知り、助けに向かった。警察が到着したとき、二人は深い傷を負っていた。そのまま帰らぬ人となった。
遺体と対面したあと、私は長い間、声を出せなくなった。
強い精神的な衝撃による症状だと、医師から説明された。
あの頃の修吾は、私の手を握って涙を浮かべていた。
「澄花、今日から俺がお前の家族になる。誰かに嫌なことをされたら、俺が守るから」
私が人と話そうとしなくなっても、修吾は毎日そばに座り、学校であったことを一人で話してくれた。
一度、具合が悪くなって部屋に閉じこもったときには、扉の向こうで『星の王子さま』を読んでくれた。
一日目も二日目も、私は扉を開けなかった。三日目の夕方に開けると、彼の声はひどくかすれていた。
学校で私をからかう生徒がいれば、修吾は相手につかみかかった。傷だらけの顔で帰ってきて、それでも勝ったよ、と笑っていた。
やがて私は少しずつ声を取り戻した。
その間も、修吾はずっとそばにいた。
あの頃、彼の約束を疑ったことはなかった。
鳴海家の屋敷を出ると、激しい雨が降っていた。
今年の十五夜は台風と重なっていた。強風に木の枝が飛ばされ、道端では幹の途中から折れた木が道路をふさいでいる。
電車もバスも次々に運休し、配車アプリを開いても車が見つからなかった。
私は軒下を選びながら歩き始めた。
雨はたちまち服に染み込み、傘もまともに差せない。商店街の近くまで来たとき、右足のパンプスがぐらりと傾き、靴底が剥がれ落ちた。
しゃがんで何度か押しつけてみたが、元には戻らなかった。もう片方も、つま先から剥がれかけている。
私は靴をゴミ箱に捨て、濡れたストッキングのまま歩き出した。
通りには、ほとんど人がいなかった。
途中ですれ違ったカップルは一本の傘を分け合っていた。男性は自分の肩を雨にさらしたまま、女性を抱き寄せて駅へ走っていく。
コンビニの軒下でスマートフォンを取り出したが、修吾からの連絡はなかった。
代わりに、莉央がLINEのVOOMに写真を投稿していた。
鳴海家の明るい広間で、莉央と修吾が寄り添い、グラスを合わせている。親戚たちが二人を囲み、楽しそうに笑っていた。
佳代がコメントを残していた。
「二人とも、ますますお似合いになってきたわね」
修吾の父親の正隆は、無事に帰ったか、台風が強くなっているから気をつけろ、と書き込んでいた。
そのやり取りを眺めているうちに、両親が生きていた頃のことを思い出した。
雨の日には母が傘を持ったかと聞き、父は帰りが遅くなるたびに夕食を食べたかと電話をくれた。
今夜もきっと、何通も連絡が届いていただろう。
画面を消し、再び雨の中へ出た。
家の近くに着く頃には、足の裏を小石で何か所も切っていた。一歩踏み出すたびに、鋭い痛みが走る。
まだ開いていたドラッグストアで解熱剤と消毒液、ガーゼを買った。
店員は家族と電話で話していた。もうすぐ店を閉めて帰るから心配しないで、と声をかけている。
そこへ、修吾から電話がかかってきた。
私は慌てて通話をつないだ。
「澄花、車に置いてあった酔い止め、どこにしまった? 莉央がちょっと気分悪いんだ」
返事が出てこなかった。
向こうから莉央の笑い声が聞こえる。
「澄花、気にしなくていいからね。私、飲みすぎて少し気持ち悪いだけなのに、修吾が大げさなの」
修吾がすぐに言った。
「無理するなって。澄花みたいに、多少ぶつけても平気ってわけじゃないんだから。莉央はご両親に大事にされてるだろ。俺といるときに怪我でもさせたら大変だ」
私は血のにじんだ足の裏に目を落とした。
修吾は薬の場所を急かしている。
助手席の前のグローブボックスにあると答え、電話を切った。
ドラッグストアのガラス扉が風に激しく揺れていた。店員が電話をしまい、台風のため早めに閉店するのだと申し訳なさそうに告げる。
私は軽く頭を下げ、買った薬を持って店を出た。
マンションに戻った頃には、立っているのもつらくなっていた。
暗証番号を入力したが、電子錠がエラーを知らせた。
もう一度入力しても、開かない。
莉央はよくこの部屋に来ていた。
修吾は彼女に合鍵を渡し、電子錠の暗証番号まで変更させていた。防犯のためだと言い、変更後の番号は修吾にしか教えなかった。
私は何度も嫌だと伝えたが、修吾は莉央のほうが機械に詳しいのだから、細かいことを気にするなと言うばかりだった。
修吾に電話をかけても応答はなく、莉央にかけ直しても同じだった。
そのとき、扉の下に人影が差した。
私は慌てて扉を叩いた。
「莉央? 中にいるんでしょう。開けて。暗証番号が変わってて入れないの」
室内が一瞬、静かになった。
次いで、カチリと金属音がした。
内側の補助錠がかけられたのだ。
「莉央! そこにいるの、わかってるから。お願い、開けて!」
何度叩いても返事はなかった。
廊下の人感センサー式の照明がしばらく点灯し、やがて消えた。あたりが暗くなり、冷たい壁にもたれると、風雨の音ばかりが耳に響いた。
