聖一、上洛の章~第九話~
「もう帰るのか?」
「ええ。我が殿の遠州攻略も大詰めになってきまして・・・いま、掛川城を囲んでいるそうです」
将軍御所の門の前で聖一と織田信長は向き合って話をしていた。彼の後ろでは待機させられている徳川家の兵が怪我人もなく我が家に帰れる事を喜びあっていた。
「彼らにも、遅いですけど正月を満喫させてあげたいですからね・・・正月にあんな事がありましたから」
「・・・ああ。その事は本当に感謝している。よくぞ公方様を守ってくれた」
義昭のもとを辞した信長が真っ先に向かったのが聖一の部屋だった。義昭を守り抜いた礼とともに頭を下げられた。慌てて頭を上げるようお願いした聖一に対し、彼女はこう言った。
「お前は公方様の命の恩人かもしれん・・・だけどな、公方様を救ったという事は、織田家を救ったことにもなるんだ。織田の当主として礼を言わせてくれ」
出発の時間になると聖一は騎乗し、信長を見下ろす形になった。
「それではまたお会いしましょう」
「ああ。今回は世話になった。いつか借りは返す」
軽く手を挙げてしばしの別れを告げる信長に一礼し、馬首を東に向けた。先頭に出て、兵士たちに号令をかける。
「さぁ!我らが故郷・三河に帰ろう!」
徳川家の新しい居城・遠江国浜松城から東に進み、天竜川を渡ったところにあるのが駿河から逃れた今川氏真主従が籠城する掛川城である。元々今川家重臣の朝比奈泰朝が城主であったが、武田軍に駿府を追われた氏真が彼を頼って逃れて来ていたのである。
三河から遠江に侵入した徳川家康率いる軍勢は、今川氏との最後の戦いを制すべくこの城を包囲していたが―――
「北条軍が?」
「はい。板部岡江雪斎殿を使者に、我が軍と今川軍双方に和議を持ちかけております」
掛川城を包囲する徳川軍の本陣で、第三者からの申し入れがあった事を大久保忠世が報告した。氏真は北条家の当主北条氏康の娘婿。政治的にも、個人的にも氏真を助けたいのだろう。
「それで、今川軍の答えはどうなっています?」
「氏真の助命を条件に、それが飲まれれば掛川城を我が方に明け渡すようです」
フム、と家康は考え込む。この和睦案を蹴れば、徳川軍は全力を挙げて掛川城を攻め落とさなければならず、北条軍からの横やりも警戒される。勝敗にかかわらず、徳川家は甚大な被害を受けるだろう。実のところ、氏真ひとりの首など挙げなくても問題ではなかった。
「分かりました。忠世、板部岡殿に和議を受け入れる旨を伝えてください」
「はっ」
忠世を見送った家康は、深く息を吐いた。これでひとまず、遠州攻略戦は終わる。しかし、それは同時に新たな戦いの始まりであることを意味していた。
「殿」
「彦ねぇ、どうしたんですか?」
忠世と入れ替わりで陣幕に入ってきたのは、彼女が姉と慕う鳥居元忠だった。彼女は一通の書状を持っており、意味ありげに微笑みながらそれを手渡した。
「?なんですか、これ・・・」
「中身を見てみればわかりますよ」
小首をかしげながら書状を開くと、彼女はわぁっと表情をほころばせた。
「彦ねぇ!聖一さんが岡崎に帰ってきたそうです!で、でもどうしよう・・・しばらく戦場で香を焚くばっかりで・・・臭わないかな?」
さすがに戦場では、大将といえども水を自由に使う事は出来ない。戦場に立つ女性は香を焚いて臭いを誤魔化すのだが、やはり気になる人の前では綺麗でいたいと思うのが恋する乙女の心中なのだろう。
「殿、ご心配なく。浜松城ではすでに風呂の用意をさせていますから、先に帰還して聖一君を迎える用意をなさいませ。和議交渉はこの元忠にお任せいただいて構いませんから」
「あ、ありがとうございます!」
善は急げとばかりに家康は陣を抜け出した。それを見送った元忠は旗本数名に主君の護衛を命じ、にこやかに送り出した。
「うふふ・・・恋する乙女は可愛いわね~♪」
しかし、微笑んでばかりもいられない。徳川家はこれから、甲斐武田家という難敵と領国を接する事になるのだ。
(武田信玄・・・このまま大人しくはしてくれないでしょうね)
聖一は突如降りかかった危機を逃れた。しかし、戦国乱世の波はまだまだ静まりそうにはない。新たなる敵は、すぐに現れる―――