武田信玄の章~第五話~
主君・武田信玄に吉田城攻撃の報告を行う為、山県昌景と高坂昌信は甲斐・躑躅ヶ崎館に戻ってきていた。
「・・・そう、昌信の予言が・・・」
「はっ。あの戦いでは鷹村聖一は捕らえられぬと判断し、誠に勝手ながら撤退させて頂きました」
「吉田城も落とせなかった?」
「御意」
淡々と報告する昌信に、信玄は納得したようにうなずいた。
「あなたがそう言うなら、そうなのでしょう。この話はここまで」
信玄は手を打って話を打ち切り、改めて口を開いた。
「皆に申し伝えたい事がある」
その声に込められた力強さに、居並ぶ家臣一同、背筋を正して主君に向き直った。
「我、足利将軍の御命を奉じ上洛せんと思う」
その宣言に一同はざわめいた。つい先日、ふざけた返事を送ったばかりの主君がなぜ今頃になって?
「計画を詰め、冬には上洛戦を開始する。各々準備を怠らぬよう」
締めの言葉と共に立ち上がり、信玄は奥の自室に姿を消した。
躑躅ヶ崎館の最奥・当主信玄の自室の外の廊下で、武田菱の家紋のついた着物を着た男性が神妙な面持ちで控えていた。
彼の名は武田信廉。信玄の夫で今は亡き武田信繁の弟で、兄亡き後は重臣・内藤昌豊らとともに武田家の副将として当主を支えており、一族内で信玄が最も信頼する人物である。
襖が開いて疲れた様子の老女が姿を現すと、信廉は居ても立っても居られない様子で彼女に詰め寄った。
「医師殿・・・義姉上、いや、御屋形様のご容体は・・・!」
「信廉様、少し2人でお話がしたいのですが・・・」
信廉の自室に移動すると、老医師はゆっくりと口を開いた。
「正直に申し上げて此度の上洛戦、御屋形様のお身体が京まで持つかは微妙なところでございます」
信玄の祖父・信縄、そして父の信虎の診察を担当してきた武田家の信頼厚い名医の診断に、信廉は目の前が真っ暗になったような錯覚に陥った。
「・・・覚悟はしていたが、貴女の口から事実を聞かされるときついな・・・」
信玄の容体が悪くなったのは昨年の冬の事だった。元々体が丈夫ではないうえに、若い頃から急死した父の後を継いで戦場に政務にと、身体を酷使してきた彼女。結婚してからは夫の信繁や成長した若い家臣達が支えとなってきたが、宿敵・上杉謙信との川中島の戦いで最愛の夫・信繁を失うと、周りの目があるところでは以前通りに振る舞っているものの、信廉や山県など腹心だけがいるところだと、何か人生に疲れた様子を見せるようになっていた。
そして―――ある冬の日。信玄は自室で血を吐いて倒れた。
幸いにも発見が早かったおかげで外に漏れる事はなかった。そして、その日を境に家臣たちからは解らないところで上洛戦の準備と、これまで好きにさせていた娘で自身の後継である勝頼の婿探しを始めたのである。
医師が去った後、自室で一人臥せっていた信玄は見慣れた天井を見上げ、物想いに耽っていた。
(「上洛しても、私の命は京まで持たない」・・・か)
だから上洛するだけ無駄だ。甲斐で養生しておけと医師は言う。だが、それではダメなのだ。
(織田は浅井・朝倉と対峙して動けない・・・もうすぐ冬が来る。越前は雪国故、朝倉が撤退するという事態も読めます)
空気も事態も読めない義景に一枚岩とはいえない朝倉家。そんな最悪の事態も考えなければいけない。
(私には信繁がいて、私を支えてくれた。勝頼にはそれがいない・・・あの子を公私に支えてくれる者がいない。どう育て間違えたのか男嫌いのあの子に夫ができるなど、釣り合う者などいないとあきらめていました)
そこに降ってわいた『月の使者』鷹村聖一。徳川家に仕える弓の名手として失敗に終わった今川家による尾張侵攻戦で織田軍の砦の主将を討ち取り、六条合戦では優れた腕で三好勢の撃退に貢献し、姉川合戦では敵将・朝倉景健の奇襲を察知して防ぎ、逆転勝利を呼び寄せた。
「彼しかいない・・・私亡き後、あの子が頼りに出来るのは彼しかいないのです・・・」
我が身が病で倒れようとも、彼だけは我が手中に収めてみせる。
武田信玄最後の戦いが、幕を開けようとしていた・・・・・