武田信玄の章~第八話(上)~
押し太鼓の音とともに、山県昌景率いる『赤備え』を先頭に『魚鱗の陣』で待ちうける徳川軍を粉砕せんと偃月の陣で攻め寄せる。
「ほう・・・御屋形様の言った通りだな。徳川軍は魚鱗の陣でこちらを迎え打つか」
先頭を駆る山県昌景は、主君の慧眼に感嘆の笑みを浮かべる。
「徳川軍は恐らく打って出るでしょう」
昨夜の軍議で信玄は諸将に向かって告げた。
「すでに遠江や三河の国人衆の中でも我らに味方する者は増えています。彼らを繋ぎとめるためにも家康は打って出て、我らと矛を交えねばなりません」
負けてもいい。ただ『徳川家は武田と戦う意思あり』というのを見せるだけで、国人の反応は違ってくる。
「すでに述べたとおり、決戦の地は三方ヶ原。我が軍は昌景の『赤』を中央に徳川軍に斬り込みます」
武田先鋒・山県昌景隊と徳川軍前衛・酒井忠次隊と本多忠勝隊の戦いは、終始山県隊の優勢に進んだ。
「怯むなッ!武田の山猿兵如きに我が本多隊の兵が崩れるなど許さん!」
馬上で『蜻蛉切』を振るい、首を取らんとする武田兵を斬り捨てる忠勝が怒号をあげて叱咤するが、『武田兵1人が三河兵3人分の強さ』と言われる武田兵の強さにおされっぱなしであった。本多隊の隣、酒井隊も瞬く間に崩されていく。
「しまった!突破されたか」
忠次が舌打ちして悔しがるが、壊乱した部隊を立て直してこれ以上の損害を出さぬようにするのが精一杯であった。
「数に劣る徳川軍は家康をなんとか浜松城に生還させる陣形を敷くでしょう。つまり『鶴翼の陣』ですが、我らは偃月の陣で徳川軍本陣目掛けて斬り込む・・・と読ませればよい」
薄暗い蝋燭の明かりが広がる中、信玄は地図に敷かれた鶴翼に敷かれた黒い碁石達を魚鱗に置きなおした。
「そうなれば、敵は少数で本陣を守るのに適した魚鱗の陣を敷くでしょう。もし鶴翼のままならば昌景が斬り込んで家康の首を挙げなさい」
今度は偃月の陣形に置かれた白い碁石の先頭を、黒い碁石の前衛の後ろに置く。
「昌景が前衛を突破したならば、両翼は鶴翼の陣に移行。徳川勢を包囲、殲滅にかかりなさい」
武田軍左翼の最後尾に位置する馬場信春は、土煙が上がる先陣から一本のかぶら矢が打ち上がったのを目視し、笑みを浮かべた。
「昌景は仕事をしたか・・・ならば我らも行くぞ!」
信春が声をかけるとともに、勇ましい鬨の声。一気に速度を上げた『不死身の鬼美濃』馬場信春隊は徳川軍の最後尾を目指して駆ける。
「信春、あなたの隊は家康の敗走時の護衛を受け持つと思われる後備えの撃破です。背後を断つことにより、徳川軍は浮足立つでしょう」
「申し上げます!後備えの成瀬正義様、鳥居忠広様討ち死にに!」
「なんだって!?背後を断たれたか・・・」
聖一は悔しげに鞍を叩いた。これでは本陣が後ろから丸見えである。
(兵士たちにも動揺が浮かんでる・・・)
成瀬・鳥居隊の壊滅の報はすぐにも全軍を駆け巡るだろう。背後を断たれた兵士たちが浮足立つのも時間の問題のようだ。
「佐久間隊、敗走!平手・水野隊も壊滅!平手汎秀様討ち死に!」
「石川隊が突破されました!」
元々三河兵よりも弱いと言われる尾張兵は脆いとは分かっていたが、あまりにも早すぎる戦線離脱だ。配置を誤ったか。
「山県隊と殿の旗本が交戦状態に入りました!」
その言葉にハッとして振り向いて見れば、山県隊の象徴である赤い鎧を纏った兵士たちが三つ葉葵の旗を背負った黒い甲冑の徳川本隊と戦闘を繰り広げていた。
―――助けに行きたい。聖一がこの世界に来て一番大切に想う少女が戦っているのだ。主君に危機に助けたいと思わないわけがない。それは徳川家臣が皆思っている事だ。しかし、精強な武田軍はそれを許さない。鷹村隊も今、小山田信茂隊と交戦中である。指揮官が崩れては、隊が崩れる。隊が崩れれば、敵勢は一気に本陣になだれ込む。
聖一は想いを今は祈りに変えて矢を番える。
(無事で、いてください・・・!)