目の前の暗がりが、十七歳のときの病院の廊下と重なった。
あの夜、私は長椅子に座って両親の知らせを待っていた。消毒液の匂いがしていたことを覚えている。
やがて、二人はもう帰ってこないと告げられた。
胸が締めつけられ、息がどんどん速くなる。喉に何かが詰まったようで、声を出そうとしても出てこない。
背中を冷たい汗が流れた。
私は壁を伝い、ゆっくりしゃがみ込んだ。
意識が遠のく寸前、もう一度だけ扉を叩いた。
中から返事はなかった。
2
翌朝、私はマンションの廊下で目を覚ました。
額が熱く、手足に力が入らない。足の裏が床に触れただけで痛みが走り、壁につかまって座り直した。
スマートフォンはまだ手に握っていたが、電池が切れていた。
そのとき、部屋の扉が開いた。
莉央が修吾のネクタイを直している。二人は楽しそうに笑いながら出てきた。
私の姿を見た修吾が足を止めた。
「澄花? 何でこんなところに座ってるんだ? 昨日はどこに行ってた? そんな格好になって」
私は彼を見上げた。
昨夜、何度も電話をかけた。
扉を叩いて指が痛くなった頃、莉央は確かに部屋の中にいた。それなのに、補助錠までかけたのだ。
二人はいつもどおりの顔をしている。
莉央が口元に手を当てた。
「えっ、澄花、昨日からずっと外にいたの? 全然知らなかった。昨日は私、気分が悪くて、修吾が一晩中寝室で看てくれてたの。あんな雨風だったし、ノックにも気づかなかったわ」
彼女の顔を見つめた。
悪びれた様子はなかった。
言い返す気力も残っていない。とにかく部屋に入り、横になりたかった。
壁に手をついて立ち上がった途端、足をひねって体が傾いた。
修吾が私を抱き留め、そのまま抱き上げた。
彼の服から、莉央がつけている濃い香水の匂いがした。私は身をよじって降りようとしたが、修吾は腕に力を込めた。
「昨日は別れるって騒いで、今度は廊下で一晩過ごしたのか。そこまでして俺に心配してほしいのか? せっかく運んでやろうとしてるのに、何で嫌がるんだよ」
首を振って説明しようとしたが、声が出なかった。
私は息を呑み、もう一度声を出そうとした。それでも喉から漏れるのは、かすかな息だけだった。
十七歳の頃の恐怖が、体の奥からせり上がってきた。
異変に気づいた修吾が顔をのぞき込む。
「澄花、どうした? ……まさか、また声が出ないのか?」
私は喉に指を当て、何度もうなずいた。
彼の顔がこわばる。
ところが、玄関のほうから莉央の笑い声が聞こえた。
「ええ、また? 澄花って子供の頃もそうやって修吾を心配させてたよね。もう三十歳なのに、まだ同じことするんだ。ねえ修吾、考えてみてよ。今まで何ともなかったのに、別れるって話になった途端に声が出なくなるなんて、ちょっと出来すぎじゃない?」
修吾の腕から力が抜けた。
さっきまで浮かんでいた心配そうな表情が消え、面倒くさそうに眉を寄せる。
彼は私をベッドに降ろした。
「昨日は俺も言いすぎたよ。でも、そんな芝居までしなくていいだろ。昔はそれで俺も心配したけど、何度もやられたら疲れるんだよ」
私は彼の袖に手を伸ばしたが、修吾は一歩下がった。
そこへ莉央が寝室をのぞき込んだ。
「修吾、やっぱりまだ気持ち悪い。今日は車じゃ駄目かな。昨日のことを思い出すだけで酔いそう」
修吾はすぐに振り向いた。
「まだつらいのか? じゃあ今日は車をやめよう。バイクで送るよ」
私は思わず顔を上げた。
修吾には、何よりも大事にしているレーシングバイクがあった。
若い頃は国際大会にも出場し、何度か優勝したことがある。そのバイクは練習でもレースでも使ってきたもので、整備さえ人任せにしたがらなかった。
自分の相棒だ、といつも言っていた。
以前、修吾の友人に勧められ、何も知らずにそのバイクにまたがって写真を撮ったことがある。
帰ってきた修吾は顔色を変え、私の腕をつかんで車体から引き離した。私は足を滑らせ、膝と肘を擦りむいた。
それから一か月、何度謝っても修吾の機嫌は直らなかった。
けれど莉央が車に乗りたくないと言えば、彼は自分からバイクに乗せると言う。
私は目を閉じた。
外では雨がやみ、リビングから莉央の甘えた声が聞こえてくる。続いて修吾がヘルメットや上着を用意する音がした。
二人が出ていくと、部屋は静かになった。
次に目が覚めたのは、それから三時間ほど経った頃だった。
充電したスマートフォンに、LINEの通知が次々と表示されている。
法律事務所のグループチャットで、莉央が私を名指ししていた。
「宮原さん、今日は大事な模擬裁判のイベントがあるのに、どうして無断で休んでいるんですか? 大勢の人が関わってるんですよ」
頭の痛みをこらえながら、返事を打った。
「高熱が出ています。今日は病欠させてください。診断書は後日提出します」
莉央からすぐに返信があった。
「診断書はいつ提出できますか? 今日中に状況を確認できないと困ります。修吾も今朝、澄花に会ったんでしょう? 何か聞いてない?」
