第6話~6月、ムーンストーン~
その日は朝から、雨の名残が森に漂っていた。
葉の一枚一枚がしっとりと濡れ、枝の先には、なお零れきらぬ雫が小さな命のように震えている。
冷たい風が梢をくぐり抜けるたび、雫は静かに滴り落ち、湿った土の匂いが空気に溶けていた。
空は鈍く曇り、陽の光はひと筋も差さない。
音を吸い込むような静けさのなか、森はまるで深呼吸の合間にあるように、息をひそめていた。
湿度は高く、肌に薄い膜のような重さを感じさせる。
外を歩けば、足元には水を含んだ土の感触がぬかるみとなって残り、気持ちもどこか沈み込むようだった。
けれど──
宝飾店フェアリーダストの扉をくぐった瞬間、空気は一変する。
そこには、森の外とはまるで違う時間が流れていた。
静かな音楽のように、柔らかな空気が店内を包んでいる。
温かい木材の香り、乾いたハーブと蜜蝋の匂い、淡く灯されたランプの光。
石造りの床に敷かれた絨毯は、雨に濡れた靴音をやわらかく吸い取り、妖精たちが朝の掃除を終えて棚の上で羽を休めていた。
ガラス棚の中では、磨かれた宝石たちが微かな光を返して揺れている。
曇り空にもかかわらず、店の奥には天井からほのかな陽のような明かりが差し込んでおり、どこか時間の概念から切り離されたような、安らぎがあった。
窓の縁では、雨のしずくがぽたり、ぽたりと一定の間隔で落ちていた。
その音に誘われるように、小さな妖精たちが窓辺へ舞い降り、顔を寄せては「きらきらだね」とでも言いたげに羽を震わせている。
一匹がしずくに触れると、それがまるで宝石のように砕けて、仲間たちの笑い声がふわりと店内に響いた。
「また落ちてくるよ」と、別の妖精が窓硝子を叩く。
妖精たちは雫のリズムに合わせてくるくると舞い、まるで雨音の中で踊っているようだった。
外の陰鬱な気配も、彼らにとってはただの遊び場にすぎないらしい。
小さなストーブの火がくすぶり、店の片隅では朝仕込みのハーブティーが湯気を立てていた。
カップの中でほのかに揺れる蒸気は、外気の湿りと寒さを忘れさせるには十分だった。
棚に飾られた妖精のジオラマも、どこかうっとりとした表情をしているようで、
この店そのものが、まるで“雨の日にだけ開く異界”のようにも思えた。
──世界が曇るほど、ここでは光がよく見える。
そんな場所。
フェアリーダストの扉が、そっと開いた。
鈴の音はなぜか鳴らなかった。
代わりに、森から届いた一筋の湿った風が、まるで客人の気配を運ぶかのように店内をすり抜けてゆく。
「……開いているかい」
低く澄んだ──けれど、どこか擦れたような声が、空気を撫でた。
レイが顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。
灰色の外套は旅の埃にくぐもり、裾は乾きかけた泥をかすかに帯びている。
その肩には、疲労の重みがはっきりと宿っていた。
雨に濡れた黒髪が頬に貼りついていても、彼はそれを払おうともせず、ただじっと中の空気に馴染むのを待っているようだった。
瞳は暗い琥珀色──けれど光を映さない。
それは、何かを深く見つめているようで、同時に何も見ていない眼差し。
そしてその奥にあるのは、癒えぬ痛みと、どこへ向かえばよいのかも分からない虚無。
彼の立ち姿には奇妙な静けさがあった。
威圧でもなく、礼儀でもなく、ただ「余計なものを全て落としてきた者」の、残された魂の姿。
その身を律するように整えた所作は、彼の習性か、それとも──哀しみを飼い慣らすための儀式だったのかもしれない。
「雨が……急に強くなって」
ぽつりと、言葉が落ちる。
けれどそれは、ただの天候の報告ではない。
まるで彼自身の心象を、そのまま空に映していたかのようだった。
レイは黙って頷いた。
この店は、そういう人が訪れる場所だ。
宝石だけではなく、何かを手放したい人が、あるいは思い出をもう一度確かめたい人が──ふと足を向ける、小さな港。
「どうぞ。……濡れたままでは、冷えてしまう」
レイが言うと、青年──幻術師サリルはわずかに瞬きをし、それから静かに店内へと足を踏み入れた。
店の中のあたたかさが、彼の灰色の外套の端にそっと触れる。
だが、その暖かさに心が追いつくには、まだ少し時間が必要なようだった。
