三河平定の章~第六話~
この作品では渡辺半蔵守綱のことは『守綱』、服部半蔵正成のことは『半蔵』と表記します。
岡崎城下の戦いは徳川軍優勢に進み、士気の低い農民兵や流れ者、家康の出陣により彼女に槍を向けられない元徳川家臣たちは守綱を殿に次々と戦場を離脱していった。
勝鬨が挙がり、岡崎城下の戦いは徳川軍の勝利に終わった。
―――しかし、その夜行われた軍議の席は重苦しい雰囲気に包まれていた。
「・・・たとえ、この一向一揆を鎮めたとしても我が軍から離反者が出ているというのはゆゆしき事態。これから遠江・駿河と今川家と戦っていかなければならぬというに・・・」
「忠勝の言う通りですね。今の我が軍はひとりでも戦力が欲しいですし、なんとか穏便に片付けたいですわね・・・」
忠勝が苛立たしげに床を拳で叩けば、元忠が困ったように頬に手を当てて小首をかしげる。一向一揆に味方した者達も、信仰か家康かで悩みに悩んで選んだ結果信仰を取っただけである者が多数おり、そんな彼らが家康に槍を向けられないのはある意味必然であった。そんななか、聖一が口を開いた。
「穏便に片付ければよいではありませんか」
「どーゆーこと?」
挙手して質問してきた康政と、その場にいる皆に説明する。
「守綱を始め、信仰心と忠誠心の狭間で苦しんだ結果一揆側に付いた方達はかなり多いです」
西三河には一向宗の信者が多く、そのなかには徳川家臣達も多くいた。積極的に一揆に加わっているのはほんの一部の徳川家臣と家康に反感を持つ松平一族、そして吉良氏など今川残党であった。
「そこで、彼らに向けてこんな触れを出すのです―――」
「なぁお主、あの高札を見たか?」
「う、うむ・・・『徳川家に帰参する者はその罪を問わない』だったな・・・」
一向一揆の拠点においての2人の武士の会話。どうも前者は積極的に一揆に参加した者で、後者は悩みに悩んで信仰を選んだ者のようだ。
「ふん、仏敵め。我らの信仰心があのような高札に揺らぐものか!なぁ同志よ」
「そ、そうだな・・・」
しかしこの効果はてきめんだった。元徳川家臣たちの中で士気が極端に低い者はすぐさまこれに従った。さらに各方面に散った徳川方の将が合戦で破った元徳川家臣たちを捕虜とした。
「彼らは我が子に等しき者達です。私は主として、母として彼らを許さないわけがないでしょう?」
この言葉に感激した彼らは、ますます彼女への忠誠心を深めたのだった。
離反していく味方。流れ者によって乱される統制・足並み―――
一向一揆軍総大将・渡辺守綱は、馬頭原に敷いた本陣で溜息を吐いた。
(鷹村様・・・)
自分はどう考えても総大将の器ではない。熱心な一向宗の信者だった父が自分を上人に推薦し、無理やり祭り上げられた総大将なのだ・・・自分は。
そして自分の断りきれぬ弱さが、この事態を招いてしまった・・・
「鷹村様・・・あなたに一度槍を向けた私が、あなたの下に帰りたいと願うのは罪なことなのでしょうか・・・」
彼女は夜空を―――漆黒の空に浮かぶ月を見上げ、呟いた。その様子は、いつもの元気さをどこかに置き忘れたかのようだった。
―――馬頭原の戦いは徳川軍の勝利に終わった。一向宗側は家康と和議を結ぶ事を決意し、離反した徳川家臣達もお咎めなしと聞いて次々と帰参してきた。家康の本家と対立していた桜井・大草の松平一族もこれを機に彼女に屈し、三河国は完全に家康の下に平定された。そして、彼女も―――
一揆側が武装解除したあくる日、聖一の姿は岡崎城下・大久保屋敷にあった。庭が見渡せる縁側の部屋に3人の姿があった。ひとりはこの屋敷の主人大久保忠世。もうひとり、上座に座るのは鷹村聖一。そして最後のひとりが―――彼女だった。
「・・・敗軍の将の恥を忍んで申し上げます。鷹村聖一様、あなた様の下で再び働くことをお許しいただけないでしょうか」
渡辺守綱が平伏し、今にも泣きそうな不安に満ちた声で頼み込んでいた。
(断られたら・・・どうしよう)
彼女が恐れるのは彼から告げられる拒絶の言葉。そうなれば、もう2度と彼の下で戦えない。
しかし聖一は「しょうがないなぁ」とでも言いたげに忠世と顔を見合わせ、お互いに苦笑して彼女に歩み寄る。
守綱の頭に手を置き、撫でながら、彼女に言い聞かせるように優しく話しかけた。
「守綱、前に僕は言ったよね?『君の居場所はここだよ』って」
「あっ・・・」
ようやく床からあげた彼女の瞳からはボロボロと大粒の涙がこぼれる。その涙を懐紙で拭ってあげながら聖一は最後の言葉を告げた。
「これからも、僕を守ってくれる?守綱」
台詞の語尾で少し照れくさげに頬を掻いたのは、やはり男として女の子に守ってもらうのはどうなんだろう・・・?と思った為であるが、そんな事は無用の事だった。
「・・・はいっ!この渡辺守綱、鷹村聖一様を精いっぱいお守り申し上げます!」
やっと笑みを浮かべた彼女はまるでヒマワリのようで―――
ともかくも三河一向一揆は鎮圧され、反家康勢力もこれを機に一掃された。同じ頃、同盟者の織田信長は軍を北―――美濃国に向け、国主斎藤龍興を破ってこれを平定。同時に伊勢国北部も攻め取っていた彼女は、尾張の一勢力から天下を窺えるほどの勢力を保つまでに成長したのである。
その彼女の新たな居城・美濃国岐阜城に戦国絵図を大きく動かした、と言っても過言ではない人物が訪れる。
室町幕府13代将軍足利義輝の弟・足利義昭が―――
次話より『聖一、上洛の章』を始めます。