画面を見つめたまま、指が止まった。
昨夜から今朝にかけて、私の具合が悪いことを見たのは修吾と莉央だけだ。
案の定、次に届いたのは修吾のメッセージだった。
「欠勤するなら事務所の規定に従ってほしい。体調が悪いと言うだけで休めるわけじゃない。仮病で仕事を放り出したとわかれば、相応の対応を取る」
グループチャットがにわかに騒がしくなった。
修吾と莉央は仕事でも息が合う、幼なじみで家柄も釣り合っている、という書き込みが続いた。
私の名前を出す者もいた。
「宮原さんって、いつも鳴海先生の後を追いかけてません? さすがにこれは恥ずかしいですね」
「鳴海先生には早乙女先生くらいの人が似合うよ。自分の立場を考えたほうがいいと思う」
私はスマートフォンを伏せた。
大学時代、成績はいつも私のほうがよかった。
その後、司法試験に合格し、司法修習を終えて弁護士登録も済ませた。本当は大学院で刑法の研究を続けたくて、教授から研究の機会も紹介されていた。
その頃、佳代に鳴海家へ呼ばれた。
「澄花、莉央が負けず嫌いなのは知ってるでしょう。あの子、自分より成績のいい人がいると気にしてしまうの。あなたはもう弁護士になれたんだし、これ以上その研究の席を争わなくてもいいんじゃない?」
私は、どうしても勉強したい分野なのだと答えた。
すると佳代は湯飲みを置いた。
「ご両親のお墓、今もうちが費用を出して管理しているのよね。そんなに自分の力でやっていきたいなら、今後はお墓のことも自分で考えてもらっていいのよ」
私は言葉を失った。
両親が亡くなったとき、私はまだ未成年だった。
葬儀と墓地の費用は鳴海家が出し、その後の管理も引き受けてくれていた。簡単に改葬できるだけのお金はなく、両親のお墓をめぐって争うことも考えられなかった。
そのあと修吾にも説得された。
「莉央に譲ってやってよ。あいつ、昔から負けるのが嫌いなんだ。お前はもう弁護士になってるんだから、大学院に行かなくてもいいだろ。俺は学歴なんて気にしないよ」
私は研究の機会を諦めた。
莉央は実家から十分な支援を受けて学び続け、華やかな経歴を手に入れた。事務所に入ってからも昇進を重ね、今ではシニアパートナーの一人だ。
私は弁護士として働きながら、細かな雑務ばかり任されていた。
退職の手続きも残っている。
私は熱っぽい体を起こし、腫れた足の傷を包帯で覆い直した。履き慣れた靴に替えて、タクシーで事務所へ向かった。
3
会場に着いたとき、模擬裁判のイベントはすでに半分ほど進んでいた。
入口には法律実務の研修会と公開模擬裁判を案内するポスターが並び、法律関係のメディアや若手弁護士も招かれていた。
扉の近くまで行くと、莉央の声が聞こえてきた。
「裁判長、宮原和彦・千佳夫妻による当時の人命救助は、実際には周到に仕組まれたものだった可能性があります」
足が止まった。
スクリーンには、十数年前の誘拐事件の資料が映されている。両親の若い頃の写真が、大きく引き伸ばされていた。
莉央はきちんとしたスーツ姿で、模擬法廷の発言席に立っていた。
「二人は、誘拐されたのが鳴海家の跡取りだと知りながら、都合よく現場に居合わせ、犯人たちと接触しています。最初から犯人側とつながり、救助を装って鳴海家から多額の謝礼を得ようとしていた疑いがあるのです」
彼女は資料を一枚めくった。
「その後、金の分け前をめぐって争いになり、二人が殺害された可能性もあります。人助けの美談として語られてきた話は、本当の目的を隠すためのものだったのかもしれません」
客席がざわめいた。
私は入口に立ち尽くした。
事件は当時、大きく報道されていた。警察は長い時間をかけて捜査し、両親が修吾を救い出そうとして命を落としたことを確認している。
莉央は自分の弁論を披露するために、その事件を持ち出し、事実をねじ曲げていた。
対する模擬弁護側は準備不足なのか、用意された原稿を読み上げるだけで、莉央の主張にほとんど反論できていない。
話し終えた莉央は、客席にいる修吾へ目配せした。
修吾が満足そうにうなずいた。
事前の資料を見ていたのかもしれない。少なくとも、彼は両親の事件がこんな形で扱われることを止めようとしなかった。
会場では取材用のカメラが回っていた。
すでに一部の映像がSNSに投稿され、事件についての書き込みが増えている。
事情を知らない人たちが、両親を疑っていた。
「昔の救助事件に、そんな裏があったの?」
「これが本当ならひどい話だな」
「だから娘が鳴海家の跡取りと付き合ってたのか」
震える手でスマートフォンを握り、客席を抜けて修吾の前に立った。
彼は私を見るなり眉をひそめた。
「澄花? 高熱で休むんじゃなかったのか。どうしてここに来たんだ?」
口を開いても、声は出なかった。
私は手を上げ、以前覚えた手話で訴えた。
「どうして莉央にあんなことを言わせるの? 両親があなたを助けて亡くなったこと、知ってるでしょう!」
修吾は私の手の動きを見ても、顔色一つ変えなかった。
