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第8話~8月、ペリドット~

空を覆うような入道雲が、夏の終わりを誇示するように湧き上がっていた。

その白さは眩しく、澄んだ青空との境界はくっきりと映えている。


八月の午後。

宝飾品フェアリーダストのガラス戸越しに射す陽は、夏の名残と秋の予兆を同時に含んでいた。

街路の木々は濃く繁ったまま、時折吹き抜ける風に揺れながら、どこか名残惜しげに枝葉を揺らしている。


店内には、涼しげな香草の香りが漂っていた。

金とガラスで縁取られたランプには、妖精たちが淡い翅をふるわせて留まり、光の粒を遊ばせている。


そんな穏やかな空気のなか、入口の鈴がちり、と短く鳴った。


「……あの。ご相談に、乗っていただけると、伺いました」


扉の前に立つ青年の声は、かすかに震えていた。

声の響きよりも先に、張り詰めた空気が店内に入り込む。


若い男だった。

整った法衣と、首から下がった信仰の証。

目立つほど美しい顔立ちではないが、骨格は整っており、どこか聖職者らしい清潔さと静けさを纏っている。

薄い金の髪は短く切りそろえられ、瞳は艶のあるターコイズブルー。

だがその目の下には深い陰りがあり、長い苦悩の跡が刻まれていた。


彼は名乗った。


「私は、リュシルドと申します。教会で、治癒と祈りをしており……」


その先を口にした瞬間、彼の目がわずかに伏せられた。

声が、急に細くなる。


「……いえ。していました、と言うべきですね……」


背筋を伸ばしていたはずの肩が、ふと沈むように落ちる。

その指先は硬く握られており、袖の下で震えていた。

レイは、店の奥の椅子から静かに立ち上がった。

深い群青のローブの裾が、床を払うように揺れる。


その目元には柔らかな光が宿っていた。

妖精たちも、棚の影からそっと様子を見守っている。羽音すらも立てずに。


「どうぞ、お入り下さい。今日は人の入りも少ない。……宝飾の話でなくても、構いませんよ」


作業用エプロンを外しながら発せられるその言葉は、まるで夏の終わりを告げる風のように穏やかで、

リュシルドの肩を少しだけ、ふ、と解きほぐした。


青年は、わずかに躊躇いながらも一歩、店の中へと足を踏み入れた。

そのとき、差し込む陽の光がガラスに反射し、彼の頬に淡く緑の光が揺らいだ。

それは、あたかも──

まだ名前も知らない石が、彼の過去を優しく照らそうとしているように見えた。


 