妖精たちは息をひそめ、窓辺の雨しずくの遊びを止めて、そっと彼を見つめていた。
それは、悲しみの深さを知る者への、静かな敬意だった。
「どうぞ。濡れた外套は、こちらに」
レイが差し出した柔らかな布に、サリルは無言で頷き、外套をゆっくりと脱いだ。
妖精たちは数種類のハーブがミックスされたブレンドティーをカップに注いで、サリルの前に置く。
外套の雫が床に落ちるたび、店の空気が少しずつ湿っていくようだった。
「…ありがとう。……この石を、見てほしい」
お茶を一口すすったあと、彼は懐から丁寧に包まれた小さな布包みを取り出した。
包みを開く指先は静かで確かな動き──けれどその奥に、何かが沈んでいる。
布の中から現れたのは、艶やかに光を宿した石の指輪。
乳白の地に、ほのかな青白い光が内から滲むように揺れている。
それは、まるで夜空を渡る雲の切れ間に浮かぶ、淡い満月のようだった。
「……ブルームーンストーン、ですね」
レイはそっとルーペを手に取り、石に光を当てながら覗き込んだ。
彼の眼差しが石の奥を辿るたび、棚の上の妖精たちも、静かに羽音を止めて見守っている。
「……この石、以前に誰かが持っていた?」
レイの問いに、サリルは一瞬まぶたを閉じた。
「──ああ。恋人が、身につけていたんだ」
その声には、砂を混ぜたようなざらつきがあった。
「……俺が幻を見せていた間、ずっと、これを指に嵌めて」
レイの手元で、ムーンストーンがかすかに震えた。
それは風のせいでも、手の動きのせいでもなかった。
石の奥に、記憶の揺らぎが生きていた。
まるでその小さな指輪が、かつてそこにいた人間の息づかいを今も忘れずに──
愛された温度も、別れの時の冷たさも、閉じ込めて離さないように。
棚の陰から、一匹の妖精がひょこりと顔を覗かせた。
彼らは、強い想いのこもった石に呼ばれるように現れる。
その瞳には人の心が映る。だからこそ、今はまだ、そっと隠れていた。
「この指輪に……何かあったのでしょうか」
レイの問いは柔らかく、ただ、サリルの口が自然に動き出すのを待つように。
外は、またぽつり、ぽつりと、雨粒が落ちはじめていた。
ムーンストーンの仄かな光が、それを呼び水にするように、青く、ゆるやかに瞬いている──
レイの問いかけに、しばらく応えなかったサリルは、やがて目を伏せ、指先で指輪の縁をなぞるようにしてから、静かに口を開いた。
「──旅をしていたんだ。幻術師として、流れ者のように」
どこにも根を下ろさず、どんな名も残さず、ただ通り過ぎるだけの日々。
宿の余興、街角の小劇。見たいものを見せ、見たくないものを覆い隠す──
そんな幻の芸を売りながら、彼は風のように町から町へと流れていた。
「……そんな暮らしの途中で、彼女と出会った」
名はファリス。
小さな村の薬師で、春になると野の花を摘んで、子どもたちに薬草飴を配っていた。
「最初は、通りすがりだったんだ。風邪をひいて、少しだけ厄介になった」
彼女は、優しくて、よく笑う人だった。
けれど芯は強く、村人の誰よりも働き者だった。
「それから……季節が変わっても、その村から離れられなかった。あの笑い声が、俺を縛って」
夢を見せることを生業にしてきたサリルが、初めて「現実」を愛した瞬間だった。
「──でも、現実は、夢よりも儚いものだったよ」
彼の声が、ふっとかすれる。
「──彼女は、病気だった。進行性の…」
しばらくの沈黙を破って、サリルがぽつりと呟いた。
雨音に似た、低く湿った声音だった。
「気付いた時には、酷く進んでいて。薬も、医術も、どうにもならなかった。
──だからせめて、最期くらい、幸福な夢を見せてあげたくなって」
微笑みは、なかった。
けれど、その代わりに、彼の指先はゆっくりとムーンストーンの輪郭を撫でた。
手の中の小さな石に、まるで眠るような眼差しを落としながら──
サリルは、続けた。
「……幻の中で、花が咲いていた。
光が満ちて、風が吹いて。彼女は、笑っていた。
……俺の手を握って、“ありがとう”って言ったんだ。
……そして、逝った」
その一言のあと、また沈黙が落ちる。
店内の空気が、ゆっくりと沈んでいくようだった。
窓の外では、葉を打つ雨粒がぽつ、ぽつ、と音を立て、