「模擬裁判だろ。研修のためにやってるだけだ。ここで何を言ったって、当時の捜査結果が変わるわけじゃない」
私はスマートフォンの画面を見せた。
彼は書き込みをざっと眺め、うんざりした顔になった。
「ネットで何か言われたって、すぐ忘れられるよ。お前、自分のほうが莉央より優秀だって思ってたんだろ? だったら前に出て反論してみれば?」
そこまで言って、修吾は口元をゆがめた。
「ああ、そうだった。今は声が出ないんだっけ。こんなところまで来て芝居を続けたって、恥をかくのはお前だぞ」
私は修吾の顔を見つめた。
かつて何度も守ると約束してくれた人が、みんなの前で私の症状を笑っている。
その胸を強く押し、会場を出た。
修吾がすぐに追ってきた。
「おい、待てよ。さっきは俺も言いすぎたって」
私は歩き続けた。
すると彼は何か思い出したように声を和らげた。
「海外でウェディングフォトを撮りたいって言ってただろ? 莉央がハワイの予定を組んでくれたんだ。明日出発する。ホテルもカメラマンも予約済みだし、これで機嫌直してくれよ」
私は足を止めた。
修吾とは以前から結婚の話を進めていた。
けれど、結婚式の準備をするLINEグループに私は入っていなかった。
管理者は莉央で、ドレスも撮影も旅行の日程も、すべて彼女が決めている。修吾に聞いても、莉央はこういうことに詳しいから任せておけばいいと言われるだけだった。
ウェディングフォトの雰囲気さえ、私は最後まで知らされていなかった。
手を上げ、修吾に問いかけた。
「明日? 私の都合は聞いてくれた?」
彼の顔に苛立ちが浮かぶ。
「一日くらい休めばいいだろ。お前の給料なんて大した額じゃないんだから、そこまで仕事を優先しなくてもいいじゃないか」
私は続けた。
「行かない。これからも、私の予定を勝手に決めないで」
修吾が何か言いかけたとき、莉央が会場から出てきた。
「修吾、どうしたの? 澄花は何て言ってるの?」
「明日のハワイには行かないってさ」
莉央は困ったように目を見開いた。
「ええっ、どうしよう。荷物を持ってもらったり、写真を撮ってもらったりするつもりだったのに。来ないなら、誰かアシスタントを頼まないと」
修吾が彼女を見た。
「じゃあ、そうしよう」
莉央は笑顔でうなずいた。
私はゆっくり手を下ろした。
二人の会話が耳に残ったまま、事務所へ戻り、人事担当者へ退職届を提出した。
退職日と引き継ぎ内容はすでにまとめてある。担当者は少し驚いたようだったが、引き留めはしなかった。
マンションに帰る頃には、外は暗くなっていた。
クローゼットには修吾からもらった服や靴が残っている。もう身につける気にはなれず、すべて箱に詰めて鳴海家へ送り返すことにした。
荷造りの途中、メールの通知が届いた。
差出人は、ずっと昔に登録した予約配信サービスだった。
件名は短かった。
「大好きな澄花へ。三十歳のお誕生日おめでとう」
画面を見たまま、手が止まった。
今日は私の三十歳の誕生日だった。
朝、マンションの廊下で目を覚ましてから、今まで忘れていた。
メールには暗号化された動画が添付されていた。パスワードのヒントは、幼い頃に両親が私を呼んでいた愛称だった。
入力すると、動画が再生された。
画面に母の顔が映る。
記憶にある姿より少しやつれていて、目元が赤い。それでも一生懸命に笑おうとしていた。
「澄花、この動画を見る頃には、もう三十歳になってるはずね。お母さんとお父さん、あなたに話しておきたいことがあるの」
父が画面に入り、母の隣に腰を下ろした。そっと母の肩に手を添える。
「澄花、修吾を誘拐しようとしているのは、早乙女家の人間なんだ」
4
私は画面から目を離せなかった。
父は、早乙女家が以前は宮原家の隣に住んでいたことを話し始めた。
莉央の父親、早乙女隆臣は事業を拡大してきたものの、鳴海家にはどうしても及ばず、以前から強い対抗心を抱いていたらしい。
そこで修吾を誘拐し、鳴海家から身代金を取り、痛い目を見せようと考えたのだという。
事件が起きる数日前、夜中に水を飲もうと起きた父は、隣家の庭で誰かが誘拐計画を話しているのを耳にした。
母は目を赤くしていた。
「私たちだって怖いのよ。あなたはまだ小さいし、早乙女家に仕返しされたら、澄花はどうなるのかって。でも修吾くんはまだ十七歳でしょう。狙われていると知ってしまった以上、放っておけないの」
二人は一晩中話し合い、警察に知らせるとともに、鳴海家にも何とか伝えることにした。
早乙女家に気づかれることを恐れ、まずは知っている事実を記録しておこうと考えた。そのために撮ったのが、この動画だった。
父がカメラを見つめた。
「澄花、もしお父さんとお母さんに何かあっても、自分を責めないでくれ。助けに行くと決めたのは、私たちなんだ」
母は目元を拭い、微笑んだ。