静かに椅子へ腰を下ろした彼の姿を、レイは一言も急かすことなく見守っていた。

ただ、相手が言葉を紡ぐそのときを、温かく待っている。


リュシルドは静かに頷き、小さな木製の椅子に身を預けた。

背筋はまっすぐに伸びていたが、その姿勢にはどこか脆さが滲んでいた。


膝の上に置いた手──細く、神経質なその指先が、わずかに震えながら、落ち着きなく組み替えられている。

肩越しに入る夏光が、金色がかった髪に柔らかな影を差していた。


「……以前、私はひとりの患者を救えませんでした」


声は静かで、それゆえに痛みが滲んでいた。

陽の差す店内にあっても、その声音は、どこか深い森の中にいるかのように寂しかった。


「まだ若い、女の子でした。

熱にうなされて、苦しそうで……けれど、助けられると思っていたんです。

私は祈って、癒しの術を重ねて……」


リュシルドの喉が、かすかに震えた。

言葉の間に、押し殺した悔恨がこぼれ落ちる。


「……でも、それでも……届きませんでした」


沈黙が落ちる。

店の奥で翅を休めていた妖精たちが、そっとその動きを止めていた。

ガラス棚の中の光がわずかに揺れ、影がリュシルドの頬に細く横切る。


青年はまぶたを伏せた。


「……自分の、傲慢でした。

“神に委ねる”という言葉を隠れ蓑にして、きっと私は、自分の限界を見誤っていた」


悔恨と、自己否定と、信仰の狭間で崩れそうな思いが、声の端々から滲んでいた。


レイは何も言わずに、ただ聞いていた。

その目に宿る色は、まるで古い水面のように澄み、揺れず、静かだった。

机の端に腰かけた小さな妖精が、そっと羽をたたむ。

店内の空気は、まるで深い祈りの中にいるような静寂に包まれていた。


「……それ以来、私は人に触れられなくなったんです」


リュシルドは、指先を見下ろした。

その手は、あのとき熱を奪いきれなかった少女の額に触れた、やさしい手だった。


「癒しの術を使うのが……怖くなりました。

この手が、また誰かを見送るかもしれないと思うと、足がすくんでしまう」


一瞬、彼の口元に浮かんだ笑みは、決して明るいものではなかった。


「……宝飾品など、頼む資格もありません。

ただ……どうしても、話だけでも…」


彼の言葉は、静かで、けれど深く沈んでいた。

まるで、長い間抱えていた“痛み”そのものを、そっと誰かの手に預けるように。

レイは、微笑みの気配だけを残して、ただうなずいた。

その手のひらにある温度が、静かにリュシルドの言葉を受け止めていく。


「誰かに…聞いてほしかった…」


その言葉に、レイはようやく口を開いた。


「──それでも、誰かのために祈ろうとする気持ちは、まだ残っているのでしょう?だから、ここへ訪れた」


その声は、とても穏やかだった。

叱責でも慰めでもない、ただ、在りのままの事実を静かに掬い上げるような──そんな響きだった。

リュシルドは、はっと顔を上げた。

まるで見透かされたような、その言葉の重さに息を呑む。

やがて、風鈴のように静かな声でレイが告げる。


「……石を選ぶところから始めましょう。

過去の重みも、痛みも……そのまま置いていけるようなものを」


それは、“赦し”を意味する提案だった。

赦しとは、他者から与えられるものではなく、自らに許可する“再出発”なのだと──

この店では、そう信じられていた。


レイは棚の奥へと歩を進めた。

妖精たちはその気配に合わせてふわりと移動し、ガラス棚の光をそっと整える。

手袋越しに慎重な手つきで、ひとつの石を取り出したレイは、それをリュシルドの前にそっと差し出した。


淡い黄緑──

けれど、ただの緑ではない。光を受けて、かすかに黄金の光彩を帯び、揺らめく水面のような澄んだ透明感があった。


「……ペリドット」


レイの声は静かに続いた。


「この石は、“癒し”と“内省”を司ります。

傷ついた心を慰めるだけではなく、自分自身と向き合うための助けとなる石です」


リュシルドは、石をじっと見つめた。

掌に載せるのを恐れるように、ただ目だけでその光を追っている。


「癒しとは、無力にならないことでも、万能であることでもありません」


レイの声はどこか、遠い過去に語りかけるようだった。

時間の層を越えて届く声──まるで誰かに、かつてそう言われたことがあるかのような。


「──向き合い続けることです。

たとえ、自分の弱さごと、誰かの傍にいることであっても」


鈴が鳴ったわけでもないのに、リュシルドはふと、何かが鳴るような心地になった。

それは耳ではなく、胸の内で──傷の残る場所で、小さく澄んだ音が響いた気がした。


ペリドットは、手のひらに載せると、思ったよりもひんやりとしていた。

けれどその冷たさは、冷淡なものではない。

熱で疲れた額にそっと置かれた手のように、静かに熱を奪い、呼吸を整えてくれるような、やわらかな優しさをたたえていた。


決して派手ではない。

ルビーのように燃え上がる光でもなければ、ダイヤのように眩しくもない。

けれど──迷いを抱えた心に、ふと光を差すような、

「自分のままでもいい」と語りかけてくれるような、静かな赦しが宿っていた。


リュシルドは、その石を両手で包むように持つ。

指先がまだ僅かに震えていることに、自分でも気づいた。

けれどその震えに、もう嫌悪はない。

それは、弱さではなく──まだ“生きようとしている証”だと、今なら思えた。

レイは、彼の様子に何も言わず、ただ目元に微笑を浮かべた。

彼の手に収まったその石が、静かに、確かに──心の奥へと届いていくのを、見届けながら。


「……この石で、指輪を」


静かに放たれたその言葉は、午後の陽光に溶けるように、空間の奥まで届いた。

かすれ気味の声だった。けれど、今度は確かに、芯のある響きを持っていた。

リュシルドは両手で包むように持っていたペリドットを、そっと差し出した。

その指先は、微かに震えている。

けれど、それを押し隠すようなことはしなかった。


「……もう一度、信じてみたいんです」


言葉を紡ぐたび、胸の奥で何かが軋むように痛んだ。