棚の陰では、羽をたたんだ妖精が、小さく震えながらレイの肩へとよじ登った。
レイは黙って、サリルの姿を見ていた。
「──俺には、それが救いなのか、呪いなのか分からない」
サリルの声は、もう感情を形にする力を持っていなかった。
ただ、風のように、すべてを流し去っていく。
「だから、思い出を、忘れようとしてる。
この石に、術をかけてほしい。
記憶を封じる、魔法を──」
ムーンストーンが、レイの手元のランプの光を受けて淡く揺らめいた。
まるで、過去の幻がいまだその奥に残っているかのように。
レイは石から視線を外し、サリルの目を見た。
そこには強さではなく、深く降り積もった疲労と、答えの見えない問いがあった。
……それは、レイにとっても、決して他人事ではない感情だった。
「──“記憶を封じる術”は、想いも同時に凍らせる」
レイの静かな声が、店内の空気を揺らした。
「それでも、本当に、忘れてしまっていいんですか?」
その問いの答えは、まだこの場には存在しなかった。
ただ、窓の縁では、雨粒がまたひとつ跳ね、妖精がそっと光を運ぶように羽ばたいた。
レイはわずかに目を伏せたまま、静かに沈黙した。
店の中に、雨の音がしんしんと染み込んでくる。
そして──やがて彼は、そっと視線を棚の奥へと移した。
そこには、小さな銀の小瓶がひとつ。
目立たぬよう、古い書や装飾の陰にひっそりと置かれている。
光を避けるように存在しているそれは、どこか時間を閉じ込めたような気配を纏っていた。
中には、淡く白く、そしてほのかに金を帯びた粒子が、まるで眠るようにたゆたっている。
動かず、語らず、ただそこに在る──静かな“想い”のかけら。
「……記憶を消す魔術は、時に“想い”を殺す」
レイの声は、まるでその小瓶の封をほどかぬよう、慎重でやわらかだった。
「それでも、消せないものも…あります」
その言葉に、サリルの眉がわずかに揺れる。
表情は崩さぬまま、ただ、視線だけがほんの少し揺らいだ。
「……君も、誰かを……?」
問いかけは、答えを期待するようなものではなかった。
レイは答えず、静かに瞼を閉じた。
ただ、肩に降りてきた妖精が、そっと彼の左手へ視線を導く。
その指──中指の根元には、かすかに残る痕。
かつて、そこに何かを纏っていた証。今はもう無い、小さな輪の記憶。
妖精は人が聞こえる言葉を持たない。
だが、その視線と羽ばたきは、まるで“忘れないで”と語っているかのようだった。
「ムーンストーンには、“見えざる光を照らす”力があります」
レイは静かに言った。
「目を逸らした記憶を、消すことはできないけれど……
──心を照らす灯にはなれるかもしれません」
その言葉が落ちると、店の中がふたたび静けさに包まれた。
どこかで、時計の歯車がひとつ噛み合うような、微かな音がした。
石の中に閉じ込められたような淡い光が、レイの瞳の奥に映る。
その光は、雨雲の向こうの月が、雫の彼方でひっそりと輝くような──
沈黙の中に宿る、優しい光だった。
──そして、レイは静かに石を手に取った。
掌の上に置かれたブルームーンストーンは、わずかに体温を含みながら、その乳白の奥でほのかな青白い光を湛えていた。
まるで夜の深みに沈む月の欠片のように──静かに、しかし確かに、そこに在る光。
小さな作業台の上、レイはそっとムーンストーンを載せる。
傍らで、妖精たちが微細な魔力の粒を集め、宙に舞わせていた。
店の天窓から差し込むのは、雨上がりの雲間から届いた薄い光。
それが石に、魔術に、やわらかく重なってゆく。
レイの指が空気を撫でるように動き、術式の糸を紡ぎ始めた。
指先から生まれる魔力の糸は、あまりにも細く、透明に近い。
だがその一本一本が、確かに意味を持ち、祈るように編み込まれていく。
──これは“忘却”ではない。
記憶を、無理に閉じ込めることはしない。
ただ、心の痛みに波紋をかけ、静かに水底へと沈めるように。
いつかまた思い出に手を伸ばせる日まで、それがひどく刺さらぬよう、なだめるための術。
サリルは黙って、その様子を見ていた。
指先に緊張はなく、けれど呼吸は浅い。
彼の外套はすでに乾き始めていたが、冷えはまだ抜けきっていなかった。
