武田信玄の章~第三話~
吉田城を救援すべく、徳川家の居城・浜松城から部隊が編成されて派遣されようとしていた。聖一も部隊に参加すべく、鎧に弓を携えて準備を整えていたのだが―――
「・・・」
「あの・・・殿、いい加減に放してもらえないですか・・・?」
兵たちが集う門のまえに向かう聖一の着物の裾を、家康は不安そうな面持ちで放そうとしない。
「聖一さん、絶対に帰ってきてくださいね・・・?」
彼女が不安がっているのはさすがに分かっている。武田家とその当主である信玄本人から『鷹村聖一を貰い受ける』と伝えられた直後の武田軍最精鋭部隊、山県昌景率いる『赤備え』の襲撃である。
その上、駿河の武田軍に備えて家康は本隊とともに浜松城で待機。離れて行動するのだから、心配の種は消えようがなかった。
「大丈夫ですから」
「でも・・・」
なおも口籠る家康の手を、聖一は両の手で包み込んだ。小さな白い手・・・この小さな手に、肩に、徳川家の全てが背負われているのだ。
「私は家康様とともに歩むと決めたんです。駿府で会ったあの時から・・・ですから、必ず帰ってきます。待っていてください」
私の手を握り、「必ず戻る」と力強く語ってくれた彼・・・聖一さんの熱の余韻が残る手を胸に抱き寄せた。
(聖一さんの手・・・温かかったな。いつも、私を助けてくれる手・・・)
もう、家康は自分の気持ちに気が付きはじめていた。
(私・・・聖一さんの事が好きなんだ。だから・・・聖一さんとずっと一緒にいたい)
やっと気が付いたこの気持ち。いずれ来るであろう、武田信玄に奪われるわけにはいかない・・・
(絶対に勝つんだ。聖一さんは、私が守る!)
「おう、軍師よ」
吉田城に駒を進める徳川軍。聖一の乗る馬の横に轡を並べたのは、徳川家の宿老・本多作佐衛門重次。『鬼作佐』と称される彼は、その所以の一つである強面を向けて聖一に話しかけてきた。
「お主、我が殿をどう思っておる?」
「どうって・・・我らが殿です。お仕えし、励んでいかねばと・・・」
「阿呆、そういう意味ではない」
重次は呆れ顔で溜息をつき、告げてきた。
「あの小娘を異性としてどう思うておるか、という事じゃ。正直、好いておるじゃろう?」
(僕が、殿を・・・?)
考えた事もなかった。自身の知識とは少し変わった戦国時代にやってきて、今まで生きていく事に必死だった毎日。桶狭間の戦い、三河平定戦、京での六条合戦、そして姉川の戦い・・・生きる為に人を殺し、罪の意識にうなされた夜もあった。元の世界に帰りたい、両親や弟妹たちに会いたいと涙で枕をぬらした夜もあった。死ねば元の世界に戻れるかもしれない、そう考えた事もあった。
そんななかで聖一がこの世界で頑張って行こうと、そう奮い立たせたのは他でもない・・・彼が主君と仰ぐ少女の存在だった。
かよわい体に徳川家の全てを担い、戦国の荒波を泳ぎ続ける。いつ波の中に沈んでしまうかもわからない彼女を支えたいと思ったのはいつの事だったか。
「好き・・・なのかはわかりません」
「ふむ?」
迷った末に絞り出した答え。重次は訝しがりながらも、答えを待つ。
「だけど、彼女を主君として・・・だけではなく、一人の女の子として守りたい存在だと思っています」
聖一の答えに、重次は「まぁ、及第点だな」とだけ答え、「脈はあり、後はあやつの頑張り次第か・・・」と小さな声で呟いた。