けれど、それでも彼は目を逸らさなかった。

向き合うということを、選んだのだ。


「祈ることも、誰かのために手を伸ばすことも──怖いままでいいから」


恐れは残っている。

きっと、この先も、完全には消えないだろう。

それでも、とリュシルドは続けるように口元を引き結んだ。

迷いを抱えたままでも、一歩を踏み出す。

その意志が、何より強く、美しく見えた。

レイは、しばらく無言で彼の顔を見つめていた。

視線はあたたかく、そして深く、彼の決意をしっかりと受け止めている。

やがて、ゆっくりと頷いた。


「──それは、立派な勇気です」


そう言った声には、まるで深い森の奥から聞こえる風のような、静かで包み込む力があった。

断定でも、評価でもない。ただ、事実としてそこにある「肯定」だった。

レイは慎重に石を受け取り、小さな手の中でそっと撫でるように扱った。

妖精たちは、空気を察して棚の隙間から顔をのぞかせ、淡い光の粒をそっと振りまく。

ペリドットの表面に、柔らかな光の筋が揺らいだ。


「……きっと、“貴方に寄り添う指輪”になりますよ」


その言葉には、どこか祈りにも似た響きがあった。

リュシルドがまだ自分に与えることを躊躇していた“赦し”と“未来”を、石とともに形にするための、優しい約束のようだった。

リュシルドは、その言葉に返すように、深く小さく頭を下げた。

今の彼にできる、精一杯の感謝の形で。


──その背中には、ほんの少しだけ、陽の光が差していた。

まだ遠く、けれど確かに始まった「歩き出しの瞬間」が、静かに輝いていた。


──それから数日。


宝飾店フェアリーダストの奥、窓辺に近い作業台では、いつものように、けれどどこか特別な空気を纏ってレイが手を動かしていた。

妖精たちは羽音も立てずに、棚の陰からひょっこりと顔を覗かせては、そっと店内の灯りを調整している。

淡い光が揺らめくたび、レイの銀髪と指先に、柔らかな反射が踊った。

作業台には、選び抜かれたイエローゴールドの細工金属が、静かに光を湛えている。

その金は、黄色というよりも、陽だまりを溶かしたような優しい色合いだった。

決して派手すぎず、けれどぬくもりを忘れない──

癒しを象るには、最もふさわしい地金だった。


ペリドットは、その中央に据えられる。

緑の石肌は淡く澄み、見る角度によってはわずかに金色を宿す。

それはまるで、信仰を見失いかけた青年の心に、もう一度差し込みはじめた光のようだった。


「──邪魔にならず、けれど、そっと寄り添うように」


レイはひとりごとのように呟きながら、リングの内側を細く削る。

教会での務めにも差し支えぬよう、主張しすぎないシルエット。

けれど、目にした瞬間に、心の深い部分を静かに包みこむような──

そんな佇まいを、細部に宿してゆく。

削り出された枠にペリドットを置くと、妖精のひとりが、ちいさな手でそっと風を送った。

レイは静かに頷き、金属に魔力を染み込ませていく。

淡く、繊細に、けれど芯の通った魔術が、指輪の奥へと滲んでゆく。


それは単なる加護ではなかった。

石と金属と意志──

その三つが、少しずつ呼吸を合わせるように、形へと馴染んでいく。

レイの両手は、細やかに、静かに動き続けていた。


祈るように。

癒すように。

ただ、ひとりの青年のこれからの歩みに、そっと寄り添うためだけに。


やがてペリドットは、イエローゴールドの指輪の中で静かに光を返した。

それは、胸の奥を風が通り抜けるような──

やわらかく、透明な、目には見えない再生の兆し。

レイはそれを確かめるように、そっと目を細めた。

──完成までは、あと少し。

けれどその空間にはすでに、確かな癒しの気配が、ゆっくりと満ち始めていた。




──数週間後。


再びフェアリーダストを訪れたリュシルドは、かつてよりも少しだけ背筋が伸びていた。

不安も、迷いも、まだ残っている。

けれどその表情は、わずかに「歩き出す人」のものに変わっていた。

レイの手から、小さな箱がそっと渡される。

蓋を開けた瞬間、午後の陽光を受けたペリドットが、淡く優しい光を返した。


リュシルドは指輪を手に取り、じっと見つめた。

掌に宿るそれは、煌めくわけでも、語りかけるようでもない。

ただ静かに、そっとそこに在る──そんな石だった。


「……こんなにも、穏やかな石だったんですね」


彼はふと、微笑んだ。

その微笑みは、どこか懐かしいような、泣きたいような、けれど確かな希望を含んでいた。

ペリドットの指輪が、彼の右薬指にぴたりと嵌まる。

イエローゴールドの細工は、教会の白衣にも自然に馴染み、指元にやわらかな陽だまりのような気配を宿していた。

見る者を癒す──それはただの魔力ではなく、意志のこもった“在り方”そのもののようだった。

リュシルドはそっと手を胸元に当て、深く一礼した。


「……ありがとうございます。

この手で、もう一度……もう一度、人の痛みに、祈りに、向き合っていきたいと思います。怖さごと、抱えながらでも」


レイは頷き、わずかに微笑んだ。


「ええ。きっと、ペリドットがその背を押してくれますよ」


その言葉を受けて、青年は扉の前に立ち、振り返らずに歩き出した。

夏の陽光に白衣が揺れ、店のドアが軽やかな音を立てて閉まる。


妖精たちは静かにその背中を見送りながら、棚の上でそっと拍手のように羽を鳴らした。


──まるで、憑き物が落ちたように晴れやかな後ろ姿だった。


 


 


……そして──


それから数十年の時が流れ、数々の戦災地や病床に光をもたらした、偉大な治癒と祈りの大司教の名が、あのときの青年と同じであったこと。

彼の指には今も変わらず、緑の宝石を抱いた小さな指輪がはめられていたこと。

その手は、癒しを求める者たちにとって、まるで神のようにあたたかかったということ。


それらは、すべて静かに語り継がれた。

けれど、その始まりの小さな一歩と、澄んだペリドットの物語は──


また…別のお話。

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