「そして仕上げなのですが・・・我が軍の包囲、一部を薄くしましょう」
その言葉に、一同は首をかしげる。それでは家康に逃げられるのでは?と。
「ええ。逃げられるでしょうが・・・家康の首は二の次、三の次。この戦の目的は鷹村聖一を捕縛する事にあります」
信玄は視線を隅のほうに控えていた小柄な男に向ける。彼の名は小山田信茂。武田家の隠密部隊を束ねる者で、信玄の親衛隊を率い、『表』の護衛役である高坂昌信とは対になる『裏』の護衛役である。
「鷹村の捕縛はそなたに一任します。たとえ逃げられても、配下の忍びの者ならば追尾も容易でしょうからね」
家康の本陣にも、武田兵はすでに集まり始めていた。家康を護衛する大久保忠佐や松井忠次が奮戦して家康を守るが、兵士たちはひとり、またひとりと討たれていく。
「殿!もはやこれ以上の戦闘は不可能です!殿は浜松城へ離脱してくだされ!」
槍を振るい、敵兵を突き伏せた松井忠次が背を向けて叫ぶ。
家康にもわかっていた。これ以上の戦闘は不可能。再起を果たすため、自分は浜松城へ逃げねばならないという事を。
しかし頭ではわかっていても、心が、身体が納得していなかった。
――――聖一が、武田に奪われるかもしれない―――
そう思うと、恐ろしくて仕方がなかった。これまで弱小勢力の当主の一人娘として人質生活を歩んできた。敵対勢力の織田家に誘拐され、今川に義理立てした父に見捨てられて殺されそうになった事もあった。今川家の人質時代、駿府に来て間もなくの頃に彼女を狙って夜這いしてきた氏真によって貞操の危機に晒された事もあった。
命の危機に晒された時や、貞操の危機に晒された時よりも同じくらい、いやそれよりも恐ろしかったのは―――愛しい人を、自分の知らないところで失う恐怖。
(聖一さん・・・っ!)
大切な人の名を心の中で呼ぶ。しかし、声なく名を呼ぶ声に答えはなく、返ってきたのは「殿、ご無礼仕る」という忠佐の声とともに浮きあがる感覚。気が付けば、彼女は焦れたのだろう、忠佐に抱えられて馬に乗せられていた。
「松井、頼むぞ!」
「応!夏目、鈴木も忠佐殿に続け!」
『御意!』
松井忠次と、それに答える夏目吉信・鈴木久三郎の声を聞いたのを合図に家康は忠佐に守られながら戦場を脱出した。
「家康の戦線離脱が確認されたら、信春も鷹村隊攻撃に加わりなさい。彼だけは逃がしてはなりません。必ず生かして私の前に連れてくる事」
昨夜の命令を思い出し、信春は苦笑を浮かべた。
「敵ならば星の数ほど討ってきたが、敵を捕らえるのは中々の至難のわざよ・・・私に諸葛亮の如き頭脳があれば、孟獲を捕らえた時のように彼を捕まえられようが・・・」
文句を言っても仕方ない。捕らえるのは捕縛術の名人である信茂に任せ、鷹村隊を包囲すべく馬場隊は動き出した。