「お母さん、あなたが大人になるまでそばにいたい。卒業するところも、好きな仕事を見つけるところも見たいの。でも、もしそれができなくなっても、澄花ならきっと、正直で勇気のある、優しい大人になれるって信じてるからね」
そこで動画が終わった。
私は床に座り込んだまま、声も出せずに泣いた。
両親は事件が起きてから修吾の居場所を知り、助けに向かったのだと思っていた。
けれど事件の前から計画を知っていて、報復される危険もわかったうえで行動していた。
それなのに修吾の家族は、二人の死を何度も私を傷つけるために持ち出した。
涙を拭い、動画のデータを三つに複製した。
一つはクラウドに保存し、一つは外部記憶装置へ移した。もう一つは元のメール情報と一緒に久我律へ送った。
ほどなくして、律からビデオ通話がかかってきた。
私は両親の動画を再生して見せた。
見終えた律の表情は険しかった。
「澄花、これは調べるべきだ。でも、この動画だけでは当時の事件の全容は証明できない。元のデータは必ず残しておいて。冬篠に来てくれれば、一緒に証拠を探せる」
私はうなずいた。
通話を切ったあと、修吾の連絡先をすべて削除し、荷物をまとめた。偽物のアクセサリーや服は箱に詰めて、送り返す準備をした。
あのmiumiuの偽物だけは、リビングのテーブルに置いた。
中には一枚のメモを入れた。
「偽物は返します。婚約も白紙にしてください」
翌朝一番の便で、私は冬篠市へ向かった。
到着したときには雨がやみ、空に虹が半分だけかかっていた。
空港まで迎えに来た律は、余計なことを聞かず、まず私のスーツケースを受け取った。
「しばらくはうちに泊まって。仕事のことは急がなくていい。明日は病院に付き添うから、そのあと事件のことを考えよう」
律は大学時代の先輩で、修吾以外では、以前私が声を失ったことを知る数少ない人だった。
今は冬篠市の大手法律事務所でパートナー弁護士を務め、刑事事件を中心に扱っている。
私は手話で伝えた。
「両親の事件を、きちんと調べたいんです」
律はうなずいた。
「わかってる」
それから三か月、昼間は事務所で働き、夜は律と一緒に事件の資料を調べた。
過去の報道を読み直し、当時の捜査関係者に連絡を取り、すでに榛ヶ丘を離れた証人を探した。
律がたどり着いたのは、誘拐に加わった男の妻だった。
その男は後年、仲間内の争いで亡くなっている。死ぬ前に、妻へ一通の手紙を残していた。
そこには、こう書かれていた。
「早乙女の社長に頼まれてやった。五十万払う約束だったのに、十万しかもらえなかった」
妻は最初、手紙を渡そうとしなかった。早乙女家から、自分や子供に何かされるのではないかと怯えていた。
私は彼女の前に座り、手話で伝えた。
「私の両親も、あの人たちに殺されたんです」
律が言葉にして伝えると、女性は長い間私を見つめた。
やがて目に涙を浮かべ、寝室から黄ばんだ封筒を持ってきた。
「主人は死ぬ前、ずっと後悔していました。この手紙で償えるとは思いません。でも、少しでも調べる役に立つなら」
そのあと、私たちは事件を担当した元刑事にも会うことができた。
早乙女隆臣の名前を聞いた彼は、長い間黙っていた。
当時、早乙女家につながる情報があったことを認めたものの、その線は十分に調べられなかったという。鳴海家は早期の事件終結を望んでおり、早乙女家も関係者に働きかけていたらしい。
律は手紙の筆跡鑑定を依頼し、証言を適切な形で記録した。さらに、それぞれの情報を時系列に並べていった。
両親の動画と手紙、当時の事件資料が少しずつ結びついてきた。
その頃、榛ヶ丘では修吾が私の不在に気づいていた。
5
修吾がマンションに帰ると、部屋はがらんとしていた。
澄花の服も本も、日用品も片づけられている。リビングのテーブルには、あのmiumiuの偽物だけが置かれていた。
バッグを開くと、中にメモが入っていた。
「偽物は返します。婚約も白紙にしてください」
修吾はすぐに電話をかけたが、つながらなかった。
法律事務所へ行くと、人事担当者から、宮原弁護士ならすでに退職していると告げられた。
友人に連絡しようとして、修吾は澄花と親しい相手をほとんど知らないことに気づいた。
莉央は相変わらず笑っていた。
「修吾、放っておけばいいのよ。澄花には榛ヶ丘で頼れる人なんていないんだから。そのうち戻ってくるって」
修吾は答えず、バッグに残されたメモを見つめていた。
一週間後、大学時代の知人から、澄花が冬篠市の久我律の事務所に移ったらしいと聞き、すぐに飛行機を予約した。
*
その日、私は事務所で証拠を整理していた。
受付から来客を告げられ、廊下へ出ると、修吾が立っていた。
スーツにはしわが寄り、目は赤く充血している。
私を見るなり近づいてきた。
「澄花、帰ろう」
私は一歩下がった。
修吾は声を和らげた。
「十五夜のときは、俺も言いすぎた。莉央は冗談のつもりだったんだ。いつまでも気にするなよ。バッグのことだって説明できる。だから……」
私は手を上げた。
「私には偽物で十分だと思ってたんでしょう。莉央がお父さんとお母さんを侮辱しても、止めてくれなかった。修吾、もう説明はいらない」
彼は私の手の動きを見つめ、動きを止めた。
「澄花、まだ声が出ないのか?」
私はうなずいた。
修吾の顔から血の気が引いた。
「本当にまた声が出なくなったのか……。ごめん。俺、わざと黙ってるんだと思ってた。怒ってるだけだって……」
私は手話を続けた。
「修吾はいつも莉央の言うことを信じてた。莉央が何か言えば、私の話は聞いてくれなかった。今になって仮病じゃないとわかったからって、何が変わるの?」
修吾が私の手を取ろうとしたが、私は避けた。
「澄花……もう一回、やり直せないかな」
首を横に振った。
「私たちはもう終わったの。帰って」
修吾はしばらく立ち尽くしていた。
やがて、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「これ、お母さんの遺品なんだ。事件のあと、まだ子供だったお前の代わりに、うちで預かってたものの一つでさ。俺がずっと持ってた。結婚するときに渡そうと思って……」
箱を開けると、小さな銀の指輪が入っていた。
母が生前、いつも身につけていたものだ。
指輪の内側には、二文字が刻まれている。
「平安」
私は指輪を握りしめ、そのまま事務所へ戻った。
修吾は冬篠に一週間滞在し、毎日事務所の下で待っていた。私は一度も会わなかった。
律から警察に相談して、事務所の周辺で待ち続けるのをやめてもらおうかと聞かれたが、私はスマートフォンに「大丈夫です。長居はしないと思います」と打ち込んだ。
八日目、修吾の姿は消えた。
後になって、莉央が冬篠まで修吾を追ってきたと聞いた。
*
莉央はその日の夜の便で冬篠へ飛び、上質なコートを羽織って、修吾が泊まっているホテルのロビーに現れた。
きれいに整えられた髪と化粧に乱れはなかったが、目元は赤くなっていた。
「修吾、何も言わずに冬篠まで来るなんて、心配したんだから。澄花は会ってもくれないんでしょう? いつまでここにいるつもりなの?」
修吾はソファに座ったまま、莉央を見なかった。
しばらくして口を開いた。
「莉央、十五夜のあの席で、どうして澄花のご両親のことを持ち出したんだ?」
莉央は目を瞬かせた。
「だって、ちょっと場を盛り上げたかっただけよ。私が一人で言い始めたわけでもないし、普段からみんな話してるじゃない」
「誰が?」
修吾が顔を上げた。
「誰が澄花のご両親の悪口を言ってたのか、教えてくれ」
莉央の声が小さくなった。
「佳代おばさまとか、親戚の人たちよ。澄花がそんなに気にするなんて思わなかったし……」
修吾は立ち上がった。
「榛ヶ丘に帰ってくれ。これからは俺のことに口を出さないでほしい」
莉央は耳を疑った。
「修吾、澄花のために私を追い返すの? 私たち、子供の頃からずっと一緒だったじゃない。あの子の何がそんなに大事なの?」
「澄花は俺の婚約者だ」
莉央の目から涙がこぼれた。
「でも、向こうはもう修吾なんていらないって言ってるんでしょ! ここでいくら待っても無駄じゃない!」
修吾は答えず、ホテルを出た。
莉央はその日のうちに榛ヶ丘へ戻った。
その後も何度も連絡した。今日は具合が悪い、明日は仕事で困っている、翌日には佳代から食事に誘われたと、口実を変えてメッセージを送り続けた。
修吾の返事は次第に短くなり、やがて既読もつかなくなった。
莉央は焦り始めた。
澄花が大切にしているのは、両親の事件だ。
彼女はそこに目をつけた。
しばらくして莉央は弁護士として、過去の誘拐事件の捜査に疑問があるという意見書を関係機関に提出した。
同時にメディアを通じ、当時の宮原夫妻による人命救助には疑わしい点があると公言した。
宮原夫妻は誘拐犯とつながっていて、鳴海家に取り入るために救助を装ったのだと、世間に信じ込ませようとした。
けれど、澄花と律はすでに証拠をそろえていた。
6
莉央が事件への疑問を公にすると、昔の誘拐事件は再び大きく取り上げられるようになった。
私と律は、両親の動画、犯人の遺書、筆跡鑑定の結果、関係者の証言を警察と検察に提出した。
早乙女隆臣が当時の誘拐を計画し、関与していた可能性を調べてもらうためだった。
一方、模擬裁判やメディアで莉央が繰り返した虚偽の発言については、私自身に関する名誉毀損などを理由に、民事訴訟を起こした。
その間も、治療を続けていた。
医師の指導に従い、短い音を出す練習から始めた。最初はほんのかすかな声しか出なかったが、練習を重ねるうちに、少しずつ言葉にできるようになった。
ある日、律が書類を整理しているとき、私は思い切って声をかけた。
「律さん」
彼が顔を上げた。
それから、嬉しそうに笑った。
「聞こえたよ」
医師からは発声機能に明らかな回復が見られると言われたが、治療は続けるよう勧められた。
裁判を数日後に控えたある日、律が準備した書類を机に置いた。
「澄花、本当に自分で法廷に立つんだね?」