視線はレイの手元に注がれている。だが、そこに焦点はなかった。
──まるで、何かを通して誰かを見ているような。
ふと、その背後に、風がひと筋通り抜けた。
誰もいないはずの空間に、一瞬、白い衣をまとった女性の幻影が立っていた。
顔は見えない。ただその姿だけが、彼の傍らに寄り添うように揺れる。
レイは何も言わなかった。
幻か、想いか、どちらであってもよい。ただ、それがそこにあることを否定しなければいい。
魔術の糸が最後の結びを迎えると、
ムーンストーンの中心に宿る光が、静かに脈打つようにひときらめきした。
まるで、心が小さく呼吸したように──
それは、忘れるためではなく、歩むための小さな儀式だった。
「……できました」
レイの声は、囁くように静かだった。
彼がそっと差し出したのは、小さな銀の枠に優しく包まれたムーンストーンの指輪。
淡い乳白色の中で、青白い光が微かに揺れている。
指輪の底には、ごく小さな魔術の文様──誰にも読めない、古語のささやきが刻まれていた。
それは、術ではあるが、強制ではない。
痛みを抑えつけず、ただ心の奥に灯るような、記憶のための印。
「これは、想いのための石です」
レイは静かに言う。
「忘れたい記憶ではなく──残すべき記憶に。
……きっといつか、“ありがとう”の意味を、あなた自身が見つけられるように」
サリルは、何も言わずにその指輪を見つめた。
長い時間を経てようやく浮かんできたような、吐息ひとつ。
それに続く言葉は、低く、けれどどこか温度を取り戻していた。
「……ありがとう。
彼女が見た夢が、幸福だったと──
そう信じられるようになるまで……これを、持っていくよ」
そのときだった。
レイはふと、作業台の引き出しに手を伸ばし、細い銀のネックレスチェーンを取り出した。
「もしよければ──指にはめなくても、こうして持ち歩くこともできます」
彼は言いながら、チェーンを指輪に通す。
金属が触れ合う、控えめな音。
やがて小さなペンダントとなった指輪は、そっとサリルの手元へと渡された。
「……ありがとう」
その言葉は、今度はほんのわずかに、音を震わせていた。
サリルの指先が、そっとペンダントを胸元で受け止める。
掌の中に感じるのは、冷たい銀と石の感触──
けれどその奥に、たしかに“あの人”の記憶がまだ灯っているようだった。
棚の陰で見ていた妖精たちが、羽音を立てずにひとつ、小さく礼をした。
レイはそれに気付いたが、やはり何も言わなかった。
外ではまた、雲が流れ、差し込んだ陽光がムーンストーンの奥にきらめきを走らせた。
それは、まるで彼女の声のように──
静かに、そっと、サリルの心を撫でていた。
──その後、サリルの幻術が戻ったかどうかを、知る者はいない。
けれど、ある町の路地裏にできた小さな劇場で、
“月の光で夢を紡ぐ男”が現れた──そんな噂が広がり始めたのは、それからそう間をおかずのことだった。
観客は、誰もが夢を見る。
静かな波のような声とともに浮かび上がる幻は、どれも温かく、どこか懐かしい。
終演ののち、その記憶はぼんやりと霞んでいくのに、
「不思議と、心が少し軽くなる」──そんな声が町のあちこちで囁かれた。
そして、その頃から、宝飾店フェアリーダストの棚の片隅に、ひと粒の石がそっと飾られるようになった。
淡く乳白色の中に、夜の青をひとしずく垂らしたような──
まるで月の滴を閉じ込めたような、ムーンストーン。
隣には、手のひらほどの小さなジオラマが添えられていた。
月明かりに照らされた円形劇場。
中央には、ひとりの演者。
その足元には、宙に浮かぶ光の幕──
物語の情景が、儚くも立ち上るように再現されている。
昼間でもそこだけ、少しだけ空気が夜めいて見えるのは、
レイの魔術か、それとも──あの男が遺した“幻の欠片”なのかもしれない。
妖精たちは時おり、その劇場の舞台を掃くように羽根でなぞり、
レイもまた、それに触れるように視線を落とすことがある。
何かを語るわけではない。
けれど、店の空気がふっと柔らかくなるそのひとときに、
“あの日の想い”が、今もここに息づいているのだと分かる。
それはきっと──
誰かが見た幻が、ほんの少しだけ、現実に滲んだ証。
──そして、その続きはまた、別のお話。