聖一、上洛の章~第八話~
「そうですか・・・京ではその様な事が」
「はい、御屋形様。織田家の明智十兵衛と徳川家の鷹村聖一が斎藤・三好勢を退けたとのことです」
甲斐国・躑躅ヶ崎館―――甲斐国の名門・武田家の本拠地の奥まった一室で、館の主たる女性は密偵からの報告を受け取っていた。
明るい金髪の長い髪に紅色の瞳。身体は小柄だが、そこにあるだけで『女帝』に相応しい圧倒的な存在感。彼女こそ戦国最強武田軍の総帥・武田信玄である。
彼女はフム?と小首を傾げて密偵に質問をした。
「織田の明智はともかく、徳川の鷹村・・・という名には聞き覚えがありませんね」
「はっ。御屋形様は『月の使者』というものをご存知でしょうか」
それについては信玄も聞き及んでいた。名前までは知らなかったが、その者を徳川家が拾い、弓の名手で桶狭間合戦の前哨戦でも活躍したとか。
「そう・・・鷹村聖一というのですね」
その名を反芻し、彼女は妖しく微笑んだ。年を経た今でも変わらず、どんな意図の笑みであれ彼女の笑みは美しいと密偵は思う。
「月の使いと清和天皇の血を引く由緒正しき甲斐武田家の息女の婚姻・・・三河の田舎娘と結ばれるよりは相応しいとは思いませんか?」
主君の呟きに密偵は目を丸くして驚いた。彼女に仕えて久しい彼だが、いつも主の発想は彼の想像の上を行く。
「四郎勝頼様の夫にでございますか!?」
「ええ。私も年を取り、いつかはあの子が私の後を継ぐ。私が当主の座にあるうちに婿殿くらいは決めておきたいと前々から思ってはいたのです」
密偵を下がらせた後、信玄は自ら筆を取って書状を認めた。書状を書き終えた彼女は、それを脇にどけて、彼女宛てに送られてきた一通の書状を開く。
「ふふ。今度の公方殿は思ったよりも愚かなのですね。彼女を廃したところで、違う誰かがその立場に取って代わるだけだというのに・・・」
その書状の内容は、織田信長と将軍足利義昭との仲がこじれつつあるという報告書。すでに義昭は信長を嫌悪する越前国の朝倉義景と密かに連絡を取り合っているという。
「近いうちにこの信玄のもとにも何らかの書状がまた来るでしょう。その内容と徳川に送る書状の返信次第では―――風林火山の我が軍旗が遠江・三河を席巻する日も近いでしょう」
さてその時、彼らはどんな手でこの武田信玄に立ち向かうのか。
「逃がしませんよ?鷹村聖一―――我が娘婿殿」
一方その頃、京・将軍御所――――
「鷹村~!恐かったのじゃ~!」
「わわっ、公方様・・・」
浅井・細川勢などの乱入によって斎藤・三好勢を退けた聖一達。その彼の懐に飛び込んできたのは敵勢に狙われていた足利義昭であった。小さな体に鎧を纏っている姿は幼いながらも凛々しいのは、やはり血統のなせる技だろうか。
しかしやはり怖かったのだろう。聖一の着物を掴む小さな手は震えている。
「公方様は奥の間で気丈に振舞われておりましたが、貴殿の姿を見て緊張の糸が切れたのでしょう」
「藤長殿・・・御無事でしたか」
将軍の後ろから姿を現したのは、将軍側近の一色藤長。幼い義昭を擁して彼らが幕政を主導している。
「信長殿ももうそろそろ参上されるようですし、もう安全でしょう」
「そうですね・・・」
たしかに三好は撃退されて阿波に逼塞するだろう。ただ、御所襲撃の数日前、親交のある関白家の二条昭実からこんな話を聞かされた。
『幕府首脳が義昭公に好からぬ事を吹きこんでいるらしい。さらに越前国の朝倉義景と密に連絡を取り合っているとか・・・』
朝倉家と織田家の不仲は今に始まった事ではない。両家は元々越前・尾張などの守護職に就いていた斯波氏を主に仰ぐ家であった。ただ、朝倉氏が甲斐氏・織田氏と並んで守護代を務め席次も第二席と高かったのに対し、織田家は織田家でも信長の織田弾正忠家は先に述べた守護代織田家とは違い、守護代織田家の家臣に過ぎなかった。守護斯波家から見てみれば、家臣のそのまた家臣に過ぎない。
簡単に言えば、朝倉氏は成り上がりの織田氏に嫉妬している―――というわけだ。
今回、信長は義昭の将軍就任祝いに各国の大名に対して祝賀を述べるよう命じたが、近隣の大名では義景のみが使者も送らなかった。
「名門である朝倉がなんで織田の田舎娘の命令に従わなければならないんですの!?」
朝倉氏の本拠地・一乗谷城の謁見の間で憤慨して暴れる当主を落ち着けるのに、一族や重臣が苦労した事は朝倉家の最重要機密となっているとかいないとか・・・
岐阜の信長が京に到着したのは、斎藤・三好勢が撃退された翌日であった。知らせを受けた彼女は即座に単騎出撃し、豪雪のなか、ただでさえ3日かかる道のりを2日で今日に辿り着いてみせた。彼女の親衛隊たる馬廻りや柴田勝家・佐久間信盛ら家臣達が慌てて後を追っていたが、兵卒の中には凍死する者が続出したようだ。
衣服を正して将軍御所に参上した信長は、義昭に今回の事態を招いた事を謝罪して堅牢な将軍御所を築くことを約束した。
「それはそうと・・・公方様。最近勝手に金の無心や命令書を各地に出しておられるようですな。私も今まで目をつぶってきましたが、無用な命令は幕府の権威失墜を招く・・・そこで、こちらを認めていただきたい」
彼女が懐から取り出して取次役の小姓に手渡したのは一通の書状。小姓がそれを義昭に手渡し、義昭はそれを中身も見ずに側近の細川藤孝に手渡した。
(むむっ、これは・・・)
その内容は、簡単に言えば義昭および幕府首脳の権限を縛るものであった。21カ条に及ぶその要求はこの一言に集約されていた。
『天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事』
つまり、『政治の事はこの信長に任せておけ。将軍の命令は不要』と言っているのと同意であった。
幕府権力を真正面から否定したものであるが、読んでも全く内容を理解しないであろう義昭はともかく、幕府首脳はこれを認めざるを得ない。なぜなら、彼らの権力基盤は織田信長の武力のもとになりたっているのだから。
(藤長あたりがうるさそうであ~るな・・・)
将軍への忠誠心が厚い同僚の説得に骨を折らなければならない事に、藤孝は溜息をついた。
「・・・あたた、胃が痛いであ~る・・・」