「はい」
律はうなずいた。
「じゃあ、準備したとおりに進めよう」
開廷当日、裁判所の廊下で私を見つけた莉央が足を止めた。
「澄花? どうしてここにいるの? ずっと話せないって言ってたじゃない」
私は回復の経過が記された医療資料を見せ、日付を確かめさせた。
「もう話せますよ、早乙女先生。それでは法廷で」
莉央の顔色が変わった。
審理が始まっても、彼女は事件について合理的な疑問を述べただけだと主張していた。
私はまず、彼女の公開発言の記録と、誘拐に加わった男が死ぬ前に残した手紙を証拠として提出した。
手紙には、早乙女家の関係者から誘拐を依頼され、約束された金の一部しか受け取れなかったことが書かれている。
莉央が声を上げた。
「そんな手紙、どこから出てきたのかわからないでしょう! 本物かどうかも疑わしいわ!」
私は鑑定資料を示した。
「筆跡鑑定の結果と、手紙を保管していた方の陳述書も提出しています。早乙女隆臣氏に刑事責任があるかどうかは、現在、捜査機関が別に調べています。ただ、早乙女先生。私の両親が誘拐犯と共謀していたと公言する前に、こうした情報を調べましたか?」
莉央は書類を握りしめ、答えなかった。
続いて、退職した元刑事の陳述書を提出した。
彼は当時、早乙女家につながる手がかりが存在したものの、十分な捜査が行われなかったことを認めていた。
鳴海家が早期の事件終結を望んでいたことや、早乙女家が関係者へ働きかけていたことも、後の調査で問題になっていた。
莉央は資料をめくりながら、何度も代理人と小声で話していた。
休廷中になっても、彼女は私に食ってかかった。
「澄花、あなたなんて普通の大学を出ただけでしょう? 大学院も修了してないくせに、何で私に対抗できると思うの?」
私は彼女を見た。
「私たちは二人とも弁護士登録をしています。今日の争点は学歴ではなく、発言の根拠です。早乙女先生、まずはそこを説明してください」
律は莉央の経歴についても別の資料を集めていた。
大学時代の成績記録には不自然な点があり、卒業論文には出典を適切に示していない箇所が多数見つかった。
事務所に入ってから自身の実績として公表した研究資料にも、ほかの弁護士が作成した未公開文書と酷似する部分があった。
さらに、莉央の成績を不当に書き換えるよう求められて拒絶し、その後、早乙女家から圧力を受けた元教授が、当時の事情を説明すると申し出てくれた。
律はこれらの資料を、大学や弁護士会、関係する調査機関へそれぞれ提出した。
私も、佳代から研究の機会を辞退するよう求められたときの録音を提出した。
そこには、莉央が私より勉強で劣ることを嫌がっているという話や、私が辞退しなければ鳴海家は両親の墓地の管理をやめる、という佳代の言葉が残っていた。
これらの問題も、やがて関係機関や報道機関の注目を集めることになった。
法廷では、莉央の公開発言を裏づける根拠が乏しいことが、しだいに明らかになっていった。
最後に私たちは、両親が残した動画の一部を証拠として示す許可を求めた。
裁判官が証拠としての用途を確認し、再生を認めた。
スクリーンに母の顔が映った。
「澄花はまだ小さいし、私たちだって怖い。でも修吾くんは十七歳なのよ。あの子が危険な目に遭うと知っていて、黙って見ているわけにはいかないでしょう」
父は隣に座り、母の手を握っていた。
「早乙女家が誘拐を計画していると知った以上、何とかして止めないといけない」
莉央はうつむいたまま、画面を見ようとしなかった。
その後、裁判所は莉央の公開発言のうち、複数の主張に十分な根拠がなく、民事上の責任を負うと判断した。
警察による、早乙女隆臣と誘拐犯たちの金銭のやり取りに関する捜査も進んだ。
莉央自身の弁護士としての業務についても、関係機関による調査が始まった。
メディアは、宮原夫妻が修吾を救おうとして命を落とした経緯を、改めて報じるようになった。
両親を中傷していた投稿は、次々と削除された。
かつて早乙女家から圧力を受けた大学教授も、自身の経験を公にした。
佳代が私に研究を諦めるよう求めた録音も、報道された。
鳴海家と早乙女家が過去に行ってきたことが、少しずつ世間に知られていった。
修吾は、その一連の報道をニュースで知った。
7
修吾は榛ヶ丘市のマンションで、一連の報道を見ていた。
画面には、ダークカラーのスーツを着た澄花が映っている。彼女は資料を整理し、記者の質問に落ち着いて答えていた。
やがて画面が切り替わり、宮原夫妻の残した動画が流れた。
父親が語っている。
「修吾くんはまだ十七歳だ。あの子が狙われていると知ってしまったら、放っておけない」
修吾は動画を最初から再生し直した。
それが終わると、また再生した。
十七歳の頃、監禁されていた倉庫の光景が頭によみがえる。
椅子に縛りつけられていたことも、宮原夫妻が助けに来てくれたことも覚えていた。
二人は血まみれになりながらも、必死に彼を守ろうとしていた。
