武田信玄の章~第八話(下)~
三方ヶ原台地に生えている一本の高い木の上に、黒装束の少女の姿があった。覆面の隙間から覗く二つの瞳は鋭く戦場を睨みつけていた。
「まったく・・・なぜ私が鷹村の護衛などせねばならんのだ・・・」
木の上でぼやいたのは徳川家隠密頭の服部半蔵。主君に無二の忠誠を誓う彼女だが、今回の命令には内心不満であった。
主君・家康の為なら命は惜しまないが、なぜ居候などに命をかけねば・・・とは思ったが、そこはいくつもの戦いをくぐりぬけてきた仲。見捨てるほどに嫌っているつもりもない。
(癪だが・・・あれでも殿の想い人。殿に悲しい顔をさせるわけにもいかぬな)
体が柔らかい人や運動神経のいい人、というのは聖一も現代日本で見てきた。しかし、自分の人生の中でその人に追われるという予測はさすがにできなかった。
「ケーッケッケッケッケ!なかなか上手く防ぐなぁ!」
全身を黒装束に身を包み、目だけ頭巾の隙間から覗かせている武田家の軟体男・小山田信茂は唯一外界に晒した瞳を愉悦の色に染めて、得物の鉤爪付きの縄を巧みに操ってくる鉤を鎧に引っ掛け、体勢を崩した上で捕えるなりとどめを刺すなりする戦法だ。
「くっ、このっ」
聖一は慣れない刀を振るって信茂の鉤縄を弾く。乱戦では弓は使い辛い為、彼は得物が使えずにいた。
聖一を守るのは渡辺守綱たち鷹村隊の兵士。守綱の指揮のもと、彼らは一丸となって聖一を守っているが、徐々にその数は減っていた。
「鷹村殿、降られよ!お命は保証いたしますぞ!」
「誰が降るか!」
遠くからの武田方の大将の呼びかけに怒鳴り替えすが、信茂からは目を逸らさない。とはいえ、ジリ貧であった。武田軍の包囲は固く、脱出は容易ではない。
(とはいえ・・・何か打開策を練らなきゃ、体力勝負では絶対に向こうのほうが有利だ)
現代高校生と戦国武将。どちらが体力的に優れているかは言うまでもないだろう。だけど―――
「彼女との約束を果たすために・・・・負けるわけには、いかないんだっ!」
「うひょおっ!?」
接近してきた信茂に刀を一閃し、敵将との距離をとる。その直後だった。
背後から、爆音が響き渡ったのは。
「な、何事ですか!?」
武田軍の将・馬場信春は怖がって暴れる馬を御しながら状況を把握するべく叫んだ。
「申し上げます!小山田隊後方で爆発があった模様!死傷者多数に加え、兵たちが混乱しています!」
「爆発?」
「恐らくは焙烙玉が投げ込まれたものかと思われます!」
『焙烙玉』とは現代の手榴弾のようなもので、陶器に火薬を詰めて導火線に火をつけて敵方に投げ込んで使用する。投げ込む際は焙烙玉に長いひもなどをつけて、遠心力を利用して放り込む。主に爆発や陶器の破片で攻撃する兵器だ。
「いずこからか放り込まれたのだろうが・・・味方に当たったらどうするつもりだったのだ!?」
「私は味方に誤爆してしまうほど素人ではない」
血の付いた刀を懐紙で拭きながら、半蔵は呟いた。彼女の傍には黒装束の人物が血を流してこと切れていた。
先ほど焙烙玉を投じたのはこの半蔵であった。味方への誤爆が危ぶまれる状況だったが、彼女は抜群のコントロールで鷹村隊を囲む小山田隊・馬場隊の最後尾に放り込んだため、陶器の破片は武田兵に刺さって味方の被害は皆無に等しかった。
「しかし武田の隠密も大したことがないな・・・背後から襲った私の気配に気が付きもしないとは。まぁそれはいい・・・道は開いたぞ、鷹村―――」
「今だっ!」
背後からの爆音に騒然とする両軍の兵士たちの中で、いち早く我に返ったのは守綱であった。聖一の馬の手綱を握って馬首を翻し、馬の尻に一鞭くれたのだ。
「うわぁっ!?」
狂奔して駆け出す馬から振り落とされないように、聖一は慌てて手綱を握りなおす。馬は爆破で空いた包囲網を突破して浜松城目掛けて駆け出した。
「チッ・・・逃がしちまったか」
小さくなっていく敵将の後ろ姿に向けて信茂は舌打ちをする。捕縛の名人として名を知られている彼からすれば、獲物を逃がしてしまうというのは屈辱的なのであった。
「馬場殿、雑兵どもは逃がしても構わぬな?」
「構わぬでしょう・・・退け!」
信春の号令とともに、包囲が解かれて徳川兵が駆け足で、または負傷者に肩を貸しながら浜松城目掛けて落ちていく。
「しかし・・・お館様にはなんと報告しようか」
「問題ありませぬよ。大陸をほぼ手中に収めた曹孟徳とて関雲長を長い間手元に留めておくことができなかったのです。たかだか甲斐・信濃・上野・駿河を治めるにとどまっている我が主が家康に対して忠義を尽くす彼を主君から引き離すは無理だったという事・・・」
手元に置いて育ててみたかった気持ちはありますがね、と信春は呟いた。
浜松城に戻り、馬を降りた家康は門を閉じようとした兵に門の開放を命じた。
「味方が戻ってきたら、彼らはどうやって城に入るのですか!」
家康はさらに忠佐に命じて、門の前をはじめ、篝火を要所に焚くよう命じた。暗い中帰ってくる兵たちの目印になるようにだ。
さらに絵師を呼ぶよう命じ、湯浴みと着替えを促す侍女を拒んで本丸に入った。
(―――私は、武田信玄に完膚なきまでに負けた)
絵師に自らを描かせながら、家康は心の中で思う。自軍は武田軍に叩きのめされ、多くの将兵を失った――――大切な人も、失いかけている。
(だから、忘れない。記憶に残しておくだけじゃ、ダメなんだ)
今の彼女の衣装は、先刻逃げ帰ってきた時の衣装を少し手直しした程度のもの。惨敗を喫した今の惨めな姿を忘れないように、教訓としておくために描かせるのだ。
「―――殿様、こんなものでどうでしょうか?」
描き終えたらしい絵師から、描き終えたばかりの絵を見せてもらう―――思わず笑みが浮かぶほどの上々の出来であった。
絵師に褒美を持たせて帰し、絵師と入れ替わりに入ってきた小姓の報告を受けた彼女は、小姓を突き飛ばさんほどの勢いで駆け出した。
草履を履くのももどかしい。普段は何でもないはずの『草履を履く』という動作に何度も手こずりながらもなんとか履き終わって駆け出す。
「聖一さん!」
「うわっ!?」
ボロボロになった想い人の姿を見つけ、その懐に飛び込む。聖一は戦いによる疲れで少女の突進を受け止められず、勢いのまま彼女に押し倒される。
「殿・・・約束通り、戻ってきましたよ」
本多重次に「見ているほうが恥ずかしいわい!」と主従諸共怒鳴られるまで自分の懐に顔を埋め、小さく肩を震わせる少女の黒髪を撫で続けた。