そのあと、澄花は病院で両親の遺体と対面した。
青ざめた顔で廊下に立ち、泣く声さえ出せなくなっていた。
修吾はその手を握り、ずっと守ると約束した。
けれど十五夜の晩、親戚たちが澄花を笑いものにしても、彼はかばわなかった。
莉央が彼女の両親の死を冗談にしても、澄花が気にしすぎだと責めた。
その隣で、莉央のためにカニの身をほぐしていた。
修吾は両手で顔を覆った。
肩が細かく震えていた。
スマートフォンを取り出し、澄花に電話をかけたが、つながらない。LINEを送っても、メッセージは届かなかった。
修吾は再び冬篠へ向かった。
律の法律事務所の前で待っていると、建物から律が出てきた。
修吾はすぐに近づいた。
「久我さん、頼む。澄花に一度だけ会わせてほしい。謝りたいんだ」
律は立ち止まった。
「澄花は会いたくないと言っています」
「当時のことは全部知った。自分がどれだけひどいことをしたかも、わかってる」
律はしばらく黙っていた。
「澄花から、あなたに伝えてほしいと言われたことがあります」
修吾が顔を上げた。
「何だ?」
「あなたはいつも莉央の言うことを信じていた。今になって事実を知ったところで、何が変わるのか、と」
修吾はその場に立ち尽くした。
それから一か月近く、彼は毎日のように事務所の前へ来た。
夜遅くまで待ち、十七階の灯りが一つずつ消えていくのを見届けてから帰る日もあった。
最後の日、修吾は澄花へ一通のショートメッセージを送った。
届かないかもしれないことは、わかっていた。
「澄花、ごめん。許してほしいなんて、もう言えない。どうか元気でいてくれ」
榛ヶ丘へ戻った修吾は、仕事に身が入らなくなった。
法律事務所で担当していた案件をほかの弁護士に任せ、これまで関わってきた鳴海家の事業にも顔を出さなくなった。大事にしていたバイクも、ガレージに置いたままだった。
莉央が会いに来ても、警備員に断らせた。
佳代からは、身寄りのない女一人のために仕事を投げ出すなんて、と電話で叱られた。
修吾はその電話を切り、半年間、実家に帰らなかった。
夜になると、彼は一人でマンションに座り、テーブルの上の偽物のmiumiuを見つめていた。
バッグに入っていたメモは、何度も開かれたせいで端が擦り切れている。
「偽物は返します。婚約も白紙にしてください」
修吾はずいぶん痩せた。
鳴海家の事業も、昔の事件をめぐる騒動や経営上の問題が重なり、業績を落としていった。
かつて一緒に遊んでいた友人たちも、彼の変わりようを心配していた。
修吾は誰にも事情を話さなかった。
澄花に連絡を取ることも、できなくなっていた。
8
冬篠での暮らしは、少しずつ落ち着いていった。
律の事務所では、刑事事件を任せてもらえるようになり、法律扶助に関わる仕事にも携わった。
昔の誘拐事件についても捜査は続き、早乙女隆臣に関わる証拠が積み重なっていった。両親が人を救おうとして亡くなったという事実も、改めて確認された。
私を取材に訪れるメディアも増えた。
ある記者から、こんな質問を受けた。
「宮原先生は大学の学部を卒業されたあと、これほど多くの事件で実績を上げていらっしゃいます。ここまで続けられた理由は何でしょうか?」
私は笑って答えた。
「司法試験に合格して司法修習を終えたあとも、勉強することはたくさんありました。担当する事件ごとに調べることが違いますし、今でも学ぶことばかりです。両親には、正直に、手を抜かずに生きなさいと教わりました」
その後、私は公益の法律支援基金を立ち上げた。
人を助けたことで被害に遭った人や、その家族。事件に巻き込まれても弁護士費用を用意できず、困っている人たちを支援するためのものだ。
名前は「平安の会」にした。
母の銀の指輪に刻まれていた言葉から取った。
設立の日、律が写真を撮ってくれた。
指輪をつけた私は、新しく掲げられた看板の横で笑っていた。
ときどき、経済ニュースで鳴海家の名前を見かけることもあった。
業績の悪化や、修吾が家業から身を引いたという記事。長く不眠に悩まされ、体調を崩しているという噂もあった。
私は見出しを読み、画面を閉じた。
ある出張の日、空港の搭乗待合室で修吾を見かけた。
以前よりずっと痩せ、スーツが肩から余っている。彼は隅の席に一人で座り、スマートフォンを見下ろしていた。
私は少し離れたところで足を止めた。
修吾はこちらに気づかなかった。
搭乗案内のアナウンスが流れた。
私は荷物を持ち、ゲートへ向かって歩き出した。
窓の外には明るい日差しが差している。雨上がりの空に、虹がかかっていた。
三十歳の誕生日に届いた、両親の動画を思い出した。
「澄花、お父さんもお母さんも信じてる。私たちがずっとそばにいられなくても、あなたはきっと、正直で勇気のある、優しい大人になれるよ」
指輪に刻まれた文字を、指先でそっとなぞった。
そのまま搭乗口へ向かう。
お父さん、お母さん。
私、ちゃんとやれてるよ